【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
ご無沙汰しておりました。
いよいよ、今年も残すところあと僅かですね。月日が経つのは本当に早いものです。
当店、「ワールドコインギャラリー」は、今年は12月30日(月)の17時まで営業しております。
年が明けて2014年は、1月4日(土)11時から営業を開始致します。
今年も一年間ご愛顧頂きまして、誠にありがとうございました。
来年も、何卒宜しくお願い申し上げます。
今年の年末年始は、全国的に降雪も多いようです。
寒さにはくれぐれも気を付けて、新しい年を迎えましょう。
ブログ記事も、今回が今年最後の記事となります。
一年間お読み下さり、ありがとうございました。
来年からも、何卒宜しくお願い致します。
さて、今年最後のブログ記事は、「プルーフコイン」に関する内容です。
前回はコインのコンディションとグレーディングに関する内容でした。今回は「プルーフ」という、通常のコインとは少し異なる、特殊なコインに関してご紹介します。
それでは、よろしくお願い致します。
プルーフコインとは、近代・現代コインの鋳造工程で表面・裏面に特殊な加工を施し、鏡のように美しく光らせたコインです。特別な目的・鋳造工程を有することから、流通用の通常コインとは明確に区別されます。
刻印は流通用の通常コインと同じで、その額面価値も同じですが、鋳造工程が異なるためかかるコストが格段に異なります。
主にコイン収集家向けに鋳造・販売されています。
プルーフコインの鋳造工程は、おおまかに以下のようになります。
以上のように、プルーフコインの鋳造は流通用に大量鋳造されるコインと異なり、大変な手間がかかるのです。
そのため、鋳造枚数はごく限られたものとなり、流通用コインと比較して何倍もの価格がつくものもあります。
現在、プルーフコインは日本をはじめ、世界各国の造幣局でほぼ毎年鋳造されています。一連の額面のコインを一セットとして、コイン収集家に販売するためですが、その際の販売価格はプレミア価格のため、コイン額面より高い値段がつけられています。
中には高級感あふれる特製の箱入りセットや、コインの解説書が付属されたミントセットも売り出されています。
プルーフコインの始まりは1662年、チャールズ2世治世下の英国といわれています。この年、試鋳貨の一種として5枚~10枚のクラウン銀貨が鋳造されたようです。
その後、英国やその植民地、米国の造幣局では、造幣局を訪問した政府高官や外国視察団、または造幣局関係者への記念品としてプルーフコインを鋳造する伝統が受け継がれました。
しかし、当初はあくまで関係者向けの特別な「記念品」としてごく少数鋳造されたものであり、市販用に造られたものではありませんでした。
米国では1858年からプルーフコインの市販が開始されたようです。
その後、米国では幾度かの隔年を経て現在までプルーフコインを毎年鋳造・販売しています。
英国ではそれよりも早くプルーフコインのセットが市販されるようになり、古くからコイン収集家達の目を楽しませてきたのです。
現在では民営化された造幣局の収益拡大や、途上国の外貨獲得の目的から、記念コインと同様に世界各国でプルーフコインが鋳造・販売されています。
「プルーフコイン」と一言に口にしても、実際はいくつかの種類に分類されます。
ここでは主なものをご紹介します。
表面・裏面は全面的に鏡状仕上げになっている。特に米国のプルーフコインにみられるタイプ。米国では19世紀以降、このブリリアントプルーフコインを鋳造し続けている。
鏡面状仕上げになっているプルーフ貨。
表面・裏面は全面的につや消しされ、すりガラスのような面を有する。鏡面状仕上げ(ブリリアント)プルーフコインの真逆タイプである。
光沢は無いが、デザインは明確で、非常にはっきりとした細かいデザインまで確認できる。
ほとんどの場合、必要一定数のつや消しプルーフコインが鋳造されると、打ち型はそのまま一般流通用コインの鋳造に流用された。
米国では1909年~1917年のリンカーン1セント銅貨、1913年~1917年のバッファロー5セント白銅貨等、幾つかのプルーフコインに用いられた。
つや消し加工が施されたプルーフ貨。
コインの肖像・紋章・銘文等、盛り上がっている部分にはつや消し(マット)を用い、それ以外の平面部分は鏡面状仕上げ(ブリリアント)を施したプルーフコイン。近年、世界的に一般化したプルーフコインのタイプである。
以上がおおまかなプルーフコインのタイプとなります。
ちなみに、コインにミントマークのようなマークを打刻し、「プルーフコイン」としている例もあります。そのような刻印を「プルーフマーク」といい、通常の未使用貨と区別する役割を果たしています。
プルーフコインは通常の流通貨と異なりますが、鋳造直後のコインや未使用貨には、鏡面状仕上げのようにプルーフコインと同じような特徴、「プルーフライク(Proof like)」がみられます。
一見するとその違いは見分けがつきにくいものですが、流通用コインは高速で大量にプレスされるため、微妙な違いがあります。
一方で、鏡面状仕上げのプルーフコイン表面は、通常の未使用貨の表面以上にダメージを受けやすくなっています。
例えば、19世紀に鋳造されたプルーフコインの中には「糸くず跡 (lintmarks)」がついているものが見られます。これは、プルーフ用の打ち型が油っぽいボロ布で拭われた際、布の糸や髪の毛等が付着してできたものと考えられています。
このように、多くの注意を払われて鋳造されるプルーフコインの中にも、出来・不出来があるのです。また、長い年月を経て、所有者が手を加えて状態が変化してしまう場合もあります。
以下はその評価・分類です。
---------------------------------------------------------------------------------------------
"Perfect Proof"とも評される。糸くず跡や毛髪状細線(hairlines)、取扱い傷等の欠点が全く無い、完璧なプルーフコインである。
コインは光り輝き、光沢によって自然な色調を帯びている。
Proof-70によりは見劣りするが、Proof-65より際立って上等のものである。
"Choice Proof"とも評される。いくつかの非常に細かい毛髪状細線(通常摩擦による種類の研磨、摩擦による乾燥、浸し洗浄の後の磨きから発生する)のあるプルーフ。
肉眼では確認できないが、4倍の拡大鏡ではいくつかの細かい線が確認できる。
Proof-65とProof-60の中間のグレード。
肉眼でも確認可能な、いくつかの散乱した取扱い傷や毛髪状細線のあるプルーフ。
-------------------------------------------------------------------------------
以上がプルーフコインのグレーディングです。
尚、過度に磨かれた際に付いた多くの傷や引っ掻き傷、窪み等、広範囲に及ぶ摩耗がみられるプルーフコインは「損傷プルーフ(impaired proof)」と評され、Proof-55やProof-45等が等級付けられます。
こうしたプルーフを「AU (Almost Uncirculated)」と表現するのは適切ではありません。
AU等の評価表現は、一般の流通コインのグレーディングで用いられる表現であり、流通を目的とせずに鋳造されたプルーフコインの評価にはそぐわないからです。
「未使用貨」は、使用・流通を前提として鋳造されたコインに付けられる評価表現である以上、プルーフコインの評価に用いることはできません。
そうした場合の評価表現として、上記のProof-○○や、「Perfect Proof」「損傷プルーフ」といった表現が用いられるのです。
今回は以上となります。
来年も、より多くのコインに関する記事をお届けしたいと思います。
どうか、来年もよろしくお願い致します。
一年間、御付き合い下さりありがとうございました。
それでは、何卒良いお年を御迎え下さい。
来たる年が、より良い年でありますように。
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コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
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投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
12月に入り、すっかり師走らしくなってきましたね。今年も残すところあと僅かですが、体調には気を付けて頑張っていきましょう。
さて、今回はいつものシリーズとは少し趣向を変えた、コインの基礎知識に関する話題をお届けします。
今回ご紹介するのは、コイン収集に関しては欠かせない基礎知識、「コンディション(Condition : 状態、条件)」と「グレーディング(Grading : 等級付け)」に関する内容です。
外国コイン、特に日本も含めた「近代銭」の売買に関して、グレーディング(等級付け)というものは非常に重要な要素となります。
コインを鑑定・評価する上では、コインの種類による希少性に加え、個別のコインそのものが有するコンディション(条件)と、それに基づくグレーディング(等級付け)が、価格決定の決め手となります。
グレーディングの差一つで、コインの評価・価格は大きく変わります。
鋳造したばかりの、完全未使用の状態に近いコインほど高価になり、場合によっては並品(普通品)との差が数十倍になることもあります。
ちなみに、このグレーディングに際しては、コインの年代・希少性・型模様等は考慮されず、あくまでコイン本体のコンディションに基づく判断が必要になります。
一般的に、世界的なコインカタログである「近代世界コインのカタログ (R.S.ヨーマン)」や「Chester L.Krause&Clifford Mishler:Standard Catalog of World (KMカタログ)」等には、個々のコインに関するグレーディングと、それに伴う「目安」としての評価額が記載されています。
しかし、実はこれら世界的なカタログに記載されている基準であっても、世界的に統一された基準ではなく、国によって異なる基準と略語表記が使用されているのです。
特にドイツやフランス等は、自国の言語に基づく略語表記を用いてグレーディングがなされる為、注意が必要となります。
また、同じ英語圏であっても英国と米国とでは、グレーディングに関して同じ略語表現を使用していたとしても、コンディションの評価の厳しさに関して、内包されるニュアンスに微妙なズレがある場合もあり、判断をより複雑なものにしています。
日本の場合は、「完全未使用」 「未使用」 「極美品」 「美品」 「普通」 「やや劣」 「劣」といった表現でグレーディングがなされていますが、最近では外国コインに関して英米系の状態表示を用いることが多くなりました。
以下は外国コインのグレーディングに用いられる英米系の略語表記・基準と、それに相当する日本語の表記です。
この基準は、コイン収集が盛んなアメリカのA.N.A(アメリカ貨幣協会)が公式に定めた「A.N.A公式等級付け基準」(Official A.N.A Graging Standards for United States Coins)に基づいて説明されています。
それらは一般的に「MS」や「Mint State」貨幣等級方式の名でも呼ばれています。(MSとは、未使用コインの表示に用いられることもあります。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鋳造直後の状態を保持し、30倍の顕微鏡でも肉眼で確認できる摩耗、または流通した形跡がない。この場合、鋳造直後についた多少の袋ずれ(バッグマーク:Bagmark)による微かな傷は問題とならない。
傷や摩耗等、外傷が全く無い場合は、「完全未使用」と表される場合もある。
フランス、イタリア、オランダ、ブラジル等の基準では「FDC」(Fleur de Coin : フランス語で「コインの華」)と表記され、日本においても用いられることがある。
特別な鋳造工程を経て造られる「プルーフコイン」とは異なる為、その点にも注意が必要である。
尚、コイン上の傷を見る場合、「アジャストマーク」に注意しなければならない。
アジャストマークとは、コイン(主に大型銀貨)の鋳造過程で量目超過が発生した場合、それを微調整する為に表面を意図的に削った痕のことである。アジャストマークはフランスのエキュ銀貨をはじめ、南米諸国等、様々な時代・国・地域のコインにみられる。
一見やすり痕のようにも見えるが、市場流通過程で付いた傷とは区別される為、注意が必要である。
コイン上の全ての細部が肉眼で確認できる状態。
コイン上の最も盛り上がっている部分のみが一部摩耗しており、肖像の毛髪部分の摩耗はごくわずかである。
鋳造直後の光沢がおおまかに見られる場合がある。しかし、わずかに流通した形跡が見て取れる状態である。
流通の痕跡はあるが、状態としてはほぼ未使用に近いもの。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約95%が肉眼で確認可能な状態。
或いは、コイン上に細かいデザインがない場合は、コイン全体に僅かな摩耗がある状態を指す。
流通痕は明らかだが、コインの図柄の細部は十分に残っている状態である。
しかし、コインによっては、デザイン上のある特定の細部分の摩耗状態によって、コインそのもののグレーディングが決まる場合もある為、注意が必要である。
流通の痕跡は見られるが、摩耗度合いは少なく、コイン本来のデザイン・銘字が美しいもの。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約75%が肉眼で確認可能な状態。
或いは、コイン上に細かいデザインがない場合は、コイン全体に「並み」の流通による摩耗がある状態を指す。
デザイン、銘字は明瞭だが、肖像の毛髪部分等、細部は摩耗している状態である。
尚、コインデザイン上のある特定の細部分を評価の基準とする場合は、本来の細部分デザインの約66%が残っている場合を指す。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約50%が肉眼で確認可能な状態。
或いは、コイン上に細かいデザインがない場合は、コイン全体にわたって「重度」の摩耗がある状態を指す。
デザインと銘字は明瞭に読み取ることが可能だが、肖像の毛髪部分等、細部はほとんど摩耗している状態である。流通による傷や、汚れも目立つ。
コインデザイン上のある特定の細部分を評価の基準とする場合は、本来の細部分デザインの残っている割合が50%以下である場合を指す。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約25%が肉眼で確認可能な状態。
コイン全体にわたってかなり重度の摩耗がみられる。肖像の皺や耳の部分等、細部はほぼ摩耗し、銘字も摩耗している。
コインのデザインに関しては、はっきりとした輪郭が確認できるが、肖像細部はほぼ摩耗し、コイン全体も大幅な摩耗がある状態。
大まかな細部の一部は、肉眼で確認できるが、完全につぶれて読み取れなくなっている銘字もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
尚、鋳造時のプレスの強弱、部分的なプレスの度合い、損傷や腐食、色合いの状態、液体洗浄または研磨等のコイン個別の情報は、上記のグレードと共に明示する必要があります。
また、表面は「EF」で裏面は「VF」である場合等、コインの表裏で状態評価が異なる場合があります。
その際には、「EF/VF」という表示方法を用いることもあります。
このように国によって違えど、グレーディングに関する一応の尺度は存在します。
しかし、このように基準があったとしても、それを用いて判断するのは、あくまで「鑑定者個人」であり、そこにはもちろん鑑定者個人の「主観」が作用します。
特に、グレーディングの基準となりうる中間のグレーディング(FやVF)の判断は難しく、最終的には鑑定者それぞれの主観に依る処が大きいのです。
前述したA.N.Aは、その問題に対処する為、1977年により厳密に細分化した評価基準を定めました。
日本でも、各評価をより細分化して表示する方法として、「VF+」や「VF-」といった、プラスとマイナスを用いて評価を細分化・厳密化する傾向があります。
このように、近代の外国コインを扱う上で外せないグレーディングは、ある程度の評価基準が設けられていても、個々人の価値観・コイン観を考慮に入れて鑑みることが必要となります。
コイン収集歴が長く、様々なコインを実際に目にすることが出来れば、自ずと各々の「コイン観」が出来上がり、それに基づく価値判断も可能になると思われます。
その際には、今回ご紹介したグレーディングに関する知識も、一つの参考になると思います。
本日は以上となります。
次回も宜しくお願い致します。
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こんにちは。
いよいよ12月になりましたね。
本年も、残すところあと少しになりました。
おかげ様で、当店も創業24周年を迎えることができました。
皆様の日頃の御愛顧に、厚く御礼申し上げます。
つきましては、ワールドコインギャラリーでは12月29日(日)まで、歳末・大感謝セールを開催中です。
期間中は、全商品が10%OFFになるだけでなく、古代ギリシャ・ローマコインをご購入頂いた方には『歴代ローマ皇帝の肖像入りマウスパッド』を、特典としてお付け致します。
また、期間中はラッピングサービスも行っておりますので、大切な方へのクリスマス・プレゼントにもいかがでしょうか。
この機会に是非、ご利用ください。お待ちしております。
http://www.tiara-int.co.jp/event1.html?eid=51
さて、10月より続けてお送りしてきた「コイン好人列伝」シリーズですが、今回は一応の最終回となります。
第5回目となる今回は、アメリカの金貨を中心に、生粋のコイン蒐集家 K氏のコレクションを、K氏のコメントと併せて御紹介いたします。
宜しくお願い致します。
※写真の金貨はイメージです。
1899年 : ロシア帝国
[10ルーブル金貨。23㎜で8.58g。金性900/1000]
コメント : これもK氏が大好物のジャンルなのだが、もうちょっと大きい(=15ルーブル金貨)ニコライⅡが欲しいところではあります・・・・。
1911年 : イギリス
[KM#819 1/2ソヴリン金貨 3.99gで19㎜。金性917/1000]
コメント : 小粒すぎましたが、大好物のジャンルなので買ってしまいました。
1932年 : アメリカ合衆国
[27㎜で16.71g。金性900/1000で、4,463,000枚の発行]
コメント : 頭の羽根飾りが見事。7万5000円は、お買い得でした。
1904年 : アメリカ合衆国
[34.5㎜で33.43g。金性900/1000]
1880年 : アメリカ合衆国
※画像は1895年銘。
[KM#102 27mmで16.7g。金性900/1000。]
コメント : 大型金貨だから買っちゃえぐらいの気持ちで買ったのだが・・・。
10$とダブルでケースに収めてみると、なぜかビシッときまるのです。
2004年 : ギリシャ
[KM#204 25mmで10g。金性999/1000。
アテネ・オリンピック記念。裏面はアクロポリス]
コメント : 授業で生徒に見せました。お値打ちの4万5000円でした。
1879年 : スペイン王国
※画像は1878年銘。
[KM#677 10ペセタ金貨。3.22gで19㎜。金性900/1000。]
コメント : 超小粒ながら、さらに小粒の「アルフォンソ12世銀貨」とともに、シングルケースに収まっている様子は、手のひらに乗せ鑑賞するのにピッタリで、とてもかわいい。
1998年(平成10年) : 日本国
[1万円金貨。26㎜で15.6g。長野五輪記念第3シリーズ「スピードスキー」]
コメント : 死んだおやじの形見です。
今回は以上となります。
今回で、「コイン好人列伝」シリーズは一応、最終回ですが、次回以降も記事は更新していきます。
お付き合い頂き、ありがとうございました。
12月も何卒宜しくお願い致します。
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こんにちは。
ますます冬らしくなってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回は、久々に「近代コインに描かれた人々」シリーズです。
前回の「コイン好人列伝」の記事で、フランスの金貨をご紹介させていただきましたが、今回はそこにも多く登場した「ナポレオン3世」を、彼の描かれたコインと共にご紹介したいと思います。
それでは、宜しくお願い致します。
[在位:1852年~1870年]
ルイ=ナポレオン・ボナパルト、後のナポレオン3世は1808年4月にパリで生まれました。
父親はフランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の実弟でオランダ王のルイ・ボナパルトであり、ルイ=ナポレオンにとってナポレオン1世は「伯父」にあたります。
1814年のナポレオン失脚後、一族は次々とフランスを脱出し、少年時代のルイ=ナポレオンも母親と共にスイスへ亡命します。
その後、軍人としての教育を受け、英国を拠点に政治活動を始めたルイ=ナポレオンは、1830年の七月革命によって成立したルイ・フィリップ1世のフランス王国政府に対して二度の反乱を企てますが、いずれも失敗に終わります。
写真は1841年銘[KM749.13 サイズ:37.5mm 重量:24.56g 金性:SV900]
二回目の反乱によってハム要塞に投獄された際は、牢獄に出入りしていた修理工に変装し、自分のベッドにマネキン人形を置いて脱獄に成功しています。
彼は、他のナポレオン一族やナポレオン支持者(ボナパルティスト)と同じく、フランスにおいて再び「ナポレオン帝政」を復活させることを望んでいました。
しかし、それには偉大な伯父、ナポレオン同様、大衆の強い支持が必要であると、ルイ=ナポレオン自身強く感じるところでもあったのです。
1848年2月、パリで反王政の革命が勃発し、国王ルイ・フィリップ1世は英国に亡命。
「七月王政」が打倒され、共和政が宣言されると、ルイ=ナポレオンはすぐさま亡命先の英国から舞い戻り、新共和国の大統領選挙に出馬したのです。
既に二度の反乱騒ぎを引き起こしたルイ=ナポレオンの名は全国に知れ渡っており、「ナポレオン神話」を信じる農民や労働者、市民の強い支持を得、1848年12月、ルイ=ナポレオンはフランス共和国初代大統領に当選します。
1851年12月、ルイ=ナポレオンは自らに非協力的な議会を強制解散し、独裁的権限を握りました。
このクーデターは、国民の広い支持を得、勢いを得たルイ=ナポレオンは伯父の例に倣い、自らの「皇帝」即位の是非を問う国民投票を1852年11月に実施。
国民の96%の信任を得たルイ=ナポレオンは、1852年12月、「フランス皇帝 ナポレオン3世」に即位し、ここに念願だったナポレオン帝政が復活します。
(因みにナポレオン2世は、ナポレオン1世とマリー・ルイーズの間に生まれた一人息子で、ローマ王の称号を得ていたが、オーストリア軍将校ライヒシュタット公として若くして亡くなっていた。)
伯父ナポレオンに倣い、「軍人皇帝」としてのイメージを強調した。
後に「第二帝政」と呼ばれるナポレオン3世の治世下のフランスは、大規模公共事業や鉄道敷設、それに伴う投資ブームにより、バブル景気が到来した時代でもありました。
パリの大改造は、ナポレオン3世時代の目玉政策の一つで、スラムがひしめき、下水道も整備されていなかった不衛生な過密都市パリを、整然とした近代都市に生まれ変わらせました。
現在、パリのエトワール凱旋門を中心に放射状に伸びる街路は、第二帝政期に建設されたものです。
衛生的近代都市の区画整備は、ナポレオン3世時代の知事オスマンによって推進された。
また、消費の拡大は商業を盛んにし、市民生活もより華美なものになってゆきました。
第二帝政期の文化は、「華美」「耽美」「退廃的」といった言葉で評されることもありますが、ナポレオン3世自身、高級娼婦や舞台女優、庶民の娘から閣僚の妻に至るまで、多くの女性と浮名を流したのです。
(1855年 ヴィンターハルター 画)
左上、右手に花を持っている女性がナポレオン3世妃ウージェニー。
妻のウージェニー皇后は、もともとスペイン貴族の娘であり、その美しさに惚れ込んだナポレオン3世によって猛烈に求婚され、1853年に結婚しました。
上流階級の「恋愛結婚」がまだ珍しかった時代、周囲はこの「身分違い」の結婚に強く反対しましたが、ナポレオン3世自身の強い意向によって二人は結婚しました。
しかし、結婚後も多くの女性と浮気するナポレオン3世に対し、厳格なカトリック教徒のウージェニー皇后はその都度怒りを顕わにして、母国のスペイン語で夫を罵倒することもあったとか。
私生活は奔放なナポレオン3世でしたが、フランス皇帝として、帝国の国益を邁進させる政策を数多く行いました。
1855年と1867年にはパリで万国博覧会を開催し、英国のヴィクトリア女王一家を招待する等、フランス帝国の国威を内外に示すとともに、王室外交を通じた英仏関係の深化に努めました。
このとき、パリを訪れた英国皇太子エドワード(後のエドワード7世)はナポレオン3世に対し、「フランスは素晴らしい国ですね!私が、あなたの息子ならよかったのに」とまで言わせるほどにフランスを気に入り、その後毎年フランスでバカンスを過ごすようになったようです。
ナポレオン3世と同じく、女性関係が派手だったエドワード7世の気質は、第二帝政期フランスとぴったりだったのかもしれません。
洒脱者で女性関係も派手だったエドワードは、皇太子時代に第二帝政期のフランスを訪れ、ナポレオン3世の歓待を受けた。
フランスをたいそう気に入った皇太子エドワードは、愛人とバカンスを過ごす為、王室ヨットで頻繁にフランスへ赴いた。
ナポレオン3世は、偉大な伯父ナポレオン1世が軍事的成果によって国民の支持を得ていた例に倣い、積極的な海外進出を行いました。
クリミア戦争(1854年~1856年)、アロー戦争(1856年~1860年)では英国と歩調を合わせ、フランスの対外的地位を向上させただけでなく、イタリア統一戦争への介入では領土を拡大しています。
また、西アフリカやインドシナ半島、ニューカレドニア等、アフリカ・アジア・大洋州における植民地獲得も実現させました。
フランスの財政的・技術的支援によって、エジプトにスエズ運河が開通したのも、ナポレオン3世時代の海外進出政策によるものです。(スエズ運河は後に英国に買収されてしまいしたが・・・。)
日本との関係でいえば、幕末の日本において、倒幕派の薩長を支援する英国に対し、ナポレオン3世は江戸幕府を支援しています。
最後の将軍、徳川慶喜にフランス式の軍服を贈呈し、幕府軍にフランス軍式の軍事教練を行う等、積極的に援助を行いました。
ちなみに、1867年のパリ万国博覧会には、幕末期の日本(江戸幕府だけでなく、薩摩藩や長州藩も独自のブースを出展した)が初出展しています。
しかし、1861年~1867年のメキシコ出兵は大失敗に終わりました。
特に、長期間に及んだ軍事介入の末、メキシコ皇帝に即位させたマクシミリアン(オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟)の処刑という悲劇的結末は、国内外におけるナポレオン3世の権威失墜につながりました。
欧州外交社会での孤立と、国内での国民の支持喪失は、ナポレオン3世自身を焦らせることになります。
1870年、プロイセン王国宰相、ビスマルクの挑発に乗る形でプロイセンに宣戦を布告。(普仏戦争)
兵士の士気を鼓舞するため、皇帝自ら前線に出陣しましたが、セダン要塞でプロイセン軍に包囲され、敵軍の捕虜になってしまいます。
手を差し伸べているのは、プロイセン王ヴィルヘルム1世。その左は宰相ビスマルクと皇太子フリードリヒ。
皇帝が敵軍の捕虜になったというニュースに対し、皇帝に失望し憤慨したパリ市民はナポレオン3世の退位と共和政を要求。
立法議会が帝政の廃止と共和制政府の樹立を宣言したことで、ナポレオン3世の第二帝政は終わりを告げたのです。
その後、ナポレオン3世一家は英国に亡命し、1873年1月9日、64歳で死去しました。
ナポレオン3世の第二帝政は18年で終焉しましたが、パリの美しい街並みや欧州列強に並び立つ基礎となった資本力、パリで花開いた華美な芸術文化等、その治世下の遺産は今も尚、フランスという国を彩っています。
ナポレオン3世時代のパリ大改造の一環で建設された。第二帝政期を代表する建築物の一つだが、完成したのは皇帝亡き後の1875年であった。
舞台「オペラ座の怪人」は、このオペラ座が舞台となっている。
さて、ナポレオン3世が描かれたコインは大きく分けて「大統領時代」、帝政前期の「無冠タイプ」、帝政後期の「月桂冠(有冠タイプ)」の3種類があります。
ちなみに、100フラン金貨と50フラン金貨といった高額金貨が登場したのは、消費と資本主義が拡大し、バブル景気に沸いたナポレオン3世治世下の第二帝政期においてです。
クーデターによって絶大な権力を得た1852年にのみ発行されたタイプ。
表面には「ルイ=ナポレオン・ボナパルト」の銘と肖像、裏面は額面と「フランス共和国」の銘がある。
[サイズ:36mm 重量:25g 金性:SV900]
商品No.637505
御購入の方はこちらから⇒http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=637505
1852年発行の10サンティーム青銅貨から登場。
表面は「皇帝ナポレオン3世」の銘と肖像、裏面にはナポレオン帝室を示す鷲と「フランス帝国」の銘がある。肖像は大統領時代のものとほぼ同じ。
金貨に関しては、100フラン金貨と50フラン金貨の裏面がナポレオン帝室紋章であるのに対し、20フラン以下の金貨に関しては額面表示のみとなっている。
写真は1858年銘。[KM786.1 サイズ:35mm 重量:32.19g 金性:K900]
写真は1859年銘[サイズ:28mm 重量:16.12g 金性:K900]
写真は1858年銘[サイズ:21mm 重量:6.45g 金性:K900]
写真は1854年銘[サイズ:14.4mm 重量:1.6g 金性:K900]
写真は1859年銘[サイズ:16.7mm 重量:1.61g 金性:K900]
ナポレオン3世 有冠タイプは帝政後期の1861年に登場。冠はナポレオン1世のコインの肖像と同じく月桂冠。
口髭は無冠タイプと比べて上を向き、威厳のある顔つきになっている。
また、金貨は100フラン金貨と50フラン金貨に加え、20フラン金貨の裏面もナポレオン帝室紋章となった。
写真は1869年銘[KM802.2 サイズ:35mm 重量:32.17g 金性:K900]
商品No.652959
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写真は1865年銘[KM804.1 サイズ:28mm 重量:16.12g 金性:K900]
写真は1864年銘[KM801.1 サイズ:21mm 重量:6.45g 金性:K900]
写真は1868年銘[サイズ:18.5mm 重量:3.22g 金性:K900]
写真は1870年銘[KM799.1 サイズ:37.3mm 重量:24.8g 金性:SV900]
本日はここまでとさせていただきます。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
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こんにちは。
すっかり冬らしい季節になってきましたね。
朝晩は特に気温が低いので、暖かい恰好をなさって、体調には十分にお気を付けください。
さて、今回は記事に入る前に、当社、ワールドコインギャラリーのキャンペーンをさせて下さい。
今月、11月10日(日)から、ワールドコインギャラリーでは、皆様の日頃のご愛顧に感謝の気持ちを込めまして、「ヴィクトリアン・ジュエリー クリアランスセール」を開催中です。
当社が長年の年月を掛けて集めて来ました、19世紀 ヴィクトリア朝期英国のアンティーク商品の数々を、特別価格にてご提供させて頂きます。
ヴィクトリア朝時代 大英帝国をはじめとする欧米列強諸国で、当時実際に使用されていたコインや紋章メダルを用いたジュエリーを、11月中は全品30%引きとさせていただきます。
セール期間は、11月30日(土)までとなっております。
御自身へのご褒美に、また、大切な方への贈り物にいかがでしょうか。
この機会に是非ともご利用ください。詳しくは、ワールドコインギャラリーのホームページをご覧ください。
⇒http://www.tiara-int.co.jp/event1.html?eid=50
前置きが長くなってしまい、失礼いたしました。
さて、今回は「コイン好人列伝」シリーズ第4回目の記事です。
今回も、コイン蒐集家 K氏の金貨コレクションを、K氏のコメントと併せてご紹介させて頂きます。
本日は、フランスの金貨を中心にご紹介させていただきます。
それでは、よろしくお願い致します。
1975年 : バルバドス
[100ドル金貨。6,21gで26mm。金性500/1000。23,000枚の発行。]
コメント : 帆船好きのK氏泣かせの金貨である。
安いから買ってしまったのだが、いずれペンダントにしてみたいのだが・・・・
1786年 : フランス王国
[2ルイドール金貨。15,3gで28mm。]
コメント : フランス革命勃発3年前。歴史を感じる。フランスの金貨はどれもおしゃれである。
さあ、ここからフランスシリーズの始まりです。
1906年 : フランス共和国(第三共和政)
[32,25gで35mm。金性900/1000。]
コメント : 図柄が秀逸。ペンダントにしようかどうしようか、一時期悩んだが、やはり「見る系」に落ち着いた。見ていて飽きない金貨ではある。
1869年 : フランス帝国(第二帝政)
[KM#802,2。 32,17gで35mm。金性900/1000。14,000枚の発行。]
コメント : ナポレオン1世より3世の方がずっと素敵なのはなぜだろう?
裏の紋章もVery グー。
1851年 : フランス共和国(第二共和政)
[3,22gで19mm。金性900/1000。]
1851年 : フランス共和国(第二共和政)
[6,45gで21mm。金性900/1000。12,704,000枚の発行。]
コメント : 2フラン・5フランの銀貨と、4種セットで1つのケースに収まっています。
表情が古代ギリシャのコインっぽくて好きです。
1865年 : フランス帝国(第二帝政)
[KM#804,1。 16,12gで28mm。金性900/1000。3,740枚の発行。]
コメント : 小ぶりながら、その存在感たるや・・・・
裏の紋章もお約束通りで、嬉しくなっちゃう金貨です。
1859年 : フランス帝国(第二帝政)
[16,12gで28mm。金性900/1000。32,000枚の発行。]
コメント : どうしたって無冠も揃えたくなってしまうじゃないですか・・・
1810年 : フランス帝国(第一帝政)
[12,9gで26mm。金性900/1000。]
コメント : 3世がきたら、やはり1世も来なくちゃね。
1811年 : イタリア王国(ナポレオン治世下)
[12,9gで26mm。金性900/1000。]
コメント : これは正直、ちょっと無理して買ったのですが、やっぱり「ナポレオン金貨」はいいねぇ。
フランス版と違って、裏が紋章っていうのがまたK氏泣かせなのだ。
本日はここまでとさせていただきます。
お付き合い下さり、誠にありがとうございました。
次回も宜しくお願い致します。
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こんにちは。
11月になり、ますます冬らしくなってきました。
それでも尚、秋らしさも残っております。
まだ紅葉が美しい時期でもあります。
是非とも、お近くに残っている「秋」を感じて下さい。
さて、11月最初の記事は、前回と前々回に引き続き、コイン好人K氏のコレクション紹介です。
K氏のコレクション写真と共に、K氏のコメントも御紹介致します。
今回は、アメリカや海洋国の記念金貨が中心です。
それでは、宜しくお願い致します。
1990年 : パプアニューギニア
[100キナ金貨。9,57gで33mm。5,000枚の発行。写真はK18ガラス枠付]
コメント : 七角形というのは珍しい。No,22と同一ケースに入れ、日々鑑賞している。
1981年 : ベリーズ
[100ドル金貨。6,21gで25mm。金含率500/1000。]
コメント : 蝶の彫りは、こちらの方が秀逸。
1976年 : オランダ領アンティル
[200ギルダー金貨。7,95gで34mm。15,000枚の発行。
金含率は900/1000。写真はプルーフ貨で、K18/Pt900 ガラス枠付き]
コメント : 94歳まで生きられたジュリアナ女王にあやかって長寿のお守りにもなる。
裏面の帆船の彫りは見事。八角形という形も面白い。
1980年 : フィリピン
[2500ピソ金貨。14,57gで28mm。3,073枚の発行。]
コメント : 生誕100周年記念金貨。今一番のK氏のお気に入り。
ペンダントにグレードアップしてから毎日身につけている。
[100バルボア金貨。8,16gで26mm。4,829枚の発行。]
コメント : かわいらしい金貨。銀で巻いて、ななめ切りカットが、いかにも涼しげで夏向きである。
休日に街へ出かける時等、普段使いにピッタリ。
1975年 : パナマ
[100バルボア金貨。8,16gで26mm。7,500枚の発行。写真はプルーフ貨]
コメント : 銀貨バージョンは横顔だが、正面を向いた顔がとてもよい。
2005年 : 英国王室領マン島
[1/5オンス金貨。6,22gで22mm。写真はK18枠付き]
コメント : とにかく可愛い。カット枠がおしゃれである。
1994年 : アメリカ
[5ドル金貨。8,35gで22mm。22,464枚の発行。写真はK18カット・ガラス枠]
コメント : サッカーワールドカップ・アメリカ大会の記念金貨。小ぶりだが、金貨の重さがズシリと来る。
2番目に購入した金貨である。
2003年 : フィジー
[100ドル金貨。サッカーワールドカップ・ドイツ大会記念。]
コメント : 集め始めたら、欲しくて仕方がないという、K氏の悪いクセの典型的な例である。
裏面のエリザベス女王のレリーフと、銀で巻きダイヤカットにした感じがとても素敵である。
2006年 : アメリカ
[31,108gで32,7mm。300,000枚の発行。
写真はプルーフ貨で、K18カットと防水枠付き]
コメント : 金貨購入第1号。重さもズッシリ。18金巻も超豪華。
飽きが来て、隅に追いやられていたのだが・・・・No,31を手に入れてから、自分の中で順位復活。(=関脇級と言ったところか?)
[33,4363gで34,2mm。金含率900/1000。KM#219]
コメント : No,30とダブルで、授業の教材として生徒に見せた。
外側のカット枠がVery Nice。 顔が素晴らしい。いかにもペンダント的。
今回はここまでとさせていただきます。
今月もまた、御付き合いのほどをよろしくお願いします。
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こんにちは。
最近、朝晩が冷え込んできましたね。
体調管理にはくれぐれもお気を付けください。
さて、月日が経つのは早いもので、本日は10月の最終日となりました。
今週は前回の続きで、コイン好人K氏のコレクションをご紹介させていただきます。
今回も前回に引き続き、金貨コレクションと、K氏のコメントを併せてご紹介します。
それでは、よろしくお願いします。
※コインの画像は、一部参照イメージです。
[100フラン金貨。写真は18Kガラス枠付。17gで5,000枚の発行。]
1988年 : エジプト
[直径32mm 17gで金含は900/1000。5,500枚の発行]
[直径32mmで17g。金含は900/1000]
1992年 : エジプト
[直径32mmで17g。金含率900/1000]
1985年 : エジプト
1984年 : エジプト
1977年 : カナダ
[100ドル金貨。27mmで16、96g。金含率917/1000。180,396枚発行]
[写真はK18 ガラス枠付。50ドル金貨。直径27mmで10g。250枚の発行]
1979年 : 英領ヴァージン諸島
[100ドル金貨。24,5mmで7,1g。金含率900/1000。3,216枚発行]
[写真はK18 ガラス枠付。100キナ金貨。9,57gで18,000枚の発行]
今回はここまでとさせていただきます。
11月からも、何卒ご愛顧の程を宜しくお願いします。
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こんにちは!
錦秋の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日々の寒暖差が激しくなっておりますので、何卒、御身体にはお気を付けください。
さて、フジタク ブログも2007年12月に「コインに惚れて30年!」でスタートして、早いものでもうすぐ6年になろうとしております。
途中、間が空いた時期も御座いましたが、何とか継続してこられました。
これも、ひとえに皆様のお陰と感謝いたしております。
コインに惚れて30年、御徒町の春日通りに店舗を構えて4年半、2K540に移転して丸2年!
コイン大好きの色々なお客様との出会いが御座いました。 感謝!感謝!!
新シリーズとして 【コイン好人列伝】 と命名してスタートさせて頂きたいと思います。
第1回目のシリーズで御紹介する K氏は東京都公立中学校の社会の先生です。
その後、今日まで100回以上ご来店頂き、さまざまのコイン・製品をお買い上げいただきました。
毎日コインを眺めてコインからパワーを貰い、日々の教育に情熱を傾けられて居られます。
ご自宅ではケースに入れて日々楽しまれ、通勤時にも鞄の中に今日のお気に入りコインを忍ばせ、職場にも数点置かれて楽しまれております。
ご自分でリストも作成され、頂きましたのでご紹介させて頂きます。
ご自身のコメントが秀逸でサイコーです。
では・・・・
※金貨が中心となっています。コインの画像はあくまで参照イメージです。
発行年:明治4年(1871年)
発行年 : 大正5年(1916年)
再鋳貨
コメント:ここからフランツ・ヨゼフ収集街道を驀進することと相成るのだ。
1ダカットは、商取引をする際の金3,5gのこと。
だから、この金貨は14gである。
今回はここまでとさせていただきます。
今後も、コイン好人、K氏のコレクションを随時ご紹介したいと思います。
お楽しみに。
この頃、冷え込みが強くなってきました。皆様も、御体を冷やさぬようお過ごし下さい。
それでは、失礼致します。
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こんにちは。
台風が通過しましたが、皆様のお住まいの地域は大丈夫でしたでしょうか。
台風一過で、少しずつ冷え込みが深まっていくように感じられます。
御身体には十分お気をつけ下さい。
さて、今回は「近代コインに描かれた人々」シリーズ第3弾です。
今回は、アメリカの建国の父達の一人に数えられている、ベンジャミン・フランクリンの御紹介です。
フランクリンといえば、理科の教科書でも御馴染のエピソード、「雷雨の夜に凧揚げ⇒雷を凧に落とす⇒雷は電気であると証明⇒避雷針を発明」で有名ですね。
また、先日アメリカで新100ドル紙幣が発行されましたが、アメリカの紙幣や切手には古くからフランクリンの肖像が描かれていました。
今回は、マルチな才能を発揮し、独立前後のアメリカに貢献したフランクリンと、彼の描かれたコインのお話です。
ベンジャミン・フランクリンは、1706年1月17日、ボストンの蝋燭・石鹸職人の家庭に生まれました。
彼は17人兄弟・姉妹の15番目として育ち、父のように職人となる為、実務的な教育を受けました。
ベンジャミン・フランクリンはわずか2年しか学校教育を受けていませんでしたが、本を読むことが大好きで、その気性に向いた仕事として兄ジェイムズの営む「印刷屋」を選び、弟子入りしました。
大柄で肩幅も広く、頑丈だったベンジャミンは、印刷のきつい仕事に向いており、将来的には印刷屋として大成すると父親は思っていたようです。
しかし、この「印刷屋」という仕事は、彼のその後の人生と、まだ英国の植民地だったアメリカの運命を変えることになります。
1721年、兄ジェイムズは自身の新聞『ニューイングランド・クーラント』を創刊。ベンジャミン・フランクリンは、その新聞の中で評論の執筆を任されます。
これによって、彼の作家人生が始まり、多方面に興味を持った彼は独学ながら、言論、哲学、政治、自然科学等の学問を学び始めたのです。
印刷業という仕事柄、様々な主張・趣旨の新聞、雑誌、専門書、パンフレットの類に至るまで、数多くの書物に触れる機会に恵まれたことも、若き日のフランクリンにとって最良の環境でした。
その後、フランクリンは様々な社会的活動にも関心を示し、多くの著作や論評を発表したことで、次第に植民地アメリカ社会でも注目される存在となります。
1731年には、フィラデルフィアにアメリカ初の公立図書館を開設。幼いころから自然や人間、社会、科学等に興味を持ち、本を愛していたフランクリンらしい事業ですが、この図書館が成功事例となり、その後続々と図書館が開設されることになります。
また、前述の避雷針発明だけでなく、フランクリンはロッキングチェア(揺り椅子)、遠近両用眼鏡、改良ストーブ等を発明しており、「発明家」としての一面をみせていました。
しかし、これらの発明品を見ても分かる通り、彼は実用的なものを重視する性格で、質素・倹約を重んじる性質の持ち主でした。
印刷業者として経営者としての一面もあったフランクリンは、自らを律し、社会に貢献することを常に考えていました。
前述の図書館開設もその一環だったのです。
また、常日頃から摂生を心掛る菜食主義者でもありました。ただ、彼は大きな魚が捌かれ、その腹の中から小さな魚が出てきたのを見て、「魚が共食いをしているのだから、私が我慢する理由はないだろう」という理屈になり、魚(特に鱈)だけはよく食べていたという、人間らしいエピソードもあります。
自らに厳しく、社会への貢献を重視する知識人フランクリンに対する人々の評価は高まっていきました。
やがて公職に意欲を示すようになったフランクリンは、1748年に植民地議会議員に転身。
公職にある身として、学校建設や郵政事業等、様々な社会事業を推進します。
それまでフランクリンは、植民地アメリカにあって地元の名士として活躍していた訳ですが、彼は基本的に「英国紳士」としての意識を持っており、宗主国である英国と英国国王に対して敬意を払っていたようです。
しかし、地元社会をより良くする為、公職の地位を経験し、様々な社会事業に携わったことで、政治家としてのフランクリンは「英国人」ではなく、地元を愛し、地元の利益の為に行動する「アメリカ人」としての意識を向上させていきました。
1750年代以降、植民地アメリカと本国イギリスは税金を巡る問題等から対立を引き起こすようになります。
フランクリンは植民地の立場を代表して英国政府と交渉する為、英国の首都ロンドンに渡ります。
印刷工時代に、修行の一環で英国に滞在した経験のあるフランクリンでしたが、この時から本格的な「外交官」として、ネゴシエーターの役割を体得していきました。
1760年代になると、本国からかけられる税が増えたことで植民地の反英世論はより過激になり、ついに英国からの「独立」を求める声も高まりました。
1774年、アメリカにある英国植民地の代表が集まる「大陸会議」がフィラデルフィアで発足し、本国との関係を巡る議論が行われるようになります。フランクリンは翌年の第2回大陸会議から参加しました。
会議には、ジョージ・ワシントン(後の初代大統領)、ジョン・アダムズ(後の第2代大統領)、トマス・ジェファーソン(独立宣言起草者、後の第3代大統領)、ジェイムズ・マディソン(後の第4代大統領)、アレクサンダー・ハミルトン(後の初代財務長官)といった、後に「建国の父達」と呼ばれる人々が集まり、議論を交わしていましたが、フランクリンはその中でも最年長でした。
ワシントンよりも26歳、ジョン・アダムズより29歳、ジェファーソンより37歳、マディソンやハミルトンより50歳近く年上のフランクリンは、この時既に70歳になろうとしていました。
しかし、アメリカの市民兵とイギリス軍は既に武力衝突しており、第2回大陸会議ではジョージ・ワシントンを軍の最高司令官に任命する決議が行われました。アメリカ独立戦争が本格的に始まったのです。
フランクリンは初代郵政長官に任命されますが、ジェファーソンと共に独立宣言の起草と署名を行い、1776年7月4日に「アメリカ独立宣言」を発布します。
これが、現代も続くアメリカ合衆国の「独立記念日」です。
フランクリンは劣勢のアメリカ軍への援助を得るため、ルイ16世治世下のフランスに渡ります。
老練で巧みな交渉術によって、1778年2月にフランスから援助と独立承認を引き出したばかりでなく、スペインやロシアの武装中立宣言も獲得し、英国を欧州内で孤立させることに成功します。
激しい戦いの末、1783年9月、米英両国はパリで平和条約を締結。米国は独立を達成したばかりでなく、アパラチア山脈からミシシッピ河流域に至る広大な英国領、カナダ沿岸の漁業権までを獲得します。
このとき、フランクリンは、米国側全権として英国との交渉にあたりました。
アメリカ合衆国の独立後も、フランクリンは議会の中心的役割を担い、新生国家中枢の調整役として務めました。
1787年の合衆国憲法制定にも尽力したフランクリンは、1790年4月17日、84歳でこの世を去りました。
彼は遺言で、縁あるボストンとフィラデルフィアの両市に対して、「若い職人が、自身の人生を見習うように」という願いから、遺産の一部を寄付しました。
両市は、フランクリンの寄付金を元手に、若い機械工職人が商売を始めるための貸付財源基金を立ち上げ、現在も尚続いています。
街角の印刷職人から、文筆家、起業家、発明家、科学者、思想家、政治家、外交官になったフランクリンは、まさに「アメリカン・ドリーム」の先駆けといえるでしょう。
フランクリンはその生涯を通じ、知的好奇心と社会貢献に対して活発な働きをみせましたが、常に謙虚な立ち振る舞いであり、自らに権力を集中させることを嫌っていました。
強いリーダーシップを発揮するというよりも、最年長として組織内外の「調整役」に適した人格者だったのです。
それは、ジョージ・ワシントンをはじめとする他の建国の父達や、アメリカ人の理想のリーダー像とは違い、庶民的で目立たない一面もありますが、飾らず親しみやすいインテリのフランクリンは、一般庶民に人気がありました。
特に、貧しい職人の子だったフランクリンが、独学によって様々な知識と機会、そして多くに人の信頼を得て、国家を動かし、歴史に名を残す大人物となったストーリーは、後世のアメリカ人の道徳的理想、アメリカン・ドリームの体現者に他なりませんでした。
「自由と平等と権利」を標榜して建国されたアメリカですが、実際には植民地時代から明確なヒエラルキーが存在しており、ワシントンやジェファーソン等、独立の立役者となった軍人、または政治家たちは、奴隷を多く所有し、広大な農場と資産を持った「大地主」、つまり事実上の貴族階級の出身者でした。
フランクリンのように、自身の才覚と機会のみで出世した人物は、当時では珍しい存在だったのです。
後の世代のことまで考えた彼の生き方は、社会的成功を収めた者の義務としての社会貢献を重んじる、アメリカの美学の模範として、現代も尚尊敬され続けているのです。
フランクリンが描かれたコインは、1948年から1963年にかけて発行されたハーフダラー(50セント)銀貨が有名です。
表面にはベンジャミン・フランクリンの肖像、裏面には大陸会議が開催された、フィラデルフィア市の旧ペンシルヴェニア州議会議事堂、現在の「独立記念館」にある「自由の鐘」と、小さなハクトウワシが描かれています。
尚、表面には「Liberty」「In God We Trust」、裏面には「E Pluribus Unum」という、アメリカ合衆国のモットーが刻印されています。
裏面の自由の鐘をよく観察すると、真ん中にヒビがはいっていることが分かります。これは、コインに傷がついているわけではなく、実際の自由の鐘に大きなヒビが入っていることから、忠実に再現した結果なのです。
このヒビ割れた「自由の鐘」は、植民地時代にイギリスで製造され、アメリカに持ち込まれたものでした。
アメリカ独立200周年の1976年7月4日、イギリスから独立200周年を記念して、新しい「自由の鐘」がアメリカに贈られ、米英の新しい関係を象徴する友好のしるしになりました。(実は1958年に、イギリスはフィラデルフィア市役所に対して「無償でひび割れを修繕する。」と申し出ていたのですが、市役所が「誰も望んでいない」という理由で断っていました。)
この独立200周年記念の際、オリジナルの「自由の鐘」を製造したイギリスの会社前で、約30人のアメリカ人が「ひび割れた鐘の保証」を求める抗議活動を行いましたが、製造元の会社側は、「発送時の梱包のまま、送料を御負担頂けるのであれば、返品に応じます。」と回答し、アメリカ人達を追い返したと言われています。
この自由の鐘がある独立記念館は世界遺産に登録され、フランクリンが描かれている100ドル紙幣の裏面にデザインされています。また、先日流通が開始された新100ドル紙幣には、「自由の鐘」のモチーフが偽造防止技術の一環として利用されています。
ちなみに、フランクリンが活躍した建国当初のアメリカでは、コインの肖像をどうするか、激しい議論がありました。
議会上院は初代大統領ワシントンを描く方針を主張しましたが、下院は旧宗主国英国コインの「国王」を連想させ、共和制の国家には相応しくないとして「自由の女神」を描くことを主張しました。
左から、1セント銅貨(1826年 KM45)、ハーフダラー銀貨(1871年 KM99)、1ドル銀貨(1921年 通称“モルガン・ダラー”)
左から1ドル銀貨(1923年 通称“ピース・ダラー”)、ハーフダラー銀貨(1942年 KM142 通称“ウォーキング・リバティ”)、20ドル金貨(1927年 “ウォーキング・リバティ”別タイプ)
このように、時代やデザイナーの変化によって、様々なタイプの「自由の女神」が存在します。
結局、コインの肖像は「自由の女神」で決着し、その後女神像のデザインを変更しつつも、20世紀前半に至るまでその慣習が継続されました。
また、裏面はアメリカの国鳥「ハクトウワシ」がデザインされましたが、「表面=自由の女神」「裏面=ハクトウワシ」という組み合わせは、銀貨と金貨の上では約1世紀にわたって守られ続けていました。
ちなみに、アメリカの国鳥を決定する際、フランクリンは「勇猛果敢に侵入者を撃退する鳥」という主張を以って「七面鳥」を推していたようですが、ハクトウワシの前に却下されてしまいました。
もし、フランクリンの意見がさいようされていれば、コインの裏面はハクトウワシではなく七面鳥だったのかもしれません。
左からハーフダラー銀貨(1871年 KM99)、ハーフダラー銀貨(1942年 KM142)、20ドル金貨(1927年)
左から1ドル銀貨(1921年)、1ドル銀貨(1923年)、20ドル金貨(1896年)
さらにアメリカのコインには、決まって「Liberty(自由)」という単語が入っていますが、これは1792年に制定された貨幣法に、「鋳貨の表面には、自由という語の刻銘とともに、自由を象徴する図案を入れる」ことを定めた条文がある為であり、自由の女神像とともにコインの上で、アメリカの理念を示すものとなっていました。
現在でもこの慣習はコインの上で継承されており、「Liberty(自由)」と共に「In God We Trust(我々は神を信ずる)」「E Pluribus Unum(ラテン語で“多数から成る一つ”の意味。アメリカ合衆国の国是)」も、全てのコインに刻銘されています。
フランクリンは、節約家であり、勉強家でもあったわけですが、彼の名言に「Time is Money(時は金なり)」という有名な格言があります。まさに、彼の行動原理と信念、そして生き様を端的に表現した一言といえます。
立身出世には常日頃から、自らを厳しく律し、意識的に生活することが必要不可欠であることを、自身の行動と言葉によって説いたフランクリンの教えは、現代の私達にとっても重要な心得となりえるでしょう。
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投稿情報: 20:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
10月に入りましたが、秋らしくない、蒸し暑い日が続いております。
くれぐれも御身体にはお気を付け下さい。
さて、今週は前回に引き続いて、「近代コインに描かれた人々」を御紹介したいと思います。
今週はメキシコ皇帝、マクシミリアーノ1世(ドイツ語ではマクシミリアン)に関する記事です。
彼は、欧州列強が世界を舞台に勢力を拡大していた19世紀半ば、故国オーストリアから、大西洋を隔てた遠くメキシコの皇帝に即位しました。しかし、彼の治世と帝国は3年しか持たず、やがて悲劇的な最期を遂げることになるのです。
欧州随一の名門家、ハプスブルク家の皇帝の弟が、なぜ遠い辺境の地の君主となり、彼の地で最期を遂げたのか。
今回は悲劇の皇帝、マクシミリアンに関する内容です。
(Ferdinand Maximilian Joseph )
マクシミリアンは1832年7月、オーストリアのウィーンにてハプスブルク=ロートリンゲン家の、オーストリア大公フランツ・カールの第2子として生を受けました。
彼より2歳年上の兄、フランツ・ヨーゼフ・カールは、後にハプスブルク家の当主となり、フランツ・ヨーゼフ1世としてオーストリア帝国皇帝に即位します。
つまり、彼は欧州随一の名門の生まれであり、大帝国のロイヤル・ファミリーの一員として育ったのです。
物静かで生真面目、保守的な兄と異なり、陽気で社交的、そして自由奔放なマクシミリアンは、しばしば政治的思想を巡って兄と対立することもありましたが、少なくとも幼少時代から少年期にかけては仲の良い兄弟だったといわれています。
1848年、フランスで勃発した二月革命の余波を受け、3月にオーストリアのウィーンでも騒乱が発生。
この混乱を鎮める為、ナポレオン後の欧州外交において多大な影響力を保持していた老宰相メッテルニヒが失脚します。
この1848年という年は、フランス、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリア、イギリス等、欧州各地で政治改革を求める自由主義の運動が噴出した年であり、ナポレオンの失脚後の欧州勢力均衡、ウィーン会議以降続いていた「ウィーン体制」が崩壊した年といわれます。
これ以降、各国で王族や貴族を中心とする保守主義と、市民の政治参加と自治を求める自由主義とが激しく対立するようになります。
1848年の混乱の責任をとる形で、マクシミリアンの叔父であるオーストリア皇帝フェルディナント1世は退位し、代わって弱冠18歳の兄フランツ・ヨーゼフが皇帝に即位します。
若くて堅実な将校皇帝を、帝国国民は期待の念を以て歓迎した。
皇帝の弟となったマクシミリアンは、1854年にオーストリア帝国海軍司令長官になり、1857年にはオーストリア支配下のイタリア、「ロンバルディア=ヴェネト王国」〈現在のミラノ、ヴェネツィア包括するイタリア北部)の副王〈総督に相当。国王は兄フランツ・ヨーゼフが兼ねる。尚、当地での王名は「フランチェスコ・ジュゼッペ1世」)に任命されます。
自由主義に傾倒するマクシミリアンは、赴任地での政策に自らの意向を反映させます。彼は現地のイタリア人の政治参加を容認し、イタリア市民寄りの宥和政策を採りました。
しかし、このことは兄であり、名目上王国の国王であるフランツ・ヨーゼフ1世との摩擦を引き起こす原因となりました。
画像は、オーストリア帝国で1858年に発行されたターラー(ターレル)銀貨。(KM2244)
33mmで重さは18,51g。裏面にはハプスブルク家の象徴、「双頭の鷲」が描かれている。
フランツ・ヨーゼフ1世が保守的であることは前述しましたが、それ以上に彼の立場が自由主義を容認させるものではありませんでした。
当時、彼の統治していたハプスブルク家の帝国内には、オーストリアのドイツ人やイタリア人だけでなく、ハンガリー人、クロアチア人、ウクライナ人、ボヘミア(チェコ)人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロヴェニア人、ルーマニア人、ユダヤ人等、多様な民族が居住していました。
市民の参政権拡大は、すなわち民族主義の台頭と民族自決運動につながり、やがては内戦と帝国の崩壊という悲劇的末路に至る恐れがあります。
その為、皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世は、自由主義を容認することはできず、実の弟ならば尚更だったのです。
1859年、マクシミリアンはロンバルディア=ヴェネト王国副王を解任され、アドリア海のトリエステに居を移しました。
「副王」から「オーストリア大公」となり、暇を持て余していたマクシミリアンは、兄との確執を継続させつつも、当地で植物学の研究に集中しながら過ごしていました。
そんな折、マクシミリアンのもとにメキシコの保守派貴族とフランスのナポレオン3世から、「メキシコ帝国皇帝」就任の打診があります。
画像は、1858年発行の100フラン金貨(KM786,1)
35mmで、重量は32,19g。
当時、メキシコは自由主義派と保守派による内戦の最中にあり、保守派の大地主や貴族などの富裕層は欧州の列強に支援要請を行っていました。
第二帝政期フランスのナポレオン3世は、産業革命で成長した自国の勢力圏を海外に求めており、保守派へのテコ入れでアメリカ大陸に足場を築こうと画策します。
さらに、メキシコの隣国アメリカが南北戦争に突入し、国外の問題に介入できないこともあり、外交得点を狙うナポレオン3世にとってはうってつけだったのです。
フランスとメキシコの保守派双方の思惑と利害は一致し、フランス軍の介入によってメキシコの首都、メキシコシティに「メキシコ帝国」を建設し、保守派が政府中枢に入ることで保守派の権益を守ることを計画しました。
このとき、皇帝の座に相応しい名門の出自として、ハプスブルク家の皇帝の弟、マクシミリアンに白羽の矢が立ったのです。
因みに、当時欧州の名門家の出身者を、その国との繋がりや所縁に関係なく君主の地位に就けることは、特に珍しいことではなく、マクシミリアンのメキシコ皇帝打診も「ハプスブルク」のブランド力が決め手でした。(19世紀だけでも、ベルギー、スペイン、ギリシャ、アルバニア、ルーマニア、ブルガリアの国王に、ドイツやイタリアの王族が就いています。)
当初、マクシミリアンは迷ったようですが、帝位への欲求と、新大陸で植物学の探索ができるという知的好奇心に揺り動かされ、メキシコ行きを決断しました。
この決定には、マクシミリアンの妻、シャルロッテが最も喜んだと伝えられています。
彼女はベルギー王国初代国王、レオポルド1世の王女で、1857年に二人は結婚しました。
プライドの高い彼女は、フランツ・ヨーゼフ1世の妻でバイエルンのヴィッテルスバッハ公爵家出身のエリザベートと仲が悪かったようです。
特に公爵家出身のエリザベートが「皇后」で、王家出身の自分が「大公妃」であることを不満に感じていたようです。(エリザベートの飼い犬が、シャルロッテのプードルを噛み殺した(!)事件も二人の不仲を助長したようですが・・・・。)
その為、自らも「皇后」の地位を得ることができ、メキシコ行きに賛同したのです。
マクシミリアンの兄フランツ・ヨーゼフ1世は、「オーストリアの皇位継承権を放棄する」ことを条件として、彼のメキシコ行きを認めました。
1864年4月10日、マクシミリアンはメキシコ帝国皇帝「ドン・マクシミリアーノ1世」として彼の地で即位します。妻のシャルロッテも、メキシコ皇后「カルロータ」として即位しました。
目下内戦中のメキシコにあって、本来自由主義的傾向の強かったマクシミリアーノ1世皇帝は臣民のため、貧民救済や農民への「徳政令」、信仰の自由の保障や農地改革、人身売買の禁止等の措置を支持しました。
これは、自由主義派に対する和解に向けたアプローチでもありましたが、政権を支える保守派からは「自由主義的」とみなされ、徐々に皇帝は支持を失っていきます。
また、自由主義勢力の指導者であり、後にメキシコ大統領になる先住民出身の聖職者、ベニート・フアレスはマクシミリアンとその後ろ盾のフランスを徹底的に敵視し、決して妥協する姿勢を見せませんでした。地方の農民はフアレスを支持しており、マクシミリアーノ1世の帝国政府は、メキシコ駐留のフランス軍によって支えられたものであり、事実上フランスの傀儡政権でした。
現在、彼はメキシコの英雄とされ、フアレスの名を冠した大学や国際空港もある。
しかし、帝国政権内でも孤立していたマクシミリアーノ1世にさらなる追い打ちがかかります。
1865年4月に南北戦争を終結させ、国内復興を進めていたアメリカが、フアレス支援を本格化し始めたのです。
アメリカは、ナポレオン3世のフランスにメキシコ撤兵を要求。フアレスの自由主義勢力もその勢いを増し、保守派の劣勢は濃厚になっていました。
また、欧州ではビスマルクに率いられたプロイセンがドイツ統一に動き出しており、オーストリアもフランスも新大陸の問題どころではなくなっていたのです。
1866年、フランス軍は撤兵を開始。
皇后シャルロッテは、夫と帝国への援助要請の為、単身で欧州に渡り、フランス、オーストリア、ベルギー等、関係各国を回りますが、どこからも援助を得ることが出来ず、援助要請の為に訪れたローマのヴァチカンで発狂。
そのまま、故国ベルギーに移送され、第一次世界大戦を経て1927年に死去するまで幽閉されます。
マクシミリアーノ1世は、フランス軍の撤退に伴い、周囲や欧州の王家から欧州への脱出を勧められますが、これを頑なに拒否。
彼は傀儡とはいえ、「メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世」としての誇りを持ち、メキシコにその身を捧げる覚悟だったようです。
また、自身に忠誠を誓い戦った将校や側近を見捨てることは心苦しかったのでしょう。このまま帰郷しても、オーストリアの皇位継承権は既に放棄しており、オーストリア大公の地位もありませんから、メキシコでの再起を望んでいたと思われます。
しかし、1867年5月、彼はついにフアレスの軍に捕えられ、裁判にかけられ「死刑」を宣告されます。
欧州やメキシコ国内からも彼の助命を求める声が多く寄せられましたが、フアレスが自軍への示しの意味から、決して寛容な姿勢をみせなかったこと、マクシミリアーノ1世が裁判中にあっても、「メキシコ皇帝」として振る舞い続けていたこと等があり、死刑が覆ることはありませんでした。
1867年6月9日、マクシミリアーノ1世は、二人の将軍と共に銃殺刑に処せられました。34歳でした。
彼の処刑のニュースは、欧州にも衝撃をもたらし、当時の印象派画家マネはこの事件を題材に絵画を描いています。
大きな帽子を被った人物がマクシミリアーノ1世。
メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世を描いたコインは、「50センタヴォ銀貨 (KM387)」 「1ペソ銀貨 (KM388)」 「20ペソ金貨 (KM389)」の3種類があります。
メキシコ帝国下の1864年から1867年まで、従来のメキシコ通貨「レアル」とは異なる貨幣制度が導入されていました。
メキシコ共和国:8レアル=メキシコ帝国:1ペソと設定され、1ペソは100センタヴォに相当するとされました。
その為、メキシコ共和国時代の8レアル銀貨と、メキシコ帝国の1ペソ銀貨は、共に27,07gで、銀含も903/1000と、デザインや発行元、額面や貨幣単位は違えど、同じ規格で鋳造されていたのです。
鋳造場所は、50センタヴォ銀貨と20ペソ金貨が共にメキシコシティ・ミントにて。1ペソ銀貨は、メキシコシティに加えてグアナファトとサン・ルイス・ポトシでも鋳造されています。
尚、それぞれのミントマークは、「Mo:メキシコシティ」 「Go:グアナファト」 「Pi:サン・ルイス・ポトシ」となっています。
50センタヴォ銀貨と20ペソ金貨は1866年銘のみの発行。1ペソ銀貨は1866年と1867年の発行銘があります。
つまり、後ろ盾だったフランス軍の撤兵、皇帝の逮捕・処刑という、帝国の崩壊の最中に発行されたコインだったわけです。帝国が崩壊し、皇帝が処刑されるのと同じ時期に、皇帝の肖像を描いた本格的な帝国のコインが鋳造されたのは、何とも皮肉な気がします。
ミントマークは「M:メキシコシティ・ミント」による鋳造。
37,2mmで重量は27,07g。SV903/1000。
表面は、メキシコ帝国皇帝マクシミリアーノ1世が描かれ、裏面には2頭のグリフィンに支えられたメキシコ帝室紋章が描かれている。
ところで、マクシミリアーノ1世は処刑前、自らを撃つ狙撃手に金貨を手渡し、「どうか顔は撃たないで欲しい。心臓を撃ち抜いてくれ。」と頼んだという逸話が残っています。しかも、そのことによって返って狙撃手に顔面を狙い撃ちされ、マクシミリアーノ1世は顔を撃ち抜かれてしまった・・・・という逸話もあります。
この逸話が真実か否かはさて置き、この時本当に狙撃手に金貨を手渡したとするならば、自らの肖像が描かれた20ペソ金貨である可能性は高いと思われます。
自らの横顔を描いた金貨を、自らを手に掛ける者に渡すというのは、如何なる心境だったのでしょう。それでもし、最期の願いも聞き届けられなかったなら・・・・・・・・・。
正に「悲劇の皇帝」というべきマクシミリアーノ1世ですが、彼の死の知らせを聞き、大いにショックを受けた人物の一人が、実兄のフランツ・ヨーゼフ1世でした。
政治思想では対立した兄弟ですが、やはり実の弟を心配していたのでしょう。
しかし、フランツ・ヨーゼフ1世はこの後、実弟のみならず、一人息子の皇太子ルドルフを心中で、妻のエリザベートを暗殺で、甥で帝位継承者のフランツ・フェルディナントを暗殺で失うことになります。
在位68年という在位期間を誇り、「帝国の不死鳥」と呼ばれたフランツ・ヨーゼフ1世でしたが、彼の周囲には不幸な死が付きまとっていました。
冒険的な弟と異なり、堅実な兄は長命長期在位を実現しましたが、彼もまた、弟と同じく「悲劇の皇帝」だったといえるでしょう。
椅子に座っている人物は兄フランツ・ヨーゼフ1世。
その直ぐ後ろに立つのは弟マクシミリアン。
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投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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