【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
残暑厳しかった9月も終わり、だんだんと涼しくなってまいりました。曇りや雨模様の日もありますが、この時期は爽やかな秋晴れが一番です。
衣替えの時節、気温の変化で風邪をひかないように気を付けたいです。
昨今はイスラエルを中心として中東情勢が緊迫化しています。戦火が広域に拡大すれば被害も相当なものだと思われます。紀元前から文明が栄えた地域である故、21世紀になっても平和とはほど遠いことに虚しさも感じます。
今回はこの地域からローマ皇帝に昇りつめた「フィリップス・アラブス」をご紹介させていただきます。
ローマコイン収集の世界では比較的よく目にする名ではないでしょうか。その治世は5年ほどでしたが、現存するコインが比較的多いため、入手しやすい皇帝でもあるのです。
マルクス・ユリウス・フィリップス
(エルミタージュ美術館収蔵)
フィリップスは204年頃にアラビア属州のシャフバ、現在のシリア南部スワイダー県で生まれたとされています。アラビア属州出身初のローマ皇帝として、そして彼自身もアラブ人の血を受け継いでいたことから「フィリップス・アラブス」の通称で呼ばれています。
現存する肖像は無骨で軍人らしい風格、質実剛健さが際立っており、ローマ帝国社会の気風の変化が見受けられます。
軍人となったフィリップスは皇帝ゴルディアヌス3世(在位:AD238-AD244)の下で急速に頭角を現し、皇帝の親衛隊長にまで出世しました。すでにセウェルス朝を経てローマ帝国中枢では東方属州の出身者が多く活躍しており、そうした時流も彼の出世を後押ししました。
ペルシア遠征で皇帝に付き従ったフィリップスは、兵糧不足と作戦失敗によって兵士たちの不満が高まっていることを察知し、ゴルディアヌス3世に対して反旗を翻す動きを見せ始めました。最前線で皇帝の支持が失われ、軍隊の推挙によって新たな皇帝が立つ前例はマクシミヌス・トラクス帝(在位:AD235-AD238)によって作られていました。
244年2月、ゴルディアヌス3世はユーフラテス河畔のキルケシウム兵営に集まった兵士たちに対し、自分とフィリップスどちらに従うかを問いました。兵士たちは同じ一兵卒出身のフィリップスを選び、歓呼の声によって新たな皇帝として推戴されました。
フィリップスは自身が仕え、さらにまだ19歳だったゴルディアヌスの処遇について逡巡するも、彼を生かしておくことは自身の政権にとって危険と判断し、処刑するよう命じたようです。
フィリップスはペルシアのシャープール王と和議を結び、軍を率いてメソポタミアから引き上げました。
その間にローマの元老院と各属州に対し、ゴルディアヌス3世は病没したため自身がその後継になったと連絡。皇帝即位の追認を得たフィリップスはドナウ河方面に転戦し、国境を脅かすカルピ族やゴート族との戦いに集中しました。
シリア属州で発行されたテトラドラクマ銀貨
(AD246, アンティオキア市)
皇帝になったフィリップスは生まれ故郷に巨大な劇場や神殿、浴場、凱旋門を建設し、ローマ風の植民都市に改造。都市名も「フィリッポポリス(*フィリップス市)」に改称されました。フィリップスの皇帝治世を通じて開発は進み、東方における最も新しいローマ植民都市として整備されました。
フィリッポポリスの劇場遺跡
(Wikipediaより)
247年になってようやくローマへ凱旋したフィリップスは、ローマ市民の支持を集めるためには盛大壮麗な国家行事が必要と考えました。そこでロムルスが新都市ローマを建国してからちょうど千年の節目にあたることを祝し「ローマ建国千年祭」を挙行しました。
もともと先帝ゴルディアヌス3世のペルシア遠征に際して凱旋式典が計画されており、これを転用・拡充して挙行にこぎつけたと云われています。
248年4月21日~23日の間、三日三晩にわたる供犠祭事がローマのテベレ河畔で行われました。マルスの野では音楽や合唱、踊りが繰り広げられ、ローマの神々に対する感謝が捧げられました。
フィリップス帝をはじめ、皇妃オタキラ・セウェラと幼い息子のフィリップス2世(*即位に際して副帝に任じられ、247年には共同統治帝に昇格)を筆頭に、多くの元老院議員や貴族、騎士階級など首都ローマの貴統が参列。多数の市民もその豪華絢爛さに酔いしれ、ローマの歴史の長さと栄光を祝福しました。
さらに帝国各地から集められたライオンやゾウ、カバ、ヘラジカ、キリン、ダチョウといった珍獣猛獣たちがコロッセオに登場し、1000人以上の剣闘士が参加する大試合が連日繰り広げられました。
この建国千年祭に際しては記念コインも発行され、皇帝一家の肖像と共に、コロッセオに集められた猛獣たちが表現されています。このコインはシリーズ化されており、現在でもローマコイン収集のテーマとして人気があります。
フィリップス・アラブス帝 アントニニアヌス銀貨
248年のローマ建国千年祭を記念して発行されたシリーズのひとつ。ローマ建国神話の重要な場面、幼いロムルスとレムス兄弟に授乳する雌狼が表現されています。
このシリーズは共通して「SAECVLARES AVGG (*千年祭の皇帝たち=フィリップス親子)」銘が配され、デザインごとに「I」「II」「III」といった番号が振られています。
フィリップス・アラブス帝 アントニニアヌス銀貨 ライオン
フィリップス・アラブス帝 アントニニアヌス銀貨 牡鹿
フィリップス2世 アントニニアヌス銀貨 エルク(ヘラジカ)
オタキラ・セウェラ妃 アントニニアヌス銀貨 カバ
エジプトのナイル川から連れてこられたカバのコイン。カバを表現したローマコインは珍しく、建国千年祭シリーズの中でも特に人気のある一種。
フィリップス帝はさらにローマ西部区域の慢性的な水不足を解消するため貯水池を建設したり、長く続いていたキリスト教徒迫害を緩和するなど、有能な施政者であることも示しました。
しかしドナウ川方面の情勢は相変わらず不安定であり、また自身の出身地である東方地域でも反乱の兆しが現れ始めていました。
エジプトでの蜂起によってローマへの小麦供給が途絶え、深刻な食糧不足が発生。さらに軍事支出、建国千年祭催行による支出増大によって財政は悪化し、アントニニアヌス銀貨の品位を引き下げたためインフレーションが進行しました。
特にアントニニアヌス銀貨(*2デナリウスの価値に相当)の製造数は増大し、現代でも現存数の多さから市場で盛んに取引されています。
経済状況の悪循環により、当初は歓呼の声でフィリップス帝を迎えた軍隊と市民も不満を募らせ、その政権基盤は急速に弱まっていきました。
249年、ドナウ川方面の指揮を任されていたデキウスが軍隊内で皇帝に推戴され、公然とフィリップス帝に叛旗を翻しました。
フィリップス帝はローマに進軍する反乱軍を迎え撃つため軍を率いて北上し、9月に現在のヴェローナ近郊でデキウスの軍勢と対決しました。しかし勢いは既に反乱軍有利であり、戦いの末に皇帝軍は敗北を喫しました。
フィリップス帝は戦闘に伴う傷が原因か、または見限った兵士による裏切りによって命を落としました。皮肉にも自らが裏切り、帝位を奪ったゴルディアヌス3世とよく似た最期を遂げたのです。
「混迷の世紀」と呼ばれた3世紀ローマ帝国にあって、フィリップス・アラブスは典型的な軍人皇帝の一人と評価されています。
属州の異民族出身で元老院の官職を経験しない、ローマの伝統から見れば新参の人物が、軍隊内の支持と武力によって政権を獲得し、また短期間で奪われたのです。
彼の治世は5年ほどでしたが、その間に国境の脅威に対応し、ローマ本国では建国千年祭を催行するなど、明確な業績も残しています。またアラビアにルーツを持つ人物が皇帝になったことは、ローマ社会の多民族化が浸透した証でもありました。
フィリップス・アラブスの出身地であるシリアでは、同国出身のローマ皇帝として英雄視されており、現在でも紙幣のデザインに採用されています。
シリア 1998年 100ポンド紙幣
シリア 2019年 100ポンド紙幣
中央銀行と共にフィリップス・アラブス帝のアントニニアヌス銀貨が表現されています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:04 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
7月に入ってから、毎日のように猛暑の日が続きますね。夕方になると激しい雷雨が降るなど、一日のスケジュールも立てにくいほど極端な気候です。
外出するにも命がけですが、この暑さは日本全国どこも変わらないようです。8月になって少しは和らいでくれるとありがたいのですが・・・。
今年の11月15日(金)よりハリウッド映画『グラディエーターII』が公開されます。2000年『グラディエーター』の続編となる作品であり、前作で少年だったルキウスが成長し、剣闘士として戦う物語です。
前作の時代設定はコンモドゥス帝の時代でしたが、今回はそこから時を経たカラカラ&ゲタの時代になるようです。
古代ローマ帝国のイメージを広く根付かせた映像作品の続編であり、今から公開が楽しみです。
今回の作品では主人公ルキウスを支援する大商人としてマクリヌス(演:デンゼル・ワシントン)という人物が登場しますが、同時代に実在したマクリヌス帝(在位:AD217-AD218)をモデルにしたキャラクターだと思われます。
マクリヌスが帝位にあった期間は短く、その間に残した功績は必ずしも多くはありませんが、多くの点で異例のローマ皇帝でした。
マクリヌス帝肖像
(セルビアのベオグラード近郊で出土した青銅製頭像)
マルクス・オペッリウス・マクリヌスは164年頃に北アフリカのマウレタニア属州都市カエサレア(*現在のアルジェリア北部,シェルシェル)に生まれました。一族は騎士階級身分でしたがムーア人の血をひいていたと伝わります。
*ムーア人は北アフリカの先住民を指し、後世にはベルベル人と同一視されています。
(*中世ヨーロッパでは北アフリカのイスラーム教徒全般を指す言葉となった)
彫りの深い顔つき、浅黒い肌、耳にはピアスを通して数多くの宝石類を身に着けた、異郷人的風貌が伝えられています。現存する肖像では豊かな顎鬚を蓄えていますが、これは賢帝として名高かったアントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウスのイメージを踏襲しているとみられます。
マクリヌスは法律を修めてローマ政界に進出、やがて同じく北アフリカ出身のセプティミウス・セウェルス帝の近衛隊に引き立てられました。帝位が息子のカラカラに移ると近衛隊長に昇格し、最側近のひとりとして政権を支えました。
しかし、粛清を繰り返した暴君カラカラが自身をも排除しようとしていると察すると、マクリヌスは先手を打つことを画策しました。
パルティア遠征途中の217年4月8日、メソポタミアを進軍中、用を足すために隊列から離れた皇帝を近衛兵が刺殺。実行犯のマルティアリスはその場で殺害され、表面上は個人的恨みを持った一兵士による犯行とされました。
マクリヌスは無関係であることを示すように、カラカラの遺体を丁重に扱い、他の兵士たちと共にその悲劇を嘆きました。
事件から3日後の4月11日、最前線の指揮権を引き継ぐという名目の下、近衛隊長のマクリヌスが推戴され皇帝に即位。すぐさまローマ本国の元老院に知らせを送り、これを追認させました。
マクリヌスは元老院議員を経験せず即位した初めての皇帝であり、その出自民族から考えても異例のローマ皇帝でした。歴代の皇帝たちに倣い、マクリヌスも即位後に執政官の地位を得、パテル・パトリアエ(国父)の称号も授かりました。さらに9歳の息子ディアドゥメニアヌスをカエサル(副帝)とし、権威付けのためアントニヌスの名も加えました。
マクリヌス帝とディアドゥメニアヌスの銅貨
下モエシア属州のマルキアノポリス(*現在のブルガリア東部)で発行。マクリヌス帝の即位は迅速にローマと各属州に伝達され、新皇帝を表現したコインが各地で発行されました。
一方、セウェルス朝の外戚として権勢をふるっていたシリアのバッシアヌス家はマクリヌス帝にとって複雑な存在となりました。
当時、シリアのアンティオキアにはカラカラ帝の母ユリア・ドムナが滞在しており、マクリヌス帝は敬意を持って待遇しましたが、すぐさま事実上の幽閉状態に置きます。同年中にユリア・ドムナが病で没するとバッシアヌス一族は故郷のエメサに戻り、権力中枢の座から追われました。
シリア属州で発行されたマクリヌス帝のテトラドラクマ銀貨
カラカラ帝が始めたパルティア遠征はメソポタミアで膠着状態が続いていましたが、マクリヌス帝は早期に講和を結んで本国に帰還する選択をします。双方の撤退に際してローマは2億セステルティウスの賠償金を支払いましたが、この措置は前線で戦う兵士たちの士気を下げるものでした。
軍を退却させたマクリヌス帝はアンティオキアに入り、この都市から皇帝としての施策を指示しました。
そのひとつとして貨幣の改善が挙げられます。膨張する軍事費を賄うための貨幣増発と品位低下はカラカラ帝の時代まで度々行なわれ、それに伴いインフレーションが進行していました。マクリヌス帝はデナリウス銀貨の品位を50%前後からおよそ60%にまで引き上げ、品質を改善するよう指示しました。通貨と物価の安定を考慮した施策であり、財政の改革に真剣に取り組もうとしたことが分かります。
マクリヌス帝のデナリウス銀貨
皇帝不在のローマ市内で製造。肖像は彫像を参考に作成されたとみられます。
そしてパルティア遠征が終わったことで軍事費を圧縮できると考えたマクリヌス帝は、膨大していた軍の削減と特権の廃止を検討し始めました。
すると当初は支持していた軍もマクリヌス帝に対する不満を募らせていき、やがて軍隊内で人気のあったカラカラ帝を懐かしむ声が高まってゆきました。
潮目の変化を感じ取ったのはユリア・ドムナの妹ユリア・マエサでした。
ユリア・ドムナ没後は故郷のエメサに戻っていたバッシアヌス一族は、復権の時勢を窺っていました。マクリヌス帝に対する軍の不平不満が高まっていることを知ると、マエサは孫のウァリウス・アウィトゥスをエメサ近郊のラファナエアにあった第三軍団ガリカ兵営に連れ込み、軍団の支持を得て帝位を宣言させました。218年5月16日に始まった反乱は瞬く間にシリア属州の他の軍団にも波及し、マクリヌス帝の立場を危ういものにしました。
エラガバルス帝とユリア・マエサの銅貨
即位後の220年頃に下モエシア属州のマルキアノポリスで発行。皇帝と並んで祖母マエサの肖像が表現され、実権を握る存在であることが示されています。
当時14歳のウァリウス・アウィトゥスはエメサで太陽神エル・ガバルの神官を務めていたことから、後世には「エラガバルス」「ヘリオガバルス」などと呼ばれています。
母親のユリア・ソエミアスはマエサの娘であり、夫の元老院議員セクストゥス・ウァリウス・マルケルスとの間にエラガバルスが生まれました。しかし蜂起に際しては亡きカラカラ帝と密通して生まれた落胤と主張し、軍隊の支持を得ようとしました。
マエサ、ソエミアス母娘の目論見は成功し、カラカラ帝を慕う多くの軍団兵士の支持を取り付け、新たに登場した少年皇帝に忠誠を誓わせたのです。
この動きを知ったマクリヌス帝はローマの元老院に手紙を送り、反乱軍討伐のお墨付きを得て進軍を開始。さらに息子ディアドゥメニアヌスを正帝に格上げし、それを口実に兵士たちに祝い金を配りました。
しかし忠誠を繋ぎ留めることは難しく、マクリヌス陣営からもエラガバルス側に寝返り、反乱軍に加勢する兵士が続出しました。
マクリヌス帝は自ら軍を率いて打って出ることを決意し、アンティオキアに迫りくる反乱軍を迎え撃ちますが、マエサによる買収工作を受けた軍団の離反によって敗北。マクリヌス帝はアンティオキアに逃げ帰り、そのまま行方をくらませました。
この218年6月8日の戦いはマクリヌス帝の失脚を決定的なものにし、エラガバルス帝の確立とセウェルス朝の復興を明らかにしました。シリア属州での出来事ではあるものの、ローマの元老院は大勢が決したことを受けてエラガバルス帝を承認せざるを得ませんでした。
アンティオキアで造られたエラガバルス帝のテトラドラクマ銀貨
アンティオキアを脱出したマクリヌスはローマを目指して西へと逃避。幼い息子ディアドゥメニアヌスは危険を避けるため、パルティアへの亡命を目指して東へと送られていきました。
髭を剃り落として変装しながら逃避行を続けましたが、アジアとヨーロッパを隔てるボスポロス海峡を渡る直前、側近の裏切りによって捕まります。捕縛されたマクリヌスは逃げて来た道を連れ戻され、218年7月、カッパドキア属州のアルケライスで処刑。53歳だっと云われています。
そしてパルティアを目指していた息子のディアドゥメニアヌスも国境近くのゼウグマで捕らえられ、助命されず父と同じ運命を辿りました。
マクリヌス帝の在位はわずか一年、ローマ皇帝でありながら、ついにローマの地を踏むことなく短い治世を終えました。
北アフリカにルーツを持つ皇帝の出現は、領土拡大によって多様化したローマ帝国を象徴しています。一方で元老院議員でもなく、ローマに滞在していなくても軍の支持があれば皇帝になれるという前例は、武力による皇帝位の奪取を正当化する先駆けとも言えるでしょう。
マクリヌス帝亡き後、エラガバルス帝によってセウェルス朝は再興されますが、次のアレクサンデル・セウェルス帝を最後に断絶。ローマ帝国は軍人皇帝たちが目まぐるしく交代する混迷の時代へと入っていくのです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。蒸し暑い雨模様の日が増えてまいりました。梅雨が明ければ夏本番です。
いよいよ来週の7月3日(水)には新紙幣が発行されます。現在の一万円札、五千円札、千円札は2004年から発行されており、20年ぶりの一新となります。今となってはすっかり見慣れてしまいましたが、五千円札の肖像が樋口一葉ということで、女性が紙幣肖像に採用された点が大きな話題になりました。
今回の新紙幣も数字が大きくなったり、英語表記や3Dホログラムが採用されたりと注目点は多いようです。実物を手にするのが今から楽しみです。
今回は古代アルメニア王国の大王ティグラネス2世についてご紹介します。
アルメニアは現在のカフカース(コーカサス)地方に位置する内陸国です。
古代にはアケメネス朝ペルシアの州のひとつであり、その立地からアルメニア商人はカスピ海~黒海~地中海に至るまで活動範囲を広げました。
紀元前189年、セレウコス朝シリアの支配から独立したアルメニアは初代王アルタクシアス1世の下で領土を拡大させ、カフカース地方の要衝国として地位を固めます。
しかし東の大国パルティアは西に向けて勢力を拡大させ、強大な軍事力と経済力を背景にアルメニアにも干渉しました。
パルティアの大王ミトラダテス2世はアルメニアに侵攻し、和平の条件として王子を人質に差し出すよう要求しました。王子だったティグラネスはパルティアへ連行され、その間アルメニアはミトラダテス2世の影響下に置かれることになったのです。
パルティア王 ミトラダテス2世
(在位:紀元前124年-紀元前88年)
紀元前95年にティグラネスは故国アルメニアに返され、アルメニア王ティグラネス2世として即位します。ティグラネス2世は領土の一部を割譲しただけでなく、娘アリヤザデ(アウトマ)をミトラダテス2世に嫁がせるなどしてパルティアとの同盟関係を保ちました。しかし紀元前88年にミトラダテス2世が没するとパルティア内で内紛が勃発し、アルメニアに対するパルティアの影響力は低下しました。
するとティグラネス2世はこの期に乗じて黒海沿岸のポントス王国と同盟を結び、パルティアから自立する動きを見せ始めます。
さらに大軍勢を整えるとパルティアが支配していたメディア地方に侵攻し、メソポタミア北部、小アジアのキリキア地方、さらにはシリアにまで進軍しました。当時のセレウコス朝では王位を巡る内紛が激化しており、混乱に耐えかねた首都アンティオキアの市民たちは安定を期待してティグラネス2世を歓迎しました。その他のシリア諸都市も従属し、弱体化したセレウコス朝に代わる新たな守護者として認めました。
ティグラネス2世時代のアルメニア
国境線は現代のもの。アルメニアを中心に現在のジョージアやアゼルバイジャン、イラン、イラク、トルコ、シリア、レバノンに跨る広大な領域が版図に収まりました。
ティグラネス2世はパルティア王ミトラダテス2世と同じく「大王」「諸王の王」を称し、その力関係が逆転したことを周辺諸国に示しました。
当時のアルメニアはギリシャ、ペルシア両文化の影響を色濃く受け、宮廷ではゾロアスター教が信奉される一方でギリシャ語が公用語のひとつとして採用されていました。
諸王を従えるティグラネス2世
アルメニア周辺の小王国を征服したティグラネス2世は、公の場に赴く際はその王たちを従えていたと伝わります。「諸王の王」として神格化された君主像を演出し、多様な民族からなる征服地の人々の畏怖を集めて統治にあたりました。
短期間にカスピ海から黒海、地中海に跨る大アルメニア帝国を実現させたティグラネス2世はさらに自信をつけ、自らの名を冠した新首都ティグラノセルタをティグリス川上流に建設し始めます。紀元前83年頃から建設が開始され、紀元前77年に旧首都アルタクサタから遷都しました。
新都市は外部の攻撃に耐えられるよう強固な城壁に囲まれ、中には劇場や市場、豪華な神殿が建設されました。手っ取り早く文化的・経済的に充実させるためアルメニア人のみならず、征服した各地からアラブ人やユダヤ人、ペルシャ人、ギリシャ人を半ば強制的に移住させたと伝えられています。そのためアルメニア語の他に様々な言語が入り乱れ、短期間に国際色豊かな都市として発展しました。
この時期には、ティグラネス2世を表現したコインが発行され始めました。新首都ティグラノセルタや商業が盛んなシリアのアンティオキアで製造され、広い範囲で流通していたとみられています。
アルメニア王国 紀元前80年-紀元前68年 テトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨
表面にはティグラネス2世の横顔が表現されています。ティグラネス2世の姿を留めた数少ない例です。耳あてがついたアルメニアの王冠を被り、ギリシャやパルティアとは異なる独自性がうかがえます。王冠にはアルメニア王国の紋章である、輝く星と二羽の鷲(=ゾロアスター教の象徴)が表現されています。
アルメニア王国の紋章
裏面には幸運の女神テュケと泳ぐ河神(=アンティオキアを流れるオロンテス川、またはアルメニアのアルタハタ川)が表現され、左右には「BAΣIΛEΩΣ TIΓPANOY (=王たるティグラネス)」銘が配されています。
この意匠はアンティオキアの象徴となり、後の時代に発行されたコインにも再び表現されています。
アンティオキアのテュケ女神とオロンテス河神像
(ヴァチカン美術館蔵)
ローマ帝国 アウグストゥス帝時代に発行されたテトラドラクマ銀貨
(シリア属州アンティオキア, 紀元前4年-紀元前3年)
我が世の春を謳歌するティグラネス大王でしたが、同盟国ポントスとローマの戦争によって繁栄に翳りが生じ始めます。ポントス王国のミトラダテス6世は小アジアの支配権を巡ってローマと戦うも敗北し、同盟国のアルメニアへ亡命。ローマはミトラダテス6世の引渡しを要求しますが、ティグラネス大王はこれを拒否してローマと戦う意志を示しました。
紀元前69年夏、ローマの将軍ルキウス・リキニウス・ルクッルスはアルメニアの首都ティグラノセルタを目指して進軍を開始。対するティグラネス大王はトロス山脈でこれを迎え撃ちますが別動隊に阻まれ、その隙にルクッルスの本隊はまっすぐティグラノセルタに迫りました。ティグラノセルタを包囲したローマ軍は攻城戦を開始し、攻城兵器を投入して城壁の破壊を試みました。城内のアルメニア軍はナフサと呼ばれる粗製のガソリンを投下して抵抗したため、化学兵器が登場した最初の戦場とも云われています。
(紀元前118年-紀元前56年)
多数の彫像や金銀を戦利品としてローマに持ち帰り、莫大な富を得て悠々自適の余生を送ったといわれています。
ティグラネス大王率いるアルメニア軍とルクッルス将軍率いるローマ軍は郊外の川を挟んで対峙し、一大会戦が行なわれました。騎馬隊と重装歩兵による激しい戦闘の末、ローマ軍が勝利を収め、ティグラネス大王は戦場から離脱して逃走しました。
アルメニア軍の敗北は篭城中のティグラノセルタ市民にも伝わり、やがて強制移住させられた外国人市民の手によって城門が開かれました。なだれ込んだローマ軍は略奪と破壊を行い、ギリシャ風の劇場や神殿に火が放たれました。まだ建設途上にあったティグラノセルタは壊滅的打撃を受け、多くの市民は難を逃れるため都市の外に逃れていきました。
征服地の各地から移住させられていた市民たちは故郷へと戻され、破壊されたティグラノセルタは二度と再建されることはありませんでした。
ルクッルス将軍は逃走したティグラネス大王を追うもアルメニア軍は決戦を拒み、決定的勝利を収めるまでには至りませんでした。
紀元前68年、ローマ軍は王妃と王子が住む旧首都アルタクサタに迫り、これを阻もうとしたティグラネス大王のアルメニア軍と衝突。ローマ軍の猛攻に対してアルメニア軍は奮戦するも、突き崩され敗北。再びティグラネス大王は逃亡し、かつての宗主国パルティアに支援を求めるも叶いませんでした。
ティグラネス大王に対するパルティアの不信感は強く、逆に王子を支援して王位簒奪をけしかけました。ティグラネスは王子の反乱を押さえ込むも、今度はローマのポンペイウス将軍が王子を支援し、アルメニアは内乱状態に陥りました。
結局ローマの介入によって内乱は収束するも、アルメニアはティグラネスが得た征服地の大半を放棄させられました。さらにローマの同盟国という位置づけで影響下に置かれ、二度と大国として勢力を拡大することは許されなかったのです。
その後もティグラネスはアルメニア王の地位を維持し続け、紀元前55年に85歳で没するまでアルメニアを統治しました。その後のアルメニアはローマとパルティアの干渉を受け続けることになり、両大国の対立に左右される情勢が続きました。
1991年のソ連解体によって独立した現代のアルメニアは、歴史上最も版図を広げたティグラネス2世を神格化し、最盛期を築いた大王として民族国家の象徴に採り入れています。
現存するティグラネス大王の肖像は当時のコインのみであり、様々な場面でコインの肖像が再現されています。
500ドラム紙幣(1993年)
ティグラネス大王勲章
(アルメニア共和国国家勲章)
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 15:28 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりですがまだまだ寒いですね。今年の2月は一日多く、少し得をした気分になりますね。その分、春の訪れも先延ばしになったように感じられます。一日も早く暖かい、過ごしやすい陽気になることを願うばかりです。
本日は古代ローマ帝国の皇妃ルキラとそのコインについてご紹介します。
ルキラ/コンコルディア女神
(AD166-AD169, デナリウス銀貨)
アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキラ(*Lucilla, ルッシラとも呼ばれる)はローマ帝国の黄金時代とされる2世紀半ばに生まれました。父親は哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウス・アントニヌス、母親のファウスティナは五賢帝の一人アントニヌス・ピウスの娘でした。
マルクス・アウレリウスとファウスティナの間には14人の子が生まれましたが、その多くは成人前に病没しました。ルキラの双子の兄ゲメルス・ルシラエも幼くして没しています。
アントニヌス・ピウス帝治世下に発行されたアウレウス金貨 (AD149, ローマ)
裏面には交差する二本のコルヌ・コピア(=豊穣の角)が表現され、上部には幼児の頭部が確認できます。これはルキラとゲメルス・ルキラエを表現したものとされ、皇帝の孫の誕生を記念する意匠となっています。
祖父アントニヌス・ピウス帝が崩御し、父のマルクス・アウレリウスが帝位を継承した161年、弟コンモドゥスが誕生します。アントニヌス朝の皇子として大切に育てられたコンモドゥスは、将来の皇帝として生まれた時から期待されていました。
一方でルキラもアントニヌス朝を盤石にするための役割を与えられました。
父マルクス・アウレリウスは即位にあたり、義理の弟であるルキウス・ウェルスを共同統治帝に指名し、兄弟共に即位しました。ルキウス・ウェルスはかつてハドリアヌス帝の後継者とされたルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの息子であり、マルクス・アウレリウスと共にアントニヌス・ピウス帝の養子となっていました。
マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウス帝は義弟ルキウス・ウェルスに自らの娘であるルキラを嫁がせることにより、二人の皇帝による共同統治体制を盤石なものにしようとしました。164年に結婚が成立。この時ルキウスは34歳、ルキラは15歳でした。
この結婚によりルキラは母親であるファウスティナと同じアウグスタ(=皇妃)の称号を得、彼女の姿を表現したコインが発行されるようになりました。
ルキラのデナリウス銀貨 (AD166-AD169, ローマ)
ルキラのコインはルキウス・ウェルス帝と結婚した直後の164年から、夫が亡くなる169年までのおよそ5年間発行されました。
すべてのコインには「AVGVSTA(=皇妃)」の称号が刻まれ、彼女が皇妃であった時期にのみ製造されたことが分かります。そのため確認されているコインの種類はファウスティナと比べて少なく、発行数も父や夫と比べると少なかったことが窺えます。
金貨・銀貨・銅貨もすべて同じ肖像のスタイルが採用されています。母親のファウスティナとよく似た髪形をしていますが、やや丸顔で幼さを残した印象です。
母ファウスティナのデナリウス銀貨 (AD161-AD164)
ルキラは夫のパルティア遠征にも付き従い、ローマを離れてシリアで過ごすようになります。この間に3人の子供を授かり、夫婦としての関係性は保たれていましたが、結婚から5年後の169年2月ルキウス・ウェルスは外征先で脳溢血に倒れ、そのまま崩御してしまいました。
ルキウス・ウェルスは神格化され丁重に葬られましたが、夫の死によってルキラは皇妃の称号を失うことになります。父マルクス・アウレリウスは後添えとしてティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス・クィンティアヌスというシリア出身の貴族と再婚させますが、これによって皇妃の身分を再び得ることはできず、格下げのような形になりました。
180年に父マルクス・アウレリウスが崩御すると、帝位は息子コンモドゥスに継承されました。哲人皇帝と称えられた父親と異なり、コンモドゥスは暴力的で自己顕示欲が強く、誇大妄想の傾向がみられました。この頃から姉ルキラと弟コンモドゥスの不和と対立が始まったと推測されています。
さらにコンモドゥスの妻であるクリスピナとも不仲であり、皇妃の称号を失ったルキラは宮廷から遠ざけられる状況に危機感を覚えていました。この頃からアウグスタの称号を添えたクリスピナのコインも発行され始めています。
コンモドゥスとクリスピナ
コンモドゥスは父マルクス・アウレリウスと似た風貌ですがやや目蓋が重い印象です。クリスピナはファウスティナやルキラと比べると細面で、首元が長く表現されています。
皇帝一族内の確執は単なる御家騒動に収まらず、やがてクーデターの陰謀として多くの人々を巻き込んでいきました。ルキラと夫クィンティアヌスを軸とし、元近衛長官パテルヌス、ルキラの娘プラウティア、夫クィンティアヌスの甥などが関与し、コンモドゥス帝暗殺計画が練られました。皇帝暗殺後はクィンティアヌスが皇帝に即位し、ルキラが再び皇妃の称号を得て復権する予定でした。
182年、皇妃クリスピナが妊娠したことを契機とし、コンモドゥス帝暗殺計画が実行に移されました。クィンティアヌスの甥が物陰に隠れ、近づいてきたコンモドゥス帝を短剣で刺し殺そうとしたものの、その際に「これが元老院からの贈り物だ!」と叫んだことですぐさま近衛兵に捕らえられ、計画は失敗に終わりました。
コンモドゥス帝は傷ひとつ負いませんでしたが、ただちに計画に関与した姉ルキラと夫クィンティアヌス、その子供たちを逮捕し、カプリ島に追放した後に当地で処刑しました。
こうしてルキラの復権の野望はあえなく潰えましたが、実姉に命を狙われたことや暗殺者の掛け声(=これが元老院からの贈り物だ!)はコンモドゥス帝の人間不信感情をより悪化させ、ますます政治から遠のき暴君・暗君の道を辿ることになったのです。
暗殺未遂事件から10年後の192年、コンモドゥス帝は近習の近衛隊長と愛人の策略によって暗殺され、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続いたアントニヌス朝は終焉しました。
権力闘争によって最期を遂げたルキラですが、暴君となった弟に処刑された悲劇性からか、後世の映画ではヒロインとして描かれることも多くあります。
『ローマ帝国の滅亡』(1964)
『グラディエーター』(2000)
『ローマ帝国の滅亡』ではソフィア・ローレン、『グラディエーター』ではコニー・ニールセンがルキラを演じました。どちらの作品でも弟コンモドゥスによって虐げられ、その暴政を止めようと尽力し、主人公によって救われるヒロイン像として表現されています。
伝わっている史実とはイメージが大きく異なりますが、映画作品としては見応えがありますので、気になる方はぜひご覧ください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
最近はようやく涼しくなってきたように感じます。蒸し暑い日から少しでも過ごしやすい日々になることを願ってやみません。
季節の変わり目は気温の変化も激しいので、体調管理には気をつけていきたいものです。
現在、上野公園の東京都美術館では『永遠の都 ローマ展』が開催中です。
ローマのカピトリーノ美術館より、古代から近代に至るまでの美術品の数々が来日しています。
↓クリックすると公式サイトへ
カピトリーノ美術館はローマの七つの丘の一つ、カピトリーノの丘に建てられた歴史ある美術館であり、古代から近現代に至るローマの美術品が収蔵展示されています。
カピトリーノは古代ローマではカピトリヌスと呼ばれ、七つの丘の内で最も高い丘として最高神ユーピテルやユノー、ミネルヴァの神殿が建立されていました。共和政時代~帝政時代に至るまでローマの中心として神聖視され、ローマ帝国消滅後も都市の中心部であり続けました。
英語で首都を意味するキャピタル(Capital)の語源になった場所とされ、現在ではミケランジェロが設計した美しい広場を中心に、美術館やローマ市庁舎が建ち並んでいます。
今回来日している美術品の中には、古代ローマの象徴として知られる「牝狼とロムルス&レムス」もあります。ポスターとして使用されるほど有名なカピトリーノの牝狼像、今回は複製ではありますが、本物の大きさや毛並み、質感を忠実に再現したブロンズ像です。
カピトリーノの牝狼
(ローマ展公式サイトより)
なおオリジナルの像も狼は古代エトルリア製で、ロムルス&レムスはずっと後の15世紀後半 ルネサンス期に付け加えられたものであり、古代ローマ人の手はほとんど入っていない作品と考えられています。
今回の展覧会では門外不出といわれた「カピトリーノのヴィーナス」が展示されています。
カピトリーノのヴィーナス像
(wikipediaより)
紀元前4世紀にギリシャの彫刻家プラクシテレスが手がけた作品を基に、2世紀 五賢帝時代のローマで作成された大理石像。数多く作成された古代ギリシャ・ローマのヴィーナス像の中でも特に有名な作品の一つです。
傑作と名高いプラクシテレスの作品は後世にも人気を博し、ローマ帝国では富裕層の邸宅を飾るために複製(ローマンコピー)が作成されました。オリジナルは失われてしまいましたが、こうした複製のおかげでその芸術性が後世に残されることとなりました。
この作品はカピトリーノ美術館でも多角形の特別な部屋に展示されていますが、今回の展覧会ではその空間まで再現されています。展示品本体が持つ空気をも魅せる、こだわりの工夫が為されています。
さらに今回はローマ皇帝の肖像も多数展示されています。
ユリウス・カエサルや初代皇帝アウグストゥスをはじめ、トラヤヌスやハドリアヌス、カラカラといった有名な皇帝たちの胸像が多く見られます。
当時を生きた皇帝たちの姿を模った肖像は、それぞれに個性と人間性があり、対面すると存在感と質量が伝わってきます。当時、実際に対面していない人々にも皇帝の存在を実感させる効果があったと思われます。
アウグストゥス像
(ローマ展公式サイトより)
コンスタンティヌス帝像 (複製)
(毎日新聞 2023/9/16 記事より)
今回のメインのひとつでもあるコンスタンティヌス大帝の巨像は、頭部だけで高さ1.8mという巨大なもので、足や手のパーツ部分だけでも見るものを圧倒させる巨大さです。複製であるとはいえ、実際に相対すると威圧感があり、コンスタンティヌス大帝が掌握した権力の強大さが想像できます。
大仏のようなサイズ感ですが、顔つきは生きている人間のようにリアルであり、1700年前にこれだけの巨像を製作できるローマの技術力の高さには驚くばかりです。この像が完全な形で後世に残されなかったのが悔やまれます。
この他にもトラヤヌス記念柱のレリーフ展示や種々の大理石像、ルネサンス期以降の絵画など、長い歴史を持つローマだからこそ生み出せた貴重な作品が数多く展示されています。
イッポリート・カッフィ『フォロ・ロマーノ』(1841)
カヴァリエル・ダルビーノ『狩人としての女神ディアナ』(1600-1610)
ちなみにコインは「牝狼とロムルス&レムス」を表現した金貨・銀貨・銅貨が並んでいます。カピトリーノ美術館所蔵のコレクションだけあって、どれもすばらしい状態です。
『永遠の都ローマ展』は上野公園の東京都美術館で12月10日(日)まで開催中です。
※土日・祝日は日時指定予約制 (*当日の空きがあれば入場可能)
※2024年1月5日~3月10日は福岡市美術館に巡回予定
ローマ史に少しでも興味関心がある方はぜひ足をお運びください。日本ではなかなかお目にかかれない展示物の数々、行って損はないと思います。
近くの御徒町には当店 ワールドコインギャラリーもございます。展覧会見学の帰り道に、ぜひお立ち寄りくださいますと幸いです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
まもなく大型連休、ゴールデンウィークの時期です。今年はコロナの規制がほぼ無くなり、3年ぶりに例年通りの賑やかさが戻ってきそうです。人の移動も盛んになり、観光地も忙しくなりそうですね。
ワールドコインギャラリーの定休日は水曜日ですが、憲法記念日の5月3日(水)は通常営業を行います。
5月最初の一週間は休まず営業しておりますので、連休中はぜひお越しください。皆様のご来店・お問い合わせをお待ちしております。
今回は小アジア(*現在のトルコ)のカッパドキアで造られたコインをご紹介します。
紀元前281年のカッパドキア王国
カッパドキアといえば奇岩群で有名な世界遺産があり、トルコを代表する名所として世界中から観光客が集まります。アナトリア高原の中央部に位置し、冬の寒さは厳しく降雪量の多い土地でもあります。
カッパドキアの奇岩群
またギリシャ~ペルシアの中間地点である地理的条件から、古代より大国間の交流・衝突の場にもなりました。紀元前6世紀に小アジアの大半がアケメネス朝ペルシアの支配下に入ると、カッパドキアには太守が派遣され、独立した行政州として統治されました。太守をはじめとする支配層の多くはペルシア人であり、アケメネス朝の支配下ではペルシア文化が根付いてゆきました。
なおカッパドキアの名称はペルシア語で「美しい馬の国」を意味する「カトパトゥク (Katpatuk)」が由来になっているとされ、同州の特産品として本国に献上されていたと考えられています。
紀元前4世紀にアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の東方遠征が始まると、カッパドキアのペルシア人はマケドニア軍に反抗しましたが、アケメネス朝そのものが滅ぼされると太守アリアラテスは王を自称し、アリアラテス朝カッパドキア王国が成立しました。その後はマケドニアやセレウコス朝に従属するも、紀元前3世紀後半には再び自立しました。
カッパドキア王国はアケメネス朝支配下で設置されたカッパドキア州に由来する経緯から、ペルシア文化が根強く残された点が特徴でした。王や貴族はペルシア貴族の末裔であり、アケメネス朝で信奉されていたゾロアスター教(拝火教)の神殿が国内に多く建立された他、独自の暦も制定しました。首都のマザカ(*現在のトルコ,カイセリ)はペルシア風都市として建設され、周辺には複数の砦が築かれて強固な防衛線を成していました。
王名「アリオバルザネス」「アリアラテス」はペルシアの名であり、その血統のルーツを示しています。ペルシア語やアラム語が広く用いられ、さながらペルシアの内陸飛び地の様相を呈していました。
一方でセレウコス朝やペルガモン王国といった周辺のギリシャ系王朝の影響も受け、時代が経るとヘレニズム文化が定着するようになりました。
特にヘレニズム文化が顕著に反映された例がコインでした。
表面には王の横顔肖像、裏面にはアテナ女神とギリシャ文字による称号という、典型的なヘレニズム様式のコインが多く生産されるようになりました。
ここで示された称号は王を表すペルシア語の「シャー」ではなく、ギリシャ語の「バシレイオス」が用いられました。
アリアラテス5世のドラクマ銀貨
表面にはダイアデム(王権を示す帯)を巻いたアリアラテス5世の横顔肖像、裏面には武装したアテナ女神像が表現されています。右手上には勝利の女神ニケを乗せ、周囲部には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΑΡΑΘΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ (=王たるアリアラテス 敬虔者)」銘が配されています。
下部の「ΓΛ」銘は王の治世33年目(=紀元前130年)を示し、製造年の明記がカッパドキアのコインの特徴として継承されました。王の肖像は代が替わると変更されましたが、アテナ女神像はそのままだったことから、王家はアテナ女神を守護神として崇敬していたようです。
アリアラテス5世はペルガモン王国と同盟して領土を拡大させた王であり、首都マザカはコインにも示されている王の敬称「ΕΥΣΕΒΟΥΣ」に因み一時的に「エウセベイア」に改称されました。
アリアラテス7世のドラクマ銀貨 (BC108-BC107)
紀元前2世紀末になると小アジアのヘレニズム諸国の紛争は激しさを増し、カッパドキア王国を統治してきたアリアラテス朝の内部でも権力闘争が行われました。若くして即位したアリアラテス7世は隣国ポントス王国のミトリダテス6世の後ろ盾で王位に就いたものの、傀儡になることに反抗したため暗殺されました。
アリアラテス9世のドラクマ銀貨 (BC89)
アリアラテス7世を排除したミトリダテス6世はカッパドキア国内の混乱に乗じ、弱冠8歳の王子を送り込みアリアラテス9世として王に即位させました。
コインの肖像も父親であるミトリダテス6世に似せた造型になっています。
この内乱状態に際し、有力貴族のアリオバルザネス家はローマの支援を受けて反攻し、紀元前96年にアリオバルザネス1世が王位を宣言しました。
その後ビテュニア王国やアルメニア王国も干渉しカッパドキアの内乱は激しさを増しましたが、最終的にポントス王国がローマに敗れた(第一次ミトリダテス戦争)ためアリアラテス9世は追放され、アリオバルザネスの王権が確立されました。(=アリオバルザネス朝)
アリオバルザネス1世(在位:B96-BC63)のドラクマ銀貨
アリオバルザネスは先のアリアラテス朝の様式を踏襲してコインを発行しました。アリオバルザネス1世は在位期間が長かったことから、肖像も若年像⇒中年像⇒老年像と変化がみられます。
裏面のアテナ女神像も継承されていますが、アリオバルザネスがローマの後援を受けて王位に就いたことを示す「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス ローマの友)」銘が配されています。
「ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=ローマの友)」はアリオバルザネス朝のコインの特徴的銘文であり、その後100年のカッパドキア王国は周辺諸国との安全保障上、常にローマの同盟国であり続けました。
アリオバルザネス3世(在位:BC51-BC42)のドラクマ銀貨
裏面には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ ΚΑΙ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス・エウセベス 敬虔にしてローマの友)」銘が配されています。この頃になるとカッパドキア王はローマ元老院の認証をもって王位を宣するようになり、名目上は同盟国でも事実上は属国となっていました。
アリオバルザネス3世はローマ内戦において当初ポンペイウスを支持したものの、勝敗が決するとカエサルに鞍替えして領土を拡大させました。そのため後にブルートゥスが小アジアへ拠点を移した際、裏切り者の王としてカッシウスによって処刑されました。
同時代のローマの地理学者ストラボンの『地理誌』によると、まだゾロアスター教の神殿や風習、社会身分制度が色濃く残されており、かつてこの地を支配したアケメネス朝の名残がみられる独特な王国として知られていたようです。アリオバルザネス朝もペルシアにルーツを持つ貴族の出身であり、その古い文化を尊重しつつも政治的な思惑も絡み、ギリシャ・ローマ化を推進していました。
紀元前1世紀、アリオバルザネス朝時代のカッパドキアは事実上ローマの属国でしたが、名目上は独立した王国として存続していました。しかし最後の王となるアルケラオスはローマ皇帝ティベリウスの弾劾を受け、その直後の紀元17年に没すると、ローマは王国を廃して「カッパドキア属州」として直接統治下に組み込みました。首都のマザカはカエサルの名を冠する「カエサレア」と改称され、東方への交通要衝として二個軍団と補助部隊が常駐しました。この改称名は現在の都市名「カイセリ」として定着しています。
独立を喪失した後のカッパドキアでは、ローマ本国とは異なる独自のコインが発行されました。カッパドキアの地理的重要性から、ローマ軍団やローマ人が多数常駐したため、彼らへの大量の給与を現地で生産・支払う必要があったこと、さらに交易の要衝として経済的にも発展したため、経済活動が活発化したことがその理由です。一国並みの大きな経済圏を有していたため、ローマは自国の通貨をそのまま供給せず、現地に定着したドラクマ幣制を維持して属州内で独自コインを流通させました。
コンモドゥス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD181-AD182)
カッパドキア属州で発行されたドラクマ銀貨には、表面に皇帝の横顔肖像、裏面にはカッパドキアの名峰アルガエウス山(=エルジェス山)が抽象的に表現されています。周囲部にはカッパドキアの奇岩群、頂上部には輝く星があることから、当時の山岳信仰を象徴する意匠とみられます。
皇帝の称号は全てギリシャ語で表記され、裏面の下部には製造年が配されており、王国時代のコインを部分的に継承しています。ただしコインの重量は軽減されており、インフレーションの緩やかな進行が垣間見えます。
アルガエウス山 (=エルジェス山, 標高3,916m)
カイセリから南に25kmの位置に聳える火山であり、カッパドキアの独特な奇岩群はこの火山の噴火によって形成されたと考えられています。ギリシャ神話に登場する百目の巨大怪物アルゴス(*ラテン語でアルガエウス)からその名が付けられました。
セプティミウス・セウェルス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD206)
裏面アルガエウス山の上部には属州都市カエサレアで製造されたことを示す「MHTΡ KAICAΡ (=首都カエサレア)」銘が配されています。
ゴルディアヌス3世治世下のドラクマ銀貨 (AD240-AD241)
3世紀末にディオクレティアヌス帝の貨幣改革が実施されると、共通規格の銅貨が帝国各都市で大量に製造され、属州毎に製造されていた多種多様なコインは造られなくなりました。カッパドキアも同じく独自コインは製造されなくなり、王国時代の名残は消えていったのでした。
カッパドキア王国~属州時代のコインはドラクマ銀貨が主流であり、日常的に使用するコインだったことから大量に生産されました。そのため現在でも年代順に集めることが可能であり、コレクションや研究対象として面白いテーマになりそうです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
3月になり一気に暖かくなってきましたね。今年は桜の開花も早く、各地でお花見日和です。コロナの規制も緩和され、マスク無しで外出される方も増えたように感じられます。花粉症の方々には厳しい季節ですが、春の訪れとともに明るい空気が戻ってくれば幸いです。
今回は3月ということで、3月=Marchの語源となった「マルス」とそのコインをご紹介します。
マルスは古代ローマの軍神であり、特に兵士たちに崇敬されていました。当時の男性名「マルクス」「マリウス」「マルティヌス」などはマルス神にあやかってつけられた名前です。
ローマの主神のひとつとして篤く信奉されましたが、もともとは田畑を守る農耕神とされていました。そのため農耕が始まる季節がマルス神の月とされ、そこから3月=Martius=Marchとして定着するようになりました。
また、火星を示す「Mars」もマルス神が由来になっています。火星を示す惑星記号「♂」はマルス神の槍を図案化したものとされ、現在では男らしさ=雄を示す記号としても定着しています。
雪解けの季節は軍事行動を開始する時期とも重なることから、ギリシャ神話のアレス神と同一視されて軍神としての性格も帯びるようになりました。
しかし戦闘の狂気を引き起こし、暴力的性格の強いアレスとは異なり、ローマにおけるマルスは都市国家と兵士たちの守護神として大切に信奉されていました。その神像は筋骨隆々とした男性(主に青年像)として表現され、兜を被る姿が多く見られます。
また、ローマ建国神話では建国者ロムルス&レムス兄弟の父親とされ、ローマのルーツとなった神として認識されていました。
マルスとレア・シルウィア
(ルーベンス作, 1617年頃)
アルバ・ロンガの王女レア・シルウィアは巫女として生涯独身を運命付けられるも、マルス神に見初められて軍神の子を懐妊。生まれた双子の男児ロムルスとレムスはティベリス川に流されますが、流れ着いた岸辺で雌狼に助けられ命を繋ぎました。この伝承はマルス神の聖獣が狼であることも大きく関係しているようです。
マルス神の姿は共和政時代からコインの図像として盛んに表現されていました。その姿は兜を被った青年の姿であり、本来の農耕神としての性格はほとんど見受けられません。征服戦争が盛んだった紀元前2世紀以降、デナリウス銀貨が兵士への給与として支払われたことを鑑みると、軍神が貨幣の意匠に取り入れられるのは極めて自然なことでした。そのため、裏面には兵士たちの勇ましい姿が多く表現されていました。
紀元前137年に発行されたデナリウス銀貨には兜を被るマルス神が表現されています。その兜には麦穂の飾りがあり、農耕神としての性格を併せ持つことを示しています。
裏面には「ROMA」銘の下に三人の男たちが表現されています。中央の男が軍に入隊するに伴い、二人の兵士が立会人(*左側の兵士は髭を生やし、腰も曲がっていることから古参兵、または年長の老兵とみられる)として儀式を執り行う様子とみられます。抱かれた子豚はマルス神に捧げられる犠牲獣と解釈できます。
紀元前108年頃に発行されたデナリウス銀貨には、勝利の女神ウィクトリアとマルス神が表現されています。裸のマルス神は兜を被り、戦勝トロフィーと長槍を携えています。腹筋が割れた姿で表現され、男性的な肉体美を強調しています。一方で右側には麦穂が配され、農耕神としての性格も示されています。
紀元前103年発行のデナリウス銀貨にはマルス神の横顔像と、戦う兵士たちの姿が表現されています。中央には膝から崩れ落ちる兵士も表現され、細かい部分までリアリティを追及している構図です。
ガリア戦争中の紀元前55年に発行されたデナリウス銀貨。表面のマルス神はトロフィーを背負い、戦勝を誇示する姿です。裏面にはローマの騎兵と打ち倒されるガリア兵たちが表現されています。
紀元前76年のデナリウス銀貨にはマルス神と羊が表現されました。牡羊座の守護神はマルスとされ、星座との関係性を示す意匠です。
紀元前88年のデナリウス銀貨には肩越しのマルス神が表現されています。肩には革紐を襷がけし、槍を持って遠くを見据える凛々しい青年像です。
裏面は馬戦車を駆ける勝利の女神ウィクトリアが表現されています。
帝政時代以降もマルス神は国家守護の主神として篤く信奉されました。
皇帝のコインには度々マルス神の姿が登場し、皇帝個人の武勇と兵士たちの長久を祈念しました。外征などの大規模な戦役が行われた場合、コイン上にマルス神が多く表現されたようです。
初代皇帝アウグストゥスの治世下に発行されたデナリウス銀貨。紀元前19年頃に造られたこのコインには、敵から奪った戦車が納められたマルス神殿が表現されています。アウグストゥスはユリウス・カエサルを暗殺したブルートゥスたちを打ち破った記念として、ローマ市内中心部のフォルム(広場)にマルス・ウルトル(復讐のマルス)神殿を建立しました。最終的な完成と奉納は紀元前2年5月12日とされることから、コインには計画段階の姿が表現されたとみられます。
トラヤヌス帝は積極的な領土拡大策によってローマ帝国の版図を史上最大にしました。ダキア征服後の114年~116年頃に発行されたデナリウス銀貨には、戦勝トロフィーを担いで堂々と歩むマルス神の姿が表現されています。当時はパルティア遠征の最中であり、ローマの軍事的成功を祈念する意匠として採用されました。
ハドリアヌス帝治世下の121年頃に製造されたデナリウス銀貨。裏面のマルス神像は先帝トラヤヌスのコインをそのまま継承した構図。ハドリアヌス帝はトラヤヌス時代の領土拡大路線を見直し、現状維持に努めたことで知られます。この年代はハドリアヌス帝が属州巡幸を開始した時期と重なり、各地の駐留軍団への視察が影響した意匠ともみられます。
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こんにちは。
2月も終わりに近づき、段々と暖かくなってまいりました。梅や河津桜があちこちで咲き始め、春の足音を感じます。
今回は古代ローマ帝国で流行したコインジュエリーについてご紹介します。
現代でもコインを使用したペンダントやリング、ブレスレットなどのジュエリーは人気がありますが、古今東西コインをジュエリーの素材として用いる文化は広く見られました。
西洋でコインジュエリーが定着したのは、2000年前のローマ帝国からだと考えられています。初代皇帝アウグストゥスは古代ギリシャのコインを趣味的に収集していたと伝えられることから、既にこの時代にはコインが経済的意味だけでなく、歴史・文化・デザインの面から評価されていたことが窺えます。
アウグストゥス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
(大英博物館所蔵)
2世紀の五賢帝時代、ローマ帝国は安定的な繁栄によって市民生活にも余裕ができ、貴族や富裕層の間で華美な装飾が流行しました。より手軽な色ガラスや色石、輝石、カメオを使用したブローチなどは幅広い階層で用いられましたが、より富裕層は金を用いて存在感を示したのです。こうしたジュエリーの着用は男女を問わず、メダルや勲章など政治的な意味合いを持つ記念品も多く作成されています。
ジュエリーの素材として最も人気があったのは金でした。現代以上に金の採取が難しくコストがかかり、また経済的な資材としての役割が大きかった金は、身に着ける資産としても重要であり、着用者の社会的地位と経済力を誇示しました。
貴重な素材を加工する彫金技術は、現代の進んだ技術力と比べても非常に高度でした。コインという小さな素材に枠を巻き、周囲に輝石をはめ込む技術は、照明すら不完全な2000年前の工房を想像すると驚異的な技術です。
デキウス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
裏面の縁は伏せ込み型の金枠になり、周囲には縄目紋様の装飾枠が追加で巻かれています。
セプティミウス・セウェルス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
上図の金貨と同じように伏せ込み型の枠が巻かれています。金具がつけられていた位置から推定すると、裏面(=月と星)を表面にして使用していたとみられます。
表面と裏面から銀枠を重ね合わせており、コインの大きさに合わせた二つの枠を作製⇒貼り合わせていたことが分かります。
ジュエリーにコインが使用されている点は、その作品の制作年代を推定するのに非常に役立ちます。現存しているコインジュエリー、特に金貨を用いたものの多くは3世紀以降に造られています。
フィリップス・アラブス帝のアウレウス金貨を用いたブローチ
(3世紀後半に作成か, 大英博物館所蔵)
金の安定的な供給によって金貨の発行数が増えても、その多くは資産として退蔵されたり、東方との交易決済用として国外に流出していました。そのため金貨を用いたジュエリーがどれほど贅沢な装飾品だったか、想像に難くありません。ローマ人にとってジュエリーは単なるおしゃれとしてではなく、資産の保全であり、また護符(お守り)として一生身に着けるものでした。そのため貴重な金貨をジュエリーに加工することも抵抗は無かったかもしれません。
しかし当時のコインジュエリーと現在のコインジュエリーについて決定的に違う点は、ローマ時代のコインに表現された皇帝・皇妃たちはリアルタイムの権力者だった可能性が高い点です。
一般的に金貨のジュエリーを身に着けていたのは高位の人物だったと考えられており、一説には現皇帝に対する忠誠を示すための意味もあったとされています。
現存するコインジュエリーの多くが、豪奢で一族専制的なセウェルス朝以降に作成されていることから考えても、決して無関係でないように思われます。使用されているコインだけでなく、それらを用いた作品も時代の空気を反映させています。
エラガバルス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
フランスのボーレン, またはアラスで出土。発見時は8つの金貨ペンダントとセットになっており、他にハドリアヌス帝、小ファウスティナ妃、コンモドゥス帝、カラカラ帝、ユリア・ドムナ妃、ポストゥムス帝のアウレウス金貨が使用されていました。
政治的なアピールや宗教的な意味合いもさることながら、コインに美術的価値を見出していた点は、現代人との感性の共通を感じさせます。輝石や貴金属、カメオと並んでコインもジュエリーの素材として用いる文化は、帝政時代の古代ローマで定着したといえるでしょう。
現在作成されているコインジュエリーも、今後は貴重な作品として評価される日がやってくるかもしれません。職人による手作業の工芸作品である点もさることながら、電子決済・キャッシュレスの時代におけるコインの存在義について、後世に形として伝える意義もあると考えられます。また、金を常日頃から身に着ける資産保全性は、古代も現代も、そして将来も変わらないでしょう。
コインジュエリーは「貨幣」として生み出されたコインを装飾品に生まれ変わらせた芸術作品です。古代ローマ人のようにお守りとして、身に着ける資産として大切にする精神を重んじたいと思います。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
まだまだ蒸し暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日が暮れると少し涼しくなったようにも感じますが、やはり日中は暑いですね。まだ夏は続きます。
今回はローマ帝国屈指の暴君として悪名高い「カラカラ」のコインをご紹介します。
ローマ帝国 216年頃 デナリウス銀貨
カラカラは3世紀初頭のローマ帝国に君臨したセウェルス朝の皇帝であり、父は北アフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルス、母はシリア出身のユリア・ドムナです。有名な胸像は日本でも美術室のデッサン見本として置かれており、一度は目にした方も多いのではないでしょうか。
カラカラ帝胸像
(ナポリ美術館)
188年に生まれたカラカラは当初ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスと名付けられ、10歳のときに父親が政敵たちを打ち破って皇帝に即位すると、過去の偉大な皇帝たちにあやかりマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルと改名しました。
現在広く知られている「カラカラ」という呼び名は渾名であり、本人が好んで着用していたフード付きチェニックの名に由来しています。
そのため、当時発行されたコインには「カラカラ」という名は刻まれず、正式名称のアントニヌスが称号銘文として使用されていました。銘文だけでは五賢帝時代のコインと混同してしまいますが、特徴的な肖像によって区別することが可能です。当時発行されていたコインの肖像と上の胸像を見比べると、この個性的で気性の荒そうな外見が見事に表現されていることが判ります。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
カラカラ帝はこの胸像から受ける印象の通り、気性が荒く粗野な人物だったようで、歴史書からは散々な評価がなされています。コインの銘文には「敬虔」を意味する「PIVS (ピウス)」の称号も添えられていますが、その実態は尊い称号には程遠いものでした。
彼には一歳違いの弟ゲタがいましたが、兄弟仲は子供の頃より不仲であり、やがて成長するにつれて帝位継承を巡る確執にまで発展します。両親は兄弟の不仲を長く心配していましたが、周囲の取り巻きたちはそれぞれの側に付いて対立を煽ったため、関係が修復する見込みはありませんでした。
ゲタの肖像が表現されたデナリウス銀貨 (199年-202年)
211年に父帝セプティミウス・セウェルスがカレドニア遠征の最中に没すると、兄弟はさっさと遠征を切り上げてローマに帰還し、共に皇帝として即位しました。かつてマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが兄弟で皇帝に即位したのと同じく、権威を分け合うことでセウェルス朝の安定を図りましたが、両者の対立はすぐに再燃してしまいました。
皇帝に即位したゲタのデナリウス銀貨(210年)
兄カラカラとよく似た印象の肖像。皇帝としての発行貨はわずか一年ほどでした。
カラカラは母親ユリア・ドムナを交えてゲタと会見し、その場で弟を刺殺して葬りました。さらにゲタの支持者や従者、彼に弔意を示したと見做された者まで、数多くの人々が粛清されました。その数はおよそ2万人に及び、中には自らの名の由来となった賢帝マルクス・アウレリウスの娘や、自らの妻プラウティラまで含まれていました。
プラウティラとカラカラの結婚を祝すデナリウス銀貨 (202年)
父セプティミウス・セウェルスによって決められた政略結婚でしたが、カラカラはプラウティラを忌み嫌い、陰謀の嫌疑をかけてカプリ島に追放しました。
そしてゲタの肖像や銘文をあらゆる公共の場から削除したほか、ゲタの姿が刻まれたコインすら回収して溶かしてしまったと云われています。
セプティミウス・セウェルス帝一家の肖像
(ベルリン博物館蔵)
左下の肖像が消されている人物はゲタとみられ、211年の大粛清後に手が加えたとみられています。
血塗られた粛清の嵐の後、単独の皇帝となったカラカラは後世に知られる大浴場(カラカラ浴場)の建設や、帝国内の全自由民にローマ市民権を与える勅令(アントニヌス勅令)を発するなど、絶大な権力を誇示する施策を実施します。
しかしやはりローマは居づらくなったのか、213年にカラカラは東方属州への巡幸へ出発し、以降二度とローマへ戻ることはありませんでした。
カラカラはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世, BC336-BC323)を崇拝しており、大王の真似をして東方へ足を延ばすことで現実逃避していたという説もあります。しかしカラカラはアレキサンダー大王と同じく兵士たちと共に行動し、その要望をよく聞きいれたため、結果的に軍団の支持を確固たるものにしてゆきました。
小アジアのペルガモンでは医術の神アスクレピオスの神殿に参詣し、さらに同時期のコインにもアスクレピオス神が表現されていることから、カラカラがこの医神を特に深く崇敬していたことが伺えます。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
この点からカラカラは身体に何らかの不調を感じており、そこから精神へ影響し、激しい怒りの感情を抑えられなくなったとみる説もあります。
幼少期のカラカラが熱病に罹った際、父セプティミウス・セウェルスは名医セレヌス・サンモニクスに診せたところ、彼はカラカラの首に呪文が書かれた布を巻き付け、これを治癒したといわれています。この呪文は今日「Abracadabra (アブラカタブラ)」として知られ、サンモニクスはその功績からカラカラとゲタの家庭教師・専属医に取り立てられました。
そのためカラカラ自身も医学に対する関心が高かったと考えられます。
なおサンモニクスはゲタ亡き後の大粛清に巻き込まれたとされ、この点からもカラカラが父の代の忠臣たちを一掃したことが伺えます。
エジプトのアレキサンドリアではアレキサンダー大王の墓を詣でた後、何らかの理由で数千人もの市民を虐殺しています。ローマを離れても医術の神や偉大な大王に詣でても、カラカラの狂気と凶暴性に変化がなかった様子が伺えます。
カラカラによる東方遠征の最大の目的は、父の代から続いていた東方の大国パルティアとの戦争に決着をつけることでした。これはローマのアレキサンダー大王を自認するカラカラにとって、ぜひ自らの手で成し遂げたい偉業でした。
各部隊は対パルティア戦に向けた演習訓練を繰り返し、8個軍団に及ぶ多くの兵力と物資が国境のシリア~メソポタミアへ集められました。
さらにアンティオキアやエデッサ、カルラエなどには兵士に支給するための貨幣を増産するため、新たな造幣所も設けられました。特に215年~217年にかけて多くのテトラドラクマ銀貨が製造され、いまなおシリアやイラクの砂漠地帯でまとまった状態で出土しています。流通痕跡の少ないコインは兵士たちへの給与として造られ、受け取った兵士がその後帰還できず、回収されずに残されたと見做されます。
キュレスティカ地方の都市ベロエア(※現在のシリア北部 アレッポ)で造られたテトラドラクマ銀貨。カラカラ帝の珍しい左向き肖像タイプ。
216年から始まったパルティア侵攻においてカラカラは有利に軍を進め、順調に目的を遂げようとしていた矢先、側近によって暗殺されこの世を去りました。行軍中、用を足していたカラカラは背後から近づいてきた近衛兵に背中を一突きされ、あっけなく治世を終えたのです。
カラカラの名は今日、有名なローマ皇帝の一人として知られていますが、単独の皇帝としての治世は5年ほどであり、そのうちローマに滞在していたのはたった1年でした。暗殺されたときは29歳であり、アレキサンダー大王が亡くなった年齢とほぼ同じでした。
不思議なことにカラカラ以降、パルティアやペルシアなど東方へ親征した皇帝は二度とローマへ帰還することなく、戦地で命を落とす例が続きました。
セプティミウス・セウェルス~アレクサンデル・セウェルスに至るセウェルス朝時代の皇帝たちのコインは比較的多く現存していることから、完集が容易なテーマとして知られています。
特にカラカラのコインは子供時代~単独皇帝時代まで数多くの種類が発行されており、肖像の変化を目で楽しむことが可能です。デナリウス銀貨だけでも豊富な種類があり、財政状況の悪化から銀の純度は50%ほどに下がったものの、その彫刻技術はそれを補って余りあるほどのクオリティです。
また東方属州で造られた属州のコインも、デザイン上興味深いものが多くみられます。
カラカラ 幼少肖像タイプ デナリウス銀貨
父帝セプティミウス・セウェルスによる対パルティア戦役の勝利を記念したタイプ
カラカラ 少年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 青年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 皇帝肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ帝と母親ユリア・ドムナが表現された銅貨
下モエシア属州(*現在のブルガリア)のマルキアノポリスで発行(198年-217年)
カラカラによる軍団への大判振る舞いや、軍事力の肥大化からくる財政支出は、コインの発行量を短期間で増加させました。このことが、現在の我々がカラカラのコインを入手しやすくしている要因でもあります。
215年にカラカラは貨幣の改革を実施し、深刻化する財政状況を改善しようとしました。一枚でデナリウス銀貨二枚の価値に相当すると称された銀貨は、実質的にデナリウス銀貨の1.5倍の重量しかなく、完全な名目貨幣でしたが、その後の軍人皇帝時代にはデナリウス銀貨を駆逐して主要貨幣にとって代わりました。
この銀貨は当時の正式な名称が判明していませんが、現在の貨幣学上ではカラカラの名にちなみ「アントニニアヌス」と呼ばれています。
デナリウスなど他のコインとは異なり、皇帝は月桂冠ではなく放射状の冠を戴いています。この伝統は後の皇帝たちが発行したアントニニアヌス銀貨にも継承され、視覚的にデナリウスとアントニニアヌスを見分ける一助になっています。
若き暴君としてローマ人の夥しい血を流したカラカラですが、短い治世の間に数多くの業績も残し、アレキサンダー大王と同じく様々な方面で語り継がれる皇帝となったのでした。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 11:59 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
関東はすっかり梅雨明けして真夏の陽気です。今年の夏は例年よりも早く到来したようにも感じられますね。
急激な気温の変化に身体はついていかない感覚です。体調にはくれぐれも気をつけて、この夏を乗り越えていきたいものです。
今回はスフィンクスのコインをご紹介します。
スフィンクスと言えばエジプトのギザのピラミッド前に鎮座する巨像が有名ですが、本来スフィンクス(Sphinx, スピンクス)はギリシャ神話に登場する怪獣の名であり、神話の姿とは若干異なるのです。
ギザのスフィンクスは男性像であり、建設年代や本来の呼称は不詳です。後世にエジプトを訪問したギリシャ人が、自分たちの神話に登場する怪獣スフィンクスに似ていることから仮称し、そのまま定着したと云われています。
エジプト 1957年 10ピアストル銀貨
スフィンクスは古代オリエントが起源とされ、エジプトやメソポタミアでも類似の壁画や像が造られました。エジプトでは神殿や聖域の守護像として設置され、東洋の獅子像(狛犬)に似た性質の存在でした。
ギリシャ神話に登場するスフィンクスは上半身が人間の女性、下半身がライオンであり、背には大きな翼がつけられています。これはキメラやグリフィンなどギリシャ神話に登場する他の合成獣に似通った姿であり、一種の様式が確立していたことが窺えます。また、人間と動物を組み合わせた姿は、ケンタウロスやパーン、人魚などを連想させます。
神話に登場するスフィンクスは幼子を餌にするなど、人間に危害を加える恐ろしい怪獣と見做されていました。
最もよく知られた英雄オイディプスの神話では、スフィンクスはテーバイ近くのピキオン山に棲み、山を越えようとする者になぞなぞを出して、解けない者を食い殺してしまう怪獣とされました。
オイディプスはスフィンクスから問われた「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足になり、足の数が多いほど弱いものは何か」という出題に「人間 (*幼児⇒成人⇒杖をつく老人)」と答え、スフィンクスを打ち負かすことに成功したと伝えられます。
こうした印象のためか、古代ギリシャやローマでコインに表現された例は多くありませんでした。
しかし小アジア西部にはスフィンクスを守護獣と見做していた都市もあり、それらの都市ではコインのデザインに取り入れていました。そこに残されている姿は神話に忠実な女性像です。
キジコス 紀元前550年-紀元前450年 スターテル貨
キオス島 紀元前490年-紀元前435年 スターテル銀貨
レスボス島 紀元前412年-紀元前378年頃 1/6スターテル貨
古代ローマ 紀元前46年 デナリウス銀貨
ローマのコインに表現されたスフィンクスも頭部は人間女性ですが、乳房がライオンと同じく腹部に複数あり、より動物に近い姿です。
イベリア カストゥロ 紀元前2世紀初頭 銅貨
ギリシャやローマとも交流があったイベリア(*現在のスペイン)のコインに表現されたスフィンクスは、帽子を被った男性像として表現されています。
翼の形状は麦穂のようになっており、独特な雰囲気を醸し出しています。
現在においてスフィンクスは世界中のコインに表現されていますが、やはりエジプト、ギザのスフィンクス像が用いられる場合が多く、古代ギリシャ・ローマ風の女性スフィンクスが登場する機会はほとんどありません。
エジプト 1986年 5ポンド銀貨
フランス 1998年 10フラン銀貨
「スフィンクス」は猫の品種名としても知られています。見た目や名前から古代エジプトが発祥と誤解されやすいですが、実際にはカナダが原産地です。
この全身無毛の猫は1970年代に繁殖に成功し、新しい品種として認知されるようになりました。この特異な姿が、猫を神聖視した古代エジプトを連想させることや、座る姿勢がスフィンクス像に似ていたことから「スフィンクス」と名付けられたそうです。
バヌアツ 2015年 5バツ
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