【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
いよいよ大型連休がはじまりました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
今年は例年と異なり、歴史的な行事が目白押しの連休です。
4月末日には30年に亘った「平成」の時代が幕を下ろし、明けて5月からは「令和」の時代が始まります。
長い歴史の中で見ればほんの一瞬のことですが、今を生きる我々からすればとても感慨深い瞬間です。
年末年始の大晦日~お正月のような高揚感があってもよいはずなのですが、気候の良い時期、10連休ということもあって比較的落ち着いているようにも感じられます。
さて、元号も「令和」に改まった5月1日、古代ギリシャの大英雄 アレクサンドロス大王 (マケドニア王 アレクサンドロス3世)の長編伝記が出版される運びとなりました。
著者は日頃お世話になっているお客様で、普段は京都の大学で東洋史を教えていらっしゃいます。先日、完成した著書を頂戴し、一足早く読ませていただきました。
下巻の表紙を飾るコインは、以前納めさせていただいた「象の毛皮を被るアレクサンドロス大王」のテトラドラクマ銀貨ということで、大変嬉しく思いました。
こちらの著書は構想から四半世紀、資料の収集と研究を重ねて書き上げられたそうで、そのボリュームもさることながら内容も濃密であり、詳細な点まで裏づけがなされていることが分かります。
『彗星のごとく―アレクサンドロス大王遠征記―』上・下巻
著者:竹中愛語
出版社:文芸社
発売日:2019年(令和元年) 5月1日
※表紙をクリックするとAmazonの詳細ページにリンクします。
上巻では父王フィリッポス2世の物語からはじまり、アレクサンドロスの誕生、新興勢力として登場したマケドニア王国の勃興、若きアレクサンドロスが王位に登るまで、周辺諸国との戦い~ペルシア戦役が描かれています。
下巻ではアレクサンドロス大王の東方遠征からインド到達、その間に起こった様々な戦いや事件、そして大王の死とその後が活写されています。
特に本著が読み込ませるのは、大王本人と周囲の人々だけでなく、敵方の行動や心理描写も丁寧に綴られているからでしょう。マケドニア軍と対峙したアケメネス朝ペルシアの内部の事情や権力闘争、それぞれの思惑なども描写され、読み進めるうちに敗者となるはずのペルシア側にも感情移入してしまいました。
通史的な歴史書とは異なりセリフや行動の描写が活用されていることから、臨場感も持って読むことができ、時間を忘れて読み進めてしまいました。様々なエピソードや伝説に彩られたアレクサンドロス大王の伝記、通史を楽しみながら知るには最適の作品です。
物語の中にはマケドニア軍陣中の兵士の様子や、大王が金銭面で悩む様子も描かれており、当時のコインもこうした場面で手にされていたのかと想像しました。また遠征中に登場した古代都市の名も、コインの発行地を巡るような心持ちでした。
あまり細かく書いてしまうと読む楽しみが無くなってしまうので控えますが、読んでいるうちに大王の生涯に引き込まれ、さながら遠征行軍を共にしているような気持ちになりました。大王の生涯は30年余り、間も無く終わろうとする「平成」の期間と重なりますが、彼と周囲に生きた人々にとっては非常に濃密な時間だったことでしょう。
2300年前に生きた一人の青年の生涯が、その後の世界を運命付け、今もなお語り継がれているのは感慨深いことです。大王が到達できなかったアジアの、さらに東の果てでも伝記が綴られていることを知れば、アレクサンドロス本人も大いに喜ぶのでないでしょうか。
新時代を迎える5月1日(水・祝)に発売が始まるアレクサンドロス大王伝、この連休中にオススメの著書です。
平成の時代もブログをご覧戴き、誠にありがとうございました。新しい令和の時代を迎えましても、ブログは更新していきたいと思いますので、今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
良い連休を、そして楽しい時代を迎えられますように。
3月も終わりに近づき、各地で桜が開花しています。
まだ肌寒さも感じられますが、着実に春の訪れを感じることができます。
いよいよ4月1日には「平成」の次の元号が発表されます。どのような元号になるのか非常に気になるところです。
30年を越えた平成も残すところあと1ヶ月、来る新しい時代が、穏やかで楽しい御世になって欲しいものです。
さて、今回はクレオパトラの娘「クレオパトラ・セレネ」のコインをご紹介します。
プトレマイオス朝エジプト最後の女王となったクレオパトラ7世は「絶世の美女」の代名詞として、今なお世界中でその名が知られています。
しかしその娘がクレオパトラの死後も生き残り、後に異国の女王となったことはあまり知られていません。
クレオパトラ・セレネと伝わる頭像
紀元前39年頃、クレオパトラ7世とローマの英雄マルクス・アントニウスとの間に双子が誕生します。それぞれ男子と女子だったことから、男子は「アレクサンドロス・ヘリオス」、女子は「クレオパトラ・セレネ」と名付けられました。ヘリオスはギリシャ神話の太陽神、セレネは月の女神とされ、神話上でも兄と妹の関係で語られます。
この時、二人の兄としてカエサルとクレオパトラの間に生まれた男子カエサリオンがおり、後に弟としてプトレマイオスが誕生します。四人の子供たちはプトレマイオス朝の宮廷が置かれたアレクサンドリアで育ち、唯一の女子だったセレネも王女として大切に育てられたとみられています。
しかし紀元前31年、マルクス・アントニウスとエジプト軍はローマのオクタヴィアヌスとの戦いに敗れ、エジプトはローマ軍によって占領されます。マルクス・アントニウスと女王クレオパトラ7世は自決し、エジプトはローマに併合されたことでプトレマイオス王朝は終焉を迎えます。
アントニウスとクレオパトラの最期
この顛末は映画や演劇の古典としてよく知られていますが、もっぱらクレオパトラとアントニウスの最期をクライマックスとしている為、その後二人の子供たちがどうなったのかはほとんど語られていません。
クレオパトラとアントニウス亡き後、遺児である四人の子供たちは、両親の政敵であるオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)に引き取られローマへ移送されました。
この際、長子カエサリオンはカエサルの息子であるため、カエサルの後継者として権力を手にしたオクタヴィアヌスによって殺害されたと云われています。残された三人はオクタヴィアヌスの姉であり、かつてマルクス・アントニウスの妻だったオクタヴィアのもとに預けられました。
オクタヴィアとオクタヴィアヌス(アウグストゥス帝)
オクタヴィアは最初の夫マルケッルス、二番目の夫アントニウスとの間にも子どもをもうけていたため、総勢十人近い子供たちの面倒を見ることになりました。傍目から見ればオクタヴィアの生涯は苦労の連続のように見えますが、こうした振る舞いからローマ女性の美徳の象徴して見做されるようになります。
セレネは兄ヘリオス、弟プトレマイオスと共にローマ市民として養育され、オクタヴィアヌスの庇護の下、教養高い貴人として成長します。しかし母クレオパトラや父アントニウスとは異なり、容姿や人柄に関する伝承の類はほとんど残されていません。
そのため、少女時代のセレネが過ごしたローマでの生活は不明な点が多く、また不思議なことに、双子の兄ヘリオスと弟プトレマイオスの消息はいつしか不明となり、いつ頃亡くなったのかも定かではありません。
この時代、領土を拡大したローマは各地の首長や王の子弟をローマで教育し、ローマ人の高等教育を身につけさせる方策が採られました。これは人質の意味合いも含まれていましたが、各地の土着勢力を完全排除するのではなく、その後継者にローマ的教育を施すことで親ローマの政権を配置させる狙いです。
ちょうど同じ頃、アフリカから連れてこられた一人の王子がローマで教育を受けていました。北アフリカ、ヌミディア王国のユバ2世です。
父親のユバ1世はポンペイウスの同盟者であり、内戦期にカエサル軍と対峙した後に敗北、第二次ポエニ戦争時のマシニッサ王以来続いたヌミディア王国は滅亡します。ユバ2世はやはりローマへ引き取られ、カエサル、続くオクタヴィアヌスの庇護の下で英才教育を受けていました。ユバ2世はギリシャ・ローマ文化への造詣を深め、自然科学の研究や詩作も行う教養深い文化人として成長します。
北アフリカの王家出身であり、親を殺し王朝を滅ぼした敵であるローマで養育されたユバ2世とセレネは、この時点で既に多くの共通点がみられます。
紀元前27年、オクタヴィアヌスが「アウグストゥス(尊厳者)」として帝政を確立した頃、北アフリカの統治者としてユバ2世を配置する計画が持ち上がります。かつてヌミディアと同じく北アフリカの同盟国だったマウレタニアは、現在のアルジェリア北部~モロッコ北部にまたがる領域を占める、原住民のムーア人(マウリ人)が建てた王国でした。ローマの属国となるも現地の王系が断絶したため、この統治をユバ2世に任せる計画でした。
黄色の範囲がマウレタニア王国の版図
ルーツを北アフリカに持ち、王家の血統も申し分ないユバ2世は、高貴なローマ市民として育てられた理想的人物でした。何より、彼はアウグストゥスの側近の一人として信頼されていることから、ローマ属国の王として、また北アフリカの原住民を統治する上で相応しい存在だったのです。
紀元前25年、マウレタニア王となったユバ2世はおよそ20年ぶりにローマから北アフリカへ戻ります。
ユバ2世はマウレタニアの首都イオルをカエサルに因み「カエサレア」と改称し、ギリシャ・ローマ風の都市への再編を推進しました。地中海に面したカエサレアにはローマ風の円形劇場や神殿が建設され、宮廷には彫刻をはじめとする芸術作品が集められました。王自身も創作や自然科学研究に携わり、カエサレアは短期間で風光明媚な文化都市となりました。
カエサレアは現在のアルジェリア、シェルシェルにあたり、同都市からはギリシャ・ローマ風の遺構やモザイク画が大量に出土しています。
期待通りローマの忠実な同盟者となったユバ2世の地位をさらに強化するため、アウグストゥスは王とよく似た背景を持つセレネをユバ2世と結婚させました。紀元前20年頃に結婚したセレネは、そのままローマを離れてマウレタニア王国の宮廷へ移住しました。
セレネがマウレタニアでどのような活動を行ったかは定かではありませんが、夫と共にギリシャ・ローマ文化の普及に尽力した可能性は充分に考えられます。地中海世界で最も教養高い女王と云われたクレオパトラの娘であり、ギリシャ系であるプトレマイオス王朝の血統を引いています。幼少期はエジプトの宮廷、少女期はローマの上流社会で育てられたセレネは、母親や夫にも劣らないほどの教養人だったのではないでしょうか。
ユバ2世の治世中に発行されたコインはローマと同じくデナリウス銀貨であり、ここでもローマとの近しい関係性が伺えます。表面にユバ2世の肖像、裏面に宗教的デザインを表現した、帝政ローマスタイルのコインです。
紀元前20年にセレネがマウレタニアに入ると、コインの裏面にはセレネの肖像と「BACIΛICCA KΛEOΠATPA(女王クレオパトラ)」の銘文が刻まれるようになります。このことから、セレネはマウレタニアの女王、共同統治者と見做されていた可能性もあります。
ユバ2世とクレオパトラ・セレネを表現したデナリウス銀貨。このコインには大きく分けて二つのタイプがあり、ひとつはギリシャ・ローマ風の写実的な表現の肖像、もうひとつはケルトコインやアラビアコインなどの模造コインにみられる抽象化された肖像です。また、肖像が右向き、左向きなどの違いもみられます。
①抽象化された表現のデナリウス銀貨
②より抽象化が進んだタイプ
③さらに抽象化されたデザイン
これらは全て彫刻師が異なると推定されていますが、おそらく最初に腕のよい職人がギリシャ・ローマ風のデザインを彫刻し、その後現地人の職人がそれを手本として型を彫刻したため、バラエティが見られると思われます。上記の4点は全て1907年にモロッコのエル・クサールから出土したものであり、同時期に多様な造型のデナリウス銀貨が流通していたことを示しています。
いずれにせよ、ギリシャ・ローマ文化に造詣が深かった夫婦のコインとして、最初のタイプの肖像が本人に最も似ていると推定されます。絶世の美女と謳われた女王の娘は、コインの肖像を一見する限りローマの貴婦人であり、際立った特徴は見られません。しかしこの肖像から、母親であるクレオパトラ女王の姿を想像することもできそうです。
裏面には象の毛皮を頭に被る女性像が表現されています。これはローマでよくみられた「アフリカを象徴化した女神像」と解釈されますが、一方でセレネの肖像がもとになっていると考えられます。
同時代にローマで作成された、クレオパトラ・セレネと伝わる銀製の胸像。アフリカの女王として表現され、上のコイン肖像と類似しています。
一方でセレネの肖像はなく名前だけ刻んだコインも確認されており、代わりに彼女の出自であるエジプトに関係するようなモティーフが配されています。
裏面には「BACIΛICCA KΛEOΠATPA (女王クレオパトラ)」の銘文と共に、エジプトの女神イシスの冠とシストラム(古代エジプトの楽器)が表現されています。
月と星が表現されたタイプ。セレネの名が月に由来することを示しています。
クロコダイルが表現されたタイプ。おそらくナイルワニと見られています。エジプト出身の女王をワニに例えるのは不敬に感じられますが、かつてオクタヴィアヌスがローマで発行したデナリウス銀貨にも同じデザインが用いられています。
ローマ BC28 デナリウス銀貨
ワニと共に「AEGVPTO CAPTA (エジプト捕囚)」銘が配されたコイン。オクタヴィアヌスによるエジプト征服を記念したデザインであり、ユバ2世のコインはこのデザインをそのまま取り入れているとみられます。これ以外にも、ユバ2世はオクタヴィアヌス(アウグストゥス帝)が発行したコインのデザインを数多く取り入れ、自らが発行したコイン上に忠実に再現しています。ユバ2世とアウグストゥス帝、マウレタニアとローマの深い関係性をそのまま反映しています。
裏面にセレネの名銘はありませんが、古代エジプトの聖牛アピスが表現されています。ユバ2世のコインの特徴は、ローマコインを完全に模倣したとみられるものと、古代エジプトの信仰が表現されたものが同時期に発行されている点です。当時のマウレタニア王国の宮廷はユバ2世の影響により、ギリシャ・ローマ文化によって彩られていたとされていますが、セレネは母国であるエジプトの文化を取り入れ、普及していた可能性もあります。また当時のマウレタニアの民衆の間でも、エジプトの信仰が浸透していたのかもしれません。
ちなみに表面のユバ2世はライオンの毛皮を被っており、自らをヘラクレスに模していたことが分かります。これはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)にもみられる表現であり、自身を神話上の神に重ねています。ローマのオクタヴィアヌスの場合はアポロ神に重ねていました。
セレネは結婚からおよそ25年後に亡くなったとされ、マウレタニアの地に葬られました。しかしセレネのコインは彼女が亡くなった後も造られたとみられており、亡くなった後に事実上神格化されたとも解釈できます。
マルクス・アントニウスとクレオパトラの娘に生まれ、マウレタニアの女王として激動の生涯を終えたセレネについての記録は非常に少なく、生活ぶりや人柄は計り知れません。しかし残されたコインの肖像を見ると、様々なことが想像できます。エジプト、ギリシャ、ローマという多様なルーツを持つセレネは、教養人である夫を支え、かつ新しい文化の薫りをもたらしたことでしょう。共通の境遇を背景に持つユバ2世とセレネは、共に様々なことを語り合える、仲の良い夫婦だったと思いたいものです。
ユバ2世とセレネのものとされる陵墓 (アルジェリア)
マウレタニア王家の墓と伝わる巨大な陵墓。ユバ2世とセレネも共に葬られたとされますが、19世紀にフランスの調査隊が入った時点では既に盗掘されていました。
セレネが亡くなった17年後、夫であるユバ2世も亡くなり、二人の子であるプトレマイオスが王国を引き継ぎました。クレオパトラ7世の孫として、プトレマイオスの名が再び王として登場したのです。しかしローマの属国であることに変わりはなく、プトレマイオス王は40年頃にカリグラ帝によって殺害されます。カリグラ帝の後継となったクラウディウス帝はマウレタニアを再編し、二つの属州に分割して統治することを決定します。こうしてマウレタニア王国はセレネの子を最後にして消滅しました。
ユバ2世とセレネが築いた王国の威光は、現在はモロッコとアルジェリアの各地に散らばる遺跡によって目にすることができます。コインもそうした遺物の一種ですが、現存するコインはどれも希少であり、特にセレネの横顔を刻んだものは母親クレオパトラ7世のコインに劣らないほど高値で取引されています。
なおマウレタニア(Mauretania)の名は地理的名称として時を経ても生き残り、現在アフリカ西部の国名「モーリタニア」に引き継がれています。
2月も終わりに近づき、少しずつ暖かくなってまいりました。
年明けの厳しい寒さは落ち着いてきましたが、季節の変わり目は体調にも影響が出やすいので、
どうかご自愛いただきたいと思います。
今回は年明けに更新した干支コインのご紹介「猪コイン」の続きです。
先月は古代ギリシャ編をご紹介しましたので、今回は「古代ローマ編」です。
イタリア半島でもイノシシが生息していたことから、古代ローマの人々にとってもイノシシは身近な動物の一種でした。特に狩猟の対象といえば鹿かイノシシとされ、有史以前から食用としても好まれてきました。野生のイノシシを家畜としたブタもローマでは飼育され、当時の人々のご馳走として饗宴にのぼりました。
こうしたイノシシの姿は度々コインのデザインとしても取り上げられています。古代ギリシャと比較するとメインとして表現されず、裏面のデザインとして採用されることが多かったようです。ローマの場合、イノシシの扱いは「狩猟の対象」と認識されているためか、狩りにおいて追い立てられるような姿で表現されています。
デナリウス銀貨 BC206-BC195
裏面の双子神ディオスクロイ騎馬像の下部、「ROMA」銘の上に小さなイノシシが配されています。この時代、コインに発行者の名銘を刻む慣習がまだ無かった為、発行者(または型の区別)を示すモティーフとして入れられたとみられています。
イノシシ以外にもイルカややフクロウ、ハエ、エビ、グリフィン、犬など様々なバラエティがみられます。
デナリウス銀貨 BC137
裏面中央のしゃがみ込む人物は、両手で子豚を抱きかかえています。表面が軍神マルスであることから、軍団への入隊儀式を表現したものとされ、子豚はマルス神に捧げる犠牲獣とみられます。古代ギリシャでも軍神アレス(マルスと同一視)の聖獣はイノシシとされていました。
デナリウス銀貨 BC106
納戸と世帯の守護神ペナテスが表現されたコイン。巨大なイノシシを仕留めた姿が表現されています。トロイから脱出したアエネアスがラウィニウムに上陸した際、巨大な白い豚の吉兆を見たという伝説の場面と解釈されることもあります。
デナリウス銀貨 BC79
裏面 グリフィンの下部にイノシシの頭部が配されています。この印は型を判別する為のものとみられ、イノシシ以外にもアヒルなど他の動物の頭部もみられます。
デナリウス銀貨 BC78
表面はヘラクレス、裏面には「エリュマントスの猪」が表現されています。エリュマントス山に生息した獰猛な大猪を生け捕りにしたという、ヘラクレスの功業伝説を示すモティーフです。全身の毛を逆立てながら威嚇するイノシシの姿は、巻いた尻尾の造型までリアルそのものです。
デナリウス銀貨 BC68
表面は狩猟の女神ダイアナ、裏面はイノシシが表現されています。イノシシの背中にはダイアナ女神が放った矢が刺さり、左下からは細長い猟犬に追い立てられています。表面と裏面で一つの場面を表現した、芸術性の高いデザインです。
デナリウス銀貨 BC19-BC18
帝政時代初期に発行されたコインにもイノシシが登場します。
アウグストゥス帝(在位:BC27年~AD14年)治世に発行されたこのコインには、槍で突き刺されたイノシシが表現されており、狩猟で仕留められた姿とみられます。前述のダイアナ女神のコインと非常によく似た構図です。毛並みは野性味に溢れ、巻いた尻尾も確認できます。
デナリウス銀貨 AD78
ウェスパシアヌス帝(在位:AD69年~AD79年)の治世末に発行されたコイン。表面には副帝ティトゥス、裏面にはブタの親子が表現されています。アエネアスの伝説にもブタの親子が登場しますが、ローマではブタが子沢山であることから子孫繁栄の象徴と見做されていました。ここでは大きな親ブタを「ウェスパシアヌス」、足元の小さな三匹の子ブタは息子「ティトゥス」「ドミティアヌス」と娘「ドミティラ」を示し、フラウィウス朝の繁栄を示していると解釈されています。
クァドランス銅貨 AD98-AD102
トラヤヌス帝(在位:AD98年~AD117年)の治世初期に発行されたクァドランス(=1/4アス)銅貨。表面にはヘラクレス、裏面にはイノシシが表現されています。
BC78年に発行されたデナリウス銀貨と同じ構図ですが、ヘラクレスは壮年になり、イノシシは単純化されたデザインになっています。
ペンタサリオン銅貨 AD202-AD203
モエシア(現在のブルガリア)の都市 ニコポリス・アド・イストルムで発行された銅貨。表面はカラカラ帝の皇妃プラウティラ。
裏面には武装したカラカラ帝の騎馬像が表現され、槍を持った皇帝がイノシシを追いかける様子が表現されています。狩猟の様子を表現することで、ローマ皇帝の武勇を表現しているとみられます。
銅貨 AD244-AD247
パフラゴニアの都市ラオディケイアで発行された銅貨。表面には副帝フィリッポス2世の肖像、裏面には犬と向かい合うイノシシが表現されています。狛犬のような左右対称性がユニークです。
アントニニアヌス銀貨 AD260-AD262
ガリエヌス帝(在位:AD253年~AD268年)の治世下、メディオラヌム(現:ミラノ)で発行されたコイン。裏面には度々登場する構図と同じイノシシ像が表現されています。
ガリエヌス帝の時代、メディオラヌムでは各軍団の象徴を示したコインが多く発行され、その多くは動物のモティーフでした。イノシシもその中の一つであり、ヒョウやライオン、鹿、牛、狼、グリフィン、ペガサス、カプリコーン、ケンタウロスなど様々なモティーフがみられます。
二回にわたって古代ギリシャ・ローマ時代の猪コインの一部をご紹介しましたが、西洋世界でもイノシシが身近な野生動物であったことがよく分かります。日本や中国でも干支になるほど親しまれた動物であり、東西の文化が異なる地域で愛された生き物であったことを物語っています。
イノシシと共に犬が度々表現されていますが、戌年の次が亥年であるように、何とも奇遇な組み合わせです。
今年は猪突猛進、元気良く走りぬく年になりますことを、心よりお祈り申し上げます。
寒さ厳しい今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?
全国的にインフルエンザが大流行しているようですので、何卒お気をつけ頂きたく思います。
さて、2019年最初の更新は、今年の干支「亥」にちなんで、「イノシシ」のコインをご紹介します。
日本人にとってイノシシは山野に生息する野生動物として見慣れており、牡丹鍋など冬の味覚としても広く認識されています。
イノシシはブタの祖先であることから世界に広く生息しており、古代のギリシャ人やローマ人にとっても身近な動物のひとつでした。紀元前後の長い時代を通して、イノシシはコインのデザインとして登場しています。
今回は古代ギリシャ時代に造られたコインの中の「イノシシ」たちをご紹介します。
レスボス島 ミティリーニ BC521-BC478 ヘクテ貨
小アジアから始まったコイン製造の文化がいち早く伝播したレスボス島。この島で小さなエレクトラムコインが盛んに造られ、様々なモティーフが表現されました。このコインでは翼をはやしたイノシシという、ユニークなモティーフが表現されています。翼を広げて飛び立とうとする、躍動感溢れるイノシシ像です。裏面には、イノシシを捕食するライオンが、大きな口を開けて咆哮する姿が表現されてます。
こうした有翼のイノシシ像は小アジアの他地域で発行されたコインにも表現されており、比較的広く知られたイメージだったことが分かります。
イオニア クラゾメナイ BC425-BC400 ドラクマ銀貨
イオニア クラゾメナイ BC499-BC494 ドラクマ銀貨
ミュシア BC357-BC352 テトロボル銀貨
また同じく小アジア西部の都市キジコスで発行されたコインにもイノシシが表現されました。ここでのイノシシには翼はありませんが、上半身像のみという点で共通の傾向がみられます。
キジコス BC525-BC475 オボル銀貨
上半身のみのイノシシ右側には、発行都市キジコスを象徴するマグロが配されています。裏面にはやはり咆哮するライオンが表現されています。ほぼ同時期にレスボス島で造られていたコインと非常に似通っており、地理的に離れた両都市の関係性を窺わせます。
ポーキス BC478-BC460 オボル銀貨
こちらでは、ライオンの代わりに牡牛の頭部が表現されています。同じくイノシシは上半身像で、「猪突猛進」の如く走り出すような姿で表現されています。
レスボス島 ミティリーニ BC454-BC428 ヘクテ貨
レスボス島 BC478-BC460 1/6スターテル銀貨
レスボス島ではイノシシの頭部像が表現されたコインも発見されていますが、なぜか二頭のイノシシが顔を突き合わせたような姿で表現されています。左右対称性のこうした図像は、比較的小さなコインによくみられる表現のひとつです。
一方でイノシシの全身像をそのまま表現した例も多くみられます。
キジコス BC550-BC450 ヘクテ貨
キジコス発行のヘクテ貨。マグロの上にイノシシが表現されていますが、銀貨とは異なり全身像になっています。
リュキア BC490-BC430 スターテル銀貨
地面に鼻先を擦りつけ、餌を探しているようなイノシシ像。裏面は亀が表現されています。
アイトリア BC170-BC160 トリオボル銀貨
全ての足を伸ばし、緊張したようなイノシシ像。前後の足を揃えており、動きの無い表現。
アプリ BC325-BC275 銅貨
上と非常に似通った表現のイノシシ像。しかし発行地はアイトリアから離れたイタリア半島の植民都市です。
パンフィリア アスペンドス BC420-BC360 ドラクマ銀貨
槍を持った騎士と、走るイノシシが表現されたコイン。イノシシ狩りの様子を表裏で表したものとみられ、逃げ惑うイノシシに躍動感があります。このイノシシはギリシャ神話に登場する「カリュドーンの猪」とされ、それを討ち取ろうとする騎士は勇者モプソスとされています。
パンフィリア アスペンドス BC420-BC360 ドラクマ銀貨
こちらはカリュドーンの猪が堂々と構えており、勇者モプソスとの対比をなしています。カリュドーンの猪は供え物を怠った罰として、狩猟の女神アルテミスが放った獰猛な巨大イノシシとされ、神話では多くの勇者が各地から集められ、猪を退治したと云われています。猪の牙の形が「三日月」を思わせることから、月の女神でもあるアルテミスの聖獣と解釈されました。
(軍神アレスがイノシシに変身して暴れまわるという物語もあることから、アレス神の化身とみなされることもあるようです)
カリュドーンの猪狩り
(ピーテル・パウル・ルーベンス)
イリュリア デュラキウム BC305-BC280 スターテル銀貨
イリュリア(現在のアルバニア)の都市デュラキウムで造られたコインには、牛の親子が表現されています。一見するとイノシシの姿はみられませんが、牛の上にイノシシの下顎の骨が配されています。かなり例外的ですが、これもイノシシのコインの一つに数えられるでしょう。
この下顎骨はイリュリア王モノウニオスの治世に造られたコインにみられる特徴であり、この王とイノシシの骨に何かしら由来するものがあったのかもしれません。
【ケルトコインのイノシシ】
ギリシャ文化圏ではありませんが、ヨーロッパに広く住んだケルト系民族のコインにもイノシシが表現されています。ケルト諸部族は文明化されたギリシャ人からバルバロイ(蛮族)とみなされていましたが、ギリシャとの交易は盛んに行われており、そうした過程でギリシャコインを真似た独自コインを発行しました。それらはケルト風のアレンジが為されており、独特な雰囲気を漂わせています。
ガリア ウェネティ族 BC100-BC50 スターテル銀貨
ガリア北西部(現在のフランス)のウェネティ族が発行したコイン。表面はアレキサンダー(ヘラクレス)を真似ており、ギリシャコインの影響が北方まで及んでいたことが分かります。
裏面は何故か人面馬が表現され、御者がそれを急き立てるという不思議な世界観が展開されています。その下に当時のケルト人が追いかけたであろう、ガリアのイノシシが配されています。デザインは単純化され、もはや魚のようにしかみえません。
ガリア セクァニ族 BC100-BC50 ウニット銀貨
同じ時期のガリア中部で造られたコインには、イノシシがメインとして表現されています。しかしやはり抽象化されており、鬣が魚の背びれのようになっています。
ブリタニア イセニ族 BC65-BC1 ウニット銀貨
現在のイギリス南部に暮らしていたケルト人が発行したコイン。表面にはイノシシ、裏面には馬が表現されていますが、イノシシとは分からない姿になっています。馬の足の関節は不自然であり、写実性とはかけ離れた造型です。イノシシの前足は縛られたようにも見え、狩猟の収穫として表現されたものかもしれません。
コインのデザインを辿ることによって、2000年以上前のギリシャ人にとってイノシシがとても身近な動物だったことが分かります。総じていえることとしては、イノシシは他の動物と組み合わせて表現されることが多く、また比較的小さなコインに表現される傾向がみられます。
次回は「古代ローマのイノシシコイン」をご紹介します。
明けましておめでとうございます
昨年中も沢山の方にこのブログを読んでいただき、感想やご質問などを寄せて頂きました。
様々なお声をお寄せいただくと、更新の励みにもなります。
いつもお読みいただいている皆様には、心より感謝を申し上げます。
2019年は「平成」が終わり、時代に一つの区切りがつく年です。
本年が皆様にとって良い年になりますよう、心より願っております。
2019年も記事を更新していき、コインの魅力を少しでもお伝えできればと思っております。
本年もお付き合いいただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
「亥年」ですので、2500年前古代ギリシャの猪を飾らせていただきます。「猪突猛進」なおかつ飛翔もある、元気な一年になりますように。
【有翼のイノシシ/ライオン】
レスボス島 ミュティレネ ヘクテ貨 (エレクトラムコイン, BC521-BC478)
まだまだ寒い日が続きますので、風邪をひかないよう御自愛いただき、心地よい新年をお迎え下さい。
本年もよろしくお願い申し上げます。
投稿情報: 00:17 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
2018年も残すところあとわずか。何かと忙しい師走ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
寒さ厳しい大晦日は、暖かい部屋の中でコインを鑑賞しながら、ゆったりとした時間をお過ごしいただければと思います。
来年のことではございますが、勝手ながら告知をさせていただきます。
年明けの1月12日(土)に「第12回 アジア考古学四学会合同講演会」という講演会がございます。
なんと、今年のテーマは「貨幣の世界」ということで、複数の研究者の方が古代のコインに関して講演されます。日本をはじめ古代の中国、東南アジア、オリエントなど、各専門分野の先生方がお話しされる予定です。
一般の方も入場でき、参加費や事前の申し込みは不要です。コインを専門に研究されている方々のお話を直に拝聴できる貴重な機会ですので、興味のある方は是非参加してみてください。
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・第12回 アジア考古学四学会合同講演会-テーマ「貨幣の世界」
・日時:2019年1月12日(土) 13:00~16:50
・場所:早稲田大学戸山キャンパス 36号館681教室
(地下鉄東京メトロ東西線 早稲田駅から徒歩3分)
・主 催:日本考古学協会、日本中国考古学会、東南アジア考古学会、日本西アジア考古学会
・対 象:一般・学生・研究者
・参加条件:参加費・資料代無料、申し込み不要
・詳細リンク先
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さて、今年最後のブログは、古代ギリシャの代表的コイン「アテネのフクロウコイン」に関する記事です。
誰もが知るこのフクロウコインは、紀元前5世紀に都市国家アテネで発行されたテトラドラクマ銀貨です。このコインにはアテネの守護女神アテナと、その聖鳥であるフクロウが表現されており、多くの方が本やパンフレット、博物館での展示やアクセサリーのモティーフなどで目にしたことがあると思います。
アテネ BC454-BC430 テトラドラクマ銀貨
裏面にはフクロウと共に、オリーヴとΑΘΕ銘、そして「小さな月」が確認できます。
この月が示唆することについては様々な説が存在し、未だ明確な答えは定まっていないのです。
この月の形は「二十六夜月」と呼ばれ、旧暦(太陰暦)の26日にみられる月であることからこう称されています。また夜明け前の午前1時~3時頃に現われることから「有明月」とも呼ばれています。
二十六夜月
古くからある説では、ペルシア戦争においてギリシャ連合艦隊がペルシア艦隊を破った「サラミスの海戦」がBC480年9月の二十六夜月の週に行われたことから、歴史的大勝利を記念してデザインに取り入られられたと云われています。
同じくアテナ神が被っている兜に施されているオリーヴの紋様も、この勝利を記念しているのだと伝えられてきました。
事実、BC480年以前に発行されたコインには月が無く、アテナ神の兜にもオリーヴはみられません。
アテネ BC500-BC480 テトラドラクマ銀貨
もうひとつの説は、フクロウはアテナ神の化身であり夜の姿と云われていることから、月は夜半であることを示している、すなわち「場面の時間」を表現しているというものです。
そうすると、コインの表が「日中のアテナ」であり、裏面は「夜のアテナ」と捉えることができます。表面のアテナ神の兜にはオリーヴが施され、裏面にもオリーヴの枝葉が配されています。
さらに注目すべきことに、表面のアテナ神にも、注意深く見ると「小さな三日月」が表現されています。
ここで注目すべきは、裏面のフクロウの傍に表現された月とはなっているという点です。この形は陰暦3日目に現われることから、文字通り「三日月」と呼ばれ、一月の間で最初に目視できる月である事から「初月」などとも呼ばれます。
この三日月は日の入りすぐの夕方の時間帯に見られます。
つまり表面のアテナ神は日の入り直前の「日中の姿」であり、裏面のフクロウ(有明月=夜明け前)はアテナ神の「夜の姿」と捉える事ができます。
しかし実はこの仮説には謎もあります。
裏面のフクロウの月(=二十六夜月)は全てのコインに共通して表現されています。しかし表面のアテナ神の月(=三日月)は確認できるものもあれば、明らかに最初から配されていないと思われるものもあるのです。
・月あり
・月なし
なぜ同時期に二つの異なるタイプが存在するのか、造られた年代によるものか、彫刻師の判断によって意図的に省いているのかは不明です。
さらに言えばこのアテナ神の額付近にある三日月は、デザインとしてはあまりにもさりげなさ過ぎて、一見すると極印自体の傷か、はたまたアテナ神の兜から少し飛び出した前髪のようにも見えます。
中には明瞭に三日月と判別できるものもありますが、兜のオリーヴの延長線上にあるような、たよりない表現のものもみられます。
この三日月の意味については不明な点が多く、またあまり注目もされていない為、あくまで仮説の域から出ていないのが現状です。もしこの三日月の謎についてお詳しい方、自説をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです。
フクロウコインをお持ちの方がいらっしゃいましたら、お手持ちのコインを確認してみて下さい。アテナ神の額近くに「三日月」があるかないか、それを確かめるだけでも面白く、またその謎の解明に挑戦するのも楽しいかと思います。
平成30年、2018年も残すところあと1週間。今年も当ブログをご覧いただき、本当にありがとうございました。
来年も随時ブログを更新し、コインの魅力を発信していきたいと思いますので、何卒お付き合いの程よろしくお願い申し上げます。
平成最後の大晦日・お正月が皆様にとって楽しいものに、そして来る新年が良い年になりますように・・・。
11月に入りすっかり寒さが増してまいりました。
今年も残すところあとわずか、風邪など召されませんようご自愛ください。
今回は現代のコインに表現された「古代ギリシャ・ローマの神々」をご紹介します。
20世紀以降のヨーロッパでは様々なデザインの通常コインが発行され、造幣局・彫刻師たちは競うように独創的なデザインを表現しました。
国の産業(農業・工業・商業)を象徴する意味から、自国の歴史を顕彰する意味から、古代ギリシャ・ローマ時代の神々がデザインに登場しています。必然的に地中海の南ヨーロッパの国々にその傾向がみられます。
【アテナ (ラテン名:ミネルヴァ)】
アルバニア 1927年 1フランカ・アリ
古代ギリシャ神話のアテナは知恵・戦術・手工業・紡績・建築・造船技術などを司る処女神であり、ゼウス神の娘とされる。オリンポス十二神のひとつ。装飾羽がついた兜を被り、聖鳥フクロウを従える勇ましい姿で表現される。ギリシャの都市国家アテネの守護神であり、パルテノン神殿はこの女神を祀るために建立された。ローマでは「ミネルヴァ」の名で呼ばれ、国家守護神のひとつとして信奉された。
【ヘルメス (ラテン名:メルクリウス 英名:マーキュリー)】
フランス 1922年 2フラン
ヘルメス(フランス語ではエルメス)はオリンポス十二神に数えられる神。青年の姿をし、翼が据えられた帽子とサンダル、伝令使の杖(ケリュケイオン)を携帯した姿で表現される。神々の伝令使を務めることから、通信と旅の守護神とされる。また生まれてすぐにアポロ神の牛を盗み、巧みな交渉で言い逃れたという伝説から、商売人や交渉事、盗賊の守護神とされた。その他、数字や交易を人間にもたらし、サイコロを発明した神とされ、賭博の守護神とも云われた。
近代以降は通信や交易・交通・商業の面が注目され、企業の紋章や証券、紙幣やコインのデザインとして多く用いられた。
ベルギー 1924 2フラン
ヘルメス神の象徴 ケリュケイオン(カドゥケウスとも)は翼と二匹の蛇が巻きついた伝令使の杖。それ自体が商業上の縁起物として認識され、古代ローマ時代からコインに表現された。近現代ではベルギーとボリビアの通常貨にみられる。
【ポセイドン (ラテン名:ネプトゥヌス 英名:ネプチューン)】
ギリシャ 1930年 20ドラクマ
オリンポス十二神に数えられるポセイドンは、大神ゼウスと冥界神ハデスの兄弟にあたる。海を支配する荒ぶる神として畏れられ、地震や津波を引き起こすとされた。古代ギリシャではポセイドンの怒りを鎮めて海の安全を願うと共に、海戦での勝利や海運の成功を祈願した。
【ヘファイストス (ラテン名:ウルカヌス 英名:ヴァルカン)】
イタリア 1978年 50リレ
オリンポス十二神の中では珍しくものづくりに特化した鍛冶の神。鉄鋼をはじめ金属加工を司る職人の守護神とされる。神話上では神々の武器や神器を製作する役割を与えられ、「クリュトテクネス(名匠)」の異名で呼ばれることもある。また動く人形や首飾りなどの宝飾品、最初の人間の女性「パンドラ」を作り出したとされる。
【デメテル (ラテン名:ケレス 英名:セレス)】
ギリシャ 1930年 10ドラクマ
デメテル(セレス)は豊穣をもたらす農業の守護女神。オリンポス十二神の中では大地母神としての役割を果たす。その象徴として穀物が絶えず湧き出るコルヌ・コピア(豊穣の角)を持ち、麦穂で編んだリースを頭に巻いている。一年の内、娘であるペルセポネーが冥界神ハデスのもとに行ってしまう数ヶ月間は、悲しみのあまり働かないため「冬」になる、と云われる。農業と穀物の供給を司る女神として重要視され、古代ローマでは頻繁にコインのデザインに用いられた。19世紀には農業国フランスをはじめ、ヨーロッパ各国のコインやメダルに表現された。
【ヘラクレス】
アルバニア 1926年 1/2レク
ヘラクレスは半神半人の英雄であり、豪神として男性から人気があった。歴史上では、アレクサンドロス大王やコンモドゥス帝などが憧れ、ヘラクレスに模した自らの肖像をコインに刻ませた。1920年代にアルバニアで発行されたコインには、ヘラクレス十二功業のひとつ「ネメアのライオン退治」が表現されている。
【テティス】
ギリシャ 1911 2ドラクマ
テティスは海の女神であり、海馬ヒッポカンポスを従える姿で表現される。英雄アキレウスの母親であり、トロイア戦争は女神の結婚式が発端になったとされる。1911年のギリシャで発行されたディドラクマ(2ドラクマ)銀貨には、海馬ヒッポカンポスに乗り、息子アキレウスの円盾を見つめるテティスが表現されている。
【リベルタス (英名:リバティ)】
ポルトガル 1965年 50センタヴォ
リベルタス(リバティ)は古代ローマにおいて自由と解放を象徴する女神だった。その姿は解放奴隷が被っていたフリジア帽を持つ姿で表現された。古代ローマ時代にはコイン上に度々表現されたが、フランス革命以降、共和政国家を象徴する女神像として頻繁に用いられた。近現代のヨーロッパとアメリカ大陸では最もよく表現された女神像。
【ペンテシレイア】
マルタ 1977年 2セント
女戦士部族アマゾネスの女王ペンテシレイアは、トロイア戦争においてアキレウスと戦い敗れたとされる。黒海沿岸部を支配したというアマゾネスは古代ギリシャの様々な神話に登場し、小アジアの植民都市名の由来として伝承される場合も多い。
【エウロペー (ラテン名:エウロパ)】
キプロス 1991年 50セント
ギリシャ 2008年 2ユーロ
エウロペーはテュロス王の娘とされ「ヨーロッパ」の語源になった。海辺で戯れていたエウロペーを見初めたゼウス神が白い牛に変身し、気を許したエウロペーを乗せて走り去ったと伝承される。このとき、エウロペーを乗せた牛(ゼウス神)が西方の海へ走り去った為、その地域一帯が「ヨーロッパ」と呼ばれるようになったとされる。
【ペガソス (ラテン名:ペガスス 英名:ペガサス)】
ギリシャ 1973年 10ドラクマ
天空を飛ぶ有翼の馬として知られるペガサスは、ペルセウスやベレロポーンなど英雄達の愛馬として登場する。ペルセウスに討ち取られたメドゥーサの首から飛び出したとされ、その父親は海神ポセイドンとされる。天に昇ったペガサスは星座「ペガサス座」となり、「不死」「名誉」「教養」の象徴となった。
ここでは記念コインではなく、20世紀以降に発行された、一般流通用の通常貨に表現された神々をご紹介しました。ご紹介したコインの中には、古代ギリシャ・ローマ時代に造られたコインを模してデザインされたものもあります。2000年以上の時を経てもデザイン性に大きな隔たりが無いことは驚きです。
近年発行されたコインは比較的入手しやすいので、「古代ギリシャ・ローマ神話」をテーマにしてコレクションされると面白いかと思います。また自身に関係のあることを守護してくれる神様(学問や職業、星座など)のコインをペンダントやストラップ、財布の種銭にして、お守りにされるのも良いでしょう。
古代ギリシャ・ローマで発行された当時のコインを入手し、あらゆる点で現在のコインと見比べてみるのもまた楽しいはずです。古代の手打ちで一枚一枚作成されたコインと、機械で大量生産されたコイン、古代ギリシャ・ローマの末裔達が作り出したコインにもまた、物語や背景があります。
お手持ちのコインのデザインから古代の神話の世界に興味を持ち、本や映画で調べることもあると思います。また古代神話の物語からコインに魅力を感じ、思い入れのある一枚をコレクションされる方もいらっしゃるでしょう。それぞれの魅力や良さ、楽しさが、少しでも伝われば幸いです。
秋も深まった今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
現在、東京・池袋の古代オリエント博物館では開館40周年記念特別展『シルクロード新世紀』(~12/2)が開催中です。
シルクロード考古学の貴重な出土品や宝物が多数展示されていますが、その中にはコインも多くあります。注目は2016年にニュースになった、沖縄の遺跡から発掘された古代ローマコインです。2年前に当ブログでも紹介させていただきましたが、今回うるま市教育委員会から古代オリエント博物館に貸し出されているようです。
前回の記事リンク
↓↓↓
ニュースにも取り上げられたコインを見られる、大変貴重な機会です。12月2日(日)までの期間限定ですので、東京・池袋にお越しの際には是非お立ち寄り下さい。
さて、今回はシルクロードのコインということで、かつて中央アジアに栄えたギリシャ系王国「バクトリア」のコインについてお話します。
ギリシャコインのカテゴリーに入れられるバクトリアですが、場所はギリシャから遠く離れた中央アジア、現在のタジキスタン~アフガニスタン~パキスタン北部に栄えた王国です。
紀元前4世紀、東方遠征を行ったマケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世 在位:BC336年~BC323年)は、この地を通ってインドを目指しました。その途上、内陸に多くのギリシャ系植民都市を建設しました。アレキサンダー大王が目指した東西に跨る大帝国の建設を進めると共に、歳をとった老兵たちや行軍についていけない兵士たちを入植させる目的があったようです。
こうしてアジアの内陸に建設されたギリシャ風都市では、ギリシャ人の兵士たちと現地の女性たちが結婚し、生活の拠点として拡大・発展してゆきました。やがて大王亡き後、後継者争いによってアジア全域はセレウコス朝の支配下となります。しかし地中海から遠く離れたバクトリアはセレウコス朝の支配が及ばず、紀元前3世紀半ば、現地の総督が反乱を起して独立しました。
その後、バクトリア(グレコ=バクトリア、インド・グリーク朝とも)は東西シルクロード交易の要衝として繁栄し、中央アジアにギリシャ文化を開花させました。
ガンダーラ仏像の特徴である目鼻立ちのしっかりした顔立ちや衣服のひだの表現は、ギリシャ彫刻の影響を受けている。ガンダーラ美術はバクトリア王国が滅亡した後の紀元前1世紀半ばに栄えたとされ、バクトリアのギリシャ文化が現地に定着した証といえる。
バクトリアのギリシャ文化が与えた影響は、仏像に代表されるガンダーラ美術がよく知られていますが、コインもギリシャ式の芸術性の高いものが多く作られました。
デメトリオス王/ヘラクレス
(テトラドラクマ銀貨 BC205-BC171)
アンティマコス王/ポセイドン神
(テトラドラクマ銀貨 BC170-BC160)
エウクラティデス1世/双子神ディオスクロイ
(テトラドラクマ銀貨 BC170-BC145)
※このコインの裏面デザインは、現在アフガニスタン中央銀行の行章としてそのまま採用されている。
メナンドロス1世/アテナ女神
(ドラクマ銀貨 BC155-BC130)
アンティアルキダス王/象を従えるゼウス神
(ドラクマ銀貨 BC145-BC120)
アポロドトス1世発行 象/コブウシ
(ドラクマ銀貨 BC160-BC150)
アポロドトス1世発行 アポロ神/三脚鼎
(ヘミオボル銅貨 BC160-BC150)
当時のバクトリア王国の内政や歴史、具体的な時代区分もまだ不明瞭な点が多く、研究の途上にあります。しかし確認されているコインから、バクトリア国内の複雑な地形を背景として各地に王が乱立していたと推察されています。
バクトリアコインの表面には王の横顔肖像、裏面にはギリシャ神話の神々(アテナ女神、ニケ女神、ヘラクレスなど)が表現されるヘレニズムスタイルです。内陸の国にも関わらず、海神ポセイドンも表現されています。小額コインでは、古代コインに珍しい四角形もみられます。
それらの大きな特徴の一つは、表面にはギリシャ語銘が刻まれ、裏面には現地のカローシュティー文字が刻まれている点です。この二言語併記は現在の紙幣などでよくみられますが、古代の貨幣としては画期的な例でした。ギリシャの伝統を引き継ぎつつも、ギリシャ系住民とアジア系住民が共存する独自の体制を模索していたことが分かります。この二言語併記は、バクトリア王国滅亡後に現地を支配したスキタイ人のコインにも継承されています。
実はこの二つの言語が刻まれたコインの存在は、後にバクトリアの存在を世界に知らしめる重要なツールにもなりました。
バクトリアが栄えた現在のアフガニスタンの周辺は、中央アジアの中でも山岳地帯ということもあり、外部との接触が困難な地域でもありました。そのため紀元前2世紀頃にバクトリア王国が滅び、時代が経るとその存在は古代の史書の中だけに留められてしまいました。
しかし16世紀以降、ヨーロッパ人がインドに本格的に進出すると、にわかに中央アジアへの関心も高まり始めました。そしてかつてアジアの奥地に存在した、アレキサンダーの遠征軍の末裔達が築いた王国にも脚光が集まったのです。
アイ・ハヌム遺跡
バクトリアを代表するギリシャ風都市。壮麗な神殿の遺構や高度な工芸品が多数発見された。この重要な都市遺跡が発見され、本格的に調査されたのは1960年代になってからだった。
18世紀末、発見されたコインをもとに失われたバクトリア王国の全容を明かそうとする書籍が出版されると、考古学者・歴史学者たちの間でバクトリアに対する関心が高まり、その研究の重要な手がかりとして「コイン」が収集されるようになります。遠く離れた中央アジアでは、地中から出てくる古いコインをインドに持って行けばヨーロッパ人が高値で買ってくれると、バクトリアのコインが自然とインド経由で出てくるようになりました。
まだ中央アジアでの遺跡発掘などできない時代、失われた王国の謎を紐解く重要な手がかりはコインでした。考古学者や言語学者たちは持ち出されたバクトリアのコインを丁寧に調べ上げることにより、史書に記載されず未確認だった王の名を知ることができたのです。ギリシャ文字とカローシュティー文字の二言語併記コインは、失われた古代文字の解読に重要な手がかりを提供し、インドのアショーカ王碑文を解読するのにも役立ちました。
カローシュティー文字を解読したジェームズ・プリンセプ(1799年~1840年)はカルカッタ造幣局の貨幣検査官としてインドの古代コインを収集・研究していた。バクトリアコインに刻まれたギリシャ文字とカローシュティー文字が同じ意味を示すと考えたプリンセプは、これを手がかりとしてカローシュティー文字の解読に成功した。
インドがイギリスによって植民地化された19世紀、必然的にバクトリア研究はイギリスがリードするようになります。アム河の流域に住む住民は、河の水が減る時期になると砂地に入り、金銀の装飾品やコインを拾い集めて商人に売り渡しました。イギリス人はこうした遺物を買取り、研究に役立てていきました。
1877年、各地からの出土品を集めてペシャワールへ向かっていた隊商が盗賊たちに捕らわれる事件がありました。盗賊たちのアジトである洞窟へ連れて行かれる途中、一人の男が逃げ出して近隣に駐屯していたイギリス軍に助けを求めました。
イギリス軍のバートン大尉は兵士を引き連れて盗賊たちの洞窟へ急行します。その頃盗賊たちは戦利品である膨大な宝物(金銀の宝飾品やコイン)の分け前を巡って口論を繰り広げていました。バートン大尉の交渉によって宝の大半と商人たちの身柄を取り戻すことに成功し、その御礼として宝の一部がイギリス軍に渡りました。
助けられた商人がバートン大尉に譲った金の腕輪。オクサス河(アム河)から出土したことから「オクサスの遺宝」として知られる。大英博物館収蔵品
商人たちによってインドのラワルピンディに持ち込まれた千枚以上のバクトリアコインは、地金として溶かされたり古物商によって運ばれるなどして四散しましたが、一部はインド考古学局長カニンガムによって購入され、その後のバクトリア研究に大きく寄与しました。
この時代、コイン収集は単なる趣味ではなく考古学の研究であり、失われた歴史の発見でもあったのです。一枚のコインから推察と想像力を働かせ、はるか昔に存在した王国を解き明かそうとした人々は、どのような思いでバクトリアのコインを眺めたのでしょうか。結局、中央アジアで都市遺跡を発掘調査し、その華麗なバクトリア王国の詳細を再現するには20世紀まで待たねばなりませんでした。
しかし数多くのコインが存在したおかげで、研究者は現地へ赴かずともバクトリア王国の存在を把握し、多くのことを明らかにしていったのです。
コインが歴史の解明に大きな役割を果たした例として、バクトリアのコインは世界中のシルクロード研究者から注目されています。現在の我々が古代コインに刻まれた文字や意味を知ることができるのも、先人達の地道な努力があってこそです。
そのようなことに想いを馳せながら、コインを眺めて秋の夜長をお過ごしいただければ幸いです。
こんにちは。
すっかり秋らしくなってきましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。夕方以降は涼しくなり、また冷たい秋雨も多くなってまいりました。
そういう日は「読書の秋」ということで、家の中でゆっくり本を読まれる方も多いのではないでしょうか。
前回のブログ記事でもご紹介しましたが、中公新書より『貨幣が語る ローマ帝国史 権力と図像の千年』 (820円+税)が出版されました。手頃なサイズとページ数、価格でありながら、たいへん読み応えのある内容になっています。著者の比佐篤さんは古代ローマ史の研究者ですので、歴史的背景や観点、考察を加えた詳しい解説が見どころです。
早速拝読しましたが、ローマコインの基礎的カタログ『The Roman Imperial Coinage』掲載の画像を多数使用し、そのデザインと発行された時代背景についてとても詳しく、そして分かりやすく解説されていました。ローマ史に興味のある方、コインを収集されている方にはオススメの一冊です。
こうした「コイン」に関する本といえば、David R. Sear氏の『Greek Coins and their values』やFriedbergの『Gold Coins of the World』、Krauseの『Standard Catalog of World Coins』といったカタログが真っ先に思い浮かびますが、読み物としてのコインに関する本は、特に日本語で書かれたものは少ないのが現状です。
そのため海外の作品にわずか一行ほど登場する貨幣名が、かろうじてその存在を印象付けているといってもよいでしょう。普通の読者ならあっさりと読み飛ばしてしまう箇所も、コインを収集している人であれば注目すると思います。
『新約聖書』に登場するイエスの逸話「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに帰せ」で用いられたデナリ銀貨は、当時の皇帝ティベリウスの一般的なデナリウス銀貨と推定され、ユダがイエスを裏切った報酬である「銀貨三十枚」も、フェニキアのティールで造られていたシェケル銀貨(テトラドラクマ)であると考えられています。
また『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』に度々出てくる「金貨」や「銀貨」といった表現も、当時のアラビアで使用されていた「ディナール」「ディルハム」であることが分かります。様々な王にまつわる物語 (※ササン朝のホスロー2世やアッバース朝のハールーン・アッラシードなど)の中で用いられる貨幣は、彼らの時代に発行されたものであると想定することが可能です。
ただ書かれた時代やその土地での呼び名が、後世の古銭学上の呼称と少し異なっていたり、日本語訳の時点で上手く翻訳できていない場合もあります。例えば新約聖書のマルコ伝に「レプトン銅貨二枚の賽銭」という説話があります。金持ちによる多額の賽銭よりも、貧しい人の手持ちの賽銭のほうが価値があると説いたイエスの話です。
ここで記された「レプトン(レプタ)」とはギリシャで使用されていた単位であり、ユダヤには「プルタ」という小額単位のコインが存在しました。初期の聖書がギリシャ語で記されたことから、当時の編纂時点で誤認された、または意図的に修整された可能性もあります。
ユダヤのプルタ銅貨
しかしマルコ伝には「レプトン銅貨二枚すなわち一コドラント」とあり、当時のユダヤでは現地の2プルタがローマのクァドランス銅貨の価値に等しかったことが分かります。聖書を読み解くと支配者であるローマの貨幣と、ユダヤ現地民が使用する貨幣とが混在して流通し、交換比率や用途もある程度決まっていたことが分かります。(ローマの貨幣単位=税、ユダヤの貨幣単位=神殿への賽銭など)
ローマ皇帝の逸話の中でも様々な形でコインが登場しますが、中には裏付け不明な怪しい記述もみられます。内容の信用性や作者の存在、成立年代の不詳性から史料的価値が疑われる古典『ヒストリア・アウグスタ (ローマ皇帝群像)』では、ある皇帝がこのようなコインを発行させた、という記述が散見できますが、実際にはそのようなコインは確認されていないという例も多々みられました。また皇帝の逸話とその中で使用されている貨幣単位の時代にズレがあるといった例もあります。
(※例えばエラガバルス帝の浪費を説明するのに「~万アルゲンティウス、~万フォリス」という表現がみられるが、これらはエラガバルスの時代より半世紀以上経過して新たに登場した貨幣の単位である)
1951年に出版されたマルグリット・ユルスナール著の古典的歴史小説『ハドリアヌス帝の回想』では、ハドリアヌス帝の愛人だったアンティノウスの貨幣は彼の出身地ビテュニアで御守りとして人気があり、現地では「穴を開けて紐を通し、生まれたばかりの赤子の首から下げたり、人が亡くなると墓標に打ち付けたりした」との記述があります。しかし実際にそのような使用がなされていたかは確かめようがなく、何か裏付けとなる史料があるのか、あくまで作者の創作表現なのかは定かでありません。
アンティノウスのコイン (またはメダリオン、フリギアで発行)
ただリアルタイムで書かれた本(日誌や回想録)に登場する貨幣であれば、内容の信憑性はより高いといえます。
19世紀初頭に出版された『セント=ヘレナ覚書』は、大西洋の孤島セント・ヘレナへ流刑になったナポレオンについて記した日誌形式の作品です。作者のラス・カーズはナポレオンの回想録を記すためナポレオンに付き従い、船での護送から島での生活までを細かく記しました。日付け順にナポレオンがどのように振る舞い、何を語ったのかが詳細に記録されています。
この本では度々ナポレオン発行の20フラン金貨が登場します。ナポレオン本人やつき従った側近達は、この金貨をそのまま「ナポレオン」という単位で呼んでいたことも書かれています。また「ターラー」「クラウン」「エキュ」「リーヴル」といった単位の貨幣も登場します。
ナポレオンは自らの肖像が刻まれた20フラン金貨を気に入っていたらしく、島へ向かう船上でイギリス軍の水兵たちに配ろうとしてイギリス将校に止められたり、島を散策中に出会った農夫にあいさつ代わりに渡したこともあったそうです。作者のラス・カーズが帰国する際にも幾らか渡していたかもしれません。
両角 良彦著『セント・ヘレナ落日-ナポレオン遠島始末』 (朝日選書)によればナポレオンは生活費に窮し、屋敷で使用していた銀食器から自らの紋章を削り取った上で売却したと記述されています。
しかし一方で島へ寄港した船の船長がローマ王(ナポレオンの息子)の胸像を持っていることを知ったナポレオンは、1000フラン近い金貨を支払って入手して毎日眺めていたとも書かれており、ナポレオンの金銭事情には矛盾した記述も多くあるように感じられます。配るほど多額の金貨をどうやって持ち込んだのかも不思議な点です。(なお、後にこの胸像はまったくの別人であることが分かった)
ナポレオンは最期を迎えるとき、自らの遺体の周りにフランスとイタリアのナポレオン金貨を数枚並べるよう遺言し、それは実行されたと記されています。つまりフランスの20フラン金貨と、自らがイタリア王となったイタリア王国の20リレ金貨の二種類を持っていたことになります。
イタリア王国の20リレ金貨
金の純度や重さ、サイズはフランスの20フランと同じだが、肖像の雰囲気は異なる。
様々な古典作品を読んでいると、人々がコインを手にし、あれやこれやをやり取りする場面が多く見受けられます。今も昔も変わらず、お金が人の生活にとって欠かせない存在だったことの証でもあります。
それらの作品は書かれた時代、まだそうしたコインが「古銭」ではなく、実際に流通した「現行貨幣」だった時代の重要な史料でもあります。アンティークコインとなってしまった現在ではコインの状態や希少性で価値が決まりますが、それらが純粋に決済の手段だった時代に想いを馳せることができます。なにより現在まで形として残っているコインが、当時どれほどの価値で人々から認識されていたのか、またどのように使用され何を買うことができたのかを知る手立てになりうるのです。
ただ作者が小さなコインにまで注意を払わない場合は、不正確さや事実誤認がみられることもしばしばです。歴史を扱った作品は多々ありますが、多くの人々が目にするものは歴史学ではなく、あくまで「物語」として描かれた作品が多いため、仕方のないことではあると思います。
秋の夜長に本を読まれる際には、その中に登場するコインにもぜひ注目してみて下さい。そこから様々なことを想像し、本物のコインを手にすることで、物語の世界により入り込みやすくなるかもしれません。
こんにちは。
8月も終わりだというのに本当に暑い日が続いております。
秋の涼しさが待ち遠しいですね。
さて、今回はコインに関する本のご紹介です。
来月、9月19日に中央公論新社さんから、ローマコインに関する新書が発売されるそうです。
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著者:比佐篤
出版社:中央公論新社
価格:¥886 (税込)
発売予定:9月19日(水)
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Amazonに掲載されている内容コメントによると、
貨幣は一般的に権力の象徴とされ政府や中央銀行などが造幣権を独占するが、古代ローマでは様相が異なる。政界に登場したばかりの若手や地方の有力者らも発行しており、現在までに発掘されたものだけでも数千種類にのぼる。ローマ神話の神々の肖像、カエサルや皇帝たちの肖像、花びらや儀式の道具など、描かれた図像も多岐にわたる。貨幣の図像と刻まれた銘文から一千年の歴史を読み解いた、新しい古代ローマ史入門。
(以上 掲載紹介文)
248ページの中でコインの図像を紹介しながら、古代ローマの歴史を体系的に紹介しているようです。おそらく代表的なコインの図像を取り上げ、その歴史的背景やまつわる人物のエピソードを分かりやすくまとめられたのではないかと想像します。「コイン」という切り口で、古代ローマ史を著した興味深い一冊です。
中公新書ではかつて、『紙幣が語る戦後世界―通貨デザインの変遷をたどる』 (冨田昌宏,1994)という本を出版しています。紙幣のデザインや発行背景と、歴史・国際情勢をリンクさせた、読みやすくかつ専門性も高い内容でした。今回のタイトルからも、同様のコンセプトが伺えます。
ローマコインが歴史学の研究で注目されはじめたのはルネサンス期のヨーロッパからです。以降、各地で出土したコインのデザインや材質をデータ化し、カタログとしてまとめる地道な作業が続けられてきました。その過程で図像学や言語学の観点から注目され、コインがローマの政治的、経済的状況を示す重要な史料だと確信された長い歴史があります。
欧米ではローマ史の資料や書籍も多く、その中でコインの図像を紹介したものも多岐に渡って出版されてきました。しかしながら、日本ではこうした書籍がなかなか世に出ませんでした。
この度、中公新書として出版されることで、多くのコイン収集家、ローマ史愛好家の双方にとって刺激になると思われます。また、それまでローマ史やコインに馴染みがなかった方にとっても、興味を持つきっかけになるのではないでしょうか。
9月は秋の夜長、「読書の秋」に相応しい一冊として、ぜひ手にとってみては?
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