【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
明けましておめでとうございます
昨年中も沢山の方にこのブログを読んでいただき、感想やご質問などを寄せて頂きました。
様々なお声をお寄せいただくと、更新の励みにもなります。
いつもお読みいただいている皆様には、心より感謝を申し上げます。
2019年は「平成」が終わり、時代に一つの区切りがつく年です。
本年が皆様にとって良い年になりますよう、心より願っております。
2019年も記事を更新していき、コインの魅力を少しでもお伝えできればと思っております。
本年もお付き合いいただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
「亥年」ですので、2500年前古代ギリシャの猪を飾らせていただきます。「猪突猛進」なおかつ飛翔もある、元気な一年になりますように。
【有翼のイノシシ/ライオン】
レスボス島 ミュティレネ ヘクテ貨 (エレクトラムコイン, BC521-BC478)
まだまだ寒い日が続きますので、風邪をひかないよう御自愛いただき、心地よい新年をお迎え下さい。
本年もよろしくお願い申し上げます。
投稿情報: 00:17 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
2018年も残すところあとわずか。何かと忙しい師走ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
寒さ厳しい大晦日は、暖かい部屋の中でコインを鑑賞しながら、ゆったりとした時間をお過ごしいただければと思います。
来年のことではございますが、勝手ながら告知をさせていただきます。
年明けの1月12日(土)に「第12回 アジア考古学四学会合同講演会」という講演会がございます。
なんと、今年のテーマは「貨幣の世界」ということで、複数の研究者の方が古代のコインに関して講演されます。日本をはじめ古代の中国、東南アジア、オリエントなど、各専門分野の先生方がお話しされる予定です。
一般の方も入場でき、参加費や事前の申し込みは不要です。コインを専門に研究されている方々のお話を直に拝聴できる貴重な機会ですので、興味のある方は是非参加してみてください。
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・第12回 アジア考古学四学会合同講演会-テーマ「貨幣の世界」
・日時:2019年1月12日(土) 13:00~16:50
・場所:早稲田大学戸山キャンパス 36号館681教室
(地下鉄東京メトロ東西線 早稲田駅から徒歩3分)
・主 催:日本考古学協会、日本中国考古学会、東南アジア考古学会、日本西アジア考古学会
・対 象:一般・学生・研究者
・参加条件:参加費・資料代無料、申し込み不要
・詳細リンク先
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さて、今年最後のブログは、古代ギリシャの代表的コイン「アテネのフクロウコイン」に関する記事です。
誰もが知るこのフクロウコインは、紀元前5世紀に都市国家アテネで発行されたテトラドラクマ銀貨です。このコインにはアテネの守護女神アテナと、その聖鳥であるフクロウが表現されており、多くの方が本やパンフレット、博物館での展示やアクセサリーのモティーフなどで目にしたことがあると思います。
アテネ BC454-BC430 テトラドラクマ銀貨
裏面にはフクロウと共に、オリーヴとΑΘΕ銘、そして「小さな月」が確認できます。
この月が示唆することについては様々な説が存在し、未だ明確な答えは定まっていないのです。
この月の形は「二十六夜月」と呼ばれ、旧暦(太陰暦)の26日にみられる月であることからこう称されています。また夜明け前の午前1時~3時頃に現われることから「有明月」とも呼ばれています。
二十六夜月
古くからある説では、ペルシア戦争においてギリシャ連合艦隊がペルシア艦隊を破った「サラミスの海戦」がBC480年9月の二十六夜月の週に行われたことから、歴史的大勝利を記念してデザインに取り入られられたと云われています。
同じくアテナ神が被っている兜に施されているオリーヴの紋様も、この勝利を記念しているのだと伝えられてきました。
事実、BC480年以前に発行されたコインには月が無く、アテナ神の兜にもオリーヴはみられません。
アテネ BC500-BC480 テトラドラクマ銀貨
もうひとつの説は、フクロウはアテナ神の化身であり夜の姿と云われていることから、月は夜半であることを示している、すなわち「場面の時間」を表現しているというものです。
そうすると、コインの表が「日中のアテナ」であり、裏面は「夜のアテナ」と捉えることができます。表面のアテナ神の兜にはオリーヴが施され、裏面にもオリーヴの枝葉が配されています。
さらに注目すべきことに、表面のアテナ神にも、注意深く見ると「小さな三日月」が表現されています。
ここで注目すべきは、裏面のフクロウの傍に表現された月とはなっているという点です。この形は陰暦3日目に現われることから、文字通り「三日月」と呼ばれ、一月の間で最初に目視できる月である事から「初月」などとも呼ばれます。
この三日月は日の入りすぐの夕方の時間帯に見られます。
つまり表面のアテナ神は日の入り直前の「日中の姿」であり、裏面のフクロウ(有明月=夜明け前)はアテナ神の「夜の姿」と捉える事ができます。
しかし実はこの仮説には謎もあります。
裏面のフクロウの月(=二十六夜月)は全てのコインに共通して表現されています。しかし表面のアテナ神の月(=三日月)は確認できるものもあれば、明らかに最初から配されていないと思われるものもあるのです。
・月あり
・月なし
なぜ同時期に二つの異なるタイプが存在するのか、造られた年代によるものか、彫刻師の判断によって意図的に省いているのかは不明です。
さらに言えばこのアテナ神の額付近にある三日月は、デザインとしてはあまりにもさりげなさ過ぎて、一見すると極印自体の傷か、はたまたアテナ神の兜から少し飛び出した前髪のようにも見えます。
中には明瞭に三日月と判別できるものもありますが、兜のオリーヴの延長線上にあるような、たよりない表現のものもみられます。
この三日月の意味については不明な点が多く、またあまり注目もされていない為、あくまで仮説の域から出ていないのが現状です。もしこの三日月の謎についてお詳しい方、自説をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです。
フクロウコインをお持ちの方がいらっしゃいましたら、お手持ちのコインを確認してみて下さい。アテナ神の額近くに「三日月」があるかないか、それを確かめるだけでも面白く、またその謎の解明に挑戦するのも楽しいかと思います。
平成30年、2018年も残すところあと1週間。今年も当ブログをご覧いただき、本当にありがとうございました。
来年も随時ブログを更新し、コインの魅力を発信していきたいと思いますので、何卒お付き合いの程よろしくお願い申し上げます。
平成最後の大晦日・お正月が皆様にとって楽しいものに、そして来る新年が良い年になりますように・・・。
11月に入りすっかり寒さが増してまいりました。
今年も残すところあとわずか、風邪など召されませんようご自愛ください。
今回は現代のコインに表現された「古代ギリシャ・ローマの神々」をご紹介します。
20世紀以降のヨーロッパでは様々なデザインの通常コインが発行され、造幣局・彫刻師たちは競うように独創的なデザインを表現しました。
国の産業(農業・工業・商業)を象徴する意味から、自国の歴史を顕彰する意味から、古代ギリシャ・ローマ時代の神々がデザインに登場しています。必然的に地中海の南ヨーロッパの国々にその傾向がみられます。
【アテナ (ラテン名:ミネルヴァ)】
アルバニア 1927年 1フランカ・アリ
古代ギリシャ神話のアテナは知恵・戦術・手工業・紡績・建築・造船技術などを司る処女神であり、ゼウス神の娘とされる。オリンポス十二神のひとつ。装飾羽がついた兜を被り、聖鳥フクロウを従える勇ましい姿で表現される。ギリシャの都市国家アテネの守護神であり、パルテノン神殿はこの女神を祀るために建立された。ローマでは「ミネルヴァ」の名で呼ばれ、国家守護神のひとつとして信奉された。
【ヘルメス (ラテン名:メルクリウス 英名:マーキュリー)】
フランス 1922年 2フラン
ヘルメス(フランス語ではエルメス)はオリンポス十二神に数えられる神。青年の姿をし、翼が据えられた帽子とサンダル、伝令使の杖(ケリュケイオン)を携帯した姿で表現される。神々の伝令使を務めることから、通信と旅の守護神とされる。また生まれてすぐにアポロ神の牛を盗み、巧みな交渉で言い逃れたという伝説から、商売人や交渉事、盗賊の守護神とされた。その他、数字や交易を人間にもたらし、サイコロを発明した神とされ、賭博の守護神とも云われた。
近代以降は通信や交易・交通・商業の面が注目され、企業の紋章や証券、紙幣やコインのデザインとして多く用いられた。
ベルギー 1924 2フラン
ヘルメス神の象徴 ケリュケイオン(カドゥケウスとも)は翼と二匹の蛇が巻きついた伝令使の杖。それ自体が商業上の縁起物として認識され、古代ローマ時代からコインに表現された。近現代ではベルギーとボリビアの通常貨にみられる。
【ポセイドン (ラテン名:ネプトゥヌス 英名:ネプチューン)】
ギリシャ 1930年 20ドラクマ
オリンポス十二神に数えられるポセイドンは、大神ゼウスと冥界神ハデスの兄弟にあたる。海を支配する荒ぶる神として畏れられ、地震や津波を引き起こすとされた。古代ギリシャではポセイドンの怒りを鎮めて海の安全を願うと共に、海戦での勝利や海運の成功を祈願した。
【ヘファイストス (ラテン名:ウルカヌス 英名:ヴァルカン)】
イタリア 1978年 50リレ
オリンポス十二神の中では珍しくものづくりに特化した鍛冶の神。鉄鋼をはじめ金属加工を司る職人の守護神とされる。神話上では神々の武器や神器を製作する役割を与えられ、「クリュトテクネス(名匠)」の異名で呼ばれることもある。また動く人形や首飾りなどの宝飾品、最初の人間の女性「パンドラ」を作り出したとされる。
【デメテル (ラテン名:ケレス 英名:セレス)】
ギリシャ 1930年 10ドラクマ
デメテル(セレス)は豊穣をもたらす農業の守護女神。オリンポス十二神の中では大地母神としての役割を果たす。その象徴として穀物が絶えず湧き出るコルヌ・コピア(豊穣の角)を持ち、麦穂で編んだリースを頭に巻いている。一年の内、娘であるペルセポネーが冥界神ハデスのもとに行ってしまう数ヶ月間は、悲しみのあまり働かないため「冬」になる、と云われる。農業と穀物の供給を司る女神として重要視され、古代ローマでは頻繁にコインのデザインに用いられた。19世紀には農業国フランスをはじめ、ヨーロッパ各国のコインやメダルに表現された。
【ヘラクレス】
アルバニア 1926年 1/2レク
ヘラクレスは半神半人の英雄であり、豪神として男性から人気があった。歴史上では、アレクサンドロス大王やコンモドゥス帝などが憧れ、ヘラクレスに模した自らの肖像をコインに刻ませた。1920年代にアルバニアで発行されたコインには、ヘラクレス十二功業のひとつ「ネメアのライオン退治」が表現されている。
【テティス】
ギリシャ 1911 2ドラクマ
テティスは海の女神であり、海馬ヒッポカンポスを従える姿で表現される。英雄アキレウスの母親であり、トロイア戦争は女神の結婚式が発端になったとされる。1911年のギリシャで発行されたディドラクマ(2ドラクマ)銀貨には、海馬ヒッポカンポスに乗り、息子アキレウスの円盾を見つめるテティスが表現されている。
【リベルタス (英名:リバティ)】
ポルトガル 1965年 50センタヴォ
リベルタス(リバティ)は古代ローマにおいて自由と解放を象徴する女神だった。その姿は解放奴隷が被っていたフリジア帽を持つ姿で表現された。古代ローマ時代にはコイン上に度々表現されたが、フランス革命以降、共和政国家を象徴する女神像として頻繁に用いられた。近現代のヨーロッパとアメリカ大陸では最もよく表現された女神像。
【ペンテシレイア】
マルタ 1977年 2セント
女戦士部族アマゾネスの女王ペンテシレイアは、トロイア戦争においてアキレウスと戦い敗れたとされる。黒海沿岸部を支配したというアマゾネスは古代ギリシャの様々な神話に登場し、小アジアの植民都市名の由来として伝承される場合も多い。
【エウロペー (ラテン名:エウロパ)】
キプロス 1991年 50セント
ギリシャ 2008年 2ユーロ
エウロペーはテュロス王の娘とされ「ヨーロッパ」の語源になった。海辺で戯れていたエウロペーを見初めたゼウス神が白い牛に変身し、気を許したエウロペーを乗せて走り去ったと伝承される。このとき、エウロペーを乗せた牛(ゼウス神)が西方の海へ走り去った為、その地域一帯が「ヨーロッパ」と呼ばれるようになったとされる。
【ペガソス (ラテン名:ペガスス 英名:ペガサス)】
ギリシャ 1973年 10ドラクマ
天空を飛ぶ有翼の馬として知られるペガサスは、ペルセウスやベレロポーンなど英雄達の愛馬として登場する。ペルセウスに討ち取られたメドゥーサの首から飛び出したとされ、その父親は海神ポセイドンとされる。天に昇ったペガサスは星座「ペガサス座」となり、「不死」「名誉」「教養」の象徴となった。
ここでは記念コインではなく、20世紀以降に発行された、一般流通用の通常貨に表現された神々をご紹介しました。ご紹介したコインの中には、古代ギリシャ・ローマ時代に造られたコインを模してデザインされたものもあります。2000年以上の時を経てもデザイン性に大きな隔たりが無いことは驚きです。
近年発行されたコインは比較的入手しやすいので、「古代ギリシャ・ローマ神話」をテーマにしてコレクションされると面白いかと思います。また自身に関係のあることを守護してくれる神様(学問や職業、星座など)のコインをペンダントやストラップ、財布の種銭にして、お守りにされるのも良いでしょう。
古代ギリシャ・ローマで発行された当時のコインを入手し、あらゆる点で現在のコインと見比べてみるのもまた楽しいはずです。古代の手打ちで一枚一枚作成されたコインと、機械で大量生産されたコイン、古代ギリシャ・ローマの末裔達が作り出したコインにもまた、物語や背景があります。
お手持ちのコインのデザインから古代の神話の世界に興味を持ち、本や映画で調べることもあると思います。また古代神話の物語からコインに魅力を感じ、思い入れのある一枚をコレクションされる方もいらっしゃるでしょう。それぞれの魅力や良さ、楽しさが、少しでも伝われば幸いです。
秋も深まった今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
現在、東京・池袋の古代オリエント博物館では開館40周年記念特別展『シルクロード新世紀』(~12/2)が開催中です。
シルクロード考古学の貴重な出土品や宝物が多数展示されていますが、その中にはコインも多くあります。注目は2016年にニュースになった、沖縄の遺跡から発掘された古代ローマコインです。2年前に当ブログでも紹介させていただきましたが、今回うるま市教育委員会から古代オリエント博物館に貸し出されているようです。
前回の記事リンク
↓↓↓
ニュースにも取り上げられたコインを見られる、大変貴重な機会です。12月2日(日)までの期間限定ですので、東京・池袋にお越しの際には是非お立ち寄り下さい。
さて、今回はシルクロードのコインということで、かつて中央アジアに栄えたギリシャ系王国「バクトリア」のコインについてお話します。
ギリシャコインのカテゴリーに入れられるバクトリアですが、場所はギリシャから遠く離れた中央アジア、現在のタジキスタン~アフガニスタン~パキスタン北部に栄えた王国です。
紀元前4世紀、東方遠征を行ったマケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世 在位:BC336年~BC323年)は、この地を通ってインドを目指しました。その途上、内陸に多くのギリシャ系植民都市を建設しました。アレキサンダー大王が目指した東西に跨る大帝国の建設を進めると共に、歳をとった老兵たちや行軍についていけない兵士たちを入植させる目的があったようです。
こうしてアジアの内陸に建設されたギリシャ風都市では、ギリシャ人の兵士たちと現地の女性たちが結婚し、生活の拠点として拡大・発展してゆきました。やがて大王亡き後、後継者争いによってアジア全域はセレウコス朝の支配下となります。しかし地中海から遠く離れたバクトリアはセレウコス朝の支配が及ばず、紀元前3世紀半ば、現地の総督が反乱を起して独立しました。
その後、バクトリア(グレコ=バクトリア、インド・グリーク朝とも)は東西シルクロード交易の要衝として繁栄し、中央アジアにギリシャ文化を開花させました。
ガンダーラ仏像の特徴である目鼻立ちのしっかりした顔立ちや衣服のひだの表現は、ギリシャ彫刻の影響を受けている。ガンダーラ美術はバクトリア王国が滅亡した後の紀元前1世紀半ばに栄えたとされ、バクトリアのギリシャ文化が現地に定着した証といえる。
バクトリアのギリシャ文化が与えた影響は、仏像に代表されるガンダーラ美術がよく知られていますが、コインもギリシャ式の芸術性の高いものが多く作られました。
デメトリオス王/ヘラクレス
(テトラドラクマ銀貨 BC205-BC171)
アンティマコス王/ポセイドン神
(テトラドラクマ銀貨 BC170-BC160)
エウクラティデス1世/双子神ディオスクロイ
(テトラドラクマ銀貨 BC170-BC145)
※このコインの裏面デザインは、現在アフガニスタン中央銀行の行章としてそのまま採用されている。
メナンドロス1世/アテナ女神
(ドラクマ銀貨 BC155-BC130)
アンティアルキダス王/象を従えるゼウス神
(ドラクマ銀貨 BC145-BC120)
アポロドトス1世発行 象/コブウシ
(ドラクマ銀貨 BC160-BC150)
アポロドトス1世発行 アポロ神/三脚鼎
(ヘミオボル銅貨 BC160-BC150)
当時のバクトリア王国の内政や歴史、具体的な時代区分もまだ不明瞭な点が多く、研究の途上にあります。しかし確認されているコインから、バクトリア国内の複雑な地形を背景として各地に王が乱立していたと推察されています。
バクトリアコインの表面には王の横顔肖像、裏面にはギリシャ神話の神々(アテナ女神、ニケ女神、ヘラクレスなど)が表現されるヘレニズムスタイルです。内陸の国にも関わらず、海神ポセイドンも表現されています。小額コインでは、古代コインに珍しい四角形もみられます。
それらの大きな特徴の一つは、表面にはギリシャ語銘が刻まれ、裏面には現地のカローシュティー文字が刻まれている点です。この二言語併記は現在の紙幣などでよくみられますが、古代の貨幣としては画期的な例でした。ギリシャの伝統を引き継ぎつつも、ギリシャ系住民とアジア系住民が共存する独自の体制を模索していたことが分かります。この二言語併記は、バクトリア王国滅亡後に現地を支配したスキタイ人のコインにも継承されています。
実はこの二つの言語が刻まれたコインの存在は、後にバクトリアの存在を世界に知らしめる重要なツールにもなりました。
バクトリアが栄えた現在のアフガニスタンの周辺は、中央アジアの中でも山岳地帯ということもあり、外部との接触が困難な地域でもありました。そのため紀元前2世紀頃にバクトリア王国が滅び、時代が経るとその存在は古代の史書の中だけに留められてしまいました。
しかし16世紀以降、ヨーロッパ人がインドに本格的に進出すると、にわかに中央アジアへの関心も高まり始めました。そしてかつてアジアの奥地に存在した、アレキサンダーの遠征軍の末裔達が築いた王国にも脚光が集まったのです。
アイ・ハヌム遺跡
バクトリアを代表するギリシャ風都市。壮麗な神殿の遺構や高度な工芸品が多数発見された。この重要な都市遺跡が発見され、本格的に調査されたのは1960年代になってからだった。
18世紀末、発見されたコインをもとに失われたバクトリア王国の全容を明かそうとする書籍が出版されると、考古学者・歴史学者たちの間でバクトリアに対する関心が高まり、その研究の重要な手がかりとして「コイン」が収集されるようになります。遠く離れた中央アジアでは、地中から出てくる古いコインをインドに持って行けばヨーロッパ人が高値で買ってくれると、バクトリアのコインが自然とインド経由で出てくるようになりました。
まだ中央アジアでの遺跡発掘などできない時代、失われた王国の謎を紐解く重要な手がかりはコインでした。考古学者や言語学者たちは持ち出されたバクトリアのコインを丁寧に調べ上げることにより、史書に記載されず未確認だった王の名を知ることができたのです。ギリシャ文字とカローシュティー文字の二言語併記コインは、失われた古代文字の解読に重要な手がかりを提供し、インドのアショーカ王碑文を解読するのにも役立ちました。
カローシュティー文字を解読したジェームズ・プリンセプ(1799年~1840年)はカルカッタ造幣局の貨幣検査官としてインドの古代コインを収集・研究していた。バクトリアコインに刻まれたギリシャ文字とカローシュティー文字が同じ意味を示すと考えたプリンセプは、これを手がかりとしてカローシュティー文字の解読に成功した。
インドがイギリスによって植民地化された19世紀、必然的にバクトリア研究はイギリスがリードするようになります。アム河の流域に住む住民は、河の水が減る時期になると砂地に入り、金銀の装飾品やコインを拾い集めて商人に売り渡しました。イギリス人はこうした遺物を買取り、研究に役立てていきました。
1877年、各地からの出土品を集めてペシャワールへ向かっていた隊商が盗賊たちに捕らわれる事件がありました。盗賊たちのアジトである洞窟へ連れて行かれる途中、一人の男が逃げ出して近隣に駐屯していたイギリス軍に助けを求めました。
イギリス軍のバートン大尉は兵士を引き連れて盗賊たちの洞窟へ急行します。その頃盗賊たちは戦利品である膨大な宝物(金銀の宝飾品やコイン)の分け前を巡って口論を繰り広げていました。バートン大尉の交渉によって宝の大半と商人たちの身柄を取り戻すことに成功し、その御礼として宝の一部がイギリス軍に渡りました。
助けられた商人がバートン大尉に譲った金の腕輪。オクサス河(アム河)から出土したことから「オクサスの遺宝」として知られる。大英博物館収蔵品
商人たちによってインドのラワルピンディに持ち込まれた千枚以上のバクトリアコインは、地金として溶かされたり古物商によって運ばれるなどして四散しましたが、一部はインド考古学局長カニンガムによって購入され、その後のバクトリア研究に大きく寄与しました。
この時代、コイン収集は単なる趣味ではなく考古学の研究であり、失われた歴史の発見でもあったのです。一枚のコインから推察と想像力を働かせ、はるか昔に存在した王国を解き明かそうとした人々は、どのような思いでバクトリアのコインを眺めたのでしょうか。結局、中央アジアで都市遺跡を発掘調査し、その華麗なバクトリア王国の詳細を再現するには20世紀まで待たねばなりませんでした。
しかし数多くのコインが存在したおかげで、研究者は現地へ赴かずともバクトリア王国の存在を把握し、多くのことを明らかにしていったのです。
コインが歴史の解明に大きな役割を果たした例として、バクトリアのコインは世界中のシルクロード研究者から注目されています。現在の我々が古代コインに刻まれた文字や意味を知ることができるのも、先人達の地道な努力があってこそです。
そのようなことに想いを馳せながら、コインを眺めて秋の夜長をお過ごしいただければ幸いです。
こんにちは。
すっかり秋らしくなってきましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。夕方以降は涼しくなり、また冷たい秋雨も多くなってまいりました。
そういう日は「読書の秋」ということで、家の中でゆっくり本を読まれる方も多いのではないでしょうか。
前回のブログ記事でもご紹介しましたが、中公新書より『貨幣が語る ローマ帝国史 権力と図像の千年』 (820円+税)が出版されました。手頃なサイズとページ数、価格でありながら、たいへん読み応えのある内容になっています。著者の比佐篤さんは古代ローマ史の研究者ですので、歴史的背景や観点、考察を加えた詳しい解説が見どころです。
早速拝読しましたが、ローマコインの基礎的カタログ『The Roman Imperial Coinage』掲載の画像を多数使用し、そのデザインと発行された時代背景についてとても詳しく、そして分かりやすく解説されていました。ローマ史に興味のある方、コインを収集されている方にはオススメの一冊です。
こうした「コイン」に関する本といえば、David R. Sear氏の『Greek Coins and their values』やFriedbergの『Gold Coins of the World』、Krauseの『Standard Catalog of World Coins』といったカタログが真っ先に思い浮かびますが、読み物としてのコインに関する本は、特に日本語で書かれたものは少ないのが現状です。
そのため海外の作品にわずか一行ほど登場する貨幣名が、かろうじてその存在を印象付けているといってもよいでしょう。普通の読者ならあっさりと読み飛ばしてしまう箇所も、コインを収集している人であれば注目すると思います。
『新約聖書』に登場するイエスの逸話「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに帰せ」で用いられたデナリ銀貨は、当時の皇帝ティベリウスの一般的なデナリウス銀貨と推定され、ユダがイエスを裏切った報酬である「銀貨三十枚」も、フェニキアのティールで造られていたシェケル銀貨(テトラドラクマ)であると考えられています。
また『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』に度々出てくる「金貨」や「銀貨」といった表現も、当時のアラビアで使用されていた「ディナール」「ディルハム」であることが分かります。様々な王にまつわる物語 (※ササン朝のホスロー2世やアッバース朝のハールーン・アッラシードなど)の中で用いられる貨幣は、彼らの時代に発行されたものであると想定することが可能です。
ただ書かれた時代やその土地での呼び名が、後世の古銭学上の呼称と少し異なっていたり、日本語訳の時点で上手く翻訳できていない場合もあります。例えば新約聖書のマルコ伝に「レプトン銅貨二枚の賽銭」という説話があります。金持ちによる多額の賽銭よりも、貧しい人の手持ちの賽銭のほうが価値があると説いたイエスの話です。
ここで記された「レプトン(レプタ)」とはギリシャで使用されていた単位であり、ユダヤには「プルタ」という小額単位のコインが存在しました。初期の聖書がギリシャ語で記されたことから、当時の編纂時点で誤認された、または意図的に修整された可能性もあります。
ユダヤのプルタ銅貨
しかしマルコ伝には「レプトン銅貨二枚すなわち一コドラント」とあり、当時のユダヤでは現地の2プルタがローマのクァドランス銅貨の価値に等しかったことが分かります。聖書を読み解くと支配者であるローマの貨幣と、ユダヤ現地民が使用する貨幣とが混在して流通し、交換比率や用途もある程度決まっていたことが分かります。(ローマの貨幣単位=税、ユダヤの貨幣単位=神殿への賽銭など)
ローマ皇帝の逸話の中でも様々な形でコインが登場しますが、中には裏付け不明な怪しい記述もみられます。内容の信用性や作者の存在、成立年代の不詳性から史料的価値が疑われる古典『ヒストリア・アウグスタ (ローマ皇帝群像)』では、ある皇帝がこのようなコインを発行させた、という記述が散見できますが、実際にはそのようなコインは確認されていないという例も多々みられました。また皇帝の逸話とその中で使用されている貨幣単位の時代にズレがあるといった例もあります。
(※例えばエラガバルス帝の浪費を説明するのに「~万アルゲンティウス、~万フォリス」という表現がみられるが、これらはエラガバルスの時代より半世紀以上経過して新たに登場した貨幣の単位である)
1951年に出版されたマルグリット・ユルスナール著の古典的歴史小説『ハドリアヌス帝の回想』では、ハドリアヌス帝の愛人だったアンティノウスの貨幣は彼の出身地ビテュニアで御守りとして人気があり、現地では「穴を開けて紐を通し、生まれたばかりの赤子の首から下げたり、人が亡くなると墓標に打ち付けたりした」との記述があります。しかし実際にそのような使用がなされていたかは確かめようがなく、何か裏付けとなる史料があるのか、あくまで作者の創作表現なのかは定かでありません。
アンティノウスのコイン (またはメダリオン、フリギアで発行)
ただリアルタイムで書かれた本(日誌や回想録)に登場する貨幣であれば、内容の信憑性はより高いといえます。
19世紀初頭に出版された『セント=ヘレナ覚書』は、大西洋の孤島セント・ヘレナへ流刑になったナポレオンについて記した日誌形式の作品です。作者のラス・カーズはナポレオンの回想録を記すためナポレオンに付き従い、船での護送から島での生活までを細かく記しました。日付け順にナポレオンがどのように振る舞い、何を語ったのかが詳細に記録されています。
この本では度々ナポレオン発行の20フラン金貨が登場します。ナポレオン本人やつき従った側近達は、この金貨をそのまま「ナポレオン」という単位で呼んでいたことも書かれています。また「ターラー」「クラウン」「エキュ」「リーヴル」といった単位の貨幣も登場します。
ナポレオンは自らの肖像が刻まれた20フラン金貨を気に入っていたらしく、島へ向かう船上でイギリス軍の水兵たちに配ろうとしてイギリス将校に止められたり、島を散策中に出会った農夫にあいさつ代わりに渡したこともあったそうです。作者のラス・カーズが帰国する際にも幾らか渡していたかもしれません。
両角 良彦著『セント・ヘレナ落日-ナポレオン遠島始末』 (朝日選書)によればナポレオンは生活費に窮し、屋敷で使用していた銀食器から自らの紋章を削り取った上で売却したと記述されています。
しかし一方で島へ寄港した船の船長がローマ王(ナポレオンの息子)の胸像を持っていることを知ったナポレオンは、1000フラン近い金貨を支払って入手して毎日眺めていたとも書かれており、ナポレオンの金銭事情には矛盾した記述も多くあるように感じられます。配るほど多額の金貨をどうやって持ち込んだのかも不思議な点です。(なお、後にこの胸像はまったくの別人であることが分かった)
ナポレオンは最期を迎えるとき、自らの遺体の周りにフランスとイタリアのナポレオン金貨を数枚並べるよう遺言し、それは実行されたと記されています。つまりフランスの20フラン金貨と、自らがイタリア王となったイタリア王国の20リレ金貨の二種類を持っていたことになります。
イタリア王国の20リレ金貨
金の純度や重さ、サイズはフランスの20フランと同じだが、肖像の雰囲気は異なる。
様々な古典作品を読んでいると、人々がコインを手にし、あれやこれやをやり取りする場面が多く見受けられます。今も昔も変わらず、お金が人の生活にとって欠かせない存在だったことの証でもあります。
それらの作品は書かれた時代、まだそうしたコインが「古銭」ではなく、実際に流通した「現行貨幣」だった時代の重要な史料でもあります。アンティークコインとなってしまった現在ではコインの状態や希少性で価値が決まりますが、それらが純粋に決済の手段だった時代に想いを馳せることができます。なにより現在まで形として残っているコインが、当時どれほどの価値で人々から認識されていたのか、またどのように使用され何を買うことができたのかを知る手立てになりうるのです。
ただ作者が小さなコインにまで注意を払わない場合は、不正確さや事実誤認がみられることもしばしばです。歴史を扱った作品は多々ありますが、多くの人々が目にするものは歴史学ではなく、あくまで「物語」として描かれた作品が多いため、仕方のないことではあると思います。
秋の夜長に本を読まれる際には、その中に登場するコインにもぜひ注目してみて下さい。そこから様々なことを想像し、本物のコインを手にすることで、物語の世界により入り込みやすくなるかもしれません。
こんにちは。
8月も終わりだというのに本当に暑い日が続いております。
秋の涼しさが待ち遠しいですね。
さて、今回はコインに関する本のご紹介です。
来月、9月19日に中央公論新社さんから、ローマコインに関する新書が発売されるそうです。
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著者:比佐篤
出版社:中央公論新社
価格:¥886 (税込)
発売予定:9月19日(水)
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Amazonに掲載されている内容コメントによると、
貨幣は一般的に権力の象徴とされ政府や中央銀行などが造幣権を独占するが、古代ローマでは様相が異なる。政界に登場したばかりの若手や地方の有力者らも発行しており、現在までに発掘されたものだけでも数千種類にのぼる。ローマ神話の神々の肖像、カエサルや皇帝たちの肖像、花びらや儀式の道具など、描かれた図像も多岐にわたる。貨幣の図像と刻まれた銘文から一千年の歴史を読み解いた、新しい古代ローマ史入門。
(以上 掲載紹介文)
248ページの中でコインの図像を紹介しながら、古代ローマの歴史を体系的に紹介しているようです。おそらく代表的なコインの図像を取り上げ、その歴史的背景やまつわる人物のエピソードを分かりやすくまとめられたのではないかと想像します。「コイン」という切り口で、古代ローマ史を著した興味深い一冊です。
中公新書ではかつて、『紙幣が語る戦後世界―通貨デザインの変遷をたどる』 (冨田昌宏,1994)という本を出版しています。紙幣のデザインや発行背景と、歴史・国際情勢をリンクさせた、読みやすくかつ専門性も高い内容でした。今回のタイトルからも、同様のコンセプトが伺えます。
ローマコインが歴史学の研究で注目されはじめたのはルネサンス期のヨーロッパからです。以降、各地で出土したコインのデザインや材質をデータ化し、カタログとしてまとめる地道な作業が続けられてきました。その過程で図像学や言語学の観点から注目され、コインがローマの政治的、経済的状況を示す重要な史料だと確信された長い歴史があります。
欧米ではローマ史の資料や書籍も多く、その中でコインの図像を紹介したものも多岐に渡って出版されてきました。しかしながら、日本ではこうした書籍がなかなか世に出ませんでした。
この度、中公新書として出版されることで、多くのコイン収集家、ローマ史愛好家の双方にとって刺激になると思われます。また、それまでローマ史やコインに馴染みがなかった方にとっても、興味を持つきっかけになるのではないでしょうか。
9月は秋の夜長、「読書の秋」に相応しい一冊として、ぜひ手にとってみては?
こんにちは。
豪雨に台風、さらに暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
連日35度を越え、夜になっても熱が冷めない空気で、眠れない日も多いのではないでしょうか。
今日は気分だけでも爽やかになろうと、「イルカ」のコインについてご紹介させていただきます。
イルカのコインは「クリスチャン・ラッセンのイルカ金貨」に代表されるように、現代でも人気のテーマです。
現実のイルカも水族館ではアイドル的な存在として人気を集めています。それだけ「イルカ=かわいい生き物」というイメージが、広く認識されているからでしょう。また、爽やかで美しい海をイメージさせる存在であるといえます。
2000年以上前の古代ギリシャ人にとって、海はとても身近な存在でした。海上交易や植民活動が活発だった時代、エーゲ海を中心に黒海やアドリア海など、地中海の隅々までが彼らの活動範囲でした。当時作成された陶器や壁画には、神話の物語や活き活きとした人々の生活と共に、多種多様な魚介類も表現されています。
クレタ島 クノッソス宮殿の壁画
ワイン用の陶器 (BC520-BC510)
古代ギリシャ文化においてイルカはポセイドン神やその妻アンフィトリテ女神の聖獣であり、海を象徴する動物として認識されていました。イルカは聖なる生き物として、各地で造られたコインにも表現されました。中でも港湾都市で発行されたコインには頻繁にモティーフとして取り入れられました。
紀元前5世紀に黒海沿岸の都市オルビアで造られた銅貨。イルカの形をした珍しいコインであり、打刻ではなく鋳造によって造られています。円形や四角形ではなく、 モティーフそのものをコインの形にしているという点で、非常に興味深い存在です。
パフラゴニア シノペ BC333-BC306 ドラクマ銀貨
トラキア イストロソス BC400-BC350 ドラクマ銀貨
黒海沿岸の都市ではイルカが表現された特徴的なコインが発行され、海鷲がイルカを掴むという構図で表現されました。
黒海とエーゲ海の境に位置した都市ビザンティオン(現在のイスタンブール)のコインにもイルカがみられます。こちらは牡牛がイルカの上に乗っています。
ビザンティオン BC340-BC320 シグロス銀貨
一方でエーゲ海沿岸の都市でもイルカが表現されたコインがみられます。
リュキア地方 ファセリス 4th Century BC スターテル銀貨
両面でガレー船の舳先と船尾が表現されたコイン。イルカは海の象徴として、ガレー船の下を泳いでいます。
ギリシャ人が多く移住した南イタリア~シチリア島では、イルカにまつわる伝説が各地に存在したことから、コインにも神話の要素として登場しています。イタリア半島 カラブリアの都市タレントゥムでは、ポセイドンの息子タラスが父神の遣わしたイルカに乗って難破船から脱出し、辿り着いた海岸にタレントゥムの町が建てられたという伝説がありました。そのため同都市のコインには、「イルカに乗るタラス」が多様なバラエティによって表現されました。
紀元前4世紀~紀元前3世紀頃、ローマの支配下に入る前に造られたノモス銀貨には、バラエティ豊かなタラスとイルカの組み合わせが見られます。中にはイルカに乗ったタラスが、右手で小さなイルカを持つという珍しいタイプも造られています。こうした違いは刻印彫刻師の個性を示し、また造幣所ごとの仕事を見分ける重要な目印にもなっていたと考えられていますが、当時のタレントゥムの豊かさや自由さがそのまま表現されているようです。
またシチリア島のシラクサで発行されたコインには美しい泉のニンフ、アレトゥーサが表現されていることで有名ですが、その周囲には必ず四頭のイルカが回遊していました。この配置は、現在にも通じるほどの高いデザイン力です。
シチリア島 シラクサ BC475-BC470 テトラドラクマ銀貨
シチリア島 シラクサ BC340-BC310 テトラドラクマ銀貨
このようにギリシャ文化圏ではイルカを表現したコインが数多くみられました。当時のギリシャ人たちにとって海、そしてそこで見られるイルカはとても身近な存在だったことが分かります。
一方でローマによって発行されたコインのイルカには、ギリシャには無かった変化が見られます。
ローマ BC74 デナリウス銀貨
ローマ ポンペイウス派発行 BC49 デナリウス(※デュラキウムで発行)
ローマ AD37-AD41 アス銅貨
裏面のネプチューン神が右手でイルカを差し出しているのが確認できます。
ローマ AD69 デナリウス銀貨
ローマ AD80 デナリウス銀貨
ローマ時代のコインに表現されたイルカは頭部が丸く大きくなり、さらに尾の部分を異様にくねらせる傾向にあります。上に示したティトゥス帝のコインでは、船の錨に絡みつくイルカという、自然では到底ありえないような構図で表現されています。
不思議なことにギリシャコインに表現されたイルカは、現代の我々が見ても違和感がないほどに写実的なのに対し、ローマコインのイルカは魚か爬虫類のような、全く別の生き物のように見えるのです。
この傾向はローマ時代に造られた彫像やモザイク画にもみられます。
モザイク画 (BC120-BC80)
ネプチューンの彫像のイルカ像 (ハドリアヌス帝時代 AD117-AD138)
ローマ時代の芸術作品に登場するイルカは鋭い牙があるものや、複数の背びれ・尾びれがあるもの、さらには鱗があるものまでみられます。このことから、ローマ人はイルカを魚の一種と認識していたのかもしれません。
しかしイルカはローマの時代にも地中海に多く生息し、人々の生活にも比較的近い存在の生き物だったはずです。海上交易が発達していた時代であれば実際のイルカを目にした人も多く、また網にかかって引き揚げられるイルカもいたと思われます。
1世紀に記されたプリニウスの『博物誌』には、湖に迷い込んだイルカと友情を育んだ少年の物語が記録されており、決して珍しい動物ではなかったことが分かります。
たとえ作品の製作者や注文者が海で生きたイルカを見たことがなくても、実際に見た人物の意見や、ギリシャ時代の作品に表現されたイルカ像を基にして修正が加えられても不思議ではありません。
にも関わらずローマ時代のコインをはじめ、芸術作品に表現されたイルカ像は現実とあまりにもかけ離れたものになっており、さらにそのイメージは修正されないまま、中世~ルネサンス期まで続いていきます。
ギリシャ・ローマ時代には様々な動植物が表現されましたが、それらは身体の模様や動きなどがリアルに表現されています。ギリシャ時代のイルカ像も、たとえデフォルメされていても基本的な姿は維持され、本物の特徴を踏まえて表現されていることが分かります。しかしローマ時代のイルカ像は、そもそもイルカを見たことの無い人が想像で生み出した怪物のような姿で表現され、そのまま酷くなりながら継承されているようにも見えるのです。
イルカのように時代の変遷と共に、本物からかけ離れてしまった事例は稀といえるでしょう。
アリオンとイルカ
(1899年『Stories of the olden time』より)
近代ヨーロッパでは「現実のイルカ」と「古代神話世界のイルカ」を明確に区別して表現しています。
「イルカに乗った少年」という題材は様々なパターンで各地の神話に残されており、イルカも後世の芸術作品に盛んに表現されましたが、その姿はまるでシャチホコのような姿です。
古代のギリシャ人とローマ人の間に、イルカに対するどのような認識の差があったのか、コインの変遷を見るだけでも様々なことを想像させられます。少なくともローマ人がギリシャ人ほど、イルカに愛着を抱いていなかったことは間違いないようです。
こんにちは。
6月になり、梅雨空から一気に夏空が続いている今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
雨の日も日差しの強い日も、外出は億劫になってしまいがちですが、貴重な晴れ日には遠くに出かけてみるのも良いと思います。
古代ローマの時代、地中海世界を制覇し「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を創出した五賢帝の頃には、街道や海路が整備され政情も安定していたことから、観光目的の旅行を楽しむ人々も出現していたそうです。
皇帝も遠征などでローマから遠く離れた土地へ赴くことがありましたが、その中でもハドリアヌス帝(在位:AD117年~AD138年)は「旅する皇帝」と呼ばれるほど帝国各地を巡りました。自らが統治するローマ帝国の隅々を視察することで、帝国の現状を把握していたといわれています。一方で好奇心旺盛で知的な欲求を満たす目的もあったとされ、首都ローマの煩わしさから逃れるためでもあったと考えられています。
治世の多くを旅に費やしたハドリアヌス帝が発行したコインには、彼が旅した先を示す図柄が多く登場します。特定の地域を神像や女神像として擬人化、具現化して表現すること(ローマ神など)は珍しくありませんでしたが、ハドリアヌス帝の治世にはそのバラエティが際立って多く、帝国の各地がコイン上に表現されました。これらは「トラベルシリーズ」とも呼ばれ、旅する皇帝ハドリアヌスを象徴するコインコレクションとして注目されています。
2世紀半ばのローマ帝国最大版図
2世紀に最大版図を出現させたローマ帝国は、その領土の1/3がヨーロッパ、1/3がアジア、1/3がアフリカに該当しました。コインに表現された属州の姿は、ローマ市民に自らが生きる帝国の多様性と広大さを知らしめる目的もありました。
ハドリアヌス帝の治世には各属州でも興味深いコインが発行されていましたが、今回は本国ローマで発行されていたものをご紹介します。
・イタリア
イタリアは首都ローマを中心とする、まさにローマ帝国の心臓部でした。地中海帝国の真中に突き出たイタリア半島から、ハドリアヌスの旅は始まりました。皇帝による巡幸といっても仰々しいものではなく、あくまで視察を目的としたものだったため、移動しやすいように随行員、警備も最小限度だったそうです。三回に分けられた帝国巡幸の旅には、不仲が噂されていた妻サビーナも同行することがあり、後にはハドリアヌスの寵愛を受ける美青年アンティノウスも加わることになります。
AD136年 デナリウス銀貨
イタリアを具現化した女神像は、長杖とコルヌ・コピア(豊穣の角)を持つ姿で表現されています。周囲には「ITALIA」銘が刻まれています。
・ガリア (現在のフランス)
第一回の巡幸でハドリアヌス帝が最初に訪れたのはガリアでした。AD121年のガリア訪問では植民都市の政庁や軍駐屯地を訪問し、その実態を把握しようと努めました。受け入れる側の役人達は連絡からすぐに皇帝一行が到着するため、普段の様子をそのまま見せることしかできなかったようです。
AD136年 デナリウス銀貨
ハドリアヌス帝に跪くガリア人。女神像ではなく男性として表現されています。右側には「GALLIAE」銘が確認できます。
・ゲルマニア (現在のドイツ)
ガリアからゲルマニアに移動したハドリアヌスは、ゲルマン人との最前線であるライン川の国境地帯を軍事視察。このときハドリアヌス帝は国境沿いの数ヶ所で柵を切れ間無く建てるよう命じました。
AD136年 デナリウス銀貨
長槍と円盾を支えるたくましい女神像。周囲には「GERMANIA」銘。このゲルマニア女神像は近代ドイツで復活し、19世紀以降は国威発揚のために盛んに表現されました。
・ブリタニア(現在のイギリス)
海を渡ってブリテン島のロンディニウム(現在のロンドン)に到着したハドリアヌスは、そこから北へ進み、現在のイングランドとスコットランドの境界まで到達しました。そこはローマ帝国最北端の国境であり、北からの蛮族による侵入が絶え間ない地でした。北の国境を視察したハドリアヌスは、蛮族とローマ領を隔てる防御壁を建設するよう命じました。
それが現在でも知られる「ハドリアヌスの長城」です。AD122年夏、当地滞在中に発せられたこの命令は、その後10年の歳月を要して実現されました。
ブリタニアを旅している途中、一人の老婦人が財産所有の件で皇帝に直訴しようとしました。先を急いでいたハドリアヌス帝は「私には時間がない」といって無視しようとしましたが、老婦人が「それならば皇帝など辞めてしまいなさい!」と泣き叫ぶのを聞き、立ち止まって話しを聞いたという逸話が残されています。
AD136年 セステルティウス貨
岩の上に足を載せ、考え込むようにして座るブリタニア女神像。周囲には「BRITANNIA」銘。
・ヒスパニア (現在のスペイン)
ブリテン島を発ったハドリアヌスは再びガリアを抜け、そこからヒスパニアへ入りました。ハドリアヌスはヒスパニアの出身であり、当地には思い入れがあったようです。この滞在中には暴漢に襲われて危うく命を落としかけるというトラブルに見舞われるも、何とか故郷の視察を遂行することができました。(ハドリアヌスを襲った暴漢はすぐに取り押さえられたため、皇帝に危害は加えられなかった。その後ハドリアヌスの温情からか、この男は精神状態の不安定さを理由に釈放されている。)
AD136年 デナリウス銀貨
様々な姿のヒスパニア女神像。ハドリアヌスに跪く姿や、寝そべる姿など様々。共通してヒスパニア特産のオリーヴを持ち、足下にはウサギを配しています。かつてフェニキア人がイベリア半島の沿岸部に入植した際、畑を作ってもすぐに野兎に荒らされてしまうことから、この土地を「イセファニン(フェニキア語で「ウサギの地」の意)」と名付けました。その後ローマ人はラテン語風に「ヒスパニア」とし、そのまま現在の「スパーニャ」「スペイン」になったと云われています。
・マウレタニア (現在のモロッコ)
ジブラルタル海峡をわたってアフリカ大陸に入ったハドリアヌス一行は、地中海と大西洋の境を目の当たりにし、ローマ帝国の最西端を視察しました。鬱蒼とした森が広がる北ヨーロッパから乾燥する砂漠地帯への旅。当時としてはまさに地の果てへの旅でした。
AD136年 セステルティウス貨
女神として表されたマウレタニア。右手を挙げるハドリアヌス帝に杯を捧げている姿。右端には「MAVR(ETANIAE)」銘。
・地中海
マウレタニアを発ったハドリアヌスは、ローマ海軍のガレー船で一気に地中海を横断し、帝国東部の小アジアへ向かいます。
AD122年 デナリウス銀貨
海洋神オセアヌス(Ocean)が表現されたコイン。ポセイドンとよく似た姿で、三叉矛の代わりに船の錨を持っています。オセアヌス神の左ひじを支えているのは、背もたれのようになったイルカです。
・小アジア (現在のトルコ)
帝国最西端から再東端へ移動したハドリアヌスは、上陸したアンティオキアからパルティアとの国境最前線視察を開始。そのまま北上して黒海沿岸部に到達します。
AD136年 デナリウス銀貨
ガレー船に足を載せ、舳先とオールを携えるアシア女神。周囲には「ASIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
カッパドキアは小アジア内陸の地域。男性として表されたカッパドキアは、特徴的な帽子を被りローマ軍の記章を支えています。右手で差し出しているのはカッパドキアの名所「アルガエウス山(現在のエルジェス山)」です。周囲には「CAPPADOCIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
フリギアは小アジア内陸部の地域。このコインではフリギアを象徴する男性がハドリアヌス帝に忠誠を誓っています。フリギア特有の帽子を被った男性は右手を皇帝に差し出し、左手で羊飼いの杖を持っています。右側には「PHRYGIAE」銘。
AD136年 セステルティウス貨
ビテュニアは小アジアの北西部、黒海沿岸の一帯。コインには跪きハドリアヌス帝に忠誠を誓うビテュニア女神が表現されています。右側には「BITHYNIAE」銘。
AD124年に訪れたビテュニアで出会った現地の美青年アンティノウスを気に入ったハドリアヌスは、そのまま彼を旅に連れてゆくことにします。美しい愛人を新たに加え、憧れだった古代ギリシャ文化の地、エーゲ海に到達したハドリアヌスは上機嫌だったことでしょう。
アンティノウスの胸像
・トラキア (現在のブルガリア)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とトラキア女神。右側には「THRACIAE」銘があった。
ギリシャ文化を愛好したハドリアヌスは憧れだったアテネを訪問し、記念の神殿建設や修復を行いました。一方で北部のトラキアに足を伸ばし、軍の防衛体制を確認しています。
その後デュラキウム(現在のアルバニア)に移動したハドリアヌス帝はまっすぐ対岸のイタリア半島へは向かわず、南へ迂回してシチリア島へ上陸します。
・シチリア島
ローマへ帰還する前にシチリア島のシラクサへ立ち寄ったハドリアヌス帝は、穀物の重要な生産地であるシチリアを視察します。
AD136年 セステルティウス貨
跪きハドリアヌス帝を迎えるシチリアの女神。左手には麦穂を持っています。頭にはシチリア島の象徴であるトリナクリア(三脚巴紋)をつけています。トリナクリアはシチリア島の三つの岬を示し、シチリア島の形状そのものを象徴しているとされます。右側には「SICILIAE」銘があります。
ハドリアヌスが首都ローマへ帰還したのは、旅に出てから4年後のAD125年でした。しかし長らくローマを留守にし、通常の政務を優れた官僚組織に任せて自らは遠方から指示を出すハドリアヌスは、元老院での評判をすっかり落としていました。
ローマにいるのが苦痛になったのか、未踏の地への欲求が抑えられなくなったのか、帰還から3年後に再び巡幸の旅へ再出発します。次にハドリアヌスが目指したのは、前回の旅では船で通り過ぎてしまったアフリカ属州でした。
・アフリカ (現在のチュニジア)
アフリカ属州はカルタゴ征服後に設置された属州であり、オリーヴや麦などの農地開発が盛んに行われました。また闘技場での見世物に供される珍しい動物たちをローマへ輸出するなどし、経済的・文化的にも繁栄しました。アフリカの名はその後、大陸全体を表す名称になりました。
ハドリアヌス帝はシチリア島を経由してカルタゴに上陸しました。内陸部の各地を巡幸し、その後は再び海路でローマへ帰還しています。
AD136年 デナリウス銀貨
アフリカを象徴する女神像。足下には小麦の入った壺が置かれ、穀物の供給を示しています。女神は頭に象の毛皮を被り、右手でサソリを差し出すというアフリカらしい姿です。上部には「AFRICA」銘が刻まれています。
ローマへの帰還から束の間、すぐに三回目の巡幸に出発したハドリアヌス。三回目は国境の視察よりも、むしろハドリアヌス個人の好奇心を満足させる旅でした。愛人アンティノウスを伴ったハドリアヌス帝はまずギリシャのアテネに滞在し、その後小アジアを経てシリア、アラビア方面へ向かいます。
・アラビア (現在のヨルダン)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とアラビア女神。右側には「ARABIAE」銘。
アラビアの砂漠地帯を抜けて訪れたのは、ハドリアヌス帝が最も気に入った滞在地、エジプトでした。
・アエギュプトゥス (現在のエジプト)
AD136年 セステルティウス貨
女神エジプトは果物が入った籠に寄りかかりながら、古代エジプトの葬用楽器シストラムを掲げています。左側には聖鳥トキが配され、上部には「AEGYPTOS」銘が刻まれています。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプト属州の州都アレクサンドリアを表現したコイン。商業・学問の中心として栄えたアレクサンドリアにはハドリアヌス帝も滞在しました。コインのアレクサンドリア女神は右手でシストラムを掲げ、左手で籠を持っています。その籠からは一匹のコブラが這い出しています。周囲には「ALEXANDRIA」銘。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプトを流れるナイル川の神を表現。古代ローマでは川を表現する際、年老いた男性の姿で表現されました。エジプトの場合も例外ではなく、現地で発行されたコインにも同様の意匠が見られます。このコインではナイル神の足元にカバが配されています。この姿は古代エジプトのナイル川の神ハピが基になっているとみられます。上部には「NILVS」銘。
AD130年にエジプト入りしたハドリアヌスはナイル川をクルーズし、古代エジプトの壮大な神殿群を目の当たりにしました。殊の外エジプト滞在を気に入ったらしく、愛人のアンティノウスがいるにも関わらず、ローマにいた妻のサビーナをアレクサンドリアにわざわざ呼び寄せたそうです。
しかしこの地で悲劇が起こります。ナイル川をクルージング中に、アンティノウスが船から転落して溺死してしまったのです。当時から若いアンティノウスが簡単に溺死したのは不自然として、犠牲の生贄にされたという説や暗殺されたという説もあったそうです。 寵愛していたアンティノウスの死はハドリアヌスにとって予期せぬことであり、上機嫌から一転して深い悲しみに包まれました。
亡くなったアンティノウスを顕彰するため「アンティノポリス」という街を建設し、アンティノウスの像を建てても悲しみは晴れず、エジプトを離れてローマへ帰還しました。
・ユダヤ (現在のイスラエル)
AD136年 セステルティウス貨
女性として表現されたユダヤの像。二人の子どもを伴いながらハドリアヌス帝に対しています。右側には「IVDAEAE」銘。
エジプトからローマへ帰ってきたハドリアヌスに、最後の苦しい旅が待っていました。かつて大規模な反乱が勃発したユダヤ属州のイェルサレムは、1世紀にティトゥスの攻撃によって破壊されて以降、まともに復興されないままでした。ハドリアヌスはエジプトへ向かう途中でイェルサレムに立ち寄り、ここを新都市として生まれ変わらせることを宣言します。しかしその計画はイェルサレムの名を消し、かつてソロモン神殿があった場所にユーピテル神殿を建設するという、ユダヤ人の聖地を完全に作り変えるものでした。
計画に激怒したユダヤ人たちが起した反乱(第二次ユダヤ戦争、バル・コクバの乱)はローマ軍を圧倒し、ついにハドリアヌス自らが鎮圧に赴くことになりました。皇帝指揮下のローマ軍はAD135年、反乱軍の拠点だった聖地イェルサレムを陥落させ、ユダヤの反乱を鎮圧することに成功します。
反乱鎮圧後、怒りに満ちたハドリアヌス帝が下した処分は厳しいものでした。イェルサレムのユダヤ人は全て追放され、各地に離散(ディアスポラ)することになります。ユダヤ属州はペリシテ人のシリアを意味する「シリア・パレスティナ属州」(現在のパレスティナ呼称のはじまり)と改名され、ユダヤ文化の破壊が行われました。
反乱鎮圧に成功したハドリアヌス帝はローマへ戻りましたが、その後二度と巡幸の旅に出かけることはありませんでした。ユダヤでの戦いから、ハドリアヌス帝は体調を崩すようになっていました。
長旅に耐えられなくなった老体を休める為、ローマ近郊に建設した別荘で過ごすことが多くなったハドリアヌス帝は、そこで自らの理想の庭園作りに専念します。
それらデザインや意匠は、かつて旅の途中で自らが目にした各地の風土や、印象を反映させたものでした。
ハドリアヌスの別荘―ナイルワニの像
今回ご紹介したハドリアヌス帝の旅コインのほとんどは、治世末期のAD136年頃に造られたとみられています。60歳となったこの頃には体の衰えが進み、再び旅に出ることを諦めていたであろうハドリアヌス。せめてかつて旅した各地に想いを馳せ、後世に伝えられるよう、コインのデザインに投影させていたのかもしれません。
近年、旅のコインはハドリアヌス帝を象徴する史料として再注目されています。
古代ローマコイン収集の世界でも一連のシリーズになっていることから、収集する上で興味深いテーマです。今後のコレクション対象として参考にされてみてはいかがでしょうか。
4月になりすっかり春らしくなってまいりました。
今年の桜は咲き始めるのが早く、今月はじめには上野公園の桜はほとんど散っていました。
先日、上野の東京国立博物館で催されている企画展
『アラビアの道―サウジアラビア王国の至宝』を観覧して来ました。
サウジアラビア国立博物館をはじめ、サウジアラビア王国の各研究機関が所蔵する品々が展示されています。石器時代から現代までの貴重な宝物の数々は、知られざるアラビアの歴史を身近に感じさせます。観覧した際も多くの人で賑わっており、沢山の人が興味深そうに展示品を見ていました。
本来は先月までに終了する予定でしたが、好評のためか5月13日(日)まで期間が延長されています。ゴールデンウィーク中、上野に足をのばされた際にはぜひ立ち寄ってみて下さい。通常の入館料で観覧できる上、写真撮影も自由ですので、大変オススメです。
イスラーム以前のアラビアは交易を通じ、エジプトやペルシア、ギリシャ、ローマの文化が流入しており、展示品もそれらを物語る芸術品が多くみられました。そして、交易で繁栄したアラビアで使用されたコインもたくさん展示されていました。
中世のアラビア半島はインド洋、アフリカ、アジア、ヨーロッパを結ぶ交易路として発展し、イスラーム教の誕生と拡大によって独自の貨幣システムも確立しました。
初期のイスラーム帝国であるウマイヤ朝(シリア、ダマスカス)やアッバース朝(イラク、バグダード)が発行した「ディナール金貨」「ディルハム銀貨」は、イスラーム色を前面に出した品質の高いコインであり、アラビアで広く流通しました。
展示品の中にも、古い都市から出土したディナール金貨やディルハム銀貨が並べて展示してあります。
今回は同じく展示されていた、建国間もない時期のサウジアラビア王国が発行した「1リヤル銀貨」をご紹介します。
発行国:サウジアラビア王国
発行年:AH1354年(=AD1935年)
額面:1リヤル
重量:11.6g
サイズ:30.5mm
品位:Silver917
※上のコインの画像は展示品そのものではありません。
コイン表面
コイン自体は機械で製造されていますが、そのデザインは偶像崇拝を禁ずるイスラームの教義に則り、アラビア文字による銘文が全体にびっしりと刻まれています。
表面には発行者である国王を示す銘文が刻まれています。
ملك المملكة العربية السعودية
عبد العزيز بن عبد الرحمن السعود
=サウジアラビア王国の王
アブドゥル=アズィズ・ビン・アブドゥル=ラフマーン・アル=サウド
アブドゥル=アズィズ(1876年~1953年)は現在の首都リヤドを拠点に勢力を拡大し、小国や部族による分裂状態だったアラビア半島の統一を推し進めた王です。1926年にヒジャーズ王国を征服したことでイスラーム教の二大聖都メッカとメディナの守護者となりました。このときメッカにあったヒジャーズの造幣局を獲得し、1928年から大型の1リヤル銀貨を製造しています。
中東に影響力を持っていたイギリスの後ろ盾を得たアブドゥル=アズィズはアラビアにおける権力と権威を確固たるものにし、1932年に「サウド家のアラビア」を意味する「サウジアラビア王国」を建国。初代国王として、イスラーム二大聖地の庇護者として絶対的な指導力を発揮し、新生国家の発展を主導しました。
現在のサウジアラビア王国
武勇とカリスマ性に秀でたアブドゥル=アズィズは広大なアラビア半島の諸部族を一代でまとめ、統一王国を築き上げた名君であり、現在のサウド王家にとっても絶対的な存在です。正妻とはじめ多くの女性を結婚したため90人近い子どもがおり、アブドゥル=アズィズ以後の国王は現在のサルマン王(第7代)を含め全てアブドゥル=アズィズの息子です。
身長が2m以上あったとされる初代国王の衣装をはじめとする各種遺品は、今回の上野の展覧会にも展示されています。国王が実際に身にまとっていた衣装は大人物に相応しく、非常に大きかったことが印象に残っています。
アラビア銘文ばかりのコインにあって、例外的なのは王名の下に刻まれたデザインです。二本の刀剣が交差し、左右には椰子の木が配されています。
この刀剣は「シミター(またはシャムシール)」と呼ばれるアラビアの伝統的な刀で、ヨーロッパのサーベルの基になったとも云われています。この交差刀剣はサウジアラビアの国章になっており、二本ある意味はサウド家がメッカとメディナを守護していることの証や、イスラームにおける正義と信仰、または力と忍耐の象徴、サウジアラビア建国に携わったサウド家とワッハーブ家、もしくはナジェドとヒジャーズの二王国を示すなど、様々な説があります。
一方で椰子の木は砂漠における生命力の象徴であり、国の成長と繁栄を象徴しているとされます。
サウジアラビア王国の国章
コインに刻まれたデザインとほぼ同じ構成であることが分かります。
サウジアラビア王国国旗
聖典コーラン(クルアーン)の重要な一節である聖句「アラーの他に神はなし、
ムハンマドはアラーの使途である」と共に、同じく刀剣が配されています。
ちなみに展覧会では、かつてアブドゥル=アズィズ王が下げていた立派な刀剣も展示されています。初代国王の貴重な遺品であり、サウジアラビアにとっては国宝級の重要な宝物ですので、ぜひ直接ご覧いただきたいと思います。
なお、コインの裏面も同じくアラビア文字銘文が細かく刻まれていますが、こちらも伝統的なイスラーム様式コインと同じく、額面と発行年、発行地などの基本情報が示されています。
ريال عربي سعودي واحد
ضرب في
المكرمة
مكة
١٣٧٠
١
1サウジアラビアリヤル
聖都メッカで製造
1370(=イスラームのヒジュラ暦。西暦では1935年)
1
1920年代に発行された1リヤル銀貨は37.3mm、24.1gと、クラウンサイズの大型銀貨でした。デザインは全く同じでしたが、このとき正式国名は「ヒジャーズ・ナジェド王国」だったため、サウジアラビア国銘で発行された1リヤル銀貨は1935年の縮小版が最初です。
実は1935年から発行されたこの縮小1リヤル銀貨は、銀の品位から重量、サイズまでが、当時の英領インド帝国で発行されていた1ルピー銀貨と全く同じに造られています。このことから、英領インド帝国の1ルピーと新生サウジアラビアの1リヤルは等価で流通していたことが分かります。
・20世紀初頭の英領インド帝国の1ルピー銀貨
英領インド帝国 1906年 1ルピー銀貨
当時の1ルピーはイギリス本国の1シリング4ペンスに固定されていました。
肖像は英国王にしてインド皇帝 エドワード7世(在位:1901年~1910年)。王侯から農民に至るまでターバン等で頭部を覆うのが一般的であった当時のインド民衆にとって、王冠を戴かず禿げ頭を露出したエドワード7世の肖像は、インド皇帝の権威を損ねるものとして懸念されたそうです。
英領インド帝国 1918年 1ルピー銀貨
肖像のジョージ5世は植民地スタイルとして王冠を戴いています。しかし今度は王が首から下げる頸飾(チェーン)にあるインド象の鼻が短く、イスラーム教徒から豚に見えると苦情が相次ぎ、急遽鼻を伸ばして象と分かるよう修正しました。
裏面の銘文を囲む草花群は、それぞれバラ(イングランド)、アザミ(スコットランド)、クローバー(アイルランド)、ハス(インド)を示し、これらの組み合わせで「大英帝国」を象徴しています。
アラビア半島ではイスラーム教の厳格な解釈によって「紙幣」が否定され、20世紀半ばまでコインだけが正式な通貨による決済手段でした。再鋳造されたマリア・テレジアターレル銀貨をはじめ、イギリスが保護下に置いていた湾岸地域(現在のUAE、カタール、バーレーンなど)からインド洋沿岸部では、インドで製造されたルピー銀貨が広く流通していました。
そのため、サウジアラビアでも1ルピーと等価の1リヤル銀貨を発行し、国内と周辺地域で流通させました。1リヤル銀貨は戦後1955年まで製造され、サウジアラビアの国民だけでなく聖地へ巡礼に訪れた世界中のイスラーム教徒の手に渡りました。
しかし毎年世界中から訪れる巡礼者の数が増加すると、両替できるコインの数が不足し、また旅費を全て銀貨で持ち運ぶのは不便として問題が生じました。イギリスから独立したインドでは湾岸地域向けだけのルピー紙幣を発行し、実際にカタールやドバイなどで流通したそうです。こうした時代の変化から厳格なイスラーム教国のサウジアラビアも、1960年になってようやく正式な紙幣を発行し、金貨と銀貨の製造を停止したのでした。
こうして役目を終えた1リヤル銀貨ですが、20世紀に建国されたサウジアラビアの発展の歴史を鑑みると、非常に重みがある銀貨のように思えてきます。
上野の展覧会でガラスケースの中に展示されていた1リヤル銀貨も、かつては建国間もないサウジアラビアに生きた人々、砂漠に生きた遊牧民か、または巡礼に訪れた人の手に渡っていたのかもしれません。
投稿情報: 17:59 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
昨年末に発売された塩野七生女史の新刊『ギリシア人の物語3』は反響が大きく、当店のお客様からも「読みました」という声や感想を多くいただき、あらためてその影響力の大きさを感じました。
今回の作品ではアレキサンダー大王の生涯が取り上げられ、若き英雄の死と共に物語は終わりを迎えます。塩野さんご自身は今後、歴史長編は書かないと宣言しておられるので、この続編は出ないのでしょう。
アレキサンダー大王死後、部下達によるディアドコイ(後継者)戦争がはじまり、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアなどが群雄割拠する時代になります。
このヘレニズム時代は彫刻などの芸術文化が昇華し、より洗練された華やかなものになりました。そしてコインの世界にも変革がもたらされます。
アレキサンダー大王によって発行されたコイン、いわゆる「アレキサンダーコイン」は、大王亡き後も征服地の各都市で発行されていました。一方で新しい王朝を創設した部下たちも独自のコインを発行しています。それらには古代ギリシャの伝統である神話の神々ではなく、生きた君主の姿が刻まれました。民主政を重んじたギリシャの伝統は変化し、強大な権力を持つ君主が神聖な存在であると宣伝されるようになったのです。
アレキサンダーコイン
(マケドニア王国 テトラドラクマ銀貨 BC320-BC317)
プトレマイオス1世
(エジプト ※プトレマイオス6世発行のテトラドラクマ銀貨)
多くの君主たちは自らの肖像を美化・神格化してコインに刻みましたが、中には個人的な特徴を存分に表現した、個性溢れる肖像を残した王もいます。代表的なのはエジプトを統治したプトレマイオス1世の肖像コインですが、さらに印象深く特徴的なのは、セレウコス朝シリアの第二代君主アンティオコスのコインです。
アンティオコス1世/アポロ神
(セレウコス朝シリア テトラドラクマ銀貨 BC280-BC261)
アンティオコスはアレキサンダー大王の部下だったセレウコスの息子であり、大王による東方遠征の過程で誕生しました。アレキサンダー大王はギリシャ世界とオリエント世界の融合を推進する為、ギリシャ人兵士達とペルシア人女性達による大規模な合同結婚式を開催しました。アレキサンダー自身もアケメネス朝ペルシアの王女を妻として迎え、忠臣たちの多くもペルシア貴族の娘を妻としました。
セレウコスはソグド人(中央アジア)のアパメーという女性を妻とし、その間に生まれた子がアンティオコスでした。大王の死後、多くのギリシャ人たちはペルシア人の妻と離縁しましたが、セレウコスとアパメーの結婚生活はその後も続きました。
その後、セレウコスはシリア、ペルシア、中央アジアを包括する広大な東方地域を手にし、いわゆる「セレウコス朝シリア」を創建します。セレウコス治世下ではアレキサンダーコインの発行は継続されたものの、自らの肖像を刻んだコインは発行されませんでした。
※以下はセレウコス1世の時代に発行されたコイン
(テトラドラクマ銀貨 裏面の名銘がセレウコスのもの「ΣΕΛΕΥΚΟΥ」になっている)
ゼウス神/象のクァドリガ
(テトラドラクマ銀貨 裏面の名銘は「ΣΕΛΕΥΚΟΥ」)
スターテル金貨
(アテナ女神とニケ女神。名銘はアレキサンダーのもの「ΑΛΕΞΑΝΔΡΟΥ」)
しかし紀元前281年にセレウコスが暗殺されると、息子であるアンティオコスは自らの肖像を表現したコインを各都市で造らせました。その治世の間に肖像は年相応に変化してゆくという、古代コインには珍しい変遷をみせています。
アンティオコス1世/アポロ神
(※息子アンティオコス2世の時代に発行されたテトラドラクマ銀貨)
どの肖像も共通して目は大きく、困ったような垂れ眉と大きな鼻、少し突き出た口元など、一度見たら忘れられない個性的な顔つきです。この姿はマケドニア人を父に、ソグド人を母にもつ混血の王アンティオコスの写実的な姿だとされています。
ギリシャ風に理想化することなく、自らの特徴ある顔をコインに刻ませたという事実は、大変興味深い点です。
アンティオコスの死後、息子アンティオコス2世の時代になってからもこのコインは造られていたことから、王の個性的な顔が刻まれたコインはセレウコス朝の領内でかなり広く流通していたようです。
アンティオコスは父セレウコスの路線をおおむね引き継ぎ、ギリシャ系住民の内陸への入植を奨励しながら、経済圏の拡大を推進しました。アッティカ基準の銀貨による通貨の統一は、広大な領土を纏め上げる為にも必要不可欠な施策だったのです。セレウコス朝が東西文化交流の上に成り立つ王朝であり、アレキサンダー大王の理想によって誕生した国であることを示すように、君主自身の出自もその理念を体現していたのでした。
アンティオコスはその治世中にセレウコス朝の基礎を固めながら周辺諸国と戦い、ガリア人の侵入を防いで「ソーテール(救世者)」の称号を得るなど華々しい業績が語られますが、後世に伝えられる逸話としてよく知られるのが「若き日の恋煩い」です。この伝承は、古代ローマの史家プルタルコスが著した『英雄伝』のデメトリオスの章で、面白おかしく取り上げたことで広く知られるようになり、今に伝わっています。
まだアンティオコスが王子だった時代、父セレウコスが新しい妃ストラトニケを迎えることとになりました。ストラトニケはマケドニア王デメトリオスの娘であり、まだ17歳という若さでした。事実上の政略結婚として嫁いできたストラトニケは大変美しく、若きアンティオコスは彼女に恋心を抱くようになりました。
しかし義理の母親にあたる女性に対する恋心は誰にも告げることができず、苦悶したアンティオコスは飲食を断って衰弱してゆきました。心配した父セレウコスは、名医エラシストラトスを呼び、アンティコスを治療するよう命じます。エラシストラトスはアンティオコスが恋の病を患っていることをあっさり見抜くも、その相手が誰かまでは分かりませんでした。
そこでエラシストラトスは常時アンティオコスの傍につき、対面する人物とアンティオコスの反応を観察することにしました。年頃の少年少女が入ってきても特に変化は見られませんでしたが、父セレウコスが若き義母ストラトニケを連れ立って見舞いに訪れると、アンティオコスは声を詰まらせ、顔を真っ赤にして汗だくになってしまいました。ついには興奮のあまり脈が乱れ、目眩まで引き起こしたので、エラシストラトスは原因を突き止めることができたとされています。
病床のアンティオコスを見舞うストラトニケ
※この物語は14世紀にペトラルカの詩作で登場して以降、近代のヨーロッパで広く知られた為、人気ある古典テーマのひとつとなりました。多くの画家達が独自の解釈とアレンジを施し、様々な形で作品に残しました。ここではフランスの画家 ジャック=ルイ・ダヴィッドの作品(1774年)を掲載しています。
しかし相手が王の妃でしかも義理の母親では、決して報われない恋心だと察した名医エラシストラトスは、一計を案じてセレウコスに報告しました。
エラシストラトスはセレウコスに対し、「ご子息は恋の病です。しかしその恋は決して遂げられない故、私には治すことができませぬ」と言上しました。驚いたセレウコスがその相手を問いただすと、エラシストラトスは私の妻、と答えました。セレウコスは息子を治すためならばと、無理を承知でどうか息子の願いを叶えてやってはくれまいか、とエラシストラトスに頼み込みました。
エラシストラトスは頑なに王の願いを断り、「それは道理に合いませぬ。もしご子息が王様のお妃様を慕っておいでだとすれば、決して王様はそれを許さないでしょう」と答えました。するとセレウコスは涙を流しながら「もしそれで済むのならば、神でも人でも構わぬ。私はアンティオコスが助かるのならば、たとえ自らの王国を手放したって満足だ」と答えました。
こうして、望み通りの答えを巧みに引き出した医師は全てを話し、息子の想い人を知ったセレウコスは若い二人が一緒になることを認めます。この後、アンティコスはホラサン地方の王(現在の中央アジア一帯、事実上の共同統治王)、ストラトニケはその女王に任じられました。王の命令という形で二人は結婚し、体面を保ちながら共に暮らすことを許されたのです。
そして見事にアンティオコスの不治の病を治したエラシストラトスは、「恋の病まで治せる名医」として名声を高め、後にヘレニズム時代を代表する医師として歴史に名を残したのでした。
投稿情報: 12:45 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (1)
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