【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりですがまだまだ寒いですね。今年の2月は一日多く、少し得をした気分になりますね。その分、春の訪れも先延ばしになったように感じられます。一日も早く暖かい、過ごしやすい陽気になることを願うばかりです。
本日は古代ローマ帝国の皇妃ルキラとそのコインについてご紹介します。
ルキラ/コンコルディア女神
(AD166-AD169, デナリウス銀貨)
アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキラ(*Lucilla, ルッシラとも呼ばれる)はローマ帝国の黄金時代とされる2世紀半ばに生まれました。父親は哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウス・アントニヌス、母親のファウスティナは五賢帝の一人アントニヌス・ピウスの娘でした。
マルクス・アウレリウスとファウスティナの間には14人の子が生まれましたが、その多くは成人前に病没しました。ルキラの双子の兄ゲメルス・ルシラエも幼くして没しています。
アントニヌス・ピウス帝治世下に発行されたアウレウス金貨 (AD149, ローマ)
裏面には交差する二本のコルヌ・コピア(=豊穣の角)が表現され、上部には幼児の頭部が確認できます。これはルキラとゲメルス・ルキラエを表現したものとされ、皇帝の孫の誕生を記念する意匠となっています。
祖父アントニヌス・ピウス帝が崩御し、父のマルクス・アウレリウスが帝位を継承した161年、弟コンモドゥスが誕生します。アントニヌス朝の皇子として大切に育てられたコンモドゥスは、将来の皇帝として生まれた時から期待されていました。
一方でルキラもアントニヌス朝を盤石にするための役割を与えられました。
父マルクス・アウレリウスは即位にあたり、義理の弟であるルキウス・ウェルスを共同統治帝に指名し、兄弟共に即位しました。ルキウス・ウェルスはかつてハドリアヌス帝の後継者とされたルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの息子であり、マルクス・アウレリウスと共にアントニヌス・ピウス帝の養子となっていました。
マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウス帝は義弟ルキウス・ウェルスに自らの娘であるルキラを嫁がせることにより、二人の皇帝による共同統治体制を盤石なものにしようとしました。164年に結婚が成立。この時ルキウスは34歳、ルキラは15歳でした。
この結婚によりルキラは母親であるファウスティナと同じアウグスタ(=皇妃)の称号を得、彼女の姿を表現したコインが発行されるようになりました。
ルキラのデナリウス銀貨 (AD166-AD169, ローマ)
ルキラのコインはルキウス・ウェルス帝と結婚した直後の164年から、夫が亡くなる169年までのおよそ5年間発行されました。
すべてのコインには「AVGVSTA(=皇妃)」の称号が刻まれ、彼女が皇妃であった時期にのみ製造されたことが分かります。そのため確認されているコインの種類はファウスティナと比べて少なく、発行数も父や夫と比べると少なかったことが窺えます。
金貨・銀貨・銅貨もすべて同じ肖像のスタイルが採用されています。母親のファウスティナとよく似た髪形をしていますが、やや丸顔で幼さを残した印象です。
母ファウスティナのデナリウス銀貨 (AD161-AD164)
ルキラは夫のパルティア遠征にも付き従い、ローマを離れてシリアで過ごすようになります。この間に3人の子供を授かり、夫婦としての関係性は保たれていましたが、結婚から5年後の169年2月ルキウス・ウェルスは外征先で脳溢血に倒れ、そのまま崩御してしまいました。
ルキウス・ウェルスは神格化され丁重に葬られましたが、夫の死によってルキラは皇妃の称号を失うことになります。父マルクス・アウレリウスは後添えとしてティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス・クィンティアヌスというシリア出身の貴族と再婚させますが、これによって皇妃の身分を再び得ることはできず、格下げのような形になりました。
180年に父マルクス・アウレリウスが崩御すると、帝位は息子コンモドゥスに継承されました。哲人皇帝と称えられた父親と異なり、コンモドゥスは暴力的で自己顕示欲が強く、誇大妄想の傾向がみられました。この頃から姉ルキラと弟コンモドゥスの不和と対立が始まったと推測されています。
さらにコンモドゥスの妻であるクリスピナとも不仲であり、皇妃の称号を失ったルキラは宮廷から遠ざけられる状況に危機感を覚えていました。この頃からアウグスタの称号を添えたクリスピナのコインも発行され始めています。
コンモドゥスとクリスピナ
コンモドゥスは父マルクス・アウレリウスと似た風貌ですがやや目蓋が重い印象です。クリスピナはファウスティナやルキラと比べると細面で、首元が長く表現されています。
皇帝一族内の確執は単なる御家騒動に収まらず、やがてクーデターの陰謀として多くの人々を巻き込んでいきました。ルキラと夫クィンティアヌスを軸とし、元近衛長官パテルヌス、ルキラの娘プラウティア、夫クィンティアヌスの甥などが関与し、コンモドゥス帝暗殺計画が練られました。皇帝暗殺後はクィンティアヌスが皇帝に即位し、ルキラが再び皇妃の称号を得て復権する予定でした。
182年、皇妃クリスピナが妊娠したことを契機とし、コンモドゥス帝暗殺計画が実行に移されました。クィンティアヌスの甥が物陰に隠れ、近づいてきたコンモドゥス帝を短剣で刺し殺そうとしたものの、その際に「これが元老院からの贈り物だ!」と叫んだことですぐさま近衛兵に捕らえられ、計画は失敗に終わりました。
コンモドゥス帝は傷ひとつ負いませんでしたが、ただちに計画に関与した姉ルキラと夫クィンティアヌス、その子供たちを逮捕し、カプリ島に追放した後に当地で処刑しました。
こうしてルキラの復権の野望はあえなく潰えましたが、実姉に命を狙われたことや暗殺者の掛け声(=これが元老院からの贈り物だ!)はコンモドゥス帝の人間不信感情をより悪化させ、ますます政治から遠のき暴君・暗君の道を辿ることになったのです。
暗殺未遂事件から10年後の192年、コンモドゥス帝は近習の近衛隊長と愛人の策略によって暗殺され、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続いたアントニヌス朝は終焉しました。
権力闘争によって最期を遂げたルキラですが、暴君となった弟に処刑された悲劇性からか、後世の映画ではヒロインとして描かれることも多くあります。
『ローマ帝国の滅亡』(1964)
『グラディエーター』(2000)
『ローマ帝国の滅亡』ではソフィア・ローレン、『グラディエーター』ではコニー・ニールセンがルキラを演じました。どちらの作品でも弟コンモドゥスによって虐げられ、その暴政を止めようと尽力し、主人公によって救われるヒロイン像として表現されています。
伝わっている史実とはイメージが大きく異なりますが、映画作品としては見応えがありますので、気になる方はぜひご覧ください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
年の瀬になり一気に寒くなってきましたね。寒波の到来によって歳末感が増したように思います。
2023年も残すところあとわずかです。大掃除や新年の準備で忙しない時期ですが、どうか健やかに歳末を過ごされることを願っております。皆様にとって素晴らしい年明けになりますように。
本年最後の更新は「古代ギリシャコインの重量基準」についてご紹介します。
古代ギリシャのコインと一言で表しても、実際には広範囲かつ長い時代があるため、範囲によって基準が異なります。それらは地域的な特色や経済的・政治的背景が絡んでいますが、同じ「ドラクマ」「オボル(=1/6ドラクマ)」といった単位でも重量や品質は異なるのです。
そもそも現代のコインと異なり、古代のコインには額面が表記されていません。そのため金属の品位と重さが価値を決定する上で重要な要素になります。逆に言えば、それらの基準を満たしていれば、発行国以外の地域で通用することも可能だったのです。
初めてリディアでコインが発行された当時、銅貨は発行されていなかったため、エレクトラム貨も金貨も銀貨も極小のものが造られていました。それは基準となる1スターテルの1/2、1/3、1/12というように、細かく重さで調整する必要があったからです。最も小さい単位では1/48スターテルのコインも造られていました。ごく小さなコインを製造する人的な労力や高い技術力はコストとして見做されず、あくまで金属の重さが価値基準だったことを示しています。
リディア王国 BC620-BC539 1/12スターテル
金銀合金エレクトラムによって製造。わずか1.13g、7mmの極小コイン。
【リディア基準】
リディアで発行された基準はその後、当地を征服したアケメネス朝ペルシアに引き継がれます。広大な領域で流通したペルシアのダリック金貨とシグロス銀貨は、リディアの金貨・銀貨の基準に基づいていました。これらのコインは小アジアを中心に発行され、遠く中央アジアやインドでも流通しました。
アケメネス朝ペルシア BC485-BC450 シグロス銀貨
リディアの中心都市サルデスで製造。5.35gの銀で造られています。
【アイギナ基準】
ギリシャ本土において最初期に独自コインを発行した地とされるアイギナ島は、カメをコインに表現したことで知られています。アイギナ島は地理的条件からエーゲ海交易で栄え、そのコインも貨幣の基準として伝播していきました。
1スターテル銀貨は約12.4gあり、そこから重量を下げた1/2スターテル、1/4スターテルなどがありました。このうち1/2スターテル(=約6.2g)をドラクマとする場合もあります。
アイギナ島 BC525-BC475 スターテル銀貨 ウミガメ
この基準はエーゲ海島嶼部からペロポネソス半島に至るまで広い地域で採用され、テーバイやテッサリアでも取り入れられました。しかし紀元前5世紀にアテナイがアイギナ島を占領すると、経済的覇権もアテナイに移りました。
アイギナ島 BC404-BC350 スターテル銀貨 リクガメ
紀元前456年にアテナイに敗れたのを境に、コインの意匠はウミガメからリクガメに変化しました。
【アッティカ基準】
ペルシア戦争を経てデロス同盟の発展をみたアッティカ地方のアテナイは、他の都市国家を勢力下に置き、古代ギリシャ世界における覇権を確立しました。トラキアから産出される良質かつ大量の銀は、アテナイの富の源泉であり、発行するコインをギリシャ世界の交易決済通貨の地位に押し上げました。
アテナ神とフクロウの意匠でおなじみのテトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨は約17.2gあり、ほぼ純銀の高品質な銀貨でした。紀元前6世紀に製造が開始され、アテナイの最盛期ともいえる紀元前5世紀初頭には大量生産が開始されました。それらのコインは軍艦やパルテノン神殿の建設といった公共事業費、または他国との交易決済手段として用いられました。
なお、基準となる1ドラクマは4.3gですが、現存数はテトラドラクマと比べても圧倒的に少ない数です。これはテトラドラクマがギリシャ全土での需要を目的にしていたのに対し、1ドラクマはアテナイ内の市民間での取引に限られていたためと考えられます。同じ一打で1ドラクマを製造するならば、4倍のテトラドラクマを製造した方が経済的です。
アッティカ基準のフクロウコイン=テトラドラクマ銀貨は、エーゲ海を中心とする東地中海で広く流通しました。紀元前4世紀、ギリシャの覇権を握ったマケドニアのアレキサンダー大王は、東方遠征に伴い征服した各地で新しい銀貨を発行します。この際に広く受容されていたアッティカ基準を継承し、各地で1ドラクマとテトラドラクマを発行しました。
アッティカ基準はアレキサンダー大王の征服地拡大に伴いオリエントへ伝播し、アケメネス朝滅亡後のペルシア~中央アジアに根付いていきました。
【フェニキア基準】
フェニキアでは「シェケル」を単位とする独自の貨幣制度が発展し、およそ14.5gのテトラドラクマ銀貨が発行されました。フェニキア商人の取引範囲は広く、その経済的影響力からフィリッポス2世治世下のマケドニア王国やプトレマイオス朝エジプトでも採用されました。
プトレマイオス朝 BC255-BC254 テトラドラクマ プトレマイオス1世
プトレマイオス2世の治世下に発行
セレウコス朝 BC149-BC148 テトラドラクマ アレクサンドロス・バラス
フェニキアの都市ティルスで発行されたタイプ。アンティオキアタイプより軽量の14.18g、裏面は大鷲の意匠となっています。
【フォカイア基準】
フォカイア BC478-BC387 1/6スターテル アテナ女神
フォカイアで発行されたコインは裏面が四分割の正方形陰刻になっています。
多くの地域で金貨・銀貨・銅貨による貨幣体制が確立された後も、小アジアのフォカイアでは古典時代のエレクトラム(金銀合金)コインを発行し続けていました。最も大きな1スターテルは16gあり、一般的に多くのバラエティがみられる1/6スターテル(*ヘクテと称される)はおよそ2.7gほどの小さなコインです。この基準はキジコスやレスボス島のミュティレネと同じであり、これらの地域が経済的に強い結びつきを持っていたことを示唆しています。
キジコス BC550-BC450 1スターテル スフィンクス
表面に配されたマグロがキジコスの象徴です。
レスボス島 ミュティレネ BC521-BC478 1/6スターテル ライオン/子牛
【キストフォリ基準】
紀元前2世紀以降、小アジア西部のペルガモンでは蛇と籠が表現されたテトラドラクマ銀貨が発行されました。この銀貨はおよそ12.6gの量目を有し、籠(Cista)のデザインからキストフォリ(またはキストフォルス)の通称で知られ、ペルガモンやエフェソスを中心とする小アジア西部のギリシャ系諸都市で広く流通しました。
紀元前133年にペルガモンはローマの属州となりますが、キストフォリ銀貨は引き続き製造されました。現地では1枚で4ドラクマの価値がありましたが、ローマの貨幣制度では3デナリウスの重量にほぼ等しかったため、現地に駐屯するローマ兵への給与としても用いられていました。マルクス・アントニウス以降、デザインは人物の肖像に置き換えられましたが、重量基準自体はその後も長く継承されました。
エフェソス BC39 キストフォリ マルクス・アントニウス&オクタヴィア
今年も一年お読みいただきありがとうございました。来年もコインに関する情報を発信し、何らかの参考になれば幸いです。
来る2024年が皆様にとって素晴らしい年になることを願っております。
どうか良い新年をお迎えください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:53 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
11月も終わりすぐに師走。寒さも厳しくなり、一気に冬の様相を呈してまいりました。
今年も残すところあとわずか、暖かくして年越しの準備を進めたいですね。
今回は半鳥半獣の幻獣「グリフィン」のコインをご紹介します。
グリフィンは古代ギリシャ語のグリュプス(γρυπός=鉤)に由来し、その名の通り鋭い嘴の鷲の頭部と翼を持つ、胴体はライオンの合成獣です。
『鳥獣虫魚図譜』に描かれたグリフィン
(ヨハネス・ヨンストン, 1660)
古代ギリシャではヘロドトスやアイスキュロス、クテシアスの書物に記されましたが、そこでは中央アジアやコーカサス、インドといった遥か東方の地域に生息しているとされました。後世のローマではプリニウスが『博物誌』の中で言及し、エチオピアに生息する奇妙な生物として紹介しています。
これらの記述から、グリフィンは遠く離れた異国に生息している実在の生物と認識されていたようです。
ペルセポリスのグリフィン像
グリフィンはペルシアなどオリエントのレリーフに見られる半鳥半獣の図像に由来していると考えられています。これらの図像を目にしたギリシャ人が想像を膨らませ、さまざまな民間伝承を組み入れて実在の生物のように形作っていきました。そのため図像や記述は多く残されていますが、スフィンクスやキマイラのようにギリシャ神話の中にはほとんど登場しませんでした。
(*神々の車を牽く存在として言及される例はある)
神話世界の幻獣と認識されなかったため、キリスト教が浸透した中世以降もヨーロッパではグリフィンが伝承されていきました。鳥類の王と百獣の王が合体した姿から、王侯の紋章に取り入れられたり、キリストや教会の象徴とされる例も多くみられました。グリフィンは獰猛ながらも気高く神々しい生物とされ、西洋文化において好意的な意味合いの図像として定着し、採り入れられてきました。そのため今なお多くのファンタジー作品に登場しています。
ギリシャ神話に登場しないに関わらず、王者の風格を体現するグリフィンは印章のモティーフとして人気がありました。いくつかの都市ではコインの図像として表現され、古代コインの中でも特徴的な雰囲気を醸し出しています。
エーゲ海に臨するテオスはイオニア地方における主要な植民都市のひとつでした。現在のトルコ、イズミル県シアジク近郊に位置し、円形劇場やディオニソス神殿などの遺跡が発見されています。
テオスのディオニソス神殿跡
紀元前544年頃、イオニアへ侵攻したアケメネス朝ペルシアがテオスを占領すると、多くの市民がエーゲ海を渡って国外に脱出。亡命先はトラキア地方のアブデラ(*現在のギリシャ,アヴディラ)であり、多くのテオス人がこの都市に移り住みました。しかし後年、再びテオスに帰還した人々も多くおり、故郷の復興に尽力しました。テオスはアケメネス朝の宗主下に置かれたものの、イオニア地方における主要都市として復活し、長らくその地位を守り続けました。
遠く離れたテオスとアブデラの深い関係性を示す証拠として、当時発行されたコインがあります。二つ都市のコインには共にグリフィン像が表現されています。
テオス BC470-BC450 スターテル銀貨
アブデラ BC530-BC500 スターテル銀貨
両都市で発行されたコインには、当時のギリシャ人が想像したグリフィンの姿が立体的に、まるで実在する生き物のように表現されています。特に、背翼の表現には共通性が見て取れます。
テオスとアブデラでは長期にわたってコインにグリフィンの姿を刻み続けました。グリフィンが両都市の象徴として用いられたことは明らかです。
グリフィンが表現されたコインはテオス・アブデラの銀貨が名品として知られていますが、他の都市でもグリフィンのコインが発行されました。
アブデラ BC365-BC345 テトラドラクマ銀貨
パンティカパイオン BC310-BC303 銅貨
ローマ BC79 デナリウス銀貨
コイン上のグリフィンはさまざまな姿で表現されていますが、鷲の頭に長い耳、ライオンのようにしなやかな身体は不可欠の構成要素です。オリエントに由来する幻獣でありながら、都市や発行者を示す図像として美しく表現されました。ギリシャ・ローマにおいてグリフィンは単なる異国の怪物ではなく、自分たちの文化に取り入れられた存在として認識され、肯定的な意味を付与されました。
現在に至るまで、力強さや神秘性を象徴するグリフィンは創作の世界で生き続けてきました。古代から続くシンボリックな存在として、これから先の時代も受け継がれていくことでしょう。
西ドイツ 1979年 5マルク銀貨
ドイツ考古学協会創設150周年記念コイン
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:31 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
最近は集中豪雨や台風も増え、水害の心配も増えてきています。暑さが少しでも緩和されると良いのですが、外出のスケジュールも立てにくい時期ですね。涼しく過ごしやすい、秋晴れの日々が待ち遠しいです。
今回は中米グアテマラを象徴する鳥ケツァールのコインをご紹介します。
ケツァールは中米地域(=グアテマラ、ニカラグア、エルサルバドル、コスタリカ、ホンジュラス、パナマ)の山林に生息する鳥です。
紅と白、エメラルドグリーンのコントラストが美しい鮮やかな羽が特徴的で、かつてこの地に栄えたマヤ・アステカ文明では王や神官を象徴する羽飾りとして重宝されました。ケツァールは大気を司る神の化身とされ、その神々しさから崇拝の対象にもなっていました。
(wikipediaより)
キヌバネドリ科のケツァールは体長35cmほどですが、オスは長い尾羽を有しています。ケツァールの名は現地の古い言語で「大きく輝く尾羽」を意味し、尾羽まで含めると120cmほどの長さになります。優雅な尾羽をヒラヒラと靡かせながら天を舞う姿は、まさに神の鳥にふさわしい容姿です。一方で顔つきは小鳥らしいかわいらしさがあり、人々から長年愛される要素となっているようです。
また人間による飼育が大変難しく、飼育展示している動物園は世界的にもほとんどありません。
そして「捕らえると死んでしまう」という伝承から、近代に入ると何ものにも束縛されない「自由」の象徴として意味づけられるようになりました。
グアテマラ共和国はケツァールを「国鳥」として定め、国章の一部に取り入れています。
グアテマラ共和国の国章
書面にはグアテマラがスペインの植民地支配から独立した「1821年9月15日 自由」を意味するスペイン語銘が記されています。
グアテマラの位置
西北はメキシコ、東はベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルと接しています。面積は北海道と四国を合わせたほどですが、火山や湖、湿地帯や熱帯林などの豊かな自然と、温暖な気候に恵まれています。かつてはマヤ文明が栄えた地として知られ、ティカルのピラミッドをはじめ、数多くの古代遺跡も残されています。
1894年 1ペソ銀貨
グアテマラでは独立以降、スペイン統治時代のレアルやフランスフランと連動したペソ(5フラン=1ペソ)が通貨として導入されました。コインにはグアテマラの国章が大きく表現され、上にはケツァールの姿もありました。
第一次世界大戦を経て世界の金銀本位制が揺らいだため、1925年にグアテマラでは従来のペソを廃止し、新たな通貨を発行しました。新通貨単位はグアテマラの国鳥である「ケツァール (Quetzal)」の名がそのまま採用されました。
1ケツァール=100センタヴォとされ、当初はアメリカドルとほぼ等価に設定されていました。これはアメリカ資本によって国内経済を支配されていた当時のグアテマラの事情も大きく関係しています。
新通貨発行に伴い、コインのデザインも一新されました。従来の国章は変わりませんが、共通デザインとして通貨単位そのものであるケツァールがメインとして表現されるようになったのです。これがグアテマラを代表するコインとして世界的に知られる金貨・銀貨です。
1926年 20ケツァール金貨
表面には長い尾羽を垂らしたケツァールが表現されています。反対面の国章にも表現されていることから、両面共にケツァールが表現されていることになります。
※国章のケツァールは以前のタイプよりやや修整され、首の向きは右から左へ、長い尾羽は銃剣の背後から前へ変更されています。
柱の上にとまる優雅なケツァール、周囲部には新通貨発行の法的根拠を示す「LEY DE 26 DE NOVIEMBRE DE 1924 (=1924年11月26日法令)」銘が配されています。
柱に刻まれた「30 DE JUNIO DE 1871 (=1871年6月30日)」銘は内戦において自由主義派が勝利し、政権を樹立した記念日であり、自由の象徴であるケツァールと組み合わせて表現されています。なお、ケツァールが配された国章も1871年に制定されました。
この金貨は当時のアメリカの20ドル金貨と同じ金性90%、33.437gで造られています。製造はアメリカのフィラデルフィア造幣局が請け負いました。
このケツァール金貨は20ケツァール金貨、10ケツァール金貨、5ケツァール金貨が発行され、さらに1ケツァール銀貨、1/2ケツァール銀貨、1/4ケツァール銀貨、10センタヴォ銀貨、5センタヴォ銀貨にも柱のケツァールが共通して表現されていました。
大型銀貨の1ケツァール銀貨はその大きさから見事な風格がありますが、10,000枚製造後に7,000枚が回収・溶解されたため現存数は少なく、現在では貴重なコインの一種として高値で取引されています。
1926年 1/4ケツァール銀貨
銀貨の場合、初年号である1925年銘はアメリカのフィラデルフィア造幣局が請け負いましたが、1926年以降はロンドンの英国王立造幣局でも製造されました。ケツァールの表現はアメリカで製造されたものより線が太くなり、やや木彫り細工のような印象を受けます。銀貨はアメリカの銀品位90%と異なり、72%で製造されています。
1946年 1/4ケツァール銀貨
1946年以降はグアテマラ国内の造幣局が製造するようになりました。デザインや重量などは同じですが、圧印やリムがやや異なります。
1932年 5センタヴォ銀貨
1.6667g、15.5mmの極小さな銀貨。僅かなスペースの中に美しい羽のケツァールが微細に表現されています。
1950年代に入ると柱のケツァールを表現したシリーズはデザインが変更されました。しかし国章のケツァールは変わらず残され、通貨単位の「ケツァール」も維持され現在に至っています。現在でもグアテマラで発行されている紙幣にはすべての額面にケツァールの姿がデザインされています。
しかし本来のケツァールについては、宅地・農地の開発によって生息地が減少し、乱獲の影響もあり生息数を減らしているようです。人間の手による繁殖が難しいため、中米各国は自然保護区の管理を厳重にすることで数を増やそうと試みています。
美しさのみならず、自然の中でしか目にできないことから「見ると幸せが訪れる鳥」として観光資源にもなっているようで、結果的に自然保護区の維持にも役立っています。
神聖性や自由、幸福、環境保護、さらには通貨単位にいたるまで、人間たちに多くの意味を付与されてきたケツァール。今後も豊かな自然に守られながら、優雅にのびのびと舞い続けてくれると良いですね。
コンゴ民主共和国 2004年 5フラン白銅貨
世界の自然保護をテーマするシリーズとして発行されたカラーコイン
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:11 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続いていますね。夏が暑いのは当たり前ですが、かつては日差しが強くても日陰に入れば少しは涼しかったように思います。ですが昨今は外にいるだけで空気が熱く、サウナにいるより息苦しさを感じます。
外出も危険な日々が続きますが、健康に乗り切っていただければ幸いです。
今回は古代ギリシャ世界に大きな影響を与えたアケメネス朝ペルシアのコインをご紹介します。
ペルシアのコインを古代ギリシャコインのカテゴリーに入れるか否かは疑問もありますが、当時のギリシャ世界に大きな影響を与えたという事実は無視できません。
アケメネス朝は現在のイラン南部を起源とする王朝であり、紀元前550年に大国メディアを滅ぼしてイラン高原を統一したキュロス2世を始祖とします。
勢いに乗るキュロス2世は周辺諸国の征服にも邁進し、小アジアやメソポタミア、パレスチナ、フェニキア、中央アジアまで勢力圏を広げました。オリエント世界を統一する大帝国を築く過程で、紀元前547年に小アジアのリディア王国を征服したことが、アケメネス朝のコイン発行のきっかけとなりました。
最盛期のアケメネス朝ペルシアの版図 (紀元前500年頃)
リディア王国 1/3スターテル (紀元前620年-紀元前547年頃)
初期のコインは金と銀の合金エレクトラムによって造られ、リディア王を象徴するライオンが刻印されています。裏面の陰刻印は、表面の図像を打ち出すための打刻跡です。
リディア王国は世界史上初めて本格的なコインを製造した国とされ、クロイソス王の時代には金貨・銀貨を大量に発行して経済的な繁栄を謳歌しました。
クロイソス王のリディアを滅ぼしたアケメネス朝は、ギリシャ世界への影響力を得るため「貨幣」という新しい経済システムを保持・継承しました。
(*首都サルデス陥落後にクロイソスは処刑されたと伝わる一方、助命されてキュロス2世の顧問になったとも伝承されています)
リディアのコインは小アジア西部のギリシャ植民都市で広く流通しており、ギリシャ人の傭兵を得る上で重要な武器でした。アケメネス朝は引き続きリディアのコインを製造し続け、現地の傭兵を雇うことで小アジア支配を確固たるものにしていきました。
アケメネス朝支配下のサルデスで製造されたシグロス銀貨
(紀元前545年-紀元前520年頃)
*リディアの1/2スターテル銀貨に相当。クロイソス王の時代に発行されたコインとほぼ同じデザインですが、極印がややシャープになっています。
紀元前521年に王位に登ったダレイオス1世はリディア以来続いた「ライオンと牡牛」のデザインを一新し、新しくペルシア独自のコインに刷新します。
こうして発行されたのがダリック金貨とシグロス銀貨です。
ダリック金貨 (紀元前510年-紀元前450年頃)
ダリックは古代ペルシア語で「金」を意味する「ダリ」に由来します。品位98%の金8.4gという基準は、良質な牡牛一頭に対する遊牧民の相場に基づいているという説があります。
シグロス銀貨は品位90%の銀5.6gによって造られ、20枚でダリック金貨1枚の価値に相当しました。
シグロス銀貨 (紀元前505年-紀元前480年頃)
金銀はリディアだけでなく、アケメネス朝が到達した東端のインダス川からも砂金を調達しました。そのため高品質の金貨を大量に製造することが可能になったのです。ダレイオス1世にとっては独自の貨幣を発行し、王朝の強大な富の力を諸民族に誇示する狙いもあったと思われます。
コインには槍と弓を持って走る王、または弓を構える王の姿が表現されています。冠を戴く姿からペルシア王と認識されていますが、理想された祖先の英雄像という見方もあります。この意匠はオリエントの君主の武威を象徴した「ライオン狩り」の様子を表現しているとする説もあります。
(*初期のタイプは弓を構える姿であり、その後は武器を持って走るor跪く構図に統一)
ペルセポリスのレリーフ (ライオンと兵士たち)
ライオン狩りはオリエント世界では帝王の象徴的行為とされ、百獣の王であるライオンを打ち倒す姿は君主の武威を分かりやすく誇示する役割がありました。狩猟用の広大な敷地を整備し、放たれたライオンを王と従者、兵士たちが追いつめて討ち取る一大行事は軍事教練であり、王の神聖性や強大な権力を示す政治的パフォーマンスでもありました。
もしリディアコインの象徴的意匠である「ライオン=リディア王」を意識していると仮定すれば、ペルシア王のライオン狩りが新たな意匠に選ばれたのも納得できます。ライオン狩り=リディアの完全征服を示し、リディアの経済的地位はアケメネス朝が継承したことを表しているのかもしれません。
この意匠は弓矢が槍やナイフに置き換わったり、ひげや顔つきに変化がみられるなど時代によって差異はありますが、ダレイオス1世以降一貫して同一の構図が守られていきました。
裏面はリディアのコインと同じく長方形の陰刻印が確認できます。
シグロス銀貨 (紀元前480年-紀元前420年頃)
シグロス銀貨 (紀元前420年-紀元前375年頃)
シグロス銀貨 (紀元前375年-紀元前336年頃)
貨幣経済が発達したギリシャと密接な小アジアやフェニキアとは異なり、エジプトやメソポタミア、ペルシア本国では貨幣経済が未発達のままでした。納税は金貨や銀貨でも行われましたが、市中では現物取引が一般的であり、物産品による献納が定着していました。アケメネス朝の支配領域は東西に広く、地域ごとの文化や経済の差異が大きい点も特徴でした。
アケメネス朝の君主は「シャーハンシャー(=諸王の王)」と称され、多種多様な民族と地域の上に君臨することを示しています。そのため貢納と兵力の提供、宗主権を認めれば現地の慣習を保持することを容認していました。ギリシャ人社会の貨幣制度を採り入れ、ペルシア風でありながらも保持し続けたのもその一環です。また小アジアにはアケメネス朝に服属したギリシャ系植民都市もあり、それらの都市では独自のコイン発行が認められていました。
しかしペルシア人による支配は徐々にギリシャ人の反発を蓄積し、紀元前500年には小アジアのイオニア地方で大規模な反乱が勃発。その背後にはアテネなどギリシャ本土の援助があるとして、ダレイオス1世は大軍勢を送り込んでギリシャ征服を目指します。
こうして始まったペルシア戦争(紀元前492年-紀元前449年)はギリシャ史における重要な時代となり、その後のギリシャ諸都市の勢力関係にも大きな影響を与えます。
この戦争において、アケメネス朝はペルシア人だけでなく多くのギリシャ人傭兵も動員しています。ギリシャ人の相手をさせるにはギリシャ人が最適ということで、各地から傭兵をかき集めて戦力として投入しました。傭兵を集める上でも、ダリック金貨やシグロス銀貨が使用されました。また、ギリシャ本土の都市国家間の結束を揺さぶるため、親ペルシア的な有力者にも金貨銀貨が贈り関係性を維持しました。
ダリック金貨 (紀元前375年-紀元前336年頃)
紀元前4世紀以降は図像が細密化し、より写実性の高いものに変化しました。
半世紀に亘った戦いの末、結果的にペルシアのギリシャ征服は失敗に終わりますが、その後も硬軟織り交ぜた形でギリシャへの影響力を保持し続けました。後にギリシャを二分したペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)やコリントス戦争、神聖戦争ではペルシアのダリック金貨が飛び交い、各国を買収して戦争を長期化させることに成功しました。
また小アジアは依然としてアケメネス朝の勢力圏にあり、ギリシャに対する大きな脅威であり続けました。
小アジア南部のキリキア地方の都市マロスで造られたオボル銀貨
(紀元前390年-紀元前385年)
重量はギリシャの基準で造られていますが、デザインはペルシア様式が色濃く反映されています。
しかしマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)による東方遠征が始まると、小アジアのペルシア軍は次々に駆逐され、ダレイオス3世自らが出征したイッソスの戦いでは大敗を喫しました。ダレイオス3世が戦場から敗走したことでアケメネス朝に対する求心力は急速に失われ、その後はフェニキア、エジプト、メソポタミアを失い、ついにはペルシア本土も失うことになりました。
イッソスの戦い (紀元前333年)
(ポンペイのモザイク画)
200年以上オリエント世界を統治したアケメネス朝はアレキサンダー大王によって滅ぼされ、その後はギリシャのアッティカ基準による統一通貨が広く流通することになりました。遠征軍はアケメネス朝が貯め込んでいた莫大な量の金銀を獲得し、それらを自分たちのコインを発行する原材料としました。
ペルシア王の姿を刻んだダリック金貨やシグロス銀貨も戦利品として溶解され、新たな支配者となったアレキサンダー大王(ヘラクレス像)の姿を刻んだコインに変えられたのです。
アレキサンダー大王も中央アジア~インダス川まで支配権を広げ、各地にギリシャ人の植民都市を建設しました。これらの都市では後にギリシャ系の王朝が興り、ギリシャ式の独自コインが数多く発行されることとなります。
ギリシャ文化圏と接していた西方とは異なり、東方では物品経済が一般的だった(*献納や納税も現物によって行われた)ため、アケメネス朝の貨幣はあまり流通しなかったとみられています。しかし現地ではパンチマーク(小打刻印)が打たれたコインが出土することから、領域を超えた地域でも地金の価値として取引されていたとみられます。
加刻印が打たれたシグロス銀貨
銀の品質を確認した際に打たれたとみられ、刻印があることでアケメネス朝の領域外でも金属的価値が認められたと考えられます。それぞれのモティーフは月や太陽、幾何学文様など多種多様ですが、こうした加刻印はバクトリアやインドなど東方地域にみられます。
西方のリディアで製造されたコインがアケメネス朝の交易ルートを通じ、遠く離れた東方にまで到達していたことを示しています。アケメネス朝の支配領域の広大さと多様さを物語る史料といえます。
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投稿情報: 18:11 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
6月に入り梅雨らしい雨模様が続いております。湿気の多い毎日は過ごしにくいですが、梅雨が明けると後は猛暑がやってきます。エルニーニョ現象やラニーニャ現象など、異常気象をもたらす自然現象は毎年のことですが、今年の夏は過ごしやすいと良いですね。
今回はエルニーニョ現象でも知られる南米のペルーで発行された金貨をご紹介します。
ペルーは太平洋に面した南アメリカ大陸の国であり、国土面積は日本の3.4倍。南北に伸びた国土にはアンデス山脈からアマゾンの熱帯雨林、乾燥した砂漠地帯まで多種多様な気候風土に恵まれています。かつてインカ帝国が栄えた歴史から、マチュピチュ遺跡やナスカの地上絵など世界的に知られる名所も数多く存在します。
1821年にスペインから独立して以降、諸勢力間での内紛が絶えず、周辺諸国との度重なる戦争も重なり政情はなかなか安定しませんでした。
スペイン統治時代から鉱山の開発が行われたため、豊富な金銀に恵まれたペルーは良質な金貨や銀貨を発行し続けました。しかしチリとの戦争(太平洋戦争, 1879-1884)に敗れたペルーは領土の一部を喪失し、硝石の採掘と輸出が困難になったことから、経済的な不振に見舞われました。
そこでペルー政府は通貨改革を実施して物価を安定化させると共に、19世紀末に進展した金融の国際化にも対応しようとしました。
ペルー 1898年 1リブラ金貨
1898年、当時の世界各国の通貨政策基準となっていた金本位制に基づく新通貨「リブラ」が発行されました。
ペルー経済に強い影響力を及ぼしていたイギリスの「スターリングポンド」にリンクさせた通貨であり、1リブラは1ポンドと等価に設定されました。そのため1リブラ金貨はイギリスのソヴリン金貨と同じ金性(Gold917)・重量(7.9881g)・サイズ(22mm)で製造されました。外国との決済でも用いることのできる国際通貨として定着させる狙いがあったものとみられます。
通貨単位の「リブラ(libra)」はもともとラテン語で「天秤」を意味し、古代ローマでは重さの基準単位として使用されました(*1リブラ=約327.4g)。
イタリア語やスペイン語では現在もそのまま重量の単位として使われています。(*但し重量は国や時代によって変化している)
イギリスではリブラが「ポンド(*ラテン語で「重さ」を意味するpondusから)」と称され、時代の変化と共に重量単位⇒通貨単位にまで発展しました。
そのためポンドの通貨記号はリブラの頭文字であるL=£であり、ペルーがイギリスのポンドにリンクした金貨を導入する際、「リブラ」を通貨単位に選んだ理由が分かります。
しかしそのデザインはペルーの独自性を表現したものであり、優れた技巧の彫刻作品として世界にも通用する完成度です。南米版のソヴリン金貨として、国際通貨としての役割を期待されていたことがうかがえます。
表面にはペルーの先住民である「インディオ」の男性像が表現されています。大きな耳輪と羽飾りを付けた姿であり、アマゾン地域で生活する先住民を理想化したモデル像とみられています。
下部には1リブラを意味するスペイン語「UNA LIBRA」銘、上部にはペルーの「VERDAD I JUSTICIA (=真実と正義)」銘が配されています。
先住民を表現したコインとしてはアメリカ合衆国のインディアン金貨(5ドル&2.5ドル)が広く知られていますが、ペルーではそれよりも先に発行されていました。
裏面にはペルー共和国の国章が表現されています。上部には光り輝く太陽、周囲部には「REPUBLICA PERUANA (=ペルー共和国)」銘と造幣都市リマを示す「LIMA」銘、造幣局の試金官を示す「R・OZ・F」銘が配されています。
金貨の製造はペルーの首都リマの造幣局で行われました。リマ造幣局はスペイン統治時代の1565年に設立された長い歴史を持ち、鉱山開発によってもたらされた大量の金銀を精錬、加工していました。ただしリブラ金貨の製造はリマ造幣局だけは目標に追いつかず、アメリカのフィラデルフィア造幣局がプランシェット(*型押しする前の円形平金素材)を供給したこともありました。
また1902年からは1/2リブラ金貨も発行され、1/2ソヴリン金貨との互換性を高めようとしてことが窺えます。また1906年には独自の1/5リブラ金貨も発行が開始されました。
ペルー 1908年 1/2リブラ金貨
サイズは縮小されていますが、両面のデザインは同じです。こちらもイギリスの1/2ソヴリン金貨と同規格で製造されています。
リブラ金貨は金本位制の導入によって国際通用性を高めるために発行されましたが、国内で流通していたソル銀貨(*Solはスペイン語で太陽を意味する)にも対応するため「1リブラ=10ソル」の交換価値が設定されていました。
ペルー 1887年 1ソル銀貨
1863年に新通貨ソルが導入された際にも、通貨価値を安定させるために当時世界中で採用されていたフランス・フランの基準を取り入れて「1ソル=5フラン」と定めました。そのため1ソル銀貨はフランスの5フラン銀貨と同じ基準で製造されました。
しかし1914年-1918年の第一次世界大戦、1929年の世界大恐慌を経て世界経済は大きな変化を迎えます。従来の金本位制の維持は難しくなり、主要な国々で事実上停止されていったのです。イギリスも例外ではなく、19世紀以降続いてきたソヴリン金貨の発行と流通は難しくなりました。スターリングポンドと連動していたペルーもその影響を受け、1930年には金本位制を停止しました。
ペルー 1931年 50ソル金貨
1930年から発行されたインディオ金貨はコレクター向けの大型金貨として製造され、海外の収集家や資産家に買い求められました。裏面に金性(Gold900)と総重量(33.436g)が明記されるのは、南米のコインにみられる特徴の一つです。
1950年以降「リブラ」はペルーの正式な通貨単位としては廃止されますが、リブラ金貨そのものは地金型金貨として1969年まで製造され続けました。既に貿易決済通貨として使用されることはありませんでしたが、ペルーを代表する金貨として外貨獲得の手段になりました。ペルー版ソヴリン金貨は期待された本来の役割を終えた後も、ペルー経済安定のために役立ったのです。
地金型金貨として製造されたリブラ金貨(1966年銘)
デザインや規格は発行開始当初と同じですが、刻印彫刻はよりシャープになっています。
投稿情報: 16:24 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
まもなく大型連休、ゴールデンウィークの時期です。今年はコロナの規制がほぼ無くなり、3年ぶりに例年通りの賑やかさが戻ってきそうです。人の移動も盛んになり、観光地も忙しくなりそうですね。
ワールドコインギャラリーの定休日は水曜日ですが、憲法記念日の5月3日(水)は通常営業を行います。
5月最初の一週間は休まず営業しておりますので、連休中はぜひお越しください。皆様のご来店・お問い合わせをお待ちしております。
今回は小アジア(*現在のトルコ)のカッパドキアで造られたコインをご紹介します。
紀元前281年のカッパドキア王国
カッパドキアといえば奇岩群で有名な世界遺産があり、トルコを代表する名所として世界中から観光客が集まります。アナトリア高原の中央部に位置し、冬の寒さは厳しく降雪量の多い土地でもあります。
カッパドキアの奇岩群
またギリシャ~ペルシアの中間地点である地理的条件から、古代より大国間の交流・衝突の場にもなりました。紀元前6世紀に小アジアの大半がアケメネス朝ペルシアの支配下に入ると、カッパドキアには太守が派遣され、独立した行政州として統治されました。太守をはじめとする支配層の多くはペルシア人であり、アケメネス朝の支配下ではペルシア文化が根付いてゆきました。
なおカッパドキアの名称はペルシア語で「美しい馬の国」を意味する「カトパトゥク (Katpatuk)」が由来になっているとされ、同州の特産品として本国に献上されていたと考えられています。
紀元前4世紀にアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の東方遠征が始まると、カッパドキアのペルシア人はマケドニア軍に反抗しましたが、アケメネス朝そのものが滅ぼされると太守アリアラテスは王を自称し、アリアラテス朝カッパドキア王国が成立しました。その後はマケドニアやセレウコス朝に従属するも、紀元前3世紀後半には再び自立しました。
カッパドキア王国はアケメネス朝支配下で設置されたカッパドキア州に由来する経緯から、ペルシア文化が根強く残された点が特徴でした。王や貴族はペルシア貴族の末裔であり、アケメネス朝で信奉されていたゾロアスター教(拝火教)の神殿が国内に多く建立された他、独自の暦も制定しました。首都のマザカ(*現在のトルコ,カイセリ)はペルシア風都市として建設され、周辺には複数の砦が築かれて強固な防衛線を成していました。
王名「アリオバルザネス」「アリアラテス」はペルシアの名であり、その血統のルーツを示しています。ペルシア語やアラム語が広く用いられ、さながらペルシアの内陸飛び地の様相を呈していました。
一方でセレウコス朝やペルガモン王国といった周辺のギリシャ系王朝の影響も受け、時代が経るとヘレニズム文化が定着するようになりました。
特にヘレニズム文化が顕著に反映された例がコインでした。
表面には王の横顔肖像、裏面にはアテナ女神とギリシャ文字による称号という、典型的なヘレニズム様式のコインが多く生産されるようになりました。
ここで示された称号は王を表すペルシア語の「シャー」ではなく、ギリシャ語の「バシレイオス」が用いられました。
アリアラテス5世のドラクマ銀貨
表面にはダイアデム(王権を示す帯)を巻いたアリアラテス5世の横顔肖像、裏面には武装したアテナ女神像が表現されています。右手上には勝利の女神ニケを乗せ、周囲部には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΑΡΑΘΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ (=王たるアリアラテス 敬虔者)」銘が配されています。
下部の「ΓΛ」銘は王の治世33年目(=紀元前130年)を示し、製造年の明記がカッパドキアのコインの特徴として継承されました。王の肖像は代が替わると変更されましたが、アテナ女神像はそのままだったことから、王家はアテナ女神を守護神として崇敬していたようです。
アリアラテス5世はペルガモン王国と同盟して領土を拡大させた王であり、首都マザカはコインにも示されている王の敬称「ΕΥΣΕΒΟΥΣ」に因み一時的に「エウセベイア」に改称されました。
アリアラテス7世のドラクマ銀貨 (BC108-BC107)
紀元前2世紀末になると小アジアのヘレニズム諸国の紛争は激しさを増し、カッパドキア王国を統治してきたアリアラテス朝の内部でも権力闘争が行われました。若くして即位したアリアラテス7世は隣国ポントス王国のミトリダテス6世の後ろ盾で王位に就いたものの、傀儡になることに反抗したため暗殺されました。
アリアラテス9世のドラクマ銀貨 (BC89)
アリアラテス7世を排除したミトリダテス6世はカッパドキア国内の混乱に乗じ、弱冠8歳の王子を送り込みアリアラテス9世として王に即位させました。
コインの肖像も父親であるミトリダテス6世に似せた造型になっています。
この内乱状態に際し、有力貴族のアリオバルザネス家はローマの支援を受けて反攻し、紀元前96年にアリオバルザネス1世が王位を宣言しました。
その後ビテュニア王国やアルメニア王国も干渉しカッパドキアの内乱は激しさを増しましたが、最終的にポントス王国がローマに敗れた(第一次ミトリダテス戦争)ためアリアラテス9世は追放され、アリオバルザネスの王権が確立されました。(=アリオバルザネス朝)
アリオバルザネス1世(在位:B96-BC63)のドラクマ銀貨
アリオバルザネスは先のアリアラテス朝の様式を踏襲してコインを発行しました。アリオバルザネス1世は在位期間が長かったことから、肖像も若年像⇒中年像⇒老年像と変化がみられます。
裏面のアテナ女神像も継承されていますが、アリオバルザネスがローマの後援を受けて王位に就いたことを示す「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス ローマの友)」銘が配されています。
「ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=ローマの友)」はアリオバルザネス朝のコインの特徴的銘文であり、その後100年のカッパドキア王国は周辺諸国との安全保障上、常にローマの同盟国であり続けました。
アリオバルザネス3世(在位:BC51-BC42)のドラクマ銀貨
裏面には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ ΚΑΙ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス・エウセベス 敬虔にしてローマの友)」銘が配されています。この頃になるとカッパドキア王はローマ元老院の認証をもって王位を宣するようになり、名目上は同盟国でも事実上は属国となっていました。
アリオバルザネス3世はローマ内戦において当初ポンペイウスを支持したものの、勝敗が決するとカエサルに鞍替えして領土を拡大させました。そのため後にブルートゥスが小アジアへ拠点を移した際、裏切り者の王としてカッシウスによって処刑されました。
同時代のローマの地理学者ストラボンの『地理誌』によると、まだゾロアスター教の神殿や風習、社会身分制度が色濃く残されており、かつてこの地を支配したアケメネス朝の名残がみられる独特な王国として知られていたようです。アリオバルザネス朝もペルシアにルーツを持つ貴族の出身であり、その古い文化を尊重しつつも政治的な思惑も絡み、ギリシャ・ローマ化を推進していました。
紀元前1世紀、アリオバルザネス朝時代のカッパドキアは事実上ローマの属国でしたが、名目上は独立した王国として存続していました。しかし最後の王となるアルケラオスはローマ皇帝ティベリウスの弾劾を受け、その直後の紀元17年に没すると、ローマは王国を廃して「カッパドキア属州」として直接統治下に組み込みました。首都のマザカはカエサルの名を冠する「カエサレア」と改称され、東方への交通要衝として二個軍団と補助部隊が常駐しました。この改称名は現在の都市名「カイセリ」として定着しています。
独立を喪失した後のカッパドキアでは、ローマ本国とは異なる独自のコインが発行されました。カッパドキアの地理的重要性から、ローマ軍団やローマ人が多数常駐したため、彼らへの大量の給与を現地で生産・支払う必要があったこと、さらに交易の要衝として経済的にも発展したため、経済活動が活発化したことがその理由です。一国並みの大きな経済圏を有していたため、ローマは自国の通貨をそのまま供給せず、現地に定着したドラクマ幣制を維持して属州内で独自コインを流通させました。
コンモドゥス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD181-AD182)
カッパドキア属州で発行されたドラクマ銀貨には、表面に皇帝の横顔肖像、裏面にはカッパドキアの名峰アルガエウス山(=エルジェス山)が抽象的に表現されています。周囲部にはカッパドキアの奇岩群、頂上部には輝く星があることから、当時の山岳信仰を象徴する意匠とみられます。
皇帝の称号は全てギリシャ語で表記され、裏面の下部には製造年が配されており、王国時代のコインを部分的に継承しています。ただしコインの重量は軽減されており、インフレーションの緩やかな進行が垣間見えます。
アルガエウス山 (=エルジェス山, 標高3,916m)
カイセリから南に25kmの位置に聳える火山であり、カッパドキアの独特な奇岩群はこの火山の噴火によって形成されたと考えられています。ギリシャ神話に登場する百目の巨大怪物アルゴス(*ラテン語でアルガエウス)からその名が付けられました。
セプティミウス・セウェルス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD206)
裏面アルガエウス山の上部には属州都市カエサレアで製造されたことを示す「MHTΡ KAICAΡ (=首都カエサレア)」銘が配されています。
ゴルディアヌス3世治世下のドラクマ銀貨 (AD240-AD241)
3世紀末にディオクレティアヌス帝の貨幣改革が実施されると、共通規格の銅貨が帝国各都市で大量に製造され、属州毎に製造されていた多種多様なコインは造られなくなりました。カッパドキアも同じく独自コインは製造されなくなり、王国時代の名残は消えていったのでした。
カッパドキア王国~属州時代のコインはドラクマ銀貨が主流であり、日常的に使用するコインだったことから大量に生産されました。そのため現在でも年代順に集めることが可能であり、コレクションや研究対象として面白いテーマになりそうです。
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こんにちは。
3月になり一気に暖かくなってきましたね。今年は桜の開花も早く、各地でお花見日和です。コロナの規制も緩和され、マスク無しで外出される方も増えたように感じられます。花粉症の方々には厳しい季節ですが、春の訪れとともに明るい空気が戻ってくれば幸いです。
今回は3月ということで、3月=Marchの語源となった「マルス」とそのコインをご紹介します。
マルスは古代ローマの軍神であり、特に兵士たちに崇敬されていました。当時の男性名「マルクス」「マリウス」「マルティヌス」などはマルス神にあやかってつけられた名前です。
ローマの主神のひとつとして篤く信奉されましたが、もともとは田畑を守る農耕神とされていました。そのため農耕が始まる季節がマルス神の月とされ、そこから3月=Martius=Marchとして定着するようになりました。
また、火星を示す「Mars」もマルス神が由来になっています。火星を示す惑星記号「♂」はマルス神の槍を図案化したものとされ、現在では男らしさ=雄を示す記号としても定着しています。
雪解けの季節は軍事行動を開始する時期とも重なることから、ギリシャ神話のアレス神と同一視されて軍神としての性格も帯びるようになりました。
しかし戦闘の狂気を引き起こし、暴力的性格の強いアレスとは異なり、ローマにおけるマルスは都市国家と兵士たちの守護神として大切に信奉されていました。その神像は筋骨隆々とした男性(主に青年像)として表現され、兜を被る姿が多く見られます。
また、ローマ建国神話では建国者ロムルス&レムス兄弟の父親とされ、ローマのルーツとなった神として認識されていました。
マルスとレア・シルウィア
(ルーベンス作, 1617年頃)
アルバ・ロンガの王女レア・シルウィアは巫女として生涯独身を運命付けられるも、マルス神に見初められて軍神の子を懐妊。生まれた双子の男児ロムルスとレムスはティベリス川に流されますが、流れ着いた岸辺で雌狼に助けられ命を繋ぎました。この伝承はマルス神の聖獣が狼であることも大きく関係しているようです。
マルス神の姿は共和政時代からコインの図像として盛んに表現されていました。その姿は兜を被った青年の姿であり、本来の農耕神としての性格はほとんど見受けられません。征服戦争が盛んだった紀元前2世紀以降、デナリウス銀貨が兵士への給与として支払われたことを鑑みると、軍神が貨幣の意匠に取り入れられるのは極めて自然なことでした。そのため、裏面には兵士たちの勇ましい姿が多く表現されていました。
紀元前137年に発行されたデナリウス銀貨には兜を被るマルス神が表現されています。その兜には麦穂の飾りがあり、農耕神としての性格を併せ持つことを示しています。
裏面には「ROMA」銘の下に三人の男たちが表現されています。中央の男が軍に入隊するに伴い、二人の兵士が立会人(*左側の兵士は髭を生やし、腰も曲がっていることから古参兵、または年長の老兵とみられる)として儀式を執り行う様子とみられます。抱かれた子豚はマルス神に捧げられる犠牲獣と解釈できます。
紀元前108年頃に発行されたデナリウス銀貨には、勝利の女神ウィクトリアとマルス神が表現されています。裸のマルス神は兜を被り、戦勝トロフィーと長槍を携えています。腹筋が割れた姿で表現され、男性的な肉体美を強調しています。一方で右側には麦穂が配され、農耕神としての性格も示されています。
紀元前103年発行のデナリウス銀貨にはマルス神の横顔像と、戦う兵士たちの姿が表現されています。中央には膝から崩れ落ちる兵士も表現され、細かい部分までリアリティを追及している構図です。
ガリア戦争中の紀元前55年に発行されたデナリウス銀貨。表面のマルス神はトロフィーを背負い、戦勝を誇示する姿です。裏面にはローマの騎兵と打ち倒されるガリア兵たちが表現されています。
紀元前76年のデナリウス銀貨にはマルス神と羊が表現されました。牡羊座の守護神はマルスとされ、星座との関係性を示す意匠です。
紀元前88年のデナリウス銀貨には肩越しのマルス神が表現されています。肩には革紐を襷がけし、槍を持って遠くを見据える凛々しい青年像です。
裏面は馬戦車を駆ける勝利の女神ウィクトリアが表現されています。
帝政時代以降もマルス神は国家守護の主神として篤く信奉されました。
皇帝のコインには度々マルス神の姿が登場し、皇帝個人の武勇と兵士たちの長久を祈念しました。外征などの大規模な戦役が行われた場合、コイン上にマルス神が多く表現されたようです。
初代皇帝アウグストゥスの治世下に発行されたデナリウス銀貨。紀元前19年頃に造られたこのコインには、敵から奪った戦車が納められたマルス神殿が表現されています。アウグストゥスはユリウス・カエサルを暗殺したブルートゥスたちを打ち破った記念として、ローマ市内中心部のフォルム(広場)にマルス・ウルトル(復讐のマルス)神殿を建立しました。最終的な完成と奉納は紀元前2年5月12日とされることから、コインには計画段階の姿が表現されたとみられます。
トラヤヌス帝は積極的な領土拡大策によってローマ帝国の版図を史上最大にしました。ダキア征服後の114年~116年頃に発行されたデナリウス銀貨には、戦勝トロフィーを担いで堂々と歩むマルス神の姿が表現されています。当時はパルティア遠征の最中であり、ローマの軍事的成功を祈念する意匠として採用されました。
ハドリアヌス帝治世下の121年頃に製造されたデナリウス銀貨。裏面のマルス神像は先帝トラヤヌスのコインをそのまま継承した構図。ハドリアヌス帝はトラヤヌス時代の領土拡大路線を見直し、現状維持に努めたことで知られます。この年代はハドリアヌス帝が属州巡幸を開始した時期と重なり、各地の駐留軍団への視察が影響した意匠ともみられます。
投稿情報: 18:02 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりに近づき、段々と暖かくなってまいりました。梅や河津桜があちこちで咲き始め、春の足音を感じます。
今回は古代ローマ帝国で流行したコインジュエリーについてご紹介します。
現代でもコインを使用したペンダントやリング、ブレスレットなどのジュエリーは人気がありますが、古今東西コインをジュエリーの素材として用いる文化は広く見られました。
西洋でコインジュエリーが定着したのは、2000年前のローマ帝国からだと考えられています。初代皇帝アウグストゥスは古代ギリシャのコインを趣味的に収集していたと伝えられることから、既にこの時代にはコインが経済的意味だけでなく、歴史・文化・デザインの面から評価されていたことが窺えます。
アウグストゥス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
(大英博物館所蔵)
2世紀の五賢帝時代、ローマ帝国は安定的な繁栄によって市民生活にも余裕ができ、貴族や富裕層の間で華美な装飾が流行しました。より手軽な色ガラスや色石、輝石、カメオを使用したブローチなどは幅広い階層で用いられましたが、より富裕層は金を用いて存在感を示したのです。こうしたジュエリーの着用は男女を問わず、メダルや勲章など政治的な意味合いを持つ記念品も多く作成されています。
ジュエリーの素材として最も人気があったのは金でした。現代以上に金の採取が難しくコストがかかり、また経済的な資材としての役割が大きかった金は、身に着ける資産としても重要であり、着用者の社会的地位と経済力を誇示しました。
貴重な素材を加工する彫金技術は、現代の進んだ技術力と比べても非常に高度でした。コインという小さな素材に枠を巻き、周囲に輝石をはめ込む技術は、照明すら不完全な2000年前の工房を想像すると驚異的な技術です。
デキウス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
裏面の縁は伏せ込み型の金枠になり、周囲には縄目紋様の装飾枠が追加で巻かれています。
セプティミウス・セウェルス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
上図の金貨と同じように伏せ込み型の枠が巻かれています。金具がつけられていた位置から推定すると、裏面(=月と星)を表面にして使用していたとみられます。
表面と裏面から銀枠を重ね合わせており、コインの大きさに合わせた二つの枠を作製⇒貼り合わせていたことが分かります。
ジュエリーにコインが使用されている点は、その作品の制作年代を推定するのに非常に役立ちます。現存しているコインジュエリー、特に金貨を用いたものの多くは3世紀以降に造られています。
フィリップス・アラブス帝のアウレウス金貨を用いたブローチ
(3世紀後半に作成か, 大英博物館所蔵)
金の安定的な供給によって金貨の発行数が増えても、その多くは資産として退蔵されたり、東方との交易決済用として国外に流出していました。そのため金貨を用いたジュエリーがどれほど贅沢な装飾品だったか、想像に難くありません。ローマ人にとってジュエリーは単なるおしゃれとしてではなく、資産の保全であり、また護符(お守り)として一生身に着けるものでした。そのため貴重な金貨をジュエリーに加工することも抵抗は無かったかもしれません。
しかし当時のコインジュエリーと現在のコインジュエリーについて決定的に違う点は、ローマ時代のコインに表現された皇帝・皇妃たちはリアルタイムの権力者だった可能性が高い点です。
一般的に金貨のジュエリーを身に着けていたのは高位の人物だったと考えられており、一説には現皇帝に対する忠誠を示すための意味もあったとされています。
現存するコインジュエリーの多くが、豪奢で一族専制的なセウェルス朝以降に作成されていることから考えても、決して無関係でないように思われます。使用されているコインだけでなく、それらを用いた作品も時代の空気を反映させています。
エラガバルス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
フランスのボーレン, またはアラスで出土。発見時は8つの金貨ペンダントとセットになっており、他にハドリアヌス帝、小ファウスティナ妃、コンモドゥス帝、カラカラ帝、ユリア・ドムナ妃、ポストゥムス帝のアウレウス金貨が使用されていました。
政治的なアピールや宗教的な意味合いもさることながら、コインに美術的価値を見出していた点は、現代人との感性の共通を感じさせます。輝石や貴金属、カメオと並んでコインもジュエリーの素材として用いる文化は、帝政時代の古代ローマで定着したといえるでしょう。
現在作成されているコインジュエリーも、今後は貴重な作品として評価される日がやってくるかもしれません。職人による手作業の工芸作品である点もさることながら、電子決済・キャッシュレスの時代におけるコインの存在義について、後世に形として伝える意義もあると考えられます。また、金を常日頃から身に着ける資産保全性は、古代も現代も、そして将来も変わらないでしょう。
コインジュエリーは「貨幣」として生み出されたコインを装飾品に生まれ変わらせた芸術作品です。古代ローマ人のようにお守りとして、身に着ける資産として大切にする精神を重んじたいと思います。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
寒波が日本列島を覆い、連日厳しい寒さが続いていますね。
新年がスタートして早一ヶ月、2023年の1月もまもなく終わりですが、くれぐれも健康管理には気をつけてください。
今回は「兎年」にちなみ、古代ギリシャのウサギのコインをご紹介します。
古代ギリシャにおけるウサギのイメージはイソップ童話『ウサギとカメ』にも描かれているように、身軽で俊足の小動物とされ、現代と大差の無いものでした。
しかしペットや家畜としての飼育は一般的ではなく、山野に生息する野生動物という認識だったようです。繁殖力が強いためしばしば畑を荒らす害獣と見なされ、猟犬を用いたウサギ狩りも広く行われていました。山野に入れば数多く見られる一方で、俊足で鳴き声を出さない(ウサギには声帯が無い)ため、武人による鍛錬を兼ねた狩猟としては格好の獲物だったのです。
ギリシャ文化において身近なウサギは、度々コインのデザインにも取り入れられました。特に有名なものは、マグナ・グラエキア(*イタリア半島~シチリア島のギリシャ人入植地)の植民都市レギオンとメッサナで発行されたコインでした。
シチリア島 メッサナ テトラドラクマ銀貨 (BC425-BC421)
レギオンはイタリア半島の南端近く、ブーツのつま先に位置する植民都市であり、現在のレッジョ・ディ・カラブリアにあたります。
紀元前493年、レギオンの僭主アナクシラスは対岸シチリア島の都市ザンクレ(現在のメッシーナ)に兵士を送り込み、海峡両岸の統一支配を目論見ました。紀元前490年には自ら軍を率いて海峡を渡り、ザンクレを支配することに成功します。
この時、自身のルーツでもあるギリシャ本土のメッセニアから新たな入植者を集めたため、都市の名を「メッサナ」に改称しました。
(※ギリシャのメッセニア地方はスパルタによる支配を受け、農奴的地位に置かれた住民による反乱が度々勃発していた)
レギオンによるメッサナ支配は30年に亘って続き、その間両都市では共通デザインのコインが発行されることとなりました。そのコインが冒頭でも紹介したウサギの銀貨です。
紀元前480年にアナクシラスはオリンピア競技大会においてラバのチャリオット競争で優勝し、これを讃える意味も込めて新たなコインを発行しました。
二頭のラバが牽くチャリオットの上には、勝利の女神ニケが飛来し、優勝を祝福しています。
反対面には飛び跳ねる野ウサギが表現され、躍動感に溢れています。周囲部にはメッサナで発行されたことを示す「MEΣΣANION」銘が配されています。
ウサギの下部に配されたイルカ、チャリオットの下部に配された二頭のイルカは、海峡両岸の二つの都市メッサナとレギオンを示しているとみられます。
左はレギオン、右はメッサナで発行。跳ねるウサギは全く同じですが、都市銘文はそれぞれ「RECINON」「MESSANION」となっています。文字が反転している点も共通しています。
コインに表現されたウサギは多産繁栄の象徴として、または戦車競走の優勝=俊足性を象徴する目的で表現されたと考えられます。
紀元前476年にアナクシラスが没すると息子たちがレギオンとメッサナを統治しましたが、短期間で僭主の座から追放されてしまいました。レギオンでの政治的混迷が続く中、紀元前461年にはメッサナが独立性を回復し、海峡両岸の都市は再び別個の都市となりました。
しかしレギオンの支配から解放された後もメッサナはかつての名称ザンクレに戻さなかったことから、アナクシラスが送り込んだメッセニアからの入植者たちは去ることなく、この地に定着したと考えられています。
興味深い点は、レギオンにおいてウサギ/チャリオットのコインはアナクシラス~息子の統治下でのみ発行されたのに対し、メッサナでは独立を回復した後も作られ続けていたことです。ウサギのコインは紀元前396年にカルタゴ軍の侵攻と破壊を受けるまで、細部を徐々に変化させながらも80年以上にわたって発行されました。
かつてアナクシラスの偉業を讃える記念品として発行されたコインは、シチリア島の都市メッサナの象徴的コインとして定着しました。この点からも、新たに入植者として送り込まれたメッセニア人たちが、同郷にルーツを持つアナクシラスを支持し続けていたことが伺えます。
ギリシャ本土でテーバイとスパルタの対立が深まった紀元前370年頃、マグナ・グラエキアに離散していたメッセニア人たちはテーバイの指導者エパミノンダスによる呼びかけに応じてメッセニアに帰郷し、スパルタから独立して新都市メッサナを建設しました。この同名の新都市で発行されたコインにはウサギが表現されていないことから、ウサギはメッセニアの象徴ではなく、アナクシラス個人に帰属する意匠だったものと推察されます。
テーバイとスパルタの攻防の経緯・背景はこちらの小説で詳しく描かれています。
著者:竹中愛語
出版社:幻冬舎
発売日:2023年1月17日
※表紙をクリックするとAmazonの詳細ページにリンクします。
紀元前4世紀、スパルタとアテナイを退けてギリシャの覇権を得た都市国家テーバイの歴史を、実在した英雄エパミノンダスとペロピダスの友情を通して描く歴史小説です。著者はお世話になっているお客様で、普段は京都の大学で東洋史・古代ギリシャ史を研究されています。表紙のイラストに描かれた円盾は、弊社で御買い上げいただいたテーバイのコインに着想を得てデザインされたそうです。
テーバイが短期間ギリシャの覇権を得たことは高校世界史などでも触れられていますが、ペルシア戦争やペロポネソス戦争等と比べるとその言及はごく僅かであり、詳細な背景は省かれることが多いようです。今作品ではテーバイの興隆にスポットを当て、マケドニア王国勃興前夜のギリシャを把握する上で貴重な一冊にもなっています。主人公であるエパミノンダス、ペロピダスを軸に物語は進み、王子時代のフィリッポス2世をはじめとする個性的な人間模様、都市国家間の外交的駆け引き、臨場感溢れる戦闘描写を通してドラマティックに描かれた小説です。
2400年前の物語を血の通った人間ドラマとして追体験できる、古代ギリシャ史に関心のある方にはオススメの新刊です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 12:54 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
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