【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
11月になり、ますます冬らしくなってきました。
それでも尚、秋らしさも残っております。
まだ紅葉が美しい時期でもあります。
是非とも、お近くに残っている「秋」を感じて下さい。
さて、11月最初の記事は、前回と前々回に引き続き、コイン好人K氏のコレクション紹介です。
K氏のコレクション写真と共に、K氏のコメントも御紹介致します。
今回は、アメリカや海洋国の記念金貨が中心です。
それでは、宜しくお願い致します。
1990年 : パプアニューギニア
[100キナ金貨。9,57gで33mm。5,000枚の発行。写真はK18ガラス枠付]
コメント : 七角形というのは珍しい。No,22と同一ケースに入れ、日々鑑賞している。
1981年 : ベリーズ
[100ドル金貨。6,21gで25mm。金含率500/1000。]
コメント : 蝶の彫りは、こちらの方が秀逸。
1976年 : オランダ領アンティル
[200ギルダー金貨。7,95gで34mm。15,000枚の発行。
金含率は900/1000。写真はプルーフ貨で、K18/Pt900 ガラス枠付き]
コメント : 94歳まで生きられたジュリアナ女王にあやかって長寿のお守りにもなる。
裏面の帆船の彫りは見事。八角形という形も面白い。
1980年 : フィリピン
[2500ピソ金貨。14,57gで28mm。3,073枚の発行。]
コメント : 生誕100周年記念金貨。今一番のK氏のお気に入り。
ペンダントにグレードアップしてから毎日身につけている。
[100バルボア金貨。8,16gで26mm。4,829枚の発行。]
コメント : かわいらしい金貨。銀で巻いて、ななめ切りカットが、いかにも涼しげで夏向きである。
休日に街へ出かける時等、普段使いにピッタリ。
1975年 : パナマ
[100バルボア金貨。8,16gで26mm。7,500枚の発行。写真はプルーフ貨]
コメント : 銀貨バージョンは横顔だが、正面を向いた顔がとてもよい。
2005年 : 英国王室領マン島
[1/5オンス金貨。6,22gで22mm。写真はK18枠付き]
コメント : とにかく可愛い。カット枠がおしゃれである。
1994年 : アメリカ
[5ドル金貨。8,35gで22mm。22,464枚の発行。写真はK18カット・ガラス枠]
コメント : サッカーワールドカップ・アメリカ大会の記念金貨。小ぶりだが、金貨の重さがズシリと来る。
2番目に購入した金貨である。
2003年 : フィジー
[100ドル金貨。サッカーワールドカップ・ドイツ大会記念。]
コメント : 集め始めたら、欲しくて仕方がないという、K氏の悪いクセの典型的な例である。
裏面のエリザベス女王のレリーフと、銀で巻きダイヤカットにした感じがとても素敵である。
2006年 : アメリカ
[31,108gで32,7mm。300,000枚の発行。
写真はプルーフ貨で、K18カットと防水枠付き]
コメント : 金貨購入第1号。重さもズッシリ。18金巻も超豪華。
飽きが来て、隅に追いやられていたのだが・・・・No,31を手に入れてから、自分の中で順位復活。(=関脇級と言ったところか?)
[33,4363gで34,2mm。金含率900/1000。KM#219]
コメント : No,30とダブルで、授業の教材として生徒に見せた。
外側のカット枠がVery Nice。 顔が素晴らしい。いかにもペンダント的。
今回はここまでとさせていただきます。
今月もまた、御付き合いのほどをよろしくお願いします。
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こんにちは。
最近、朝晩が冷え込んできましたね。
体調管理にはくれぐれもお気を付けください。
さて、月日が経つのは早いもので、本日は10月の最終日となりました。
今週は前回の続きで、コイン好人K氏のコレクションをご紹介させていただきます。
今回も前回に引き続き、金貨コレクションと、K氏のコメントを併せてご紹介します。
それでは、よろしくお願いします。
※コインの画像は、一部参照イメージです。
[100フラン金貨。写真は18Kガラス枠付。17gで5,000枚の発行。]
1988年 : エジプト
[直径32mm 17gで金含は900/1000。5,500枚の発行]
[直径32mmで17g。金含は900/1000]
1992年 : エジプト
[直径32mmで17g。金含率900/1000]
1985年 : エジプト
1984年 : エジプト
1977年 : カナダ
[100ドル金貨。27mmで16、96g。金含率917/1000。180,396枚発行]
[写真はK18 ガラス枠付。50ドル金貨。直径27mmで10g。250枚の発行]
1979年 : 英領ヴァージン諸島
[100ドル金貨。24,5mmで7,1g。金含率900/1000。3,216枚発行]
[写真はK18 ガラス枠付。100キナ金貨。9,57gで18,000枚の発行]
今回はここまでとさせていただきます。
11月からも、何卒ご愛顧の程を宜しくお願いします。
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こんにちは!
錦秋の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日々の寒暖差が激しくなっておりますので、何卒、御身体にはお気を付けください。
さて、フジタク ブログも2007年12月に「コインに惚れて30年!」でスタートして、早いものでもうすぐ6年になろうとしております。
途中、間が空いた時期も御座いましたが、何とか継続してこられました。
これも、ひとえに皆様のお陰と感謝いたしております。
コインに惚れて30年、御徒町の春日通りに店舗を構えて4年半、2K540に移転して丸2年!
コイン大好きの色々なお客様との出会いが御座いました。 感謝!感謝!!
新シリーズとして 【コイン好人列伝】 と命名してスタートさせて頂きたいと思います。
第1回目のシリーズで御紹介する K氏は東京都公立中学校の社会の先生です。
その後、今日まで100回以上ご来店頂き、さまざまのコイン・製品をお買い上げいただきました。
毎日コインを眺めてコインからパワーを貰い、日々の教育に情熱を傾けられて居られます。
ご自宅ではケースに入れて日々楽しまれ、通勤時にも鞄の中に今日のお気に入りコインを忍ばせ、職場にも数点置かれて楽しまれております。
ご自分でリストも作成され、頂きましたのでご紹介させて頂きます。
ご自身のコメントが秀逸でサイコーです。
では・・・・
※金貨が中心となっています。コインの画像はあくまで参照イメージです。
発行年:明治4年(1871年)
発行年 : 大正5年(1916年)
再鋳貨
コメント:ここからフランツ・ヨゼフ収集街道を驀進することと相成るのだ。
1ダカットは、商取引をする際の金3,5gのこと。
だから、この金貨は14gである。
今回はここまでとさせていただきます。
今後も、コイン好人、K氏のコレクションを随時ご紹介したいと思います。
お楽しみに。
この頃、冷え込みが強くなってきました。皆様も、御体を冷やさぬようお過ごし下さい。
それでは、失礼致します。
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こんにちは。
台風が通過しましたが、皆様のお住まいの地域は大丈夫でしたでしょうか。
台風一過で、少しずつ冷え込みが深まっていくように感じられます。
御身体には十分お気をつけ下さい。
さて、今回は「近代コインに描かれた人々」シリーズ第3弾です。
今回は、アメリカの建国の父達の一人に数えられている、ベンジャミン・フランクリンの御紹介です。
フランクリンといえば、理科の教科書でも御馴染のエピソード、「雷雨の夜に凧揚げ⇒雷を凧に落とす⇒雷は電気であると証明⇒避雷針を発明」で有名ですね。
また、先日アメリカで新100ドル紙幣が発行されましたが、アメリカの紙幣や切手には古くからフランクリンの肖像が描かれていました。
今回は、マルチな才能を発揮し、独立前後のアメリカに貢献したフランクリンと、彼の描かれたコインのお話です。
ベンジャミン・フランクリンは、1706年1月17日、ボストンの蝋燭・石鹸職人の家庭に生まれました。
彼は17人兄弟・姉妹の15番目として育ち、父のように職人となる為、実務的な教育を受けました。
ベンジャミン・フランクリンはわずか2年しか学校教育を受けていませんでしたが、本を読むことが大好きで、その気性に向いた仕事として兄ジェイムズの営む「印刷屋」を選び、弟子入りしました。
大柄で肩幅も広く、頑丈だったベンジャミンは、印刷のきつい仕事に向いており、将来的には印刷屋として大成すると父親は思っていたようです。
しかし、この「印刷屋」という仕事は、彼のその後の人生と、まだ英国の植民地だったアメリカの運命を変えることになります。
1721年、兄ジェイムズは自身の新聞『ニューイングランド・クーラント』を創刊。ベンジャミン・フランクリンは、その新聞の中で評論の執筆を任されます。
これによって、彼の作家人生が始まり、多方面に興味を持った彼は独学ながら、言論、哲学、政治、自然科学等の学問を学び始めたのです。
印刷業という仕事柄、様々な主張・趣旨の新聞、雑誌、専門書、パンフレットの類に至るまで、数多くの書物に触れる機会に恵まれたことも、若き日のフランクリンにとって最良の環境でした。
その後、フランクリンは様々な社会的活動にも関心を示し、多くの著作や論評を発表したことで、次第に植民地アメリカ社会でも注目される存在となります。
1731年には、フィラデルフィアにアメリカ初の公立図書館を開設。幼いころから自然や人間、社会、科学等に興味を持ち、本を愛していたフランクリンらしい事業ですが、この図書館が成功事例となり、その後続々と図書館が開設されることになります。
また、前述の避雷針発明だけでなく、フランクリンはロッキングチェア(揺り椅子)、遠近両用眼鏡、改良ストーブ等を発明しており、「発明家」としての一面をみせていました。
しかし、これらの発明品を見ても分かる通り、彼は実用的なものを重視する性格で、質素・倹約を重んじる性質の持ち主でした。
印刷業者として経営者としての一面もあったフランクリンは、自らを律し、社会に貢献することを常に考えていました。
前述の図書館開設もその一環だったのです。
また、常日頃から摂生を心掛る菜食主義者でもありました。ただ、彼は大きな魚が捌かれ、その腹の中から小さな魚が出てきたのを見て、「魚が共食いをしているのだから、私が我慢する理由はないだろう」という理屈になり、魚(特に鱈)だけはよく食べていたという、人間らしいエピソードもあります。
自らに厳しく、社会への貢献を重視する知識人フランクリンに対する人々の評価は高まっていきました。
やがて公職に意欲を示すようになったフランクリンは、1748年に植民地議会議員に転身。
公職にある身として、学校建設や郵政事業等、様々な社会事業を推進します。
それまでフランクリンは、植民地アメリカにあって地元の名士として活躍していた訳ですが、彼は基本的に「英国紳士」としての意識を持っており、宗主国である英国と英国国王に対して敬意を払っていたようです。
しかし、地元社会をより良くする為、公職の地位を経験し、様々な社会事業に携わったことで、政治家としてのフランクリンは「英国人」ではなく、地元を愛し、地元の利益の為に行動する「アメリカ人」としての意識を向上させていきました。
1750年代以降、植民地アメリカと本国イギリスは税金を巡る問題等から対立を引き起こすようになります。
フランクリンは植民地の立場を代表して英国政府と交渉する為、英国の首都ロンドンに渡ります。
印刷工時代に、修行の一環で英国に滞在した経験のあるフランクリンでしたが、この時から本格的な「外交官」として、ネゴシエーターの役割を体得していきました。
1760年代になると、本国からかけられる税が増えたことで植民地の反英世論はより過激になり、ついに英国からの「独立」を求める声も高まりました。
1774年、アメリカにある英国植民地の代表が集まる「大陸会議」がフィラデルフィアで発足し、本国との関係を巡る議論が行われるようになります。フランクリンは翌年の第2回大陸会議から参加しました。
会議には、ジョージ・ワシントン(後の初代大統領)、ジョン・アダムズ(後の第2代大統領)、トマス・ジェファーソン(独立宣言起草者、後の第3代大統領)、ジェイムズ・マディソン(後の第4代大統領)、アレクサンダー・ハミルトン(後の初代財務長官)といった、後に「建国の父達」と呼ばれる人々が集まり、議論を交わしていましたが、フランクリンはその中でも最年長でした。
ワシントンよりも26歳、ジョン・アダムズより29歳、ジェファーソンより37歳、マディソンやハミルトンより50歳近く年上のフランクリンは、この時既に70歳になろうとしていました。
しかし、アメリカの市民兵とイギリス軍は既に武力衝突しており、第2回大陸会議ではジョージ・ワシントンを軍の最高司令官に任命する決議が行われました。アメリカ独立戦争が本格的に始まったのです。
フランクリンは初代郵政長官に任命されますが、ジェファーソンと共に独立宣言の起草と署名を行い、1776年7月4日に「アメリカ独立宣言」を発布します。
これが、現代も続くアメリカ合衆国の「独立記念日」です。
フランクリンは劣勢のアメリカ軍への援助を得るため、ルイ16世治世下のフランスに渡ります。
老練で巧みな交渉術によって、1778年2月にフランスから援助と独立承認を引き出したばかりでなく、スペインやロシアの武装中立宣言も獲得し、英国を欧州内で孤立させることに成功します。
激しい戦いの末、1783年9月、米英両国はパリで平和条約を締結。米国は独立を達成したばかりでなく、アパラチア山脈からミシシッピ河流域に至る広大な英国領、カナダ沿岸の漁業権までを獲得します。
このとき、フランクリンは、米国側全権として英国との交渉にあたりました。
アメリカ合衆国の独立後も、フランクリンは議会の中心的役割を担い、新生国家中枢の調整役として務めました。
1787年の合衆国憲法制定にも尽力したフランクリンは、1790年4月17日、84歳でこの世を去りました。
彼は遺言で、縁あるボストンとフィラデルフィアの両市に対して、「若い職人が、自身の人生を見習うように」という願いから、遺産の一部を寄付しました。
両市は、フランクリンの寄付金を元手に、若い機械工職人が商売を始めるための貸付財源基金を立ち上げ、現在も尚続いています。
街角の印刷職人から、文筆家、起業家、発明家、科学者、思想家、政治家、外交官になったフランクリンは、まさに「アメリカン・ドリーム」の先駆けといえるでしょう。
フランクリンはその生涯を通じ、知的好奇心と社会貢献に対して活発な働きをみせましたが、常に謙虚な立ち振る舞いであり、自らに権力を集中させることを嫌っていました。
強いリーダーシップを発揮するというよりも、最年長として組織内外の「調整役」に適した人格者だったのです。
それは、ジョージ・ワシントンをはじめとする他の建国の父達や、アメリカ人の理想のリーダー像とは違い、庶民的で目立たない一面もありますが、飾らず親しみやすいインテリのフランクリンは、一般庶民に人気がありました。
特に、貧しい職人の子だったフランクリンが、独学によって様々な知識と機会、そして多くに人の信頼を得て、国家を動かし、歴史に名を残す大人物となったストーリーは、後世のアメリカ人の道徳的理想、アメリカン・ドリームの体現者に他なりませんでした。
「自由と平等と権利」を標榜して建国されたアメリカですが、実際には植民地時代から明確なヒエラルキーが存在しており、ワシントンやジェファーソン等、独立の立役者となった軍人、または政治家たちは、奴隷を多く所有し、広大な農場と資産を持った「大地主」、つまり事実上の貴族階級の出身者でした。
フランクリンのように、自身の才覚と機会のみで出世した人物は、当時では珍しい存在だったのです。
後の世代のことまで考えた彼の生き方は、社会的成功を収めた者の義務としての社会貢献を重んじる、アメリカの美学の模範として、現代も尚尊敬され続けているのです。
フランクリンが描かれたコインは、1948年から1963年にかけて発行されたハーフダラー(50セント)銀貨が有名です。
表面にはベンジャミン・フランクリンの肖像、裏面には大陸会議が開催された、フィラデルフィア市の旧ペンシルヴェニア州議会議事堂、現在の「独立記念館」にある「自由の鐘」と、小さなハクトウワシが描かれています。
尚、表面には「Liberty」「In God We Trust」、裏面には「E Pluribus Unum」という、アメリカ合衆国のモットーが刻印されています。
裏面の自由の鐘をよく観察すると、真ん中にヒビがはいっていることが分かります。これは、コインに傷がついているわけではなく、実際の自由の鐘に大きなヒビが入っていることから、忠実に再現した結果なのです。
このヒビ割れた「自由の鐘」は、植民地時代にイギリスで製造され、アメリカに持ち込まれたものでした。
アメリカ独立200周年の1976年7月4日、イギリスから独立200周年を記念して、新しい「自由の鐘」がアメリカに贈られ、米英の新しい関係を象徴する友好のしるしになりました。(実は1958年に、イギリスはフィラデルフィア市役所に対して「無償でひび割れを修繕する。」と申し出ていたのですが、市役所が「誰も望んでいない」という理由で断っていました。)
この独立200周年記念の際、オリジナルの「自由の鐘」を製造したイギリスの会社前で、約30人のアメリカ人が「ひび割れた鐘の保証」を求める抗議活動を行いましたが、製造元の会社側は、「発送時の梱包のまま、送料を御負担頂けるのであれば、返品に応じます。」と回答し、アメリカ人達を追い返したと言われています。
この自由の鐘がある独立記念館は世界遺産に登録され、フランクリンが描かれている100ドル紙幣の裏面にデザインされています。また、先日流通が開始された新100ドル紙幣には、「自由の鐘」のモチーフが偽造防止技術の一環として利用されています。
ちなみに、フランクリンが活躍した建国当初のアメリカでは、コインの肖像をどうするか、激しい議論がありました。
議会上院は初代大統領ワシントンを描く方針を主張しましたが、下院は旧宗主国英国コインの「国王」を連想させ、共和制の国家には相応しくないとして「自由の女神」を描くことを主張しました。
左から、1セント銅貨(1826年 KM45)、ハーフダラー銀貨(1871年 KM99)、1ドル銀貨(1921年 通称“モルガン・ダラー”)
左から1ドル銀貨(1923年 通称“ピース・ダラー”)、ハーフダラー銀貨(1942年 KM142 通称“ウォーキング・リバティ”)、20ドル金貨(1927年 “ウォーキング・リバティ”別タイプ)
このように、時代やデザイナーの変化によって、様々なタイプの「自由の女神」が存在します。
結局、コインの肖像は「自由の女神」で決着し、その後女神像のデザインを変更しつつも、20世紀前半に至るまでその慣習が継続されました。
また、裏面はアメリカの国鳥「ハクトウワシ」がデザインされましたが、「表面=自由の女神」「裏面=ハクトウワシ」という組み合わせは、銀貨と金貨の上では約1世紀にわたって守られ続けていました。
ちなみに、アメリカの国鳥を決定する際、フランクリンは「勇猛果敢に侵入者を撃退する鳥」という主張を以って「七面鳥」を推していたようですが、ハクトウワシの前に却下されてしまいました。
もし、フランクリンの意見がさいようされていれば、コインの裏面はハクトウワシではなく七面鳥だったのかもしれません。
左からハーフダラー銀貨(1871年 KM99)、ハーフダラー銀貨(1942年 KM142)、20ドル金貨(1927年)
左から1ドル銀貨(1921年)、1ドル銀貨(1923年)、20ドル金貨(1896年)
さらにアメリカのコインには、決まって「Liberty(自由)」という単語が入っていますが、これは1792年に制定された貨幣法に、「鋳貨の表面には、自由という語の刻銘とともに、自由を象徴する図案を入れる」ことを定めた条文がある為であり、自由の女神像とともにコインの上で、アメリカの理念を示すものとなっていました。
現在でもこの慣習はコインの上で継承されており、「Liberty(自由)」と共に「In God We Trust(我々は神を信ずる)」「E Pluribus Unum(ラテン語で“多数から成る一つ”の意味。アメリカ合衆国の国是)」も、全てのコインに刻銘されています。
フランクリンは、節約家であり、勉強家でもあったわけですが、彼の名言に「Time is Money(時は金なり)」という有名な格言があります。まさに、彼の行動原理と信念、そして生き様を端的に表現した一言といえます。
立身出世には常日頃から、自らを厳しく律し、意識的に生活することが必要不可欠であることを、自身の行動と言葉によって説いたフランクリンの教えは、現代の私達にとっても重要な心得となりえるでしょう。
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こんにちは。
10月に入りましたが、秋らしくない、蒸し暑い日が続いております。
くれぐれも御身体にはお気を付け下さい。
さて、今週は前回に引き続いて、「近代コインに描かれた人々」を御紹介したいと思います。
今週はメキシコ皇帝、マクシミリアーノ1世(ドイツ語ではマクシミリアン)に関する記事です。
彼は、欧州列強が世界を舞台に勢力を拡大していた19世紀半ば、故国オーストリアから、大西洋を隔てた遠くメキシコの皇帝に即位しました。しかし、彼の治世と帝国は3年しか持たず、やがて悲劇的な最期を遂げることになるのです。
欧州随一の名門家、ハプスブルク家の皇帝の弟が、なぜ遠い辺境の地の君主となり、彼の地で最期を遂げたのか。
今回は悲劇の皇帝、マクシミリアンに関する内容です。
(Ferdinand Maximilian Joseph )
マクシミリアンは1832年7月、オーストリアのウィーンにてハプスブルク=ロートリンゲン家の、オーストリア大公フランツ・カールの第2子として生を受けました。
彼より2歳年上の兄、フランツ・ヨーゼフ・カールは、後にハプスブルク家の当主となり、フランツ・ヨーゼフ1世としてオーストリア帝国皇帝に即位します。
つまり、彼は欧州随一の名門の生まれであり、大帝国のロイヤル・ファミリーの一員として育ったのです。
物静かで生真面目、保守的な兄と異なり、陽気で社交的、そして自由奔放なマクシミリアンは、しばしば政治的思想を巡って兄と対立することもありましたが、少なくとも幼少時代から少年期にかけては仲の良い兄弟だったといわれています。
1848年、フランスで勃発した二月革命の余波を受け、3月にオーストリアのウィーンでも騒乱が発生。
この混乱を鎮める為、ナポレオン後の欧州外交において多大な影響力を保持していた老宰相メッテルニヒが失脚します。
この1848年という年は、フランス、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリア、イギリス等、欧州各地で政治改革を求める自由主義の運動が噴出した年であり、ナポレオンの失脚後の欧州勢力均衡、ウィーン会議以降続いていた「ウィーン体制」が崩壊した年といわれます。
これ以降、各国で王族や貴族を中心とする保守主義と、市民の政治参加と自治を求める自由主義とが激しく対立するようになります。
1848年の混乱の責任をとる形で、マクシミリアンの叔父であるオーストリア皇帝フェルディナント1世は退位し、代わって弱冠18歳の兄フランツ・ヨーゼフが皇帝に即位します。
若くて堅実な将校皇帝を、帝国国民は期待の念を以て歓迎した。
皇帝の弟となったマクシミリアンは、1854年にオーストリア帝国海軍司令長官になり、1857年にはオーストリア支配下のイタリア、「ロンバルディア=ヴェネト王国」〈現在のミラノ、ヴェネツィア包括するイタリア北部)の副王〈総督に相当。国王は兄フランツ・ヨーゼフが兼ねる。尚、当地での王名は「フランチェスコ・ジュゼッペ1世」)に任命されます。
自由主義に傾倒するマクシミリアンは、赴任地での政策に自らの意向を反映させます。彼は現地のイタリア人の政治参加を容認し、イタリア市民寄りの宥和政策を採りました。
しかし、このことは兄であり、名目上王国の国王であるフランツ・ヨーゼフ1世との摩擦を引き起こす原因となりました。
画像は、オーストリア帝国で1858年に発行されたターラー(ターレル)銀貨。(KM2244)
33mmで重さは18,51g。裏面にはハプスブルク家の象徴、「双頭の鷲」が描かれている。
フランツ・ヨーゼフ1世が保守的であることは前述しましたが、それ以上に彼の立場が自由主義を容認させるものではありませんでした。
当時、彼の統治していたハプスブルク家の帝国内には、オーストリアのドイツ人やイタリア人だけでなく、ハンガリー人、クロアチア人、ウクライナ人、ボヘミア(チェコ)人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロヴェニア人、ルーマニア人、ユダヤ人等、多様な民族が居住していました。
市民の参政権拡大は、すなわち民族主義の台頭と民族自決運動につながり、やがては内戦と帝国の崩壊という悲劇的末路に至る恐れがあります。
その為、皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世は、自由主義を容認することはできず、実の弟ならば尚更だったのです。
1859年、マクシミリアンはロンバルディア=ヴェネト王国副王を解任され、アドリア海のトリエステに居を移しました。
「副王」から「オーストリア大公」となり、暇を持て余していたマクシミリアンは、兄との確執を継続させつつも、当地で植物学の研究に集中しながら過ごしていました。
そんな折、マクシミリアンのもとにメキシコの保守派貴族とフランスのナポレオン3世から、「メキシコ帝国皇帝」就任の打診があります。
画像は、1858年発行の100フラン金貨(KM786,1)
35mmで、重量は32,19g。
当時、メキシコは自由主義派と保守派による内戦の最中にあり、保守派の大地主や貴族などの富裕層は欧州の列強に支援要請を行っていました。
第二帝政期フランスのナポレオン3世は、産業革命で成長した自国の勢力圏を海外に求めており、保守派へのテコ入れでアメリカ大陸に足場を築こうと画策します。
さらに、メキシコの隣国アメリカが南北戦争に突入し、国外の問題に介入できないこともあり、外交得点を狙うナポレオン3世にとってはうってつけだったのです。
フランスとメキシコの保守派双方の思惑と利害は一致し、フランス軍の介入によってメキシコの首都、メキシコシティに「メキシコ帝国」を建設し、保守派が政府中枢に入ることで保守派の権益を守ることを計画しました。
このとき、皇帝の座に相応しい名門の出自として、ハプスブルク家の皇帝の弟、マクシミリアンに白羽の矢が立ったのです。
因みに、当時欧州の名門家の出身者を、その国との繋がりや所縁に関係なく君主の地位に就けることは、特に珍しいことではなく、マクシミリアンのメキシコ皇帝打診も「ハプスブルク」のブランド力が決め手でした。(19世紀だけでも、ベルギー、スペイン、ギリシャ、アルバニア、ルーマニア、ブルガリアの国王に、ドイツやイタリアの王族が就いています。)
当初、マクシミリアンは迷ったようですが、帝位への欲求と、新大陸で植物学の探索ができるという知的好奇心に揺り動かされ、メキシコ行きを決断しました。
この決定には、マクシミリアンの妻、シャルロッテが最も喜んだと伝えられています。
彼女はベルギー王国初代国王、レオポルド1世の王女で、1857年に二人は結婚しました。
プライドの高い彼女は、フランツ・ヨーゼフ1世の妻でバイエルンのヴィッテルスバッハ公爵家出身のエリザベートと仲が悪かったようです。
特に公爵家出身のエリザベートが「皇后」で、王家出身の自分が「大公妃」であることを不満に感じていたようです。(エリザベートの飼い犬が、シャルロッテのプードルを噛み殺した(!)事件も二人の不仲を助長したようですが・・・・。)
その為、自らも「皇后」の地位を得ることができ、メキシコ行きに賛同したのです。
マクシミリアンの兄フランツ・ヨーゼフ1世は、「オーストリアの皇位継承権を放棄する」ことを条件として、彼のメキシコ行きを認めました。
1864年4月10日、マクシミリアンはメキシコ帝国皇帝「ドン・マクシミリアーノ1世」として彼の地で即位します。妻のシャルロッテも、メキシコ皇后「カルロータ」として即位しました。
目下内戦中のメキシコにあって、本来自由主義的傾向の強かったマクシミリアーノ1世皇帝は臣民のため、貧民救済や農民への「徳政令」、信仰の自由の保障や農地改革、人身売買の禁止等の措置を支持しました。
これは、自由主義派に対する和解に向けたアプローチでもありましたが、政権を支える保守派からは「自由主義的」とみなされ、徐々に皇帝は支持を失っていきます。
また、自由主義勢力の指導者であり、後にメキシコ大統領になる先住民出身の聖職者、ベニート・フアレスはマクシミリアンとその後ろ盾のフランスを徹底的に敵視し、決して妥協する姿勢を見せませんでした。地方の農民はフアレスを支持しており、マクシミリアーノ1世の帝国政府は、メキシコ駐留のフランス軍によって支えられたものであり、事実上フランスの傀儡政権でした。
現在、彼はメキシコの英雄とされ、フアレスの名を冠した大学や国際空港もある。
しかし、帝国政権内でも孤立していたマクシミリアーノ1世にさらなる追い打ちがかかります。
1865年4月に南北戦争を終結させ、国内復興を進めていたアメリカが、フアレス支援を本格化し始めたのです。
アメリカは、ナポレオン3世のフランスにメキシコ撤兵を要求。フアレスの自由主義勢力もその勢いを増し、保守派の劣勢は濃厚になっていました。
また、欧州ではビスマルクに率いられたプロイセンがドイツ統一に動き出しており、オーストリアもフランスも新大陸の問題どころではなくなっていたのです。
1866年、フランス軍は撤兵を開始。
皇后シャルロッテは、夫と帝国への援助要請の為、単身で欧州に渡り、フランス、オーストリア、ベルギー等、関係各国を回りますが、どこからも援助を得ることが出来ず、援助要請の為に訪れたローマのヴァチカンで発狂。
そのまま、故国ベルギーに移送され、第一次世界大戦を経て1927年に死去するまで幽閉されます。
マクシミリアーノ1世は、フランス軍の撤退に伴い、周囲や欧州の王家から欧州への脱出を勧められますが、これを頑なに拒否。
彼は傀儡とはいえ、「メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世」としての誇りを持ち、メキシコにその身を捧げる覚悟だったようです。
また、自身に忠誠を誓い戦った将校や側近を見捨てることは心苦しかったのでしょう。このまま帰郷しても、オーストリアの皇位継承権は既に放棄しており、オーストリア大公の地位もありませんから、メキシコでの再起を望んでいたと思われます。
しかし、1867年5月、彼はついにフアレスの軍に捕えられ、裁判にかけられ「死刑」を宣告されます。
欧州やメキシコ国内からも彼の助命を求める声が多く寄せられましたが、フアレスが自軍への示しの意味から、決して寛容な姿勢をみせなかったこと、マクシミリアーノ1世が裁判中にあっても、「メキシコ皇帝」として振る舞い続けていたこと等があり、死刑が覆ることはありませんでした。
1867年6月9日、マクシミリアーノ1世は、二人の将軍と共に銃殺刑に処せられました。34歳でした。
彼の処刑のニュースは、欧州にも衝撃をもたらし、当時の印象派画家マネはこの事件を題材に絵画を描いています。
大きな帽子を被った人物がマクシミリアーノ1世。
メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世を描いたコインは、「50センタヴォ銀貨 (KM387)」 「1ペソ銀貨 (KM388)」 「20ペソ金貨 (KM389)」の3種類があります。
メキシコ帝国下の1864年から1867年まで、従来のメキシコ通貨「レアル」とは異なる貨幣制度が導入されていました。
メキシコ共和国:8レアル=メキシコ帝国:1ペソと設定され、1ペソは100センタヴォに相当するとされました。
その為、メキシコ共和国時代の8レアル銀貨と、メキシコ帝国の1ペソ銀貨は、共に27,07gで、銀含も903/1000と、デザインや発行元、額面や貨幣単位は違えど、同じ規格で鋳造されていたのです。
鋳造場所は、50センタヴォ銀貨と20ペソ金貨が共にメキシコシティ・ミントにて。1ペソ銀貨は、メキシコシティに加えてグアナファトとサン・ルイス・ポトシでも鋳造されています。
尚、それぞれのミントマークは、「Mo:メキシコシティ」 「Go:グアナファト」 「Pi:サン・ルイス・ポトシ」となっています。
50センタヴォ銀貨と20ペソ金貨は1866年銘のみの発行。1ペソ銀貨は1866年と1867年の発行銘があります。
つまり、後ろ盾だったフランス軍の撤兵、皇帝の逮捕・処刑という、帝国の崩壊の最中に発行されたコインだったわけです。帝国が崩壊し、皇帝が処刑されるのと同じ時期に、皇帝の肖像を描いた本格的な帝国のコインが鋳造されたのは、何とも皮肉な気がします。
ミントマークは「M:メキシコシティ・ミント」による鋳造。
37,2mmで重量は27,07g。SV903/1000。
表面は、メキシコ帝国皇帝マクシミリアーノ1世が描かれ、裏面には2頭のグリフィンに支えられたメキシコ帝室紋章が描かれている。
ところで、マクシミリアーノ1世は処刑前、自らを撃つ狙撃手に金貨を手渡し、「どうか顔は撃たないで欲しい。心臓を撃ち抜いてくれ。」と頼んだという逸話が残っています。しかも、そのことによって返って狙撃手に顔面を狙い撃ちされ、マクシミリアーノ1世は顔を撃ち抜かれてしまった・・・・という逸話もあります。
この逸話が真実か否かはさて置き、この時本当に狙撃手に金貨を手渡したとするならば、自らの肖像が描かれた20ペソ金貨である可能性は高いと思われます。
自らの横顔を描いた金貨を、自らを手に掛ける者に渡すというのは、如何なる心境だったのでしょう。それでもし、最期の願いも聞き届けられなかったなら・・・・・・・・・。
正に「悲劇の皇帝」というべきマクシミリアーノ1世ですが、彼の死の知らせを聞き、大いにショックを受けた人物の一人が、実兄のフランツ・ヨーゼフ1世でした。
政治思想では対立した兄弟ですが、やはり実の弟を心配していたのでしょう。
しかし、フランツ・ヨーゼフ1世はこの後、実弟のみならず、一人息子の皇太子ルドルフを心中で、妻のエリザベートを暗殺で、甥で帝位継承者のフランツ・フェルディナントを暗殺で失うことになります。
在位68年という在位期間を誇り、「帝国の不死鳥」と呼ばれたフランツ・ヨーゼフ1世でしたが、彼の周囲には不幸な死が付きまとっていました。
冒険的な弟と異なり、堅実な兄は長命長期在位を実現しましたが、彼もまた、弟と同じく「悲劇の皇帝」だったといえるでしょう。
椅子に座っている人物は兄フランツ・ヨーゼフ1世。
その直ぐ後ろに立つのは弟マクシミリアン。
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こんにちは。
今週から10月がスタートしました!!
秋らしい日が続いておりますが、皆様、御体にはくれぐれもお気を付けください。
さて、今月から、これまでのブログ記事とは異なる視点からコインをご紹介させていただく新シリーズを開始したいと思います。
申し遅れましたが、このシリーズの担当をさせていただきますのは、「ワールドコインギャラリー」スタッフの内橋です。何卒宜しくお願い致します。
先月までは、「古代ギリシャコインの世界」をお伝えしていました。
今回からは、時代を変え、対象地域も拡げて、「近代コインの世界」をお伝えしたいと思います。
通常、コイン業界では、以下の名称・区分けで取引が行われています。
①古代コイン : 古代ギリシャ・ローマ~西暦700年頃
②クラシックコイン : 700年頃~1200年頃
③中世コイン : 1200年頃(神聖ローマ マクシミリアン1世)~1500年代
④近世コイン : 1600年代~1800年代
⑤現代コイン(モダンコイン) : 1900年代~第二次世界大戦~現在発行貨
また、大きく分類すると、
①クラシックコイン : ターラー銀貨~
②マイナーコイン : イギリス・クラウン銀貨~
にも分けられます。
今回のシリーズで、私が取り上げるのは④近世(近代)コインに描かれた人物についての紹介です。
17世紀~19世紀にかけて、鋳造技術は大きく進歩し、人物の肖像もより正確なものになりました。この時代のコインを集めるということは、同時代の君主の肖像を収集することといってもよいでしょう。
外国コインに興味がある方、そうでなくても世界の歴史に興味がある方は、コインに描かれた人物を通して、世界史、またはコインそのものに興味を持つきっかけになれば幸いです。
さて、第1回目は、ハワイ王国の国王、「カラカウア1世」に関する記事です。
日本ではマイナーな国と人物ですが、実は日本と深い関わりがある人物なのです。
第1回目で馴れていないもので、少し長い記事になっていますが、御付き合い下さると幸いです。
それでは、宜しくお願い致します。
カラカウア1世(David Kalakaua)は、1874年2月13日から1891年1月20日の間在位した、ハワイ王国の第7代国王でした。
彼は、日本でも童謡等でその名が知られるカメハメハ大王(カメハメハ1世。1810年、カウアイ島を併合してハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建設した。)が興したハワイ王国の国王として、同国に17年近く君臨しました。
あまり知られていませんが、当時のハワイ王国は1840年に公布された「ハワイ憲法」のもと、選挙による二院制議会が国政を担う自由主義的立憲君主国でした。
つまり、日本よりも早く憲法と議会を持ち、立憲国家となった国だったのです。
しかしその実態は、王の側近として宮廷に出入りし、ハワイ国内で事業を展開する白人入植者によって立法・経済を牛耳られていた体制でした。
そもそも、初代国王カメハメハ1世がハワイ各地の首長を屈服させ、統一王朝を築くことができたのは、アメリカ、イギリスなどの白人がもたらした火縄銃、大砲をはじめとする火器と、その使用を可能にした洋式兵法のおかげ。
その点は戦国時代や幕末期の日本の状況とよく類似しているといえるでしょう。
しかし、戦国時代や幕末期の日本と決定的に異なっていた点は、ハワイ人はモノや技術、知識のみならず人材そのものまでを西洋から取り入れていたということ。
日本は良くも悪くも保守的で、武士の上下関係が確立していたので、あからさまに異質な人材を組織に招き入れ、重用することは滅多にありませんでした。特に、人種・宗教・言葉・風習の異なる外国人なら尚更でしょう。
さらに、日本人は火縄銃を輸入した後、自分たちで生産したり、日本流に改良したりしていることからも分かるように、外国から取り入れたモノや知識、技術をそのまま流用せず、手を加えて「自分たちのモノ」にすることで、日本国内における生産→流通→消費→改良→生産の経済サイクルに上手く組み込ませていた訳です。
一方、ハワイ人は、未知の道具や技術を持ってくる白人そのものをそっくりそのまま社会に取り入れました。 確かにその方が手間をかけることなく、手っ取り早く近代化という「実」を手にすることができますから、見方によってはかなり合理的といえるでしょう。
しかし、それが王朝の慣習と化したことで、王国の白人依存は決定的なものとなります。王国の運営・維持には白人の存在が欠かせないものになり、彼らの意向が各種政策に大きな影響を与えるようになりました。
白人達(主にアメリカ人)は、太平洋上の重要な寄港地としてのハワイを重視していました。その為、新たなビジネスチャンスを求めて多くの白人がハワイに流入。王国建設当初から王朝の中核にいた白人たちは、積極的に彼らを受け入れました。
そして、社会・文化・経済全般に強い影響力を持った白人層は、ハワイの経済・社会を自分たちの都合の良い形に改造します。
例えば、1850年の「クレアナ法」は、ハワイの伝統的な土地共有システムを否定し、個人(外国人も含む)による土地売買・所有を認めるものでした。
しかし、この結果1862年までに、ハワイの土地の75%が外国人の所有地となるなど、ハワイの伝統的社会秩序・経済、そして国土そのものさえも、実質的に白人に侵食され続けたのです。(有名なワイキキも、この時期に外国人の所有地になっています。)
そのような状況下で即位したカラカウア1世は、この白人依存体制からの脱却を図るべく、様々な改革を試みます。
その代表例が、ハワイ文化の復興、「フラダンスの復活」です。
フラは11世紀以降、王家や首長などの伝承をもとに作られた歌に合わせる形で振付が加えられたと考えられていますが、初期のフラは現代の私達が連想するような、ゆるやかで明るいものではなく、神官の管理の下、厳かで力強く、笑顔や愛嬌を見せない、極めて儀式色の強い舞踊でした。
19世紀初頭、ハワイに移住し、このフラを見た米国人宣教師は、裸で腰を振る舞踊は「原始的かつ野蛮」であるとして王朝に働きかけ、1820年にフラを禁止させます。
以後50年以上にわたり、ハワイではフラダンスが禁止されていたのです。
カラカウア1世はこのフラダンスを復活させようと試みます。フラに欠かせない詠唱として、ハワイ創世神話『クムリポ』を編纂した他、自らの宮殿で催した宴会で披露しています。
因みに、彼は妻の為に造営したオアフ島ホノルルのイオラニ宮殿で毎晩のように盛大な宴会を催していました。
美食と酒、そして芸能をこよなく愛したことから、現地では「メリー・モナーク」(『愉快な王』の意)と呼ばれており、現在ハワイで毎年開催される世界最高峰のフラの祭典は「メリー・モナーク・フェスティバル」と呼ばれています。
尚、彼は多くの歌を作詞しており、現在のハワイ州歌も彼による作詞です。
ハワイ王朝終焉の舞台となったこの宮殿は、現在、「米国国内唯一の王宮」として観光名所になっている。
彼が毎晩、この宮殿において催した宴会で披露されたフラは、初期のフラにアメリカのポップミュージックや西洋楽器を取り入れるなどした、「ショー」としての要素が強い、インフォーマルな舞踊に生まれ変わったものでした。
これが、現在私たちがよく知る、柔らかくて明るい「フラダンス」の原型になったのです。
この宴会時のフラで取り入れられたポルトガルの弦楽器は、後の「ウクレレ」として、ハワイ音楽を象徴するものになりました。
また、彼は初代ハワイ王、カメハメハ大王の偉業を称え、イオラニ宮殿前をはじめ、ハワイ国内各地にカメハメハ大王の像を建立しました。これも、今やハワイ観光の見所の一つとされています。
背後は旧ハワイ州最高裁判所。
このように、白人からの文化的独立を目指したカラカウア1世でしたが、一方で外交によって自国の独立を確保しようともしていました。
1881年から世界周遊旅行に出かけたカラカウア1世は、明治期の日本も訪問し、当時の明治天皇や井上馨とも会見しました。実は、彼は日本の歴史上初の「来日した外国国家元首」でもあるのです。
日本政府との交渉の中で、日本人移民の要請を行い、労働契約移民制度の合意を取り付けるなど、一定の成果を上げました。
しかし、日本の皇室とハワイの王室による政略結婚と、それに伴う「日本・ハワイ国家連合」構想の打診は、地理的・文化的要因と米国の反応を気にする日本側によって、その場で断られてしまいました。
米国人が多く住み、米国人の意向が政策に大きく反映されるハワイは、既に列強等国際社会から「米国の属領」とみなされ、外交政策でもその裁量には制限がかけられていました。(世界周遊旅行の折にも、米国人顧問が王の監視役として随行しています。)
彼の治世下で、米国とハワイは互恵条約を結びますが、それは米国海兵隊に真珠湾(パールハーバー)の独占使用権を認めさせるものでした。
日本との連携によって、ハワイ、そして太平洋上の覇権を米国に握られまいとした王の思惑は叶わず、後にその太平洋を舞台にした日米の戦争のきっかけとなった地を、米国に貸すことになるとは、歴史の皮肉としかいいようがないでしょう。
もし、カラカウア1世の提案に日本側が応じていれば、その後の歴史は大きく変わっていたのかもしれません。
帰国後の1887年、米国人住民による武力抗議が発生。これにより新憲法(通称、ベイオネット憲法)が採択され、米国人参政権が一層拡大されたのに対し、王権は制限され、国王の政治的実権は弱体化させられました。
1891年、カラカウア1世はアルコール依存症によって失意の内に崩御。54歳でした。
その後、彼の妹であるリリウオカラニが女王に即位しますが、1893年1月に米国人住民と親米派によるクーデターが勃発。
王朝は転覆させられ、カメハメハ大王から続いたハワイ王国は終焉しました。
尚、このクーデターの際に、リリウオカラニ女王が居を構えるイオラニ宮殿周辺を制圧し、戒厳令を布いたのは、親米派の要請を受けて上陸した真珠湾駐留の米国海兵隊でした。
カラカウア1世が描かれたコインは、「1ダイム(10セント)銀貨」 「クォーターダラー(25セント)銀貨」 「ハーフダラー(50セント)銀貨」 「1ドル(ダラ)銀貨」の4種類で、全て1883年銘のみの発行です。
表面にはカラカウア1世の肖像、裏面には当時のハワイ王国国章が描かれている。
基本的に当時のアメリカの銀貨とほぼ同じ規格で鋳造されており、額面もドル表記であることから、当時のハワイ経済を事実上支配していた米国人を意識して製造されたものと推察されます。
※尚、今回ご紹介したカラカウア1世のコインの内、「1 ダイム銀貨(稀少貨)」と「クォーターダラー銀貨」「ハーフダラー銀貨」は、ワールドコインギャラリーに在庫が御座います。
お求めの場合は、ご注文を受け付けさせていただきますので、何卒宜しくお願い致します。
No651976 1/4$ ¥25.200
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=651976
NO651914 ダイム貨 ¥31.500 希少貨
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=651914
ハワイにおける官約日本人移民のきっかけを作るなど、様々な面で日本との関係も深いカラカウア1世ですが、彼の復活させたフラは、ハワイアン・アイデンティティの象徴となり、今や南国の楽園「ハワイ」のイメージそのものといっても過言ではありません。
文化振興の面で多大な功績を残した「愉快王」カラカウア1世は、米国によるハワイ併合後も、伝統文化と共にハワイの人々の心に残り続け、今もなおハワイ人に愛されているのです。
いかがだったでしょうか。
今回、初めてとはいえ、かなり長くなってしまいました。
ここまでお読み下さり、誠にありがとうございます。
今後、少しずつシリーズを更新し、近代コインに描かれた人物と時代背景をご紹介していきたいと思いますので、何卒宜しくお願い致します。
次回もお楽しみに。
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こんにちは。
いよいよ今年の9月も、残すところあと数日となりました。
月日が経つのは本当に早いもので、これまでお届けしていた「ギリシャコインの世界」シリーズも、今回で一応の最終回を迎えることになりました。
これまでお読みくださった皆様に、厚く御礼申し上げます。
さて、今回の記事は前回に引き続き「地域別にみるコインの特徴」第3弾です。
今回は、現在のトルコ、「小アジア」のギリシャコインの歴史と特徴をお届け致します。
尚、前回の冒頭でもお伝えしました、『ワールドコインギャラリー』の「2周年謝恩セール」は、9月29日(日曜日)までとなっておりますので、そちらも是非ご利用ください!!
それでは、今回もよろしくお願い致します。
小アジアは、地中海世界におけるコイン誕生の地である。
エレクトラムを使って最初にコインを造ったのは、リディア人なのか或いはイオニアのギリシャ人なのか、現代の我々には知る由もない。しかし、リディア人には、豊富なエレクトラムの鉱床を持っていたという強みがある。
ごく初期の造幣では、エレクトラム以外の金属は使われていなかったからだ。
後にリディア人は、エレクトラムに代えて純粋な金銀を使って貨幣を造り、複本位制を最初に導入し、通貨に関して独創性を発揮した。
一方、イオニアのギリシャ人が銀貨に至るまでにはまだ時間がかかる。こうした点が、イオニアのギリシャ人がコインの発明者となることに不利に作用しているのであろう。
最初のエレクトラムコインの正確な年代を示すことは不可能である。数少ないが、確実性のある証拠を基にした解釈によると、紀元前7世紀の後半、長い時間をかけてエレクトラムコインの最も初期の発展があったようだ。
最初のコインには特徴的な様式は無かった。しかし、紀元前6世紀になると、経験を積むことで生産技術が進歩し、表面に巧みな彫刻が施されたタイプが登場してきた。だが、裏面には一つ或いは数個の四角形か細長い穴があるだけであった。両面に独特なデザインのあるコインが登場するのは、さらに1世紀を経てからだった。
初期のコインは、それがどの造幣所で造られたのかを特定するのは難しい。刻銘があるものは稀で、現在分かっている数少ない刻銘も都市より個人名を表している。
表面のデザインを、造幣所の紋章という観点で解釈しようという試みもなされてきた。
確かに、キジコスのマグロのように、それらを考案した都市を表そうとしたものもあった。
だが、ほとんどのものは、おそらく治世者または造幣所の役人の私的な紋章であった。ハリカルナソスの造幣所の作であると考えられている、有名なエレクトラムのスターテルには、草を食べている鹿の上に、「私はphanesの紋章である」という刻銘がある。
リディア王が発行したと確認されたコインのほとんどが“Third-Starter”であり、それらはかなり大量に鋳造された。独特な鼻のこぶを持つライオンが描かれ、ミレジア(リディア)の重量基準に基づいていた。約14,2gのスターテルを造りだしたこの基準は、南イオニアの造幣所で用いられたが、はるか遠方の北部地域ではフォカイア基準の16,2gのスターテルが広く一般に使われていた。
リディアのクロイソス王は、紀元前560年から紀元前546年まで王位に就いていたが、エレクトラムを止めて純粋な金貨・銀貨に基づいた複本位制を導入した。
キュロス王率いるペルシャ帝国は、リディア王国を征服したが、クロイソス王が導入したコインを発行し続けた。
紀元前6世紀の終わり頃、ペルシャの弓の射手をコインに描くために新しいデザインが導入された。タリウス1世の後、金貨は「ダリック」、銀貨は「シグロス」(ダリックの1/12の価値)として知られるようになった。
小アジアのペルシャコインは、主要なデザインをほとんど変えずにアレキサンダー大王の時代まで続いた。
紀元前545年、イオニアのギリシャ都市もペルシャの支配下に置かれたが、コイン(主に銀貨)の生産にはあまり影響がなかった。
造幣所の特定認は、初期エレクトラムコインの時に比べてずっと簡単である。キオステラオス、サモス、フンドス、ロドスのカメリオ及びその他の多くの都市のコインは、確実にそれらが出所だということがわかる。
南では紀元前6世紀の終わり頃に銀のスターテルがリユキアで鋳造されたが、キプロスのコインは、もっとずっと早くに生産が開始されていた。
紀元前499年、ペルシャ支配に対するギリシャ都市の反乱がイオニアで起き、6年間続いた。
イオニアでの反乱は失敗に終わったが、これがギリシャとペルシャの壮大な戦いの始まりとなった。この戦いは、紀元前311年にアレキサンダー大王がペルシャ帝国を征服するまで決着がつかなかった。
イオニアのギリシャ都市の反乱は、小アジアにおけるコインのアルカイック期を終わらせるのに都合のよい区切りとなった。
紀元前5世紀前半、小アジアのギリシャコインはアルカイック期に確立された様式を守っていた。
しかし、アテネの影響が増大するにつれて、この地域のコインの発展は制限されるようになり、紀元前450年頃からほとんどの銀貨の生産が停止してしまった。
おそらく、これはアテネの『コイン令』の結果であろう。しかし、キジコス、レスボス、フォカイアのエレクトラムコインは中断せずに続いた。
紀元前5世紀の終わり頃、アテネの勢力が弱まるにつれて、多くの都市が独自のコインの発行を再開した。新たなコインの小さな流れは、紀元前404年にアテネが崩壊すると大きな潮流となった。
17,2gのテトラドラクマに基づくアテネのアッティカ重量基準は、15,6gのテトラドラクマに基づくチアン(ロドス)の重量基準を支持する新たに自由になった都市では排除された。
アレキサンダー大王の時代に至る紀元前4世紀は、小アジアにおいて貨幣が相当に発展した時期であったが、またペルシャの勢力がこの地域で強くなった時期でもあった。
ギリシャの都市の多くは、素晴らしい様式のコインを生産し、アクイメネス朝に忠誠を誓った地域でさえ、肖像画コインの初期の発展を含めて、数々の興味深いコインをかなり多く発行した。
ダリック金貨とシグロス銀貨からなるペルシャコインは、引き続き豊富に生産されたが、それらはおそらくサルデスのリディア造幣所のものであろう。
紀元前334年~紀元前311年のアレキサンダー大王のペルシャ征服は、歴史の大きなターニングポイントであった。この大事件をきっかけに、ロドスを例外として、小アジアの都市の自主コインは姿を消した。
多くの重要な造幣所は、自主コインを発行する代わりに、アッティカ基準に基づくアレキサンダー大王の新しい帝国コインを鋳造するように依頼された。
表面には獅子の皮を被り、「ヘラクレス」に扮するアレキサンダー3世
裏面には鷲をその手に泊らせるゼウス神坐像が描かれている。
紀元前3世紀は、偉大なヘレニズム王朝の全盛期であり、力のあるギリシャ系王達が、小アジアの多くの都市を支配しようと互いに競い合っている時代であった。この時代には、それぞれの都市が自分達の独立を主張する機会はほとんどなかった。
主張できる機会が稀にあると、都市の名か都市のシンボルを加えながら、アレキサンダー大王のコインを想起させるテトラドラクマ貨を鋳造した。
紀元前2世紀の初め、ローマの勢力に押されて諸王国の力が急激に衰えると、ギリシャ及び小アジアでそれぞれの都市のコインがめざましく復活した。まるで新たに得た彼らの自由を祝うかのように、西の沿岸地帯の有名な都市の多くが、時として驚くほど見事な様式を持つ大きな素晴らしいテトラドラクマ貨を鋳造した。
しかし、この自由は見せかけに過ぎなかった。かつてのヘレニズム王国の領土に対するローマの支配が強まるにつれて、各都市は金貨・銀貨を発行する特権を徐々に失っていった。半自治時代の最終段階では、小アジアの都市は、青銅コインしか鋳造できなくなった。
(サー・ローレンス・アルマ=タデマ 画 1901年)
本日は以上となります。
これまで、「ギリシャコインの世界」シリーズをお読みくださり、誠にありがとうございました。
来月、10月以降は、少し異なる趣向からコインのご紹介をさせていただきたく思います。
お楽しみに!!
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資料:『Greek Coins and Their Value』
Seaby社刊/David R Sear著/SPINK社発行
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こんにちは。
今週は台風が日本列島を通過し、朝晩が涼しくなってきたりと、いよいよ秋らしくなってきましたね。
季節の変わり目は体調を崩しやすいので、御身体には気をつけてお過ごし下さい。
さて、既にご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、現在、『ワールドコインギャラリー』では「2周年謝恩セール」を開催中です。
おかげ様で、ワールドコインギャラリーが2K540の現店舗に移転してから、この度2周年を迎えることができました。
ここに、厚く御礼申し上げます。
そこで、皆様の日頃の御愛顧に感謝の気持ちを込めまして、9月14日(土)~9月29日(日)の間、当店では商品全品を、表示価格の10%OFFにさせて頂きます。
古代ギリシャコインをはじめ、新入荷のコインも多く取り揃えておりますので、この機会に是非、ご利用いただけますよう、宜しくお願い致します。
商品情報等、詳しくはこのページの一番最後のリンクからご覧ください。
今回は初っ端から宣伝になってしまいましたが、今回は前回に引き続き、地域別にみるギリシャコインの歴史と特徴をお届けします。
本日はギリシャ世界の中心である、北ギリシャ(マケドニア等)、中央ギリシャ、ペロポネソス半島の略史と、そこで発行されたコインの特徴を御紹介致します。
それでは、宜しくお願い致します。
紀元前8世紀から紀元前7世紀の間、ギリシャからの移民がマケドニアとトラキアの沿岸地域に定住した。
内陸部にはかなりの数の土着民族が住んでいたが、彼らはギリシャの諸都市と長期にわたって接触するうちに、部分的ではあるがだんだんとギリシャ化していった。
アイガイ市を中心とするマケドニア王国は、その初期にはほとんど影響力を持たなかったが、アレキサンダー1世(紀元前495年~紀元前454年)のもとで富と領土を大きく拡大した。
紀元前357年、フィリップ2世(紀元前359年~紀元前336年)は、紀元前436年にアテネ人が建設したパンガイオン鉱山近くの植民市アンフィポリスを占領し、マケドニア王国を精力的に拡張し始めた。
紀元前348年、フィリップ2世は、カルキディケ同盟の首都オリントスを滅ぼし、カルキディケ半島のギリシャ諸都市の勢力をついに打ち破った。
ここでは、中央ギリシャ各地、各都市別の略史とコインを御紹介します。
ギリシャ諸都市の中で最もよく知られたこの都市は、紀元前510年の民主政府の樹立をきっかけに、有名な“フクロウ”(表面にアテナ神の顔、裏面にフクロウが描かれた「テトラドラクマ貨」)のコインの生産を開始した。
このコインは、紀元前580年代に特に大量鋳造された。この時期は、ラウリオン銀山で莫大な量の鉱石が発見され、ペルシャとの戦いに備えてアテネ海軍の力を増強する時期と一致していた。
アテネは、ペルシャとの戦争に勝利した後、エーゲ海の覇者となって文化・政治の中心となった。しかし、紀元前431年から、紀元前404年まで延々と続いたスパルタとのペロポネソス戦争によって富をすり減らしてしまった。この戦争は、アテネの大敗で終わった。
アテネは、紀元前4世紀に再び繁栄を取り戻したが、かつてのような国際舞台における影響力を二度と取り戻すことはなかった。
アテネは、ヘレニズム時代にはマケドニアに、その後はローマに従属させられた。
コリントスは、古代ギリシャで最も豊かで重要な都市の一つで、ペロポネソス半島と中央ギリシャをつなぐコリントス海峡を支配することで富を得ていた。また、シラクサ・コルシカ・レウカス島等、多くの重要な植民都市の母市でもあった。
コリントスの造幣局は、アテネに敵対したペロポネソス戦争の期間を除いて、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて活気があった。
紀元前308年から306年まで、コリントスはエジプトのプトレマイオス1世の軍隊によって占領された。その後まもなく、コリントスで銀コインは生産されなくなった。
紀元前3世紀、コリントスはアカイア同盟に加わるが、その後ローマと争い、紀元前146年にローマのマシウス執政官によって完全に壊滅させられた。
アッティカとアルゴリスの海岸線の中間に位置する島国エイギナは、おそらく、ヨーロッパのギリシャ世界で初めてコインを鋳造した都市である。
エイギナの技術は、すぐにアテネ・コリント・エウボイアなどの主要な都市に伝わった。
約12,6gのディドラクマに基づくエイギナの重量基準は、クレタ・小アジア・ギリシャの広範囲の地域で採用された。
エイギナは、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて大きな影響力を保持したが、ペルシャとの戦争後はアテネの陰に隠れてしまった。その後、かつてのようなギリシャ世界で最も重要な商業都市という地位を、二度と得ることはできなかった。
紀元前456年、アテネがエイギナを征服し、その25年後に住民は島から追放された。しかし、紀元前404年のアテネの崩壊後、エイギナに返還された。
この大きな都市は、アテネの大敵であった。そして、ペロポネソス戦争の間はスパルタを支援した。後に、テーベは、以前の同盟国を打ち負かし、ギリシャで最も影響力のある国になった。(紀元前371年)
この地位は長続きせず、紀元前338年に、アテネとテーベの連合軍を決定的に打ち破ったマケドニアのフィリップ2世によって奪われてしまった。2年後、テーベは、アレキサンダー大王によって完全に壊滅させられた。
カツサンドラによって部分的に復興したが、その政治的影響力を再び取り戻すことはなかった。
紀元前197年、ローマのフラミ=ウス将軍がマケドニアのフィリップ5世に対して圧倒的な勝利をおさめた後、コリントでギリシャ人の自由が宣言され、新しい自治発行コインの幾つかが鋳造され始めた。
テッサリアの名において発行されたコインは、おそらくラリッサで鋳造されたものであろう。
ペロポネソス半島は、独自のコインをなかなか造らなかった。ペロポネソス半島の需要は、エイギナ島の造幣所が流通させた大量の銀のスターテルで十分だったのである。
紀元前5世紀になると、エイギナの重量基準(約12,6gのディドラクマスターテル)を基にしてペロポネソスコインを造り始めた。だが、オリンピックの祭りに関連して素晴らしいスターテルを鋳造したエリスの造幣所を例外として、単位の大きなコインは鋳造されなかった。
ペロポネソスのコインで、紀元前5世紀に最も使われたのは、“ヘミドラクマ”であった。
紀元前4世紀、ペロポネソスのコインは全盛期を迎えたが、世紀末にはこの地域はマケドニアの支配下に入ってしまった。
紀元前3世紀及び紀元前2世紀の間、多くの都市がアカイア同盟に参加し、規格化された同盟コインを生産したが、コリントが滅亡し、紀元前146年にアカイアがローマの州になると、ペロポネソスの銀コインの生産は途絶えた。
(サー・ローレンス・アルマ=タデマ 画 1881年)
本日は以上となります。
次回は、現在のトルコにあたる「小アジア」の歴史とコインに関する内容をお届け致します。
お楽しみに。
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こんにちは。
まずは、2020年 東京オリンピック&パラリンピック開催決定おめでとうございます!!
久々の、明るいビッグニュースでしたね。
2020年の開催まであと7年ですが、これからの7年間はあっという間だと思います。
これからは開催成功に向けた準備期間となります。その間、少しでも明るい話題が増えて、東京のみならず日本全体が前向きな雰囲気になっていれば、それだけでも大きな意味があると思います。
さて、話が初っ端から脱線してしまいましたが、今回は地域別にみるギリシャコインの特徴に関する記事です。
「古代ギリシャ」と一言にいっても、その範囲はペロポネソス半島をはじめとした、現在のギリシャ共和国の範囲に限定されたものではありません。
古代のギリシャ人たちはイタリア半島、シシリー島、黒海沿岸、小アジア(現在のトルコ)等、広域な地域に移住し、植民都市を築いていました。即ち、「古代ギリシャ」という世界観には、地中海の東半分が含まれるのです。
それら植民都市は、独自のコインを発行し、交易や日常の経済活動において流通させていました。
今回から、それら植民都市等、古代ギリシャが影響を与えた地域のコインの情報を、各地の略史とともにご紹介致します。本日は、ケルトとイタリア半島、シシリー島で造られたギリシャコインに関してご紹介します。
それでは、よろしくお願いします。
中央ヨーロッパ、特にライン川上流とドナウ川の地域に居住していたケルト民族は、マケドニア王が発行したコインを模倣して、かなりの量のコインを鋳造した。
これらのコインの大部分は紀元前3世紀及び紀元前2世紀に発行されたものであったが、いくつかのコインは紀元前1世紀まで発行され続けた。
ケルト民族が模倣したコインは、フィリップ2世、アレキサンダー3世等のコインに加えてタソス、ラリッサ、パイオニアン王国、タルソス、ローマ共和国の銀貨がある。
タルソスのスターテルを模倣したコインは、小アジアに渡り、紀元前3世紀前半にガラティヤとして知られる地域に移住したケルト民族によって鋳造された。
最初のコインは、紀元前530年頃に登場した。これらのコインは奇妙な造りで、表側の浮き彫りの模様が、裏側に凹型で大体正確に再現されていた。
このユニークなコインの造り方は、当時イタリアに住んでいた有名なサモス人の数学者ピタゴラス(紀元前582年~紀元前496年)が発明したと思われる。
政治史的にみると、紀元前の最後の数世紀間、イタリアはローマの支配下にあった。
ローマは、ギリシア植民地時代の初期には、エトラスカン帝国の南の辺境の植民地に過ぎなかった。
このティベル川沿いの都市が紀元前4世紀から拡大主義を採り始めた。当時、この動きの最終結果を予測できたり、信じた者はいなかったであろう。その後、およそ300年間でローマは全地中海の覇者となり、ハンニバルの攻撃が最終的に挫折した紀元前3世紀の終わり頃から、ローマはイタリアで最高の地位を獲得した。
ギリシャ諸都市のコインは、ローマの支配を受けて次第に消えていった。しかし、最初のローマの銀コイン、いわゆる“Romano-Campinian"ディドラクマは、南イタリアのギリシャディドラクマに代わるコインとして考え出され、ローマ政府の命令で操業していたギリシャの造幣所で造られたものである。
(紀元前485年~紀元前481年)
表面は獅子の頭部を浮き彫りで刻印し、裏面は凹型で刻印されている。
シシリー島に設けられたギリシャの最初の植民地はナクソスで、紀元前734年頃にエウボイアから来たカルキス人によって築かれた。その後まもなく、シシリーの古代都市の中で最も大きな都市シラクサがコリントからの移民によって建設された。
元々この島にはシセル人・シカーニ人・エニシア人が住んでおり、エニシア人の中心都市はセゲスタとエリクスであった。フェニキア人は、ギリシャの植民が始まる前からシシリーの内政に介入していたようであるが、ギリシャがシシリーの西海岸への植民に失敗した紀元前580年からこの2つの勢力(フェニキアとギリシャ)の間の衝突が始まった。
紀元前6世紀の間、ギリシャ植民地は何事もなく繁栄した。紀元前485年、ゲラの僭主ゲロンがシラクサを征服し、ここに政権の中心を移した。この時から、紀元前5世紀の間中、シラクサ人は、シシリーのギリシャ人の間で優位な立場を享受した。
紀元前5世紀の後半、セリヌスとセゲスタが対立した。この際、セリヌスはシラクサに、セゲスタはアテネに援軍を要請した。以前からシシリー征服の野望を持っていたアテネは、この機に乗じてシラクサを攻撃した。
しかし、紀元前413年、スパルタとコリントの援軍を得たシラクサの城壁を前にして完全に敗北した。この戦いは、カルタゴに、セゲスタを援助する目的で上陸するという口実を与えた。その結果、カルタゴとシラクサの僭主ディオニソスの間で長く、決着のつかない戦いが行われ、結局、紀元前378年の和平合意で島を分割することになった。
紀元前317年、アガスクルがシラクサの僭主となり、シシリーで初めて“王”という称号を得た。アガスクルは、カルタゴとの戦いを再開し、北アフリカまで戦火が拡がった。アガスクルは、この賭けには失敗したが、シラクサでの地位は保つことができた。
シラクサは、ヒエロン2世(紀元前270年~紀元前216年)の統治期間中、ローマ帝国に、カルタゴに対しての軍事行動をするために有効な基地を提供した。戦争が終結してローマ帝国が得た戦果はシシリー島だけであった。
ヒエロン2世は、生きている間だけ領地の保有を許された。
紀元前212年、ローマは、シラクサを手に入れ、2年後にアクラガスを滅ぼしシシリー島全体がローマの支配下に入った。
シシリーのギリシャコインは、紀元前6世紀後半からナクソス・ザクレ・ヒメラ・セリナス・アラゴスの造幣所で鋳造が始められた。
シラクサが全盛であった紀元前5世紀、シシリーのコインは、他のギリシャコインの追随を許さない、芸術的華麗さの頂点に達したものとなり、同世紀の終わり頃、エウアイネトス・エウクレイドス・キモン等の偉大な芸術家が見事な作品を創り出した。
カルタゴは、紀元前4世紀の間、ギリシャと戦う傭兵の給与のために大量のテトラドラクマをシシリーで発行した。
このテトラドラクマのシリーズは、通常“シクロプニ貨”と呼ばれている。
一方、シラクサの王アガスクルは、大量の金属コインを造ったが、素晴らしい彫刻が施された非常に美しいものもある。
だが、紀元前3世紀の中頃にローマによる支配が進むと、コイン彫刻の芸術的レベルは急速に低下してしまった。ローマは、紀元前212年にシラクサが陥落した後、多くのシシリーの造幣所に青銅のコインを発行する権利を与えた。この青銅コインのシリーズは紀元前2世紀まで続いた。
本日はここまでとなります。
次回は、北ギリシャ、ペロポネソス半島等、ギリシャ本土各地に関しての内容をお送りする予定です。
お楽しみに!
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こんにちは。
いよいよ9月になりましたね。
まだまだ暑い日は続いていますが、少しずつ秋らしくなっているように感じます。
今年も既に3分の2が終わりましたが、今後も引き続き頑張っていきましょう。
さて、今回は、「ギリシャコインの世界」第14回目です。
先週までは「ギリシャコインの重さと貨幣単位」をご紹介してきました。
今週は「ギリシャコインの年代」に関する記事をお届けします。
それでは、よろしくお願い致します。
紀元前2世紀の後半まで、ほとんどのギリシャコインには発行年が印されていなかった。
この習慣を始めたのは、シリアやエジプトなどのヘレニズム王国である。セレウコス王国では、セレウコス1世がバビロンを取り返した紀元前312年を紀元とする発行年をコインに印した。
バビロンを奪還した紀元前312年に発行が開始された銀貨。
裏面に発行年が印されている。
一方、プトレマイオス朝では、即位紀元だけを示すという不十分な方法を使っていた。エジプトのギリシャ王の誰もが“プトレマイ”という名であったので、コインに印されている発行年は、プトレマイオスシリーズの正確な年表を作る際にあまり役に立たない。また、これらの王朝の後期コインの多くには発行年がなく、この習慣は少数の自治国家の造幣所にしか広まっていなかった。
ギリシャコインの研究者は、正確な発行年を確定しようとする場合、型や素材のような他の判断基準を用いなければならない。
ギリシャコインは、ローマ帝国成立以前の6世紀間にわたり造り続けられたが、その年代は芸術様式と生産方法で大きく3つの時期に分けられる。
アルカイック期(コインの創成期から紀元前479年のペルシャ帝国の滅亡まで)の人体表現は不自然である。 横顔の肖像では、目が顔いっぱいに大きく描かれ、横向きの全身像では、頭と足は横向きで、胴体は正面を向いているように描く傾向があった。
同様に、飛んでいる鳥の場合でも、体は横向きで翼はまるで下から見上げたように描かれている。
後の時代の芸術的繊細さや彫刻的な質の高さはないが、初期の彫刻家が作り出した多くの作品は、私たちの目を十分に楽しませてくれる。
さらに、それらが文明史の中で最も興味をそそられる時代のものであることも私たちの心をひきつける。そもそも、コインには裏模様がなく、刻印を打ち込んでできた跡があるだけだった。後の古典時代になると、この四角い窪みは目立たなくなり、さらに紀元前6世紀近くになると、初めて裏面に彫刻が見られるようになった。
しかし、エイギナの造幣所のように、最後まで裏面の四角い窪みをなくさなかったところもある。(上、写真参照。) エイギナの初期コインは、厚くてほとんど球体であったが、次第に薄く伸ばされて造られるようになった。逆に西方では、薄く伸ばされていたものが次第に丸くなった場合が多い。面白いことに、マグナグラエシアン造幣所のコインは、形状は旧型で表の刻印が裏面に写っている。
紀元前479年~紀元前336年のペルシャ戦争から、アレキサンダー大王の治世に至るまでの時代は、ギリシャコインの古典時代とされている。その最初の数十年間に、アルカイック時代の不自然な描写から写実的な描写へと著しい進歩があった。
紀元前5世紀後半のシシリーの貨幣は、気品にあふれた芸術作品といえるものであり、多くのコインが写実的肖像画の傑作となっている。それから24世紀が経過したが、これらに匹敵するものは造られていない。
これらシシリーのコインは、紀元前5世紀末のカルタゴ人の侵略によって中断されてしまった。ギリシャの他の地方の造幣所でも、すばらしいコインが造り出された。そして、マケドニアによるギリシャ支配が始まるまで発行は続けられた。
ギリシャ世界は、ペロポネソス戦争の政治的騒乱をものともしなかった。
アレキサンダー大王の東方遠征と、大王国の建設は、造幣鋳造に大きな変化をもたらした。エジプトのクレオパトラの自殺(紀元前30年)まで3世紀間続いたヘレニズム時代に、ペリクレス時代のアテネが発行した“ふくろう”のコインを例外とすれば、ギリシャコインの大量生産が初めて行われた。ヘレニズムの専制君主達が統治していた巨大な王国が、都市国家時代には想像もつかなかったほどの大量の貨幣を必要としていたのである。
経験豊富な彫刻家達は、過酷な労働を強いられ、彼らが優れた作品を作ることは期待できなかった。そして、コインの芸術的水準は、時が経つにつれて確実に衰退していった。ローマの東方遠征によって多くの都市が王政支配から解放された紀元前2世紀に、一時的な復興があったが、後期ヘレニズムコインについての一般的な印象は、芸術的な価値に乏しく、急いでぞんざいに造られているというものである。
前述の解説で、アルカイック・古典期・ヘレニズムそれぞれの主な時期の最も重要な特徴を明らかにしようとした。個々の貨幣を造った造幣所の歴史を詳しく研究することで、貨幣のより正確な日付に辿り着く貴重な手掛かりを、ときには得ることができる。
多くのギリシャ都市国家は隣国や、外国からの侵攻によって破壊され、後になって復興されたが再び壊滅させられたこともあった。
都市の名前は、一度ならず二度も変わったこともある。「シバリス」というイタリアの都市は紀元前425年に「ツリオリ」と名を変え、紀元前194年にはローマ人によって「コピア」と変更された。
このような出来事は、都市のコインの年代順の枠組み作りを可能にしてくれる。大多数の造幣所が断続的にしか操業していなかったので、特別な発行の理由を正確に決定することがときにはできるであろう。このような情報は、近接する他の造幣所の貨幣の年代を推定するのにも利用できる。
そして、大きなジグソーパズルのように徐々にできあがっていくギリシャコインの年表については、まだまだ知っておかなければならないことが多い。私たちの見解は、秘蔵物(コレクターが密かに持っているコイン)が提供してくれる証拠に照らし合わせて、時々修正される必要がある。
この簡単な概説で、読者にギリシャコインの年代決定の難しさを知ってもらい、さらに難解で異論の多い課題が与えてくれる魅力ややりがいについてのいくらかでも伝えられたらと思う。
下記の表は、ギリシャ文字の数字を説明している。紀元前2世紀~1世紀のいくつかのコインには、この数字で日付が表されている。
1:A 9:Θ 80:Π
2:B 10:I 90:φ
3:Γ 20:K 100:P
4:Δ 30:Λ 200:Σ
5:ε 40:M 300:T
6:ζ 50:N 400:Y
7:Z 60:Ξ 500:Φ
8:H 70:O 600:X
今週はここまでとなります。
ここまで御読み下さり、誠にありがとうございます。
次回からは、「地域別にみる古代ギリシャコインの特徴」をご紹介します。
お楽しみに!
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