【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
6月に入り梅雨らしい雨模様が続いております。湿気の多い毎日は過ごしにくいですが、梅雨が明けると後は猛暑がやってきます。エルニーニョ現象やラニーニャ現象など、異常気象をもたらす自然現象は毎年のことですが、今年の夏は過ごしやすいと良いですね。
今回はエルニーニョ現象でも知られる南米のペルーで発行された金貨をご紹介します。
ペルーは太平洋に面した南アメリカ大陸の国であり、国土面積は日本の3.4倍。南北に伸びた国土にはアンデス山脈からアマゾンの熱帯雨林、乾燥した砂漠地帯まで多種多様な気候風土に恵まれています。かつてインカ帝国が栄えた歴史から、マチュピチュ遺跡やナスカの地上絵など世界的に知られる名所も数多く存在します。
1821年にスペインから独立して以降、諸勢力間での内紛が絶えず、周辺諸国との度重なる戦争も重なり政情はなかなか安定しませんでした。
スペイン統治時代から鉱山の開発が行われたため、豊富な金銀に恵まれたペルーは良質な金貨や銀貨を発行し続けました。しかしチリとの戦争(太平洋戦争, 1879-1884)に敗れたペルーは領土の一部を喪失し、硝石の採掘と輸出が困難になったことから、経済的な不振に見舞われました。
そこでペルー政府は通貨改革を実施して物価を安定化させると共に、19世紀末に進展した金融の国際化にも対応しようとしました。
ペルー 1898年 1リブラ金貨
1898年、当時の世界各国の通貨政策基準となっていた金本位制に基づく新通貨「リブラ」が発行されました。
ペルー経済に強い影響力を及ぼしていたイギリスの「スターリングポンド」にリンクさせた通貨であり、1リブラは1ポンドと等価に設定されました。そのため1リブラ金貨はイギリスのソヴリン金貨と同じ金性(Gold917)・重量(7.9881g)・サイズ(22mm)で製造されました。外国との決済でも用いることのできる国際通貨として定着させる狙いがあったものとみられます。
通貨単位の「リブラ(libra)」はもともとラテン語で「天秤」を意味し、古代ローマでは重さの基準単位として使用されました(*1リブラ=約327.4g)。
イタリア語やスペイン語では現在もそのまま重量の単位として使われています。(*但し重量は国や時代によって変化している)
イギリスではリブラが「ポンド(*ラテン語で「重さ」を意味するpondusから)」と称され、時代の変化と共に重量単位⇒通貨単位にまで発展しました。
そのためポンドの通貨記号はリブラの頭文字であるL=£であり、ペルーがイギリスのポンドにリンクした金貨を導入する際、「リブラ」を通貨単位に選んだ理由が分かります。
しかしそのデザインはペルーの独自性を表現したものであり、優れた技巧の彫刻作品として世界にも通用する完成度です。南米版のソヴリン金貨として、国際通貨としての役割を期待されていたことがうかがえます。
表面にはペルーの先住民である「インディオ」の男性像が表現されています。大きな耳輪と羽飾りを付けた姿であり、アマゾン地域で生活する先住民を理想化したモデル像とみられています。
下部には1リブラを意味するスペイン語「UNA LIBRA」銘、上部にはペルーの「VERDAD I JUSTICIA (=真実と正義)」銘が配されています。
先住民を表現したコインとしてはアメリカ合衆国のインディアン金貨(5ドル&2.5ドル)が広く知られていますが、ペルーではそれよりも先に発行されていました。
裏面にはペルー共和国の国章が表現されています。上部には光り輝く太陽、周囲部には「REPUBLICA PERUANA (=ペルー共和国)」銘と造幣都市リマを示す「LIMA」銘、造幣局の試金官を示す「R・OZ・F」銘が配されています。
金貨の製造はペルーの首都リマの造幣局で行われました。リマ造幣局はスペイン統治時代の1565年に設立された長い歴史を持ち、鉱山開発によってもたらされた大量の金銀を精錬、加工していました。ただしリブラ金貨の製造はリマ造幣局だけは目標に追いつかず、アメリカのフィラデルフィア造幣局がプランシェット(*型押しする前の円形平金素材)を供給したこともありました。
また1902年からは1/2リブラ金貨も発行され、1/2ソヴリン金貨との互換性を高めようとしてことが窺えます。また1906年には独自の1/5リブラ金貨も発行が開始されました。
ペルー 1908年 1/2リブラ金貨
サイズは縮小されていますが、両面のデザインは同じです。こちらもイギリスの1/2ソヴリン金貨と同規格で製造されています。
リブラ金貨は金本位制の導入によって国際通用性を高めるために発行されましたが、国内で流通していたソル銀貨(*Solはスペイン語で太陽を意味する)にも対応するため「1リブラ=10ソル」の交換価値が設定されていました。
ペルー 1887年 1ソル銀貨
1863年に新通貨ソルが導入された際にも、通貨価値を安定させるために当時世界中で採用されていたフランス・フランの基準を取り入れて「1ソル=5フラン」と定めました。そのため1ソル銀貨はフランスの5フラン銀貨と同じ基準で製造されました。
しかし1914年-1918年の第一次世界大戦、1929年の世界大恐慌を経て世界経済は大きな変化を迎えます。従来の金本位制の維持は難しくなり、主要な国々で事実上停止されていったのです。イギリスも例外ではなく、19世紀以降続いてきたソヴリン金貨の発行と流通は難しくなりました。スターリングポンドと連動していたペルーもその影響を受け、1930年には金本位制を停止しました。
ペルー 1931年 50ソル金貨
1930年から発行されたインディオ金貨はコレクター向けの大型金貨として製造され、海外の収集家や資産家に買い求められました。裏面に金性(Gold900)と総重量(33.436g)が明記されるのは、南米のコインにみられる特徴の一つです。
1950年以降「リブラ」はペルーの正式な通貨単位としては廃止されますが、リブラ金貨そのものは地金型金貨として1969年まで製造され続けました。既に貿易決済通貨として使用されることはありませんでしたが、ペルーを代表する金貨として外貨獲得の手段になりました。ペルー版ソヴリン金貨は期待された本来の役割を終えた後も、ペルー経済安定のために役立ったのです。
地金型金貨として製造されたリブラ金貨(1966年銘)
デザインや規格は発行開始当初と同じですが、刻印彫刻はよりシャープになっています。
投稿情報: 16:24 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
まもなく大型連休、ゴールデンウィークの時期です。今年はコロナの規制がほぼ無くなり、3年ぶりに例年通りの賑やかさが戻ってきそうです。人の移動も盛んになり、観光地も忙しくなりそうですね。
ワールドコインギャラリーの定休日は水曜日ですが、憲法記念日の5月3日(水)は通常営業を行います。
5月最初の一週間は休まず営業しておりますので、連休中はぜひお越しください。皆様のご来店・お問い合わせをお待ちしております。
今回は小アジア(*現在のトルコ)のカッパドキアで造られたコインをご紹介します。
紀元前281年のカッパドキア王国
カッパドキアといえば奇岩群で有名な世界遺産があり、トルコを代表する名所として世界中から観光客が集まります。アナトリア高原の中央部に位置し、冬の寒さは厳しく降雪量の多い土地でもあります。
カッパドキアの奇岩群
またギリシャ~ペルシアの中間地点である地理的条件から、古代より大国間の交流・衝突の場にもなりました。紀元前6世紀に小アジアの大半がアケメネス朝ペルシアの支配下に入ると、カッパドキアには太守が派遣され、独立した行政州として統治されました。太守をはじめとする支配層の多くはペルシア人であり、アケメネス朝の支配下ではペルシア文化が根付いてゆきました。
なおカッパドキアの名称はペルシア語で「美しい馬の国」を意味する「カトパトゥク (Katpatuk)」が由来になっているとされ、同州の特産品として本国に献上されていたと考えられています。
紀元前4世紀にアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の東方遠征が始まると、カッパドキアのペルシア人はマケドニア軍に反抗しましたが、アケメネス朝そのものが滅ぼされると太守アリアラテスは王を自称し、アリアラテス朝カッパドキア王国が成立しました。その後はマケドニアやセレウコス朝に従属するも、紀元前3世紀後半には再び自立しました。
カッパドキア王国はアケメネス朝支配下で設置されたカッパドキア州に由来する経緯から、ペルシア文化が根強く残された点が特徴でした。王や貴族はペルシア貴族の末裔であり、アケメネス朝で信奉されていたゾロアスター教(拝火教)の神殿が国内に多く建立された他、独自の暦も制定しました。首都のマザカ(*現在のトルコ,カイセリ)はペルシア風都市として建設され、周辺には複数の砦が築かれて強固な防衛線を成していました。
王名「アリオバルザネス」「アリアラテス」はペルシアの名であり、その血統のルーツを示しています。ペルシア語やアラム語が広く用いられ、さながらペルシアの内陸飛び地の様相を呈していました。
一方でセレウコス朝やペルガモン王国といった周辺のギリシャ系王朝の影響も受け、時代が経るとヘレニズム文化が定着するようになりました。
特にヘレニズム文化が顕著に反映された例がコインでした。
表面には王の横顔肖像、裏面にはアテナ女神とギリシャ文字による称号という、典型的なヘレニズム様式のコインが多く生産されるようになりました。
ここで示された称号は王を表すペルシア語の「シャー」ではなく、ギリシャ語の「バシレイオス」が用いられました。
アリアラテス5世のドラクマ銀貨
表面にはダイアデム(王権を示す帯)を巻いたアリアラテス5世の横顔肖像、裏面には武装したアテナ女神像が表現されています。右手上には勝利の女神ニケを乗せ、周囲部には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΑΡΑΘΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ (=王たるアリアラテス 敬虔者)」銘が配されています。
下部の「ΓΛ」銘は王の治世33年目(=紀元前130年)を示し、製造年の明記がカッパドキアのコインの特徴として継承されました。王の肖像は代が替わると変更されましたが、アテナ女神像はそのままだったことから、王家はアテナ女神を守護神として崇敬していたようです。
アリアラテス5世はペルガモン王国と同盟して領土を拡大させた王であり、首都マザカはコインにも示されている王の敬称「ΕΥΣΕΒΟΥΣ」に因み一時的に「エウセベイア」に改称されました。
アリアラテス7世のドラクマ銀貨 (BC108-BC107)
紀元前2世紀末になると小アジアのヘレニズム諸国の紛争は激しさを増し、カッパドキア王国を統治してきたアリアラテス朝の内部でも権力闘争が行われました。若くして即位したアリアラテス7世は隣国ポントス王国のミトリダテス6世の後ろ盾で王位に就いたものの、傀儡になることに反抗したため暗殺されました。
アリアラテス9世のドラクマ銀貨 (BC89)
アリアラテス7世を排除したミトリダテス6世はカッパドキア国内の混乱に乗じ、弱冠8歳の王子を送り込みアリアラテス9世として王に即位させました。
コインの肖像も父親であるミトリダテス6世に似せた造型になっています。
この内乱状態に際し、有力貴族のアリオバルザネス家はローマの支援を受けて反攻し、紀元前96年にアリオバルザネス1世が王位を宣言しました。
その後ビテュニア王国やアルメニア王国も干渉しカッパドキアの内乱は激しさを増しましたが、最終的にポントス王国がローマに敗れた(第一次ミトリダテス戦争)ためアリアラテス9世は追放され、アリオバルザネスの王権が確立されました。(=アリオバルザネス朝)
アリオバルザネス1世(在位:B96-BC63)のドラクマ銀貨
アリオバルザネスは先のアリアラテス朝の様式を踏襲してコインを発行しました。アリオバルザネス1世は在位期間が長かったことから、肖像も若年像⇒中年像⇒老年像と変化がみられます。
裏面のアテナ女神像も継承されていますが、アリオバルザネスがローマの後援を受けて王位に就いたことを示す「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス ローマの友)」銘が配されています。
「ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=ローマの友)」はアリオバルザネス朝のコインの特徴的銘文であり、その後100年のカッパドキア王国は周辺諸国との安全保障上、常にローマの同盟国であり続けました。
アリオバルザネス3世(在位:BC51-BC42)のドラクマ銀貨
裏面には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ ΚΑΙ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス・エウセベス 敬虔にしてローマの友)」銘が配されています。この頃になるとカッパドキア王はローマ元老院の認証をもって王位を宣するようになり、名目上は同盟国でも事実上は属国となっていました。
アリオバルザネス3世はローマ内戦において当初ポンペイウスを支持したものの、勝敗が決するとカエサルに鞍替えして領土を拡大させました。そのため後にブルートゥスが小アジアへ拠点を移した際、裏切り者の王としてカッシウスによって処刑されました。
同時代のローマの地理学者ストラボンの『地理誌』によると、まだゾロアスター教の神殿や風習、社会身分制度が色濃く残されており、かつてこの地を支配したアケメネス朝の名残がみられる独特な王国として知られていたようです。アリオバルザネス朝もペルシアにルーツを持つ貴族の出身であり、その古い文化を尊重しつつも政治的な思惑も絡み、ギリシャ・ローマ化を推進していました。
紀元前1世紀、アリオバルザネス朝時代のカッパドキアは事実上ローマの属国でしたが、名目上は独立した王国として存続していました。しかし最後の王となるアルケラオスはローマ皇帝ティベリウスの弾劾を受け、その直後の紀元17年に没すると、ローマは王国を廃して「カッパドキア属州」として直接統治下に組み込みました。首都のマザカはカエサルの名を冠する「カエサレア」と改称され、東方への交通要衝として二個軍団と補助部隊が常駐しました。この改称名は現在の都市名「カイセリ」として定着しています。
独立を喪失した後のカッパドキアでは、ローマ本国とは異なる独自のコインが発行されました。カッパドキアの地理的重要性から、ローマ軍団やローマ人が多数常駐したため、彼らへの大量の給与を現地で生産・支払う必要があったこと、さらに交易の要衝として経済的にも発展したため、経済活動が活発化したことがその理由です。一国並みの大きな経済圏を有していたため、ローマは自国の通貨をそのまま供給せず、現地に定着したドラクマ幣制を維持して属州内で独自コインを流通させました。
コンモドゥス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD181-AD182)
カッパドキア属州で発行されたドラクマ銀貨には、表面に皇帝の横顔肖像、裏面にはカッパドキアの名峰アルガエウス山(=エルジェス山)が抽象的に表現されています。周囲部にはカッパドキアの奇岩群、頂上部には輝く星があることから、当時の山岳信仰を象徴する意匠とみられます。
皇帝の称号は全てギリシャ語で表記され、裏面の下部には製造年が配されており、王国時代のコインを部分的に継承しています。ただしコインの重量は軽減されており、インフレーションの緩やかな進行が垣間見えます。
アルガエウス山 (=エルジェス山, 標高3,916m)
カイセリから南に25kmの位置に聳える火山であり、カッパドキアの独特な奇岩群はこの火山の噴火によって形成されたと考えられています。ギリシャ神話に登場する百目の巨大怪物アルゴス(*ラテン語でアルガエウス)からその名が付けられました。
セプティミウス・セウェルス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD206)
裏面アルガエウス山の上部には属州都市カエサレアで製造されたことを示す「MHTΡ KAICAΡ (=首都カエサレア)」銘が配されています。
ゴルディアヌス3世治世下のドラクマ銀貨 (AD240-AD241)
3世紀末にディオクレティアヌス帝の貨幣改革が実施されると、共通規格の銅貨が帝国各都市で大量に製造され、属州毎に製造されていた多種多様なコインは造られなくなりました。カッパドキアも同じく独自コインは製造されなくなり、王国時代の名残は消えていったのでした。
カッパドキア王国~属州時代のコインはドラクマ銀貨が主流であり、日常的に使用するコインだったことから大量に生産されました。そのため現在でも年代順に集めることが可能であり、コレクションや研究対象として面白いテーマになりそうです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
3月になり一気に暖かくなってきましたね。今年は桜の開花も早く、各地でお花見日和です。コロナの規制も緩和され、マスク無しで外出される方も増えたように感じられます。花粉症の方々には厳しい季節ですが、春の訪れとともに明るい空気が戻ってくれば幸いです。
今回は3月ということで、3月=Marchの語源となった「マルス」とそのコインをご紹介します。
マルスは古代ローマの軍神であり、特に兵士たちに崇敬されていました。当時の男性名「マルクス」「マリウス」「マルティヌス」などはマルス神にあやかってつけられた名前です。
ローマの主神のひとつとして篤く信奉されましたが、もともとは田畑を守る農耕神とされていました。そのため農耕が始まる季節がマルス神の月とされ、そこから3月=Martius=Marchとして定着するようになりました。
また、火星を示す「Mars」もマルス神が由来になっています。火星を示す惑星記号「♂」はマルス神の槍を図案化したものとされ、現在では男らしさ=雄を示す記号としても定着しています。
雪解けの季節は軍事行動を開始する時期とも重なることから、ギリシャ神話のアレス神と同一視されて軍神としての性格も帯びるようになりました。
しかし戦闘の狂気を引き起こし、暴力的性格の強いアレスとは異なり、ローマにおけるマルスは都市国家と兵士たちの守護神として大切に信奉されていました。その神像は筋骨隆々とした男性(主に青年像)として表現され、兜を被る姿が多く見られます。
また、ローマ建国神話では建国者ロムルス&レムス兄弟の父親とされ、ローマのルーツとなった神として認識されていました。
マルスとレア・シルウィア
(ルーベンス作, 1617年頃)
アルバ・ロンガの王女レア・シルウィアは巫女として生涯独身を運命付けられるも、マルス神に見初められて軍神の子を懐妊。生まれた双子の男児ロムルスとレムスはティベリス川に流されますが、流れ着いた岸辺で雌狼に助けられ命を繋ぎました。この伝承はマルス神の聖獣が狼であることも大きく関係しているようです。
マルス神の姿は共和政時代からコインの図像として盛んに表現されていました。その姿は兜を被った青年の姿であり、本来の農耕神としての性格はほとんど見受けられません。征服戦争が盛んだった紀元前2世紀以降、デナリウス銀貨が兵士への給与として支払われたことを鑑みると、軍神が貨幣の意匠に取り入れられるのは極めて自然なことでした。そのため、裏面には兵士たちの勇ましい姿が多く表現されていました。
紀元前137年に発行されたデナリウス銀貨には兜を被るマルス神が表現されています。その兜には麦穂の飾りがあり、農耕神としての性格を併せ持つことを示しています。
裏面には「ROMA」銘の下に三人の男たちが表現されています。中央の男が軍に入隊するに伴い、二人の兵士が立会人(*左側の兵士は髭を生やし、腰も曲がっていることから古参兵、または年長の老兵とみられる)として儀式を執り行う様子とみられます。抱かれた子豚はマルス神に捧げられる犠牲獣と解釈できます。
紀元前108年頃に発行されたデナリウス銀貨には、勝利の女神ウィクトリアとマルス神が表現されています。裸のマルス神は兜を被り、戦勝トロフィーと長槍を携えています。腹筋が割れた姿で表現され、男性的な肉体美を強調しています。一方で右側には麦穂が配され、農耕神としての性格も示されています。
紀元前103年発行のデナリウス銀貨にはマルス神の横顔像と、戦う兵士たちの姿が表現されています。中央には膝から崩れ落ちる兵士も表現され、細かい部分までリアリティを追及している構図です。
ガリア戦争中の紀元前55年に発行されたデナリウス銀貨。表面のマルス神はトロフィーを背負い、戦勝を誇示する姿です。裏面にはローマの騎兵と打ち倒されるガリア兵たちが表現されています。
紀元前76年のデナリウス銀貨にはマルス神と羊が表現されました。牡羊座の守護神はマルスとされ、星座との関係性を示す意匠です。
紀元前88年のデナリウス銀貨には肩越しのマルス神が表現されています。肩には革紐を襷がけし、槍を持って遠くを見据える凛々しい青年像です。
裏面は馬戦車を駆ける勝利の女神ウィクトリアが表現されています。
帝政時代以降もマルス神は国家守護の主神として篤く信奉されました。
皇帝のコインには度々マルス神の姿が登場し、皇帝個人の武勇と兵士たちの長久を祈念しました。外征などの大規模な戦役が行われた場合、コイン上にマルス神が多く表現されたようです。
初代皇帝アウグストゥスの治世下に発行されたデナリウス銀貨。紀元前19年頃に造られたこのコインには、敵から奪った戦車が納められたマルス神殿が表現されています。アウグストゥスはユリウス・カエサルを暗殺したブルートゥスたちを打ち破った記念として、ローマ市内中心部のフォルム(広場)にマルス・ウルトル(復讐のマルス)神殿を建立しました。最終的な完成と奉納は紀元前2年5月12日とされることから、コインには計画段階の姿が表現されたとみられます。
トラヤヌス帝は積極的な領土拡大策によってローマ帝国の版図を史上最大にしました。ダキア征服後の114年~116年頃に発行されたデナリウス銀貨には、戦勝トロフィーを担いで堂々と歩むマルス神の姿が表現されています。当時はパルティア遠征の最中であり、ローマの軍事的成功を祈念する意匠として採用されました。
ハドリアヌス帝治世下の121年頃に製造されたデナリウス銀貨。裏面のマルス神像は先帝トラヤヌスのコインをそのまま継承した構図。ハドリアヌス帝はトラヤヌス時代の領土拡大路線を見直し、現状維持に努めたことで知られます。この年代はハドリアヌス帝が属州巡幸を開始した時期と重なり、各地の駐留軍団への視察が影響した意匠ともみられます。
投稿情報: 18:02 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりに近づき、段々と暖かくなってまいりました。梅や河津桜があちこちで咲き始め、春の足音を感じます。
今回は古代ローマ帝国で流行したコインジュエリーについてご紹介します。
現代でもコインを使用したペンダントやリング、ブレスレットなどのジュエリーは人気がありますが、古今東西コインをジュエリーの素材として用いる文化は広く見られました。
西洋でコインジュエリーが定着したのは、2000年前のローマ帝国からだと考えられています。初代皇帝アウグストゥスは古代ギリシャのコインを趣味的に収集していたと伝えられることから、既にこの時代にはコインが経済的意味だけでなく、歴史・文化・デザインの面から評価されていたことが窺えます。
アウグストゥス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
(大英博物館所蔵)
2世紀の五賢帝時代、ローマ帝国は安定的な繁栄によって市民生活にも余裕ができ、貴族や富裕層の間で華美な装飾が流行しました。より手軽な色ガラスや色石、輝石、カメオを使用したブローチなどは幅広い階層で用いられましたが、より富裕層は金を用いて存在感を示したのです。こうしたジュエリーの着用は男女を問わず、メダルや勲章など政治的な意味合いを持つ記念品も多く作成されています。
ジュエリーの素材として最も人気があったのは金でした。現代以上に金の採取が難しくコストがかかり、また経済的な資材としての役割が大きかった金は、身に着ける資産としても重要であり、着用者の社会的地位と経済力を誇示しました。
貴重な素材を加工する彫金技術は、現代の進んだ技術力と比べても非常に高度でした。コインという小さな素材に枠を巻き、周囲に輝石をはめ込む技術は、照明すら不完全な2000年前の工房を想像すると驚異的な技術です。
デキウス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
裏面の縁は伏せ込み型の金枠になり、周囲には縄目紋様の装飾枠が追加で巻かれています。
セプティミウス・セウェルス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
上図の金貨と同じように伏せ込み型の枠が巻かれています。金具がつけられていた位置から推定すると、裏面(=月と星)を表面にして使用していたとみられます。
表面と裏面から銀枠を重ね合わせており、コインの大きさに合わせた二つの枠を作製⇒貼り合わせていたことが分かります。
ジュエリーにコインが使用されている点は、その作品の制作年代を推定するのに非常に役立ちます。現存しているコインジュエリー、特に金貨を用いたものの多くは3世紀以降に造られています。
フィリップス・アラブス帝のアウレウス金貨を用いたブローチ
(3世紀後半に作成か, 大英博物館所蔵)
金の安定的な供給によって金貨の発行数が増えても、その多くは資産として退蔵されたり、東方との交易決済用として国外に流出していました。そのため金貨を用いたジュエリーがどれほど贅沢な装飾品だったか、想像に難くありません。ローマ人にとってジュエリーは単なるおしゃれとしてではなく、資産の保全であり、また護符(お守り)として一生身に着けるものでした。そのため貴重な金貨をジュエリーに加工することも抵抗は無かったかもしれません。
しかし当時のコインジュエリーと現在のコインジュエリーについて決定的に違う点は、ローマ時代のコインに表現された皇帝・皇妃たちはリアルタイムの権力者だった可能性が高い点です。
一般的に金貨のジュエリーを身に着けていたのは高位の人物だったと考えられており、一説には現皇帝に対する忠誠を示すための意味もあったとされています。
現存するコインジュエリーの多くが、豪奢で一族専制的なセウェルス朝以降に作成されていることから考えても、決して無関係でないように思われます。使用されているコインだけでなく、それらを用いた作品も時代の空気を反映させています。
エラガバルス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
フランスのボーレン, またはアラスで出土。発見時は8つの金貨ペンダントとセットになっており、他にハドリアヌス帝、小ファウスティナ妃、コンモドゥス帝、カラカラ帝、ユリア・ドムナ妃、ポストゥムス帝のアウレウス金貨が使用されていました。
政治的なアピールや宗教的な意味合いもさることながら、コインに美術的価値を見出していた点は、現代人との感性の共通を感じさせます。輝石や貴金属、カメオと並んでコインもジュエリーの素材として用いる文化は、帝政時代の古代ローマで定着したといえるでしょう。
現在作成されているコインジュエリーも、今後は貴重な作品として評価される日がやってくるかもしれません。職人による手作業の工芸作品である点もさることながら、電子決済・キャッシュレスの時代におけるコインの存在義について、後世に形として伝える意義もあると考えられます。また、金を常日頃から身に着ける資産保全性は、古代も現代も、そして将来も変わらないでしょう。
コインジュエリーは「貨幣」として生み出されたコインを装飾品に生まれ変わらせた芸術作品です。古代ローマ人のようにお守りとして、身に着ける資産として大切にする精神を重んじたいと思います。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
寒波が日本列島を覆い、連日厳しい寒さが続いていますね。
新年がスタートして早一ヶ月、2023年の1月もまもなく終わりですが、くれぐれも健康管理には気をつけてください。
今回は「兎年」にちなみ、古代ギリシャのウサギのコインをご紹介します。
古代ギリシャにおけるウサギのイメージはイソップ童話『ウサギとカメ』にも描かれているように、身軽で俊足の小動物とされ、現代と大差の無いものでした。
しかしペットや家畜としての飼育は一般的ではなく、山野に生息する野生動物という認識だったようです。繁殖力が強いためしばしば畑を荒らす害獣と見なされ、猟犬を用いたウサギ狩りも広く行われていました。山野に入れば数多く見られる一方で、俊足で鳴き声を出さない(ウサギには声帯が無い)ため、武人による鍛錬を兼ねた狩猟としては格好の獲物だったのです。
ギリシャ文化において身近なウサギは、度々コインのデザインにも取り入れられました。特に有名なものは、マグナ・グラエキア(*イタリア半島~シチリア島のギリシャ人入植地)の植民都市レギオンとメッサナで発行されたコインでした。
シチリア島 メッサナ テトラドラクマ銀貨 (BC425-BC421)
レギオンはイタリア半島の南端近く、ブーツのつま先に位置する植民都市であり、現在のレッジョ・ディ・カラブリアにあたります。
紀元前493年、レギオンの僭主アナクシラスは対岸シチリア島の都市ザンクレ(現在のメッシーナ)に兵士を送り込み、海峡両岸の統一支配を目論見ました。紀元前490年には自ら軍を率いて海峡を渡り、ザンクレを支配することに成功します。
この時、自身のルーツでもあるギリシャ本土のメッセニアから新たな入植者を集めたため、都市の名を「メッサナ」に改称しました。
(※ギリシャのメッセニア地方はスパルタによる支配を受け、農奴的地位に置かれた住民による反乱が度々勃発していた)
レギオンによるメッサナ支配は30年に亘って続き、その間両都市では共通デザインのコインが発行されることとなりました。そのコインが冒頭でも紹介したウサギの銀貨です。
紀元前480年にアナクシラスはオリンピア競技大会においてラバのチャリオット競争で優勝し、これを讃える意味も込めて新たなコインを発行しました。
二頭のラバが牽くチャリオットの上には、勝利の女神ニケが飛来し、優勝を祝福しています。
反対面には飛び跳ねる野ウサギが表現され、躍動感に溢れています。周囲部にはメッサナで発行されたことを示す「MEΣΣANION」銘が配されています。
ウサギの下部に配されたイルカ、チャリオットの下部に配された二頭のイルカは、海峡両岸の二つの都市メッサナとレギオンを示しているとみられます。
左はレギオン、右はメッサナで発行。跳ねるウサギは全く同じですが、都市銘文はそれぞれ「RECINON」「MESSANION」となっています。文字が反転している点も共通しています。
コインに表現されたウサギは多産繁栄の象徴として、または戦車競走の優勝=俊足性を象徴する目的で表現されたと考えられます。
紀元前476年にアナクシラスが没すると息子たちがレギオンとメッサナを統治しましたが、短期間で僭主の座から追放されてしまいました。レギオンでの政治的混迷が続く中、紀元前461年にはメッサナが独立性を回復し、海峡両岸の都市は再び別個の都市となりました。
しかしレギオンの支配から解放された後もメッサナはかつての名称ザンクレに戻さなかったことから、アナクシラスが送り込んだメッセニアからの入植者たちは去ることなく、この地に定着したと考えられています。
興味深い点は、レギオンにおいてウサギ/チャリオットのコインはアナクシラス~息子の統治下でのみ発行されたのに対し、メッサナでは独立を回復した後も作られ続けていたことです。ウサギのコインは紀元前396年にカルタゴ軍の侵攻と破壊を受けるまで、細部を徐々に変化させながらも80年以上にわたって発行されました。
かつてアナクシラスの偉業を讃える記念品として発行されたコインは、シチリア島の都市メッサナの象徴的コインとして定着しました。この点からも、新たに入植者として送り込まれたメッセニア人たちが、同郷にルーツを持つアナクシラスを支持し続けていたことが伺えます。
ギリシャ本土でテーバイとスパルタの対立が深まった紀元前370年頃、マグナ・グラエキアに離散していたメッセニア人たちはテーバイの指導者エパミノンダスによる呼びかけに応じてメッセニアに帰郷し、スパルタから独立して新都市メッサナを建設しました。この同名の新都市で発行されたコインにはウサギが表現されていないことから、ウサギはメッセニアの象徴ではなく、アナクシラス個人に帰属する意匠だったものと推察されます。
テーバイとスパルタの攻防の経緯・背景はこちらの小説で詳しく描かれています。
著者:竹中愛語
出版社:幻冬舎
発売日:2023年1月17日
※表紙をクリックするとAmazonの詳細ページにリンクします。
紀元前4世紀、スパルタとアテナイを退けてギリシャの覇権を得た都市国家テーバイの歴史を、実在した英雄エパミノンダスとペロピダスの友情を通して描く歴史小説です。著者はお世話になっているお客様で、普段は京都の大学で東洋史・古代ギリシャ史を研究されています。表紙のイラストに描かれた円盾は、弊社で御買い上げいただいたテーバイのコインに着想を得てデザインされたそうです。
テーバイが短期間ギリシャの覇権を得たことは高校世界史などでも触れられていますが、ペルシア戦争やペロポネソス戦争等と比べるとその言及はごく僅かであり、詳細な背景は省かれることが多いようです。今作品ではテーバイの興隆にスポットを当て、マケドニア王国勃興前夜のギリシャを把握する上で貴重な一冊にもなっています。主人公であるエパミノンダス、ペロピダスを軸に物語は進み、王子時代のフィリッポス2世をはじめとする個性的な人間模様、都市国家間の外交的駆け引き、臨場感溢れる戦闘描写を通してドラマティックに描かれた小説です。
2400年前の物語を血の通った人間ドラマとして追体験できる、古代ギリシャ史に関心のある方にはオススメの新刊です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 12:54 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
すっかり歳の瀬ですね。今年の年末は例年以上に寒さが厳しいようです。
歴史的な出来事が多く話題に事欠かなかった2022年(おそらくそれ以前もですが・・・)も残すところあと僅か。来る新しい年がどのような一年になるのか注目です。
今年の大きな出来事の一つといえば、以前ブログでもご紹介した英国女王エリザベス2世(在位:1952-2022)の崩御でした。在位70周年を祝うプラチナジュビリーを経て壮麗な国葬と、まさに現代イギリスを代表する君主の治世として偉大な締めくくりでした。ひとつの時代の終焉を目撃したような感慨もあり、他国の人間ですが厳かな気持ちにもなりました。
コインの肖像でお馴染みのエリザベス女王ですが、今年は英連邦以外の人々が女王に思いを馳せた年といえるでしょう。今年はエリザベス女王のお姿が刻まれたコインがいつも以上によく売れたようです。
そして今年は代替わりを経て、英国王となられたチャールズ3世の治世が始まった年でもあります。エリザベス2世は英国史上最も在位期間の長い君主でしたが、チャールズ3世はプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公=皇太子)の地位に最も長く在った人物でした。
今月より国王チャールズ3世としてのコインがイギリスで発行され、大きな話題となりました。今後は全てのコイン肖像を順次切り替えていく模様です。
イギリスのコインに国王が登場するのも70年ぶりとなり、歴史的な瞬間です。
チャールズが初めてイギリスコインに登場したのは、1981年にダイアナ・スペンサー嬢と結婚した際の記念コインでした。
イギリス 1981年 25ペンス銀貨
その後も度々記念貨に登場しましたが、今年ようやく「国王」としてコインに表現されることとなったのです。
CHARLES III・D・G・REX・F・D
(=チャールズ3世 神の恩寵たる王 信仰の守護者)
1948年生まれのチャールズ3世は73歳にして王位を継承したため、コインの肖像も年相応の老紳士らしさを出した風合いになっています。この肖像は彫刻家マーティン・ジェニングス氏によって手掛けられ、チャールズ3世自ら承認したものです。肖像の首部分には彫刻家のイニシャル「MJ」銘が配されています。
周囲の称号は母女王とほぼ同じですが、ラテン語による女王(=REGINA)が王(=REX)になっている点は注目です。英国歌「God save the Queen」が「God save the King」に変更されたことが話題になりましたが、コインでも70年ぶりに王の称号が再登場しています。
イギリスでは君主の代替わりによってコインの肖像を先代の反対にするという慣習があります。エリザベス2世は右向き肖像でしたので、今回のチャールズ3世は左向き肖像となっています。
また、女王がティアラを戴いていたのに対して、国王は王冠を戴かない自然体の姿である点も伝統を踏襲しています。
イギリスでは今月から50ペンス白銅貨が通常貨として発行・一般流通しています。
日本でも天皇陛下の代替わり・元号改元にあたってコインの年号が「平成」から「令和」に切り替わり、これがお釣りの中に混じっていると新しい時代が進んでいることを実感しました。今後はイギリス、英連邦諸国の市中でも同じ現象がみられるでしょう。
今月はイングランド銀行からも新紙幣のデザイン発表がありました。2024年までに現在の紙幣に採用されている女王エリザベス2世の肖像は、国王チャールズ3世の肖像に切り替わるようです。
来年以降はカナダやニュージーランド、オーストラリアのコイン・紙幣の肖像がどのようになるのか注目です。これらの国々ではまだ新しい肖像デザインの発表はありません。長年のエリザベス2世への愛着から、または新国王となるチャールズ3世に対する不支持から、肖像を採用しないのではないかという意見もあります。イギリス本国から遠く離れた国々の英王室に対する世論や信頼度が、新しいコインに現れる点は興味深いですね。
来年には戴冠式も予定されており、その記念コインも発行される模様です。
イギリスと世界にとって大きな節目となる年に発行されたコインは、今後歴史的な記念品として価値を有することでしょう。長いイギリスコインの歴史にも新しい一ページが加わります。
キャッシュレス化が進む昨今ですが、来る2023年もコインの歴史は続いていくようです。来年もコインに関する情報を発信していきたいと思います。
そして今年もこのブログをお読みいただきありがとうございました。来年も古代~現代のコインの魅力をお伝えしていければ幸いです。
来年もよろしくお願い申し上げます。
何卒良い新年をお迎えください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 13:57 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
この頃はすっかり秋めいてきましたね。肌寒い日が多くなり、段々と冬の気配も感じるようになりました。
昨今は円安によって輸入品の価格が上昇しています。海外オークションで入手するコインについてはその影響が顕著で、計算し直しで入札の手も鈍ります。また、海外でも物価高の影響からか、オークションの手数料も値上げ傾向です。
コインの価値が上がるのは良いことなのですが、仕入れには堪えますね。
今回は古代ギリシャ時代の加刻印コインについてご紹介します。
加刻印(Counter mark)とは既に出来上がっているコインの上に、新たな記号やデザインを加えることを意味します。貴金属の品位を検査した際に打たれたバンカーズマーク(Banker`s mark)とは異なり、法的な通貨として流通させる目的で、政府など発行主体が公式印を加えたものを指します。
具体的には自国通貨の生産・供給が間に合わないため、他国のコインに自国の印を加えることで国内で流通させる例が多く見られます。
日本では幕末にメキシコ8レアル銀貨(=メキシコ銀)に「改三分定」を加刻し、3分通用の銀貨として国内で流通させようとした例が知られています。
グアテマラ 1894年 1ペソ銀貨
1884年銘のペルー1ソル銀貨に1/2レアル銀貨の刻印を表裏に加刻し、グアテマラ国内で1ペソ通用の銀貨として発行。
また、通貨改革によって額面を変更する場合など、古いコインに新しい額面を加える場合もあります。近現代ではインフレーションが進行した際、紙幣や切手に加刷して金額を変更する例が多くみられます。
ブラジル 1835年 40レイス銅貨
1835年9月6日の法令に基づく通貨切り下げ(=1/2のデノミネーション)の一環。1829年に発行された80レイス銅貨に、1835年に「40」印を加刻。
コスタリカ 1923年 1コロン銀貨
1902年発行の50センティモ銀貨に加刻し、二倍の額面に変更
コスタリカ 1923年 50センティモ銀貨
1890年発行の25センタヴォ銀貨に加刻し、二倍の額面に変更
こうした処置は古代ギリシャでもみられました。
紀元前2世紀、地中海東部を版図としたセレウコス朝シリアでは、他地域との交易で得たコインに自国の印を加え、そのまま国内で流通させていたことが分かっています。
パンフィリア シデ 紀元前183年-紀元前175年頃 テトラドラクマ銀貨
アテナ女神像の兜部分に「錨」の加刻印
パンフィリア アスペンドス 紀元前190年-紀元前189年 テトラドラクマ
ゼウス神の右側に「錨」の加刻印
シデとアスペンドスは小アジア南部、パンフィリア地方(*現在のトルコ、アンタルヤ県)の古代都市であり、ヘレニズム時代には経済の中心都市として多くのテトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨を生産していました。
この両都市で発行されたコインは、交易を通じてセレウコス朝シリアの首都アンティオキアへ流入していました。
通常、交易によって得られた域外のコインは退蔵されるか溶解される場合が多いのですが、セレウコス朝は加刻を施して国内で再流通させました。
なお「錨」の刻印はセレウコス朝の象徴であり、セレウコス1世ニカトール王(在位:紀元前312年-紀元前281年)時代のコインにも刻まれています。錨を加刻することでセレウコス朝の権威を付与し、公式に認められている通貨として認識させる目的がありました。
セレウコス朝で発行されたテトラドラクマ銀貨は伝統的にアッティカ基準(*アテネのフクロウコインや、マケドニアのアレキサンダーコイン)を継承していたため、同じ基準で造られているコインは同じ価値で流通させることができました。溶解⇒再計量⇒打刻するよりも、ただ錨の印を打ち付けるだけで発行できる方が経済的と判断されたのでしょう。
しかし再流通させる目的から、錨の加刻印は基のデザインを損ねない位置(アテナ神の兜など)に狙って打たれており、一枚一枚丁寧に作業が行われていたとみられます。こうした作業は首都アンティオキアや、最初に造幣所が設置されたセレウキアなどの造幣所内で行われたと考えられています。
基となったコインの発行年代から、こうした加刻印コインは紀元前2世紀前半に生産されていたと推定されます。
同時期、セレウコス朝のアンティオコス3世(在位:紀元前223年-紀元前187年)は小アジアへ遠征し、シデを含めた地域を勢力下に置いたことから、この地域よりもたらされた戦利品とする見方があります。
また、ローマとの戦いに敗れ多額の賠償金を支払う必要から、正規の銀貨の製造が間に合わず、緊急処置として他地域から得たコインを利用したという説もあります。
いずれにせよ、古代コインの加刻印はほとんど場合誰によって打たれたものか不明ですが、ある程度まで特定できる例は大変珍しい存在です。
こうした加刻印コインは無傷のものに比べると人気は下がりますが、当時の経済状況や歴史的背景を考える上では貴重な史料となります。
後から付け加えられた刻印の意味を自由に推察するだけでも、より楽しさが増すように感じます。
アケメネス朝ペルシア 紀元前450年-紀元前330年 シグロス銀貨
表裏に打たれた刻印は銀品位の検印とも考えられますが、アケメネス朝の権威が及ぶ範囲外(*おそらくインダス方面)でコインとして流通していた痕跡とも推察できます。
キリキア地方 ナギドゥス 紀元前356年-紀元前350年 スターテル銀貨
「牛」の刻印は当地を支配していたアケメネス朝に関係すると考えられます。ギリシャ様式のコインにペルシア文化の印を打つことで、ゾロアスター教神殿への献納に用いたとする説がありますが、推測の域を出ず謎多き印です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:29 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月の台風シーズンを経て、少しずつ涼しくなってきましたね。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものです。
今月8日、イギリスの女王エリザベス2世が崩御されました。このニュースは世界中に影響を与え、日本のメディアでも連日のように取り上げられました。それだけ女王の存在感、影響力が大きかったことが窺えます。
在位期間は今年で70年、96歳であり、イギリスの歴史上最長・最高齢の君主として歴史に名を残します。今年は御在位70周年の「プラチナジュビリー」の式典にもお姿を見せ、崩御される2日前には新首相トラス氏への謁見と任命を行っており、最後まで君主としての役割を果たされました。
改めて女王の長きにわたる治世と生涯に敬意を示し、心より哀悼の意を表します。そして王位を継承されたチャールズ3世の御代が永く栄えあることを祈りたいと思います。
国葬は女王の生前から計画されていた通り恙無く挙行され、棺は父王ジョージ6世や母エリザベス王太后、前年に亡くなった夫のエディンバラ公フィリップ殿下と共に、ウィンザー城内の礼拝堂に安置されました。葬儀から葬列までの一連の儀式はイギリスのみならず世界中に中継され、時代の節目をリアルタイムで目撃することになりました。
女王の葬列はヴィクトリア女王(在位:1838-1901)の国葬以来およそ120年ぶりです。当時も60年以上に及んだヴィクトリア朝時代の終焉を見届けようと、多くのロンドン市民がつめかけて女王を追悼しました。
当時イギリスに留学していた夏目漱石も葬列を見送る群集のひとりとして、この歴史的な催行を目撃・記録しました。背の高いイギリス人に囲まれた夏目漱石は通りを見ることができず、下宿の主人に肩車をしてもらって女王の棺を見ることができたそうです。
1952年の即位から2022年の崩御まで、70年に亘って女王として君臨されたエリザベス2世は、現代を生きる人々にとって馴染み深い存在でした。在位中はイギリスと英連邦諸国で発行された数多くの切手と紙幣、そしてコインにそのお姿が表現されていました。直接会ったことがない、地球の裏側の国の人々にとっても、日常生活の中にある身近な人物です。
世界各国で採用されたエリザベス2世の紙幣肖像
70年に及ぶ治世の間に、コインの肖像は年相応のものに変更されていったことはよく知られています。最初は戴冠式が催行された1953年発行の英国コインに採用された、通常「ヤングヘッド」と呼ばれるタイプです。この頃のイギリスは十二進法の時代であり、まだシリングやフローリン、クラウンといったコインが流通していました。
イギリス 1958年 ソヴリン金貨
25歳で即位したエリザベス2世の若々しい姿を表現した肖像。王冠ではなく「月桂冠」を戴く、古代ローマから続く古典的な表現。当時71歳だったロンドン在住の女性彫刻家メアリー・ギリックが手掛け、6つの候補作品の中から女王自らが選びました。
この肖像はイギリスだけでなく、カナダやオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど英連邦諸国のコインにも採用されました。ただしイギリスやニュージーランドに比べ、オーストラリアやカナダ、南アフリカの造幣局で製造されたコインの肖像は打刻が弱く、不鮮明な肖像になっています。
イギリス 1981年 ソヴリン金貨
1971年に従来の十二進法から、1ポンド=100ペンスの十進法に変更されたのに伴い、シリングやフローリンは廃止され、新しいコインが発行されました。それに合せて女王の肖像も刷新され、ローブを纏いティアラを戴いた肖像に変更されました。この肖像は彫刻家アーノルド・マーチンの作品であり、同時期に発行された普通切手の女王肖像も彼の作品です。
この切手肖像は、切手収集家でもあった女王が特に気に入っていたとされ、現在までイギリスの普通切手に使用され続けています。同じくアーノルド・マーチンが手掛けたコインの肖像も、女王本人は気に入っていたのではないでしょうか。
イギリス 1988年 ソヴリン金貨
1985年から採用された第三の肖像は王冠を戴くタイプであり、彫刻家ラファエル・マクルーフによる作品です。頭像はより大きく、これまでより表情がはっきり分かるものです。女王らしい威厳に満ち、イギリスの君主に相応しい彫刻です。
イギリス 2006年 ソヴリン金貨
1998年からはイアン・ランクブロードリーによる肖像となり、老齢に達した女王の写実的な姿を彫刻しています。同時期のメディア等で目にするエリザベス女王の実年齢に合せた見た目になっており、大衆がイメージする女王の肖像そのままです。
イギリス 2019年 5ポンド銀貨
最後のコイン肖像はデザイナー、ジョディ・クラークの作品であり、2015年のデザインコンペで選ばれました。当時33歳のジョディ・クラークは匿名でコンペに応募し、作品は手彫りではなくコンピューター彫刻によって作成されました。
当時90歳になろうとしていた女王の姿を上品に、気品あふれる君主として巧みに表現した作品です。残念ながら他の肖像と比べると世に出ていた期間は短くなってしまいましたが、長期間在位した歴史的女王の最後の肖像として、後世まで根強い人気が保たれるでしょう。
治世当初はイギリスで発行されたコインの肖像⇒世界の英連邦諸国・植民地のコインに使用されるのが通例でしたが、各国の独立性に伴い、女王の肖像も国によって独自のものが採用されるようになりました。
発行国・地域や年代によって異なる女王の肖像を比べてみるのも興味深い収集方法です。
英領バミューダ 1964年 1クラウン銀貨
王冠を戴く「コロニアルヘッド」タイプは、香港やカリブ海地域など植民地のコインに表現されたタイプです。この伝統はヴィクトリア女王以来、大英帝国のコインに継承されています。
カナダ 2014年 5ドル銀貨
投稿情報: 18:21 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
まだまだ蒸し暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日が暮れると少し涼しくなったようにも感じますが、やはり日中は暑いですね。まだ夏は続きます。
今回はローマ帝国屈指の暴君として悪名高い「カラカラ」のコインをご紹介します。
ローマ帝国 216年頃 デナリウス銀貨
カラカラは3世紀初頭のローマ帝国に君臨したセウェルス朝の皇帝であり、父は北アフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルス、母はシリア出身のユリア・ドムナです。有名な胸像は日本でも美術室のデッサン見本として置かれており、一度は目にした方も多いのではないでしょうか。
カラカラ帝胸像
(ナポリ美術館)
188年に生まれたカラカラは当初ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスと名付けられ、10歳のときに父親が政敵たちを打ち破って皇帝に即位すると、過去の偉大な皇帝たちにあやかりマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルと改名しました。
現在広く知られている「カラカラ」という呼び名は渾名であり、本人が好んで着用していたフード付きチェニックの名に由来しています。
そのため、当時発行されたコインには「カラカラ」という名は刻まれず、正式名称のアントニヌスが称号銘文として使用されていました。銘文だけでは五賢帝時代のコインと混同してしまいますが、特徴的な肖像によって区別することが可能です。当時発行されていたコインの肖像と上の胸像を見比べると、この個性的で気性の荒そうな外見が見事に表現されていることが判ります。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
カラカラ帝はこの胸像から受ける印象の通り、気性が荒く粗野な人物だったようで、歴史書からは散々な評価がなされています。コインの銘文には「敬虔」を意味する「PIVS (ピウス)」の称号も添えられていますが、その実態は尊い称号には程遠いものでした。
彼には一歳違いの弟ゲタがいましたが、兄弟仲は子供の頃より不仲であり、やがて成長するにつれて帝位継承を巡る確執にまで発展します。両親は兄弟の不仲を長く心配していましたが、周囲の取り巻きたちはそれぞれの側に付いて対立を煽ったため、関係が修復する見込みはありませんでした。
ゲタの肖像が表現されたデナリウス銀貨 (199年-202年)
211年に父帝セプティミウス・セウェルスがカレドニア遠征の最中に没すると、兄弟はさっさと遠征を切り上げてローマに帰還し、共に皇帝として即位しました。かつてマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが兄弟で皇帝に即位したのと同じく、権威を分け合うことでセウェルス朝の安定を図りましたが、両者の対立はすぐに再燃してしまいました。
皇帝に即位したゲタのデナリウス銀貨(210年)
兄カラカラとよく似た印象の肖像。皇帝としての発行貨はわずか一年ほどでした。
カラカラは母親ユリア・ドムナを交えてゲタと会見し、その場で弟を刺殺して葬りました。さらにゲタの支持者や従者、彼に弔意を示したと見做された者まで、数多くの人々が粛清されました。その数はおよそ2万人に及び、中には自らの名の由来となった賢帝マルクス・アウレリウスの娘や、自らの妻プラウティラまで含まれていました。
プラウティラとカラカラの結婚を祝すデナリウス銀貨 (202年)
父セプティミウス・セウェルスによって決められた政略結婚でしたが、カラカラはプラウティラを忌み嫌い、陰謀の嫌疑をかけてカプリ島に追放しました。
そしてゲタの肖像や銘文をあらゆる公共の場から削除したほか、ゲタの姿が刻まれたコインすら回収して溶かしてしまったと云われています。
セプティミウス・セウェルス帝一家の肖像
(ベルリン博物館蔵)
左下の肖像が消されている人物はゲタとみられ、211年の大粛清後に手が加えたとみられています。
血塗られた粛清の嵐の後、単独の皇帝となったカラカラは後世に知られる大浴場(カラカラ浴場)の建設や、帝国内の全自由民にローマ市民権を与える勅令(アントニヌス勅令)を発するなど、絶大な権力を誇示する施策を実施します。
しかしやはりローマは居づらくなったのか、213年にカラカラは東方属州への巡幸へ出発し、以降二度とローマへ戻ることはありませんでした。
カラカラはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世, BC336-BC323)を崇拝しており、大王の真似をして東方へ足を延ばすことで現実逃避していたという説もあります。しかしカラカラはアレキサンダー大王と同じく兵士たちと共に行動し、その要望をよく聞きいれたため、結果的に軍団の支持を確固たるものにしてゆきました。
小アジアのペルガモンでは医術の神アスクレピオスの神殿に参詣し、さらに同時期のコインにもアスクレピオス神が表現されていることから、カラカラがこの医神を特に深く崇敬していたことが伺えます。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
この点からカラカラは身体に何らかの不調を感じており、そこから精神へ影響し、激しい怒りの感情を抑えられなくなったとみる説もあります。
幼少期のカラカラが熱病に罹った際、父セプティミウス・セウェルスは名医セレヌス・サンモニクスに診せたところ、彼はカラカラの首に呪文が書かれた布を巻き付け、これを治癒したといわれています。この呪文は今日「Abracadabra (アブラカタブラ)」として知られ、サンモニクスはその功績からカラカラとゲタの家庭教師・専属医に取り立てられました。
そのためカラカラ自身も医学に対する関心が高かったと考えられます。
なおサンモニクスはゲタ亡き後の大粛清に巻き込まれたとされ、この点からもカラカラが父の代の忠臣たちを一掃したことが伺えます。
エジプトのアレキサンドリアではアレキサンダー大王の墓を詣でた後、何らかの理由で数千人もの市民を虐殺しています。ローマを離れても医術の神や偉大な大王に詣でても、カラカラの狂気と凶暴性に変化がなかった様子が伺えます。
カラカラによる東方遠征の最大の目的は、父の代から続いていた東方の大国パルティアとの戦争に決着をつけることでした。これはローマのアレキサンダー大王を自認するカラカラにとって、ぜひ自らの手で成し遂げたい偉業でした。
各部隊は対パルティア戦に向けた演習訓練を繰り返し、8個軍団に及ぶ多くの兵力と物資が国境のシリア~メソポタミアへ集められました。
さらにアンティオキアやエデッサ、カルラエなどには兵士に支給するための貨幣を増産するため、新たな造幣所も設けられました。特に215年~217年にかけて多くのテトラドラクマ銀貨が製造され、いまなおシリアやイラクの砂漠地帯でまとまった状態で出土しています。流通痕跡の少ないコインは兵士たちへの給与として造られ、受け取った兵士がその後帰還できず、回収されずに残されたと見做されます。
キュレスティカ地方の都市ベロエア(※現在のシリア北部 アレッポ)で造られたテトラドラクマ銀貨。カラカラ帝の珍しい左向き肖像タイプ。
216年から始まったパルティア侵攻においてカラカラは有利に軍を進め、順調に目的を遂げようとしていた矢先、側近によって暗殺されこの世を去りました。行軍中、用を足していたカラカラは背後から近づいてきた近衛兵に背中を一突きされ、あっけなく治世を終えたのです。
カラカラの名は今日、有名なローマ皇帝の一人として知られていますが、単独の皇帝としての治世は5年ほどであり、そのうちローマに滞在していたのはたった1年でした。暗殺されたときは29歳であり、アレキサンダー大王が亡くなった年齢とほぼ同じでした。
不思議なことにカラカラ以降、パルティアやペルシアなど東方へ親征した皇帝は二度とローマへ帰還することなく、戦地で命を落とす例が続きました。
セプティミウス・セウェルス~アレクサンデル・セウェルスに至るセウェルス朝時代の皇帝たちのコインは比較的多く現存していることから、完集が容易なテーマとして知られています。
特にカラカラのコインは子供時代~単独皇帝時代まで数多くの種類が発行されており、肖像の変化を目で楽しむことが可能です。デナリウス銀貨だけでも豊富な種類があり、財政状況の悪化から銀の純度は50%ほどに下がったものの、その彫刻技術はそれを補って余りあるほどのクオリティです。
また東方属州で造られた属州のコインも、デザイン上興味深いものが多くみられます。
カラカラ 幼少肖像タイプ デナリウス銀貨
父帝セプティミウス・セウェルスによる対パルティア戦役の勝利を記念したタイプ
カラカラ 少年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 青年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 皇帝肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ帝と母親ユリア・ドムナが表現された銅貨
下モエシア属州(*現在のブルガリア)のマルキアノポリスで発行(198年-217年)
カラカラによる軍団への大判振る舞いや、軍事力の肥大化からくる財政支出は、コインの発行量を短期間で増加させました。このことが、現在の我々がカラカラのコインを入手しやすくしている要因でもあります。
215年にカラカラは貨幣の改革を実施し、深刻化する財政状況を改善しようとしました。一枚でデナリウス銀貨二枚の価値に相当すると称された銀貨は、実質的にデナリウス銀貨の1.5倍の重量しかなく、完全な名目貨幣でしたが、その後の軍人皇帝時代にはデナリウス銀貨を駆逐して主要貨幣にとって代わりました。
この銀貨は当時の正式な名称が判明していませんが、現在の貨幣学上ではカラカラの名にちなみ「アントニニアヌス」と呼ばれています。
デナリウスなど他のコインとは異なり、皇帝は月桂冠ではなく放射状の冠を戴いています。この伝統は後の皇帝たちが発行したアントニニアヌス銀貨にも継承され、視覚的にデナリウスとアントニニアヌスを見分ける一助になっています。
若き暴君としてローマ人の夥しい血を流したカラカラですが、短い治世の間に数多くの業績も残し、アレキサンダー大王と同じく様々な方面で語り継がれる皇帝となったのでした。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 11:59 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い陽気が続いていますね。6月後半の猛暑よりはましですが、それでも蒸し暑さは身体に堪えます。
昨今はコロナの感染者数が再び増え始めている様子で、気が休まる暇が全くありません。今回は社会活動を極力止めないそうですが、そうなると必然的に感染は拡大していくので、これまでとは異なる対応が必要です。
コロナと暑さ、両方の対策を心掛けて、自分の身は自分で守る他ないようです。今年の夏も何とか健康で過ごしたいものです。
今回は古代ギリシャで造られた鳩(ハト)のコインをご紹介します。
シキュオーン BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
表面には神話に登場する合成獣キマイラ(キメラ)、裏面には滑空するハトが表現された印象深いデザイン。ギリシャコインの中でもコレクションとして、またジュエリーとしても人気がある一種です。
キマイラはライオンの身体に蛇の尻尾を持ち、肩から山羊の頭が生えた奇妙な姿です。下部には発行都市シキュオーンを示す「ΣI」銘が配されています。
このコインが造られたのはペロポネソス半島北部の都市国家シキュオーン、現在のギリシャ,シキオナにあたる地域です。(*地図の左上)
シキュオーンはコリント湾から3kmほど離れた小高い台地の上に建設され、周辺地域にはオリーヴ畑や果樹園が点在していました。
長らく専制国家体制が続いていましたが、紀元前556年にスパルタが統治者を追放すると民主政に移行し、以降はスパルタや近隣のコリントと同盟関係になりました。
シキュオーンの劇場遺跡
神殿跡
古代ギリシャにおけるシキュオーンは芸術の都であり、数多くの優れた芸術家たちを輩出したことでその名が広く知られていました。シキュオーンの職人が手掛けた陶器や青銅器、木器は遠くエトルリアにまで輸出されたことから、当時より高く評価されていたことが伺えます。また芸術家たちを養成する美術学校も存在し、ギリシャ各地から彫刻家・画家志望の若者たちが集いました。後にアレキサンダー大王のお抱え絵師となるアペレスもシキュオーンで修業した画家の一人でした。
この地で発行されたコインもまた、現在の感性から見ても優れたデザインであることが分かります。
空を飛ぶハトは下から見上げた時の姿そのままであり、極めて写実性の高い表現です。また丸い形状の外枠に合うような構図は収まりがよく、現代の我々が目にしても違和感の無い、デザインとしての完成度も高い意匠です。
発行された年代や型によって細部が異なるのは、当時の彫刻師たちが個性を発揮した、技術の見せ所だったのかもしれません。
BC340-BC335 ドラクマ銀貨
BC100-BC60 ヘミドラクマ(=1/2ドラクマ)銀貨
この姿はシキュオーン(Σικυῶνος)の頭文字である「Σ」を見立てたものと言われ、翼の動きや身体の向きも一致しています。シキュオーンではこのハトが象徴というように、コインには滑空するハトの姿が表現され続けました。
ギリシャ神話におけるハトは美女神アフロディーテの聖鳥であり、また帰巣本能から伝書鳩として飼育されていました。しかし神聖かつ身近な鳥でありながら、シキュオーン以外にハトを大きく取り上げたコインを発行した都市はありませんでした。
当時の人々はハトがデザインされたコインを手にすれば、一目でシキュオーンのコインであることが分かったと思われます。
BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
BC100-BC60 ヘミドラクマ銀貨
「Σ」とは逆向きに飛ぶハトが表現された珍しいタイプ。嘴でヘビを咥える姿も他には無い表現です。
紀元前3世紀半ば以降、シキュオーンはコリントなどアカイア地方の諸都市から成る「アカイア同盟」に加盟し、統一規格の銀貨の発行・流通に伴って独自のコインは減少し続けました。紀元前1世紀に小さな単位の銀貨が再び発行されましたが、ギリシャを征服したローマの支配が強まるとついに造られなくなり、その後ハトのコインは流通から姿を消していきました。
アカイア同盟規格のヘミドラクマ銀貨 (BC196-BC146)
しかし2000年の時を経た今もなお、シキュオーンで発行されたコインは「芸術の都」に相応しい、優れた美術品として多くの人を魅了しています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:13 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
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