【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
新年が始まって早一ヶ月が経とうとしています。時が過ぎるのは本当に早いものですね。お正月気分もあっという間に消えてしまいました。
昨今はオミクロン株の影響で感染者が増加し、また以前のような自粛傾向になりつつあります。今年は寒さが例年以上に厳しいこともあり、体調管理には一段と気をつけていきましょう。
せめて暖かくなる頃にはピークアウトして、落ち着いてくれていれば良いのですが・・・。
今回は「寅年」に因み、古代ギリシャ・ローマ時代のトラについてご紹介します。
古代ギリシャでは地中海や小アジアを通じてライオンやヒョウの存在が広く知られており、神話やそれに付随した芸術作品にも多く登場します。
しかし黒海よりも北方のシベリアや、ペルシア~インドなどに生息するトラは地理的な遠さもあり、その存在はあまり浸透しませんでした。
したがってトラを表現した古代ギリシャコインはほとんど無く、ライオンの地位には遠く及びませんでした。
カスピトラ
1899年ドイツのベルリン動物園で飼育されていた個体。ヨーロッパに最も近い地域に生息していた種であり、かつては黒海の北岸部=現在のウクライナでもみられました。毛皮などは海路を通じてギリシャにも輸出されていたと考えられ、存在そのものはかなり古くから認知されていたとみられます。
カスピトラはシベリアや東南アジアに生息するトラの亜種とされ、巨体と豊かな体毛が特徴です。ペルシアやインド、中央アジア、トルコの草原や山岳地帯にも分布していましたが、牧畜を守るため、毛皮や骨を採取するために乱獲され続け、数を減らしていきました。20世紀末に中央アジアで目撃されたのを最後に野生種は確認されておらず、既に絶滅したと考えられています。
ライオンに対してトラは東方=アジアを象徴する猛獣とされ、インドへ遠征した酒神ディオニソスの従者としても表現されています。ただしあまり馴染みがないせいか、よく似た色合いをしたヒョウが描かれる例が多くみられます。
不思議なことにコイン上に表現されたディオニソス神の象徴はほぼ「ヒョウ」であり、トラを表現したものは皆無である点は興味深く思われます。
この点は当時のギリシャ世界における毛皮の輸入・流通量がヒョウ>トラだった可能性も考えられます。
リュキアのトロスで発行されたスターテル銀貨(BC450-BC380)
表面はライオンの頭部(毛皮)、裏面はヒョウ。狛犬のように対に表現されています。
セレウコス1世のテトラドラクマ銀貨(BC305-BC295)
セレウコスが被る兜には、ヒョウの毛皮が使用されています。また首周りにもヒョウ柄の毛皮が巻きつけられています。
一方ローマ帝国では、拡大した版図と莫大な富を背景に、帝国の内外から多くの珍獣が生きたまま集められました。闘技場では剣闘士試合の他に、闘獣士(ベスティアリイ,動物相手に戦う専門の剣闘士)による動物狩りや罪人の処刑が行われ、観客の好奇心を満足させるため、猛獣たちが各地より連れてこられました。
虎狩りの様子 (5世紀頃のモザイク画)
猛獣を用いた処刑
ここでは俊敏で凶暴なヒョウが罪人を襲っています。
特に巨体で目立つ模様のトラはライオンに次ぐ人気があり、富豪たちの別荘に飾られたモザイク画にも多く登場しています。剣闘士とトラの闘い、異なる猛獣同士の闘いに当時の人々は熱狂しました。現代のような動物園が無い時代、異国の珍しい動物を生きたまま見られる貴重な機会でした。それにインスピレーションを受けた芸術家たちによって、リアルで動きのある作品が生み出されました。
ローマ帝国 シリア属州で作成されたモザイク画
パルミラ遺跡から出土したモザイク画
獰猛なトラを生け捕りにするすることは至難の業でした。しかし需要が高い分、毛皮よりはるかに高値で取引されることは確実です。輸送にかかるコストを差し引いても余りある利益が得られたことでしょう。
当時、熟練の狩人たちはまず子トラを捕らえて囮としました。母トラは我が子を取り返すため、馬に乗った狩人を必死に追いかけますが、そのまま船着場の船に誘導されてしまい、親子ともども捕らえられてしまうという手法です。そのため闘技場で供されるトラの多くはメスであり、子供のうちに飼いならされたトラは富豪のペットとしても売られました。
(出典:Winniczuk Lidia, Ludzie, zwyczaje i obyczaje starożytnej Grecji i Rzymu, PWN, Warszawa)
ロバを襲うトラのモザイク画
腹部にある乳房からメスであることが分かります。
生きたトラは高価な輸入品だったこともあり、簡単に殺されることは無かったと思われますが、それでも数多くのトラが捕獲され、ローマ人の娯楽のために消費されていたことは間違いないようです。闘技場で殺された後は、毛皮も再利用されたと考えられます。
2000年公開の映画『グラディエーター』でもコロッセオでトラが登場するシーンがあり、実際のローマでも似たような光景が繰り広げられていたことでしょう。
映画『グラディエーター』(2000年,アメリカ)
ローマやその属州で発行されたコインにも、トラが表現されている例はやはりみられず、ディオニソス=バッカスの聖獣としてはヒョウが配されました。
多くのモザイク画にも表現され、その姿形が一般化していたにも関わらず、ついにコイン上にお目見えする機会はありませんでした。
バッカス神とヒョウのデナリウス銀貨(BC42)
ミュシア属州のキジコスで発行された8アッサリア銅貨(2世紀末頃)
ディオニソス神の行列が表現されており、車を二頭の猛獣が牽いています。模様からヒョウと判別されますが、手前はトラかライオンのようにも見えます。
トラキア属州のセルディカで発行された5アッサリア銅貨(3世紀初頭)
ヒョウにまたがるディオニソス神が表現されており、独特なヒョウ柄もしっかり再現されています。表面はゲタ。
トラはコインには表現されませんでしたが、派手な毛皮は豪華な衣装として愛されていました。当時のモザイク画には獰猛なトラの姿が表現されており、力強さと東洋の神秘性を象徴するトラは、古代のギリシャ・ローマ文化でも重要な役割を果たしていました。しかし剣闘士試合が禁止されて以降、珍獣に対する需要は急速に衰えてしまい、生きたトラをヨーロッパまで輸出することはほとんどなくなってしまいました。中世のヨーロッパでは、書物や挿絵の中に描かれる、異国の猛獣の一種として認知されるようになったのです。
一方で中国やインド、東南アジアでは近場に生息する猛獣ということもあり、長く文化的影響を与え続けました。トラが生息していない日本でも多くの故事成語や慣用句に登場し、盛んに屏風絵などに描かれ、また干支の「寅年」でもなじみ深い動物になりました。
日本ではトラの逞しいイメージから、寅年生まれは力強く、生命力にあふれた人と云われているそうです。
寅年である今年が、活力に満ちた良い年になることを祈っております。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
長かった今年も残すところあと一週間。今年も一年間、本当にありがとうございました。
2021年は東京オリンピック・パラリンピックをはじめ様々なことがありましたが、常にコロナの心配はつきまとっていました。「毎年恒例」を予定通り毎年実施できるということが、どれだけありがたいことなのかを実感させられました。
どうか来年は健康の心配のない、平穏で健やかな一年になることを願っております。
なお、年末年始のワールドコインギャラリーは12月29日(水)~1月5日(水)の一週間をお休みとさせていただきます。
来年も皆様にお会いできるのを心より楽しみしております。2022年/令和四年も何卒よろしくお願い申し上げます。
本日はクリスマスイブですので、新約聖書に登場する「ピラト総督」にまつわるコインをご紹介します。
イエス・キリストは西暦30年頃(*西暦33年頃とする説もあり)、イェルサレムで十字架に掛けられ殉教したと伝えられています。当時のイェルサレムはローマ帝国の支配下に置かれ、現地のユダヤ人たちはローマ本国から派遣された総督によって統治されていました。しかし一神教を奉ずるユダヤの戒律はそのまま残され、宗教指導者(祭司長)の権威を認めることで彼らの忠誠を得ていました。
1世紀頃のユダヤ属州
当時のユダヤの周辺はサマリアやガリラヤなどの地域があり、各地域を統治する王族や宗教指導者が存在しました。ローマは彼らに特権を与え、子弟をローマに留学させるなどして懐柔し、間接的な統治体制に組み込んでいました。
その時代を扱った映画に1959年のハリウッド大作『ベン・ハー』があります。60年以上前の映画ですが、今も色褪せることの無い圧巻の映像美が繰り広げられています。この時代のユダヤ属州、ローマ帝国を扱った作品としてオススメのエンターテイメント作品です。
この映画にはローマから派遣された総督ポンティウス・ピラトゥスが登場し、ストーリー上でも重要な役割を演じています。日本では「ピラト」の名で知られるピラトゥスはローマ皇帝ティベリウスによってユダヤ総督に任命され、西暦26年から西暦36年までの10年間に亘ってイェルサレムとユダヤ属州を統治しました。
同時代を生きたフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』や、新約聖書の『ルカによる福音書』では、頑迷で融通が利かない性格ゆえユダヤ人たちと対立し、ピラトゥスを解任するようローマ皇帝に陳情が送られたとまで記されています。
ユダヤ教の指導者たちは自分たちの脅威になるイエスを告発し、ピラトゥスに処刑の判断を下すよう迫ります。ピラトゥスはイエスに直接尋問を行いますが、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」(ルカによる福音書)と言って判断を先延ばしします。しかしユダヤ人たちの圧力に押され、不本意ながら最終的には処刑を認めたとされています。
(ムンカーチ・ミハーイ, 1881)
ピラトとイエス
(イグナツォ・ジャコメッティ, 1852)
新約聖書においてイエスが拷問され、茨の冠を被せられた場面。自ら処刑の判断を下すことができなかったピラトゥスは、群集の前に鞭打たれたイエスを引き出してその反応を確かめました。
ピラトゥスはユダヤ教の過越しの祭り(ペサハ)に恩赦を行うと宣言し、イエスと暴漢のバラバ、どちらを赦すかを民衆に問いかけました。群衆はイエスを侮辱し、バラバを赦せ、イエスを処刑しろと叫ぶ中、ピラトゥスはイエスを指して「Ecce homo (*ラテン語で"見よ、この人を"の意)」と問いかけたとされています。最終的な判断をユダヤの民衆に委ねたことで、ピラト=悪役としてのイメージが和らぐ結果となりました。
新約聖書に記されているピラトゥスの複雑な態度は、後世の作家のインスピレーションを掻き立て、様々な派生物語が書かれました。生没年が不詳なことも手伝い、その最期をドラマチックにする例が多いようです。(熱心なキリスト教徒に改心する、皇帝に追放される、自害する等・・・)
軍事力を背景にユダヤを支配した多神教徒であり、イエスの処刑を直接命じた人物であるにも関わらず、後世のキリスト教ではあまり悪役として描かれていない点が特徴的です。
ただしこうした描写の多くは後世に書かれたものが大半であり、どこまでが史実であるかは議論の余地があります。
石碑をはじめローマ側の記録から明らかなのは、ポントゥス・ピラトゥスという騎士階級のローマ人が西暦26年からの10年間、ティベリウス帝の命によりイェルサレムとユダヤ属州を統治したという点のみです。
ピラトゥスの在任期間中、ユダヤ属州ではいくつかのプルタ銅貨が発行されました。それらはイェルサレムの造幣所で製造され、現地のユダヤ人社会で広く一般的に流通したコインでした。
プルタ(*ギリシャ語の聖書では「レプタ」と表記)は大変小さな銅貨ですが、刻まれている銘文や年代は当時を知るうえで貴重な情報源となります。当時のプルタ銅貨にはヘブライ文字は刻まれず、東地中海の共通語であったギリシャ文字が刻まれています。
表面は聖水を汲み取るための柄杓。周囲部には「ΤΙΒΕΡΙΟΥ ΚΑΙCΑΡΟC LIS (ティベリウス・カエサル 治世十六年)」銘。西暦29年~西暦30年に造られたことを示しています。
裏面には三本の麦穂が表現され、周囲部にはティベリウス帝の母親リウィアを示す「ΙΟΥΛΙΑ ΚΑΙCΑΡΟC (ユリア皇太后)」銘があります。
表面にはローマの祭儀でも用いられた曲がり杖(卜占官の象徴)が表現され、周囲部には「TIBEPIOY KAICAPOC (ティベリウス・カエサル)」銘が配されています。
裏面にはティベリウス帝の治世18年目(=AD31-AD32)を示す「L HI」銘があります。イエスが十字架に掛けられたとされる時期にはリウィア皇太后も没したため、ティベリウス帝のみを示す銘文へと変化しています。
これらのプルタ銅貨にはピラトゥス自身の名は刻まれていないものの、ティベリウス帝の名とその治世年によって、それがイェルサレムを監督していたピラトゥスの下で発行されたことが分かります。古代コインの大家デイヴィッド・R・シアー氏が、ローマ帝国属州コインをまとめた著書『Greek Imperial Coins and their values』(1982)においても、上記二種類のプルタ銅貨は「Pontius Pilatus」のカテゴリーに分類されています。
芸術性や技術性、金属的価値は乏しい粗末なコインですが、新約聖書に記された時代を文字通り手にできるコインとして欧米では人気があります。もしかしたらイエス・キリストやその弟子たちが手にしたかもしれないコイン、十字架を背負ったイエスが往くイェルサレムの街道沿いの露店で支払われたコインかもしれないからです。
プルタ銅貨は民衆用の貨幣であることから大量に発行されましたが、そのために安価=保存状態には難があるのが常です。銘文・発行年が明確に残されているものは稀であり、オークションでも高値で取引されています。運よく乾燥地帯の砂によって守られた奇跡的な一枚があれば、ぜひ入手するべき一枚といえるでしょう。
今年も一年間このブログをご覧いただきありがとうございました。来年もコインに関する情報を発信できるよう努めたいと思います。
皆様にとって楽しいクリスマス~年の瀬でありますように・・・。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
11月も終わりに近づき、本格的に寒くなってまいりました。
世の中は少しずつクリスマスの雰囲気に近づいています。色々なことがあった今年も残すところあと一ヶ月。心穏やかに新しい年を迎えたいものです。
さて、今回は来年初めに東京国立博物館で開催される特別展『ポンペイ展』をご紹介します。古代ローマのポンペイ遺跡をテーマにした展覧会は過去に何度か日本で開催されていますが、今回もナポリ国立考古学博物館の協力によって充実した内容になりそうです。
数々の素晴らしいモザイク画から人々が実際に使用していた日用品まで、150点に及ぶ多種多様な出土品が展示される予定です。またポンペイで見つかった邸宅を再現展示するなど、2000年前のローマ人の生活ぶりを目の当たりにできる、大変貴重な機会と言えるでしょう。
詳細は以下の特設ページにてご確認ください。
ご周知のとおり、ポンペイはイタリアを代表する古代ローマの都市遺跡であり、当時の都市生活がそのまま残された稀有な遺跡として知られています。
79年のヴェスヴィオ火山大噴火によって埋没したポンペイには1万人~2万人ほどが生活していたとされ、劇場や神殿、公衆浴場や広場といった公共施設が存在していました。ローマ時代のイタリア半島の市民社会を知る上で、大変重要な場所です。
ポンペイ最後の日
(アンリ=フレデリック・ショパン, 1850年)
ポンペイが壊滅した直後、当時の皇帝ティトゥスは復興支援のためにローマから人と救援物資・義援金を送り、自らも直接現地を視察しました。しかしポンペイがあった場所に同規模の都市が再建されることはなく、また掘り返されることもなかったため、ポンペイの遺構は火山灰の下に埋没し続けることになりました。その後もヴェスヴィオ山は幾度か噴火を繰り返し、その度に周辺一帯は火山灰が降り積もりました。長い年月が過ぎ、ポンペイの存在は歴史書の上に記録されているのみとなり、正確な位置は忘れ去られていきました。
しかしイタリア・ルネサンスによって古代ローマの文化芸術に再び脚光があたると、当時の遺跡や遺物に対する関心が高まりました。知識人や王侯貴族はこうした遺物を高値で買い取ってくれるため、イタリアの各地で遺跡探しが盛んに行われました。
歴史書に記されたポンペイも当然注目されましたが、その正確な場所を特定することは困難でした。当時、ポンペイのあった周辺には民家が建ち並び、火山灰に埋まった面積の大半はブドウ畑になっていました。しかし開墾や工事の度に地中から建築物の断片が見つかっていたため、価値を知らない地元の人々は出土した遺物を石材として再利用していました。18世紀に入るとこのことが外部に知られるようになり、やがて王や貴族の主導で本格的な発掘調査が開始されました。
当初、学者たちはどの辺りを発掘すべきか悩んでいましたが、地元の人々がブドウ畑のある一帯を「チヴィタ」と呼んでいることに着目しました。チヴィタとはローマ時代のラテン語で「都市」を意味する「Civitas」からきているのではないか。早速チヴィタと呼ばれたブドウ畑の下を掘り進めると、見事な壁画や青銅器、さらにはネロ帝やウェスパシアヌス帝のアウレウス金貨が発見されました。
発掘開始から15年後の1763年には男性の大理石像が発見され、その台座に「ウェスパシアヌス帝の名において、この土地をポンペイ市に返還する」という一文が刻まれていたことから、この地こそ間違いなくポンペイであることが確認されたと伝えられています。
その後、ポンペイの発掘は大々的に進められ、学術的な調査が進んだ18世紀末~19世紀にはイタリア観光の名所のひとつにもなっていました。発掘によって現れたローマ時代の都市はヨーロッパの文人たちにインスピレーションを与え、ドイツの文豪ゲーテも『イタリア紀行』にその情景を記録しました。
また歴史画の主題としても描かれるようになり、失われた古代都市ポンペイの認知度はますます高まっていきました。
ポンペイの発掘
(エドゥアール・アレクサンドル・セイン, 1865年)
19世紀のポンペイ遺跡を描写した作品にゴーチエの『ポンペイ夜話』(原題:Arria Marcella)があります。1852年に書かれた短編小説ですが、ポンペイを題材にした小説としてお奨めの作品です。岩波文庫から出版されているゴーチエの短編集に収録されており、手軽に読むことができます。
ナポリを訪れたフランス人青年オクタヴィアンは博物館を見学し、ポンペイから出土した噴火の犠牲者たちの石膏押し型を目の当たりにしました。
そこに展示されていた女性の胸の押し型に心を奪われたオクタヴィアンは、友人たちと実際にポンペイ遺跡を訪れてもそのことばかり考えていました。眠れないオクタヴィアンは一人宿を抜け出し、夜のポンペイ遺跡を彷徨いますが、気が付くと壊滅前のポンペイの街路に立っていた―というあらすじです。
幻想小説と呼ばれるゴーチエの作風が表されており、夢なのか現実なのか、不思議な世界観が描かれています。人気のない夜の街を散策して、過去にタイムスリップしていたという設定は様々な作品(映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)など)にみられますが、ゴーチエの作品は19世紀半ばに書かれていることを考えると、当時としては斬新な切り口だったことでしょう。
ロマンチックな儚い恋物語として描かれた作品ですが、19世紀半ばのポンペイ遺跡の様子や周辺の雰囲気、古代ローマの街中が詳しく、リアルに描写されています。作者ゴーチエが単なる想像ではなく、しっかりと下調べをしていたことがうかがえます。発掘途中の寂しい遺跡が、人々の行き交う活きた都市に甦っていく描写は幻のようであり、現実のようにも思えます。
なお作中に登場する女性の胸の押し型は実在し、当時はナポリの博物館で展示されていましたが、戦争中に失われてしまいました。
翻訳者である田辺貞之助氏の訳も素晴らしく、読みやすく活き活きとした光景が展開されています。この作品を読めば、ポンペイに対するイメージも強まり、特別展への期待も高まると思われます。
特別展は来年1月14日から4月3日まで東京・上野の国立博物館で開催され、その後は京都(京セラ美術館, 4月21日~7月3日)と福岡(九州国立博物館, 10月12日~12月4日)を巡回予定です。ぜひ足を延ばしていただき、ありし日のポンペイに思いを馳せてみてください。
ポンペイの発掘
(フィリッポ・パリッツィ, 1870年)
こんにちは。
外はだんだんと雨模様の日が多くなり、梅雨の季節が到来しつつあるようです。
新型コロナウィルスのワクチン接種がようやく始まり、少しずつ明るい見通しも出てまいりました。ただ現状では感染者数の減少はまだ遠く、緊急事態宣言の延長もありえそうです。
延長された場合、ワールドコインギャラリーも引き続き営業自粛となる可能性があります。その際は別途お知らせいたしますので、何卒ご了承ください。
【追記】
6月1日(火)より通常営業を再開いたしました。
ご来店の際はマスク着用・手指の消毒にご協力ください。
皆様のご来店をお待ち申し上げております。
今回は古代ローマ帝国に存在した造幣所の監督者、フェリキシムスについてご紹介します。
ローマでは共和政時代の紀元前3世紀末より、カピトリウムの丘に建立されたユノー・モネタ神殿内で貨幣の製造が行われていました。モネタはもともと「忠告」を意味するラテン語でしたが、ここで長らく貨幣製造が行われたことから「お金(※英語のMoney)」を意味する言葉と認識されるようになりました。
帝政期になり、貨幣の製造数が増大しても造幣所は稼働を続け、帝国の財政・通貨経済を根本から支える重要な国家機関として維持されました。しかし、その重要な場所で働いていた人々の名前や生活は皆無と言ってよいほど記録に残されていません。
ほとんど唯一、名前が残されているのが、3世紀後半に造幣所の責任者となっていたフェリキシムスという男でした。この人物がローマ史に名を残したのは、非常に不名誉な素行に基づいています。
【混迷の時代のローマ造幣所】
彼はローマの造幣所を監督する責任者であり、コインの製造から品質の管理までを管轄し、造幣所で働く職人たちを束ねる立場にある人物でした。彼が造幣所で働いた時期は「3世紀の危機」と称される混乱の時代、軍人皇帝時代にあたりました。度重なる帝国内外の戦争とクーデターによる血なまぐさい皇帝交代が繰り返され、広大な帝国は分裂状態にありました。
このような最中で国家の歳入は減少する一方、軍事費などによる出費は増大し続けていました。貨幣の製造量は国家の要求を満たすために飛躍的に増大しましたが、それは必然的に品質の低下を実行せざるを得ませんでした。2世紀末から銀貨の品位は徐々に低下し始めていましたが、特に268年以降は銀の供給が減少したことも手伝い、ほとんど銅貨といってよいコインが濫造されていきました。
こうした低品位の銀(Billon)で造られた貨幣は古くよりエジプト属州で造られていましたが、ローマではこれに銀メッキを施し、酸に少し浸すことで輝く銀貨のように見せる技術を発達させました。
銀メッキを施されたアントニニアヌス銀貨(278年, プロブス帝)
製造当時は銀色に輝いていたコインも経年変化や、流通の過程でメッキが薄れていき、下地の銅色が露になりました。アントニニアヌスは名目上2デナリウスの価値があるとされましたが、実質的な価値はどんどん低下していきました。
さらに頻繁に政権が交代し、国家による各部門の監督が行き届かなくなると、税収など国家の歳入を横領する官吏が増加し、財政悪化に拍車をかけました。こうした不正官吏の一人が、造幣所で監督的立場にあったフェリキシムスでした。
フェリキシムスは本来コインに使用される銀や金を横流しし、莫大な利益を得ていたとみられています。折から品質が低下していたコインには他の卑金属を混ぜて重量を増加させ、自らは貴金属を貯めこんでいたのです。こうした不正は大規模に実施されていたとみられ、金型彫刻師や鍛冶工、炉の職人など造幣所の関係者にも利益を分け与えることで、フェリキシムスの地位も磐石なものになっていきました。富を蓄えたフェリキシムスはローマの有力者たち、元老院議員や貴族、都市参事、ウェスタの神官などと人脈を結び、皇帝が不在の帝都ローマを陰で牛耳るほどの存在になります。
フェリキシムスが富を蓄える一方で、さらに粗悪なコインが大量に市中に出回り、ローマ帝国の貨幣経済は悪化の一途を辿りました。
公益を犠牲にして私腹を肥やしたフェリキシムスの所業は、一人の皇帝の登場に伴い危機に瀕することとなります。270年8月、モエシア出身の軍人アウレリアヌスが皇帝に即位します。
【世界の復興者-アウレリアヌスの通貨改革】
アウレリアヌス帝のアントニニアヌス
(274年にティキヌムで製造)
優れた将軍だったアウレリアヌスはまずドナウ川でヴァンダル族を撃退し、続けてイタリア半島に侵攻したゲルマン人の部族連合も撃退。さらに東方のシリアとエジプトを支配し独立状態を誇っていたパルミュラの女王ゼノビアと対決し、戦いの末に女王を捕らえ、版図をローマの支配下に復帰させることに成功します。続けて274年には西方の独立政権 ガリア帝国を攻撃。圧倒的な勝利を収めガリアを再びローマの支配下に置きました。
短期間に皇帝が交代し、帝国の分裂と衰退が目に見えていた時代、登場からわずかな期間で帝国を再統一したアウレリアヌスはローマ人にとって希望となり、まさに救世主といってよいほどの英雄でした。元老院はアウレリアヌスに「世界の復興者」という尊称を授け、その偉大な功績を称えました。
アウレリアヌス帝に降伏するゼノビア女王
この戦いの間、アウレリアヌスは帝国の各地を転戦していたため、首都ローマを留守にしていました。その間、監視のないローマの造幣所ではフェリキシムスの下、相変わらず不正が横行していましたが、274年にアウレリアヌスが凱旋帰国すると事態に変化が生じました。
豪華絢爛な凱旋式(※パルミュラの女王ゼノビアとガリア帝国最後の皇帝テトリクスは捕虜として、数多くの戦利品と並んでパレードを行進させられた)の後、アウレリアヌスは帝国復興の次の仕事として「通貨改革」に着手します。
アウレリアヌスは年々通貨の質が低下し、それに伴い信用度が下落することで経済に混乱が生じていることを理解していました。帝国の威信を回復するためには、国家が発行する通貨の信用を取り戻すことが重要と考えたのです。
アウレリアヌスは事実上の銅貨と化していた銀貨(主にアントニニアヌス)を回収して、新発行の銀貨の品位は回復するよう指示し、量目を減らしていたアウレウス金貨の品質も改善(約5.4g→6.5g)するよう試みます。
この措置は当然、銀や金を着服していたフェリキシムスと造幣所の職人たちにとっては不都合極まりない措置でした。これまで通り利潤を得られなくどころか、これまでの不正が調査され、皇帝によって断罪される可能性もあったためです。さらに従来はローマとイタリア半島内外の重要な都市にしか設置されなかった造幣所が、アウレリアヌスの出身地であるバルカン半島の諸都市にも開設されたことにより、貨幣製造を中心的に請け負っていたローマ造幣所の役割が低下するという危機感もありました。
軍人皇帝アウレリアヌスは軍隊式に物事を執行するため、不正に対する処罰は大変厳しいことで知られていました。長年の皇帝不在にかこつけて横行していたあらゆる不正は、軍隊式の粛清によって速やかに正すべきとアウレリアヌスは考えていたのです。
無論、フェリキシムスと仲間たちは解雇どころではなく、いずれ断罪され処刑されることは目に見えていました。どうせ殺されるならばと、フェリキシムスと造幣所の職人たちは破れかぶれの行動に打って出ることにします。
【フェリキシムスと造幣職人たちの反乱】
ついに274年6月、フェリキシムスと造幣所の職人たちは帝都ローマの中心カエリウスの丘に立て篭もり、皇帝アウレリアヌスに反旗を翻しました。連戦連勝の皇帝軍に対して、素人同然の職人たちを率いるフェリキシムスが挑んだ戦いはまさに無謀といえる自殺行為でした。しかしフェリキシムスにはわずかな可能性に賭けていました。これまで不正に得た蓄財と人脈を生かして、多くの武器と協力者を確保できたのです。
この頃、アウレリアヌスは通貨改革と合わせて経済統制をローマで強行し、市民に対する穀物配給をパンやオリーヴ油、塩や豚肉にまで拡大させました。そのため食料品を扱っていた同業組合(コレギア)は公的な影響下におかれ、様々な義務を負わされることになっていました。改革はコレギアや都市参事会員に対する統制に及び、これまで利益を得ていた商人や貴族の不満が高まることになりました。厳格な皇帝に対する不満が募っていたこともあり、フェリキシムスの企てには多くの協力があったとみられ、元老院議員の中にも反乱に加担する者がいたと伝わっています。
そのため造幣所の職人たちから発足した寄せ集め反乱軍は、皇帝軍に対して思いのほか善戦し、数々の戦いを制してきたアウレリアヌスを手こずらせることになります。僻地での戦いに慣れた兵士たちは狭いローマ市内での攻防に苦戦し、皇帝はさらに軍団を投入せざるを得ませんでした。
軍を相手に勇猛に戦った造幣所の職人たちですが、最後は皇帝軍の戦力に押され鎮圧されることになります。首謀者フェリキシムスは殺害されましたが、数週間にわたる戦闘で7000人もの兵士が斃れたと記録されており、戦闘の苛烈さを物語っています。
こうして造幣所の職人たちがローマの中心部で、皇帝に対して起こした前代未聞の反乱は、成功することなく多数の死傷者を出して終結したのでした。
【反乱とアウレリアヌスのその後】
フェリキシムスの反乱に賛同した共犯者たちの多くは戦死しましたが、生き残った者たちにも過酷な断罪が待っていました。多くの兵士を殺されたアウレリアヌス帝は、帝国復興の恩人であるはずの自分に反旗を翻したローマ市民に情け容赦をかけることはありませんでした。
反乱鎮圧後、共犯者はもはや造幣所の関係者だけにとどまらず、少しでも反乱に協力したと疑われた人々、皇帝に対する不満分子と見做された有力者たちも、立証手続きや刑罰の正当性も無視して次々断罪されました。ローマの有数の門閥から元老院議員、皇帝の甥に至るまで粛清され、死刑執行人は疲労し牢獄は囚人で溢れかえったと伝えられています。
この大粛清は武帝アウレリアヌスの前評判を実証する例となり、フェリキシムスが恐れた通りの人物であることが証明される結果になりました。ローマ市民はモエシア出身の軍人上がりであるアウレリアヌスを内心では見くびっていましたが、反乱鎮圧後は厳粛な姿勢の皇帝を恐れ、表立って反対の意を唱える者はいなくなりました。アウレリアヌスにとっては仕事を迅速に進めやすくなったことでしょう。
しかし戦勝を誇ったアウレリアヌスも最後はその厳格さが仇となり、275年10月、行軍途中の陣中で暗殺されます。背景には不正な収奪を行った秘書官を皇帝が厳しく叱責したため、その後の厳罰・処刑を恐れた秘書官の奸計によって殺されたのだと云われています。奇しくもフェリキシムスと同じ動機によって、アウレリアヌスは葬られることとなったのです。
彼が実施しようとしたローマの貨幣改革は後のディオクレティアヌス、コンスタンティヌスなどの専制的な皇帝の指導力の下、紆余曲折を経て実現していきました。
【アウレリアヌス帝の貨幣改革とは?】
アウレリアヌスの貨幣に配された「XX」銘は、当時の貨幣改革の一端と考えられています。アウレリアヌス帝の貨幣改革は少なくともウァレリアヌス帝(260年)以前の品位に戻すことであり、銀品位を5%にすることだったと考えられています。デイヴィッド・シアー氏の『Roman Coins and their values』によれば、このアントニニアヌスの下部に刻まれた「XX」銘、または「XXI」銘は「1/20」を表しており、すなわちコインの重量に対して1/20(=5%)の純銀が含まれていることを明示している、と説明されています。
ただアウレリアヌスが実施しようとした通貨改革の全容は明確ではないため、この「XX」銘の意味も諸説あります。「X」は紀元前のデナリウス銀貨に打たれていた10アスを示す銘であり、そのため「XX」は2デナリウス、つまりアントニニアヌスの名目上の価値を明記しているとする説や、アウレウス金貨に対して1/20の価値を示すとする説、20デナリウスまたは20セステルティウス(=5デナリウス)とする説、または旧貨幣に対し20倍の交換価値を持つとする説など、多くの説がありますが、どれも確信を持って断言できる説明ではありません。
単純に造幣所の工房番号や、金型を区別するためのものとも解釈できますが、真相解明はこれからの考古学・貨幣学の研究進展に期待しましょう。
【参考文献】
・クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社 1998年
・ヴィッキー・レオン著 本村凌二監修『図説 古代仕事大全』原書房 2009年
・エドワード・ギボン著 中野好夫 訳『ローマ帝国衰亡史2』ちくま学芸文庫 1996年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・David R Sear『Roman Coins and Their Values』Spink & Son Ltd 2005年
投稿情報: 18:04 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
すっかり春めいてきました。雨風激しい春の嵐の日もあれば、桜が舞う心地よい日和もあり、新しい季節の到来を感じます。
ちょうど一年前、世の中は未曾有の事態で騒然とし、落ち着いて春を感じることもなかったように思います。
昨今は聖火リレーもはじまり、変化しながらも色々なことが動き始めているようです。今年の春が平穏な季節になることを祈りばかりです。
さて、今回は古代ギリシャのテッサリアで発行されたスターテル銀貨をご紹介したいと思います。
テッサリア スターテル銀貨 (BC196-BC146)
表面にはギリシャ神話世界でお馴染みの大神ゼウス、裏面には武装したアテナ女神立像が打ち出されたコイン。古代ギリシャコインのデザインとして特に人気のあった二つの神が表現されています。およそ6.5g~6g前後、23mmほどの銀貨であり、裏面には発行地であるテッサリアを示す「ΘΕΣΣΑΛΩΝ」銘が配されています。
ちなみにこの武装した女神像は「アテナ・イトニア」と称され、テッサリア地方の都市イトンで祀られていたアテナ女神像に由来すると云われています。槍を構えるアテナ女神像は一般的に「パラス・アテナ」と呼ばれ、アテナイの神殿に祀られていた立像のほか、多くのギリシャコインのデザインとして一般的です。
テッサリア地方 (現在のギリシャの区分)
テッサリアは現在のギリシャ中部に位置する広い地域であり、険しい山並みが多いペロポネソス半島とは異なり平原が広がることから、古くより穀倉地帯として開発されていました。古代ギリシャ時代には牧畜が盛んであり、馬の名産地としてギリシャ諸都市に優れた軍馬や騎兵を送り出していました。こうした背景から、半人半馬のケンタウロスの伝説もテッサリアで生まれました。
また、ギリシャ神話の神々が住まうとされた聖なる山 オリンポス山があり、その北部にはマケドニアが位置していました。
テッサリア平原
南西から見たオリンポス山
広大なテッサリア地方には多くの都市がありましたが、特にラリッサ(現在のギリシャ、ラリサ県の首府)は中心都市として栄え、ニンフ「ラリッサ」の美しい正面像と馬が表現された芸術的コインでよく知られています。
ラリッサ ディドラクマ銀貨 (BC350-BC325)
ラリッサを中心とするテッサリア地方は、紀元前344年にマケドニア王国のフィリッポス2世(*テッサリアの「アルコン=保護者、統治者」を称した)によって征服され、息子アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の東方遠征にあたっては騎兵を供給して貢献しました。大王亡き後はマケドニア~ギリシャを支配したアンティゴノス朝に服属し、ある程度の自治権を有しながら伝統的な社会体制を維持していました。
アンティゴノス朝下の時代は100年以上にわたって続きますが、西から現れた新たな大国によって状況が変化します。紀元前197年、ティトゥス・クィントゥス・フラミニヌス率いるローマ軍と、フィリッポス5世のアンティゴノス朝マケドニア軍がテッサリア平原のキュノスケファライで激突。ローマ軍の勝利によってギリシャにおけるアンティゴノス朝の優位が崩れました。
紀元前200年頃のマケドニア~ギリシャ
ラリッサの南部にある赤い点がキュノスケファライ。アンティゴノス朝マケドニア王国はギリシャ諸都市を従属下に置き、アテナイやエリスなど独立を保った都市国家に対しても介入を深めていました。
ギリシャに進出したローマは「ギリシャ諸都市の解放」を謳い、反マケドニア感情の強い都市の支持を得ます。紀元前196年にイストミア祭の競技大会に出席したフラミニヌスは、この場でギリシャ人の自由を宣言しました。
宣言に当たってギリシャ諸都市はローマの同盟市となり、クリエンテス関係(=庇護者と被保護者の関係性)を結んだ後ローマ軍はギリシャから撤退しました。これは来るセレウコス朝シリアとの戦いに備えて後援を得たいという思惑があったにせよ、この宣言によって多くのギリシャ諸都市は100年以上にわたるマケドニア支配から解放されたのです。
ただ、ローマ軍に敗れたとはいえアンティゴノス朝マケドニアは未だギリシャ支配を諦めておらず、軍事力に乏しい諸都市はローマの庇護に頼らざるを得ませんでした。ローマはギリシャを直接支配することはなかったものの、社会的・経済的な再編成を迫って影響力を残し続けました。
こうした例の一つが、マケドニア支配から解放されたテッサリアの再編成でした。テッサリアにはラリッサやファキオン、ファルサロスやトリッカ、ラミア、スコトッサ、クランノンなど数多くの都市が存在しましたが、紀元前196年にローマは同盟関係を結んだ諸都市に緩やかな連合体を結成させ、統合された一つの共同体に再編成しました。形式上は独立した都市国家の連合体でしたが、実際にはローマがテッサリア地方を管理しやすくするためのまとまりでした。当初はラリッサをはじめとするいくつかの都市からスタートしましたが、徐々に加盟国を拡大させ、紀元前30年頃までにほぼ全てのテッサリア諸都市が連合に加盟しました。
このテッサリア諸都市連合では共通通貨としてのコインが新たに導入され、連合内の諸都市で流通させました。経済圏を統合し、地域全体の発展と統合を促す目的でしたが、これによって諸都市が有していた独自の通貨発行権は消滅し、ローマの経済圏に組み込まれることになりました。
コインは主に青銅貨やオボル銀貨、ドラクマ銀貨など、日常使いの小額貨幣が多く発行されましたが、特に重要なコインは冒頭でご紹介したスターテル銀貨でした。最高額面のコインであるスターテル銀貨はローマで発行されていたウィクトリアトゥス銀貨2枚の価値・重量に設定され、デザインもこのコインと類似した意匠が採用されました。
また、デナリウス銀貨と同じく二人の発行者名(*テッサリアの諸都市連合の場合はストラテゴス=毎年選出される行政の代表者「将軍」とも訳される)が連名で刻まれている点も特徴です。
ローマのウィクトリアトゥス銀貨
表面は大神ユーピテル(*ギリシャ神話のゼウス神に相当)、裏面には戦勝トロフィーと勝利の女神ウィクトリア。第二次ポエニ戦争の時期に発行され、裏面のデザインから「ウィクトリアトゥス」と称されました。
ローマのウィクトリアトゥス銀貨は後に主流となるデナリウス銀貨にとって代わられますが、重量などから2/3デナリウスの価値として流通していました。そのためテッサリアのスターテル銀貨2枚はローマのデナリウス銀貨3枚、ローマが小アジアで発行したキストフォリ銀貨1枚と等価となります。
スターテル銀貨はテッサリアの諸都市連合が共同で発行したという体裁のため、テッサリア名(ΘΕΣΣΑΛΩΝ)と連合のストラテゴス名が刻まれました。
そのため製造地名は刻まれていませんが、都市連合の盟主となった中心都市ラリッサの造幣所で製造されていたとみられます。
発掘数・埋蔵数の多さから長期間大量に製造され、当時のテッサリアではかなり広範囲で流通していたと考えられます。額面価値から傭兵の給与として、または商取引の決済として、蓄財・資産として頻繁に用いられたコインと思われますが、こうした流通性の高さはテッサリアの都市間で人とモノの流れを加速させ、ローマが狙った地域の統合に一役買ったはずです。
デザインは100年以上にわたって変化せず製造が続けられてきましたが、細部には微妙なバラエティの違いがみられ、彫刻造形や打ち出しにも差異がみられることから、収集と研究には尽きないコインでもあります。発行者名やデザインの手変わりを分析することで、ローマのデナリウス銀貨のようにそれぞれの具体的な発行年も推定できるのではないでしょうか。
なお、多くの古代コインは両面の上下が同じ向きになっている例は少ないのですが、テッサリアのスターテル銀貨の場合は、日本のコインと同じくほとんどが同方向です。また図像が縦長であるためか、コインの形状もやや楕円の縦長になっています。
表面に発行者名が刻まれたタイプ。裏面にももう一人の発行者名が配されており、共和政期のローマで発行されたデナリウス銀貨とよく似たスタイル。
かなり写実的に表現されたスタイル。表面はやや二重打ちのようにも見えます。
やや甘い打ちだしですが、図像はずれることなく表現されています。
独特な表現の図像。彫刻師の個性を感じさせる造形です。
アテナ女神が構える槍の先に、女神の象徴であるフクロウがとまっている珍しい構図。アテナ女神とフクロウの組み合わせはよくみられますが、戦いの象徴である槍の先端に、叡智の象徴であるフクロウを配したパターンはまずお目にかかれません。当時の彫刻師の遊び心が出ている、粋なアレンジといえるでしょう。
比較的、図像の線は太いものの、写実性も感じさせるスタイルです。
図像が収縮されたように小さい反面、細部の造型はより細かく表現されています。
表面の左側にモノグラム銘が配されたタイプ。彫刻師、または製造した場所を示すものとみられます。
第四次マケドニア戦争を経た紀元前146年にアカエア属州とマケドニア属州が設置され、ギリシャ~マケドニアはローマによる直接支配下に置かれました。テッサリアはローマの忠実な同盟市の連合体として存続しましたが、連合体の独立性は年々形骸化していきました。当初、ローマは「ギリシャ人の自由」を宣言し、解放者としてギリシャへ乗り込んできましたが、実際には支配者がマケドニアからローマへ移り変わっただけだったのです。
紀元前30年頃にテッサリア地方はアカイア属州に編入(*後にマケドニア属州へ組み換え)され、独自のスターテル銀貨発行は終わりを迎えます。以降、テッサリアでは属州銅貨の発行だけが許され、かつてのようなギリシャらしいデザインのコインを発行することはありませんでした。
なお、テッサリアのスターテル銀貨の発行年代は①都市連合の結成~第四次マケドニア戦争を期間とする「紀元前196年~紀元前146年」とするグループと、②第四次マケドニア戦争~属州編入を期間とするおおまかなグループ(*「Late 2nd-mid 1st centuries BC」などと表記)に分けられているようです。
こんにちは。
2月になってもまだまだ寒い日が続いています。来週以降は少しずつ暖かくなるようですので、もうしばらくの辛抱ですね。
一日も早い春の到来を待ち望んでいる今日この頃です。
今回は前回に引き続き「丑年」ということで「古代の牛コイン」をご紹介します。今回は古代ローマで発行された牛のコインです。
気候と土壌に恵まれたイタリア半島は古くから農耕が盛んであり、都市国家ローマも領域を拡大させるに従い、農地を開墾してゆきました。大都市で消費される食糧を供給する必要性からも、開墾・運搬に欠かせない牛は大切な労働力でした。
ローマの建国者とされるロムルスも自ら牛に鋤を牽かせて開墾し、ローマ建設の一歩を標したとされています。
一方で神々への供物としても頻繁に捧げられていたようで、儀式の最後には屠った牛を焼き、参加者大勢に振舞うことが一般化していたようです。こうした行事はローマの神々に対する祈念や感謝を示す為、国家や都市が主催する公的な宗教儀式でしたが、他方で現在のバーベーキューのようなお祭りとして人々の楽しみにもなっていました。
大神祇官として儀式を執り行うマルクス・アウレリウス帝
レリーフの人々の背後には犠牲獣である牛の姿が確認できます。
なお、牛乳は現在のように保存技術が発達していなかったためかあまり消費されず、主に山羊のミルクが飲まれていたとされています。保存食であるバターやチーズは山羊のミルクと同じく牛乳も使用されて作られ、女性の化粧品としても利用されていたそうです。
ローマにとって経済的・宗教的に欠かせない存在だった牛の姿は、共和政~帝政期にかけて発行されたコインにも頻繁に表現されています。その姿は儀式での犠牲獣として、または畑を耕す労働力として表現され、時には躍動感溢れる力強い姿で刻まれました。
ローマ BC105 デナリウス銀貨
躍動する牡牛像。手綱も無く、自由に飛び跳ねる活き活きとした姿です。表面は女王神ジュノー(ユノー)。山羊の皮を被る姿は「ユノー・ソスピタ(救済のジュノー)」と称され、女性や子どもたちを守護する女神像とされています。
ローマ BC81 デナリウス銀貨
岩の台の上に立つ人物と牡牛。中央部に聖火が灯された祭壇があることから儀式の様子とみられ、牛は神に捧げられる供物とみられます。また、表面のダイアナ女神像の頭上にも、小さな牛の頭が配されています。
ローマ BC81 デナリウス銀貨
表面は豊穣神セレス、裏面は鋤を曳く二頭の牛。右側には農夫が配され、畑を耕す様子であることが分かります。農業が主題となったデザインのコインであり、農業が重要視されていたことが分かります。
また、神話では建国者ロムルスが牡牛と牝牛に鋤を牽かせ、初期ローマの境界線を引いたと云われることから、神話上の場面を表現している可能性もあります。
牛に鋤を牽かせる構図は単なる農耕風景に留まらず、ローマ人にとっては新しい土地(=入植地)の開墾、新都市の建設を想起させました。
ローマ BC45 デナリウス銀貨
表面にはアポロ神、裏面には古代ギリシャの伝説「エウロペの誘拐」が表現されています。フェニキア、テュロスの王女エウロペに見惚れたゼウス神が美しい白牛に変身し、エウロペを背に乗せてクレタ島へ連れ去ったとする伝承はギリシャ・ローマでも広く知られ、壺絵や壁画など様々な芸術作品の題材に取り上げられています。
コイン上に表現される例は稀ですが、牛に乗った乙女像という基本的な構図はそのまま再現されています。
ポンペイの壁画に描かれたエウロペ
エウロペを乗せた牛が渡ったクレタ島はフェニキアから見て西方にあたり、そこから地中海北西の地域をEurope(ヨーロッパ)と称するようになったと云われます。
現在、エウロペ像はユーロ紙幣の透かし部分の共通デザインとして採用されています。
ゼウス神とエウロペの間にはミノスが生まれ、彼はクレタ島の王となります。しかし海神ポセイドンから賜った美しい牡牛を供物として捧げることを拒否したため、罰として王妃はその牡牛に恋心を抱き、やがて牛の頭を持った王子が誕生することとなります。王子ミノタウロスを恐れたミノス王は彼を閉じ込める為、迷宮ラビリンスを建設したのでした。
クレタ島の伝説には「牡牛」が重要な場面で度々登場し、人間界と神々の世界を繋ぐ存在として語られていることが読み取れます。
ローマ BC42 デナリウス銀貨
暗殺されたユリウス・カエサルが神格化された年に発行。カエサルの横顔肖像と跳ねる牡牛が表現されたコイン。
ローマ帝国 BC15 デナリウス銀貨
カエサルの後継者アウグストゥス(オクタヴィアヌス)の治世下に発行。頭を下げて上体を前方に傾け、敵に向かって突進する構えの牡牛が表現されています。ガリアの植民都市であるルグドゥノム(現:フランス,リヨン市)で製造された一枚。
ローマ帝国 AD77-AD78 デナリウス銀貨
皇帝ウェスパシアヌスの治世下に発行。表面には息子ティトゥス、裏面には鋤を牽く二頭の牛が表現されています。共和政期に発行されたコインとほぼ同じ構図です。
ローマ帝国 AD362-AD363 2マイオリナ
ユリアヌス帝の治世下、帝都コンスタンティノポリスで製造。キリスト教が拡大した時代、ユリアヌス帝はギリシャ・ローマの伝統宗教を復興させようとし「背教者」の異名で称されました。軍隊生活を経たユリアヌス帝は、当時兵士たちの間で信仰されていた東方由来のミトラス教に傾倒し、兵士たちと共に儀式に参加していました。
牡牛を屠るミトラス (2世紀頃, 大英博物館蔵)
ミトラス教では牡牛が犠牲獣とされ、ギリシャ・ローマと同じく儀式では牛が屠られました。こうした特徴から、コインに表現された牡牛はミトラス教の犠牲獣として示されているという説が有力です。また、星の下にある構図から、ユリアヌス帝が牡牛座の生まれであることを表しているとする説もあります。
多神教を信奉した最後のローマ皇帝とされるユリアヌス帝が戦死すると、ローマ帝国のキリスト教化は急速に進み、古代ギリシャ・ローマの神殿や聖域は教会へと変えられていきました。テオドシウス帝によってキリスト教がローマの国教に定められると、従来の儀式や信仰は禁止され、多神教は急速に衰退して行きます。
その過程で牛も犠牲獣として供えられることは無くなり、その後は宗教的役割から離れて純粋な経済動物として発展していくことになるのです。
すっかり冬らしい気候になりました。
11月も終わりに近づき、今年も残すところあと一ヶ月です。
2020年は世界中が様変わりした年でした。今年の1月から始まった新型コロナウィルスの流行は、結局収束しないまま一年を経ようとしています。国や社会を超えて、共通の話題で一年間も振り回されるのは本当に珍しいことだと思います。
今年の師走も新しい生活様式に沿った、例年にない形になるでしょう。今回の年末年始は穏やかに、そして何より健康に過ごしたいものです。
さて、先月の末にロンドンで行われたコインのオークションで、世界記録となる落札額が叩き出されました。
このニュースはCNNなどのネットニュースでも報じられ、ご存知の方も多いと思われます。
【カエサル暗殺を記念した希少金貨, 3億6500万円で落札 記録更新】
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https://www.cnn.co.jp/style/luxury/35161772.html
記事ではブルートゥスが発行したアウレウス金貨が270万ポンド(£1=135円で計算・・・3億6500万円)で落札され、古代ローマコインのオークション落札価格では過去最高額だった旨が伝えられています。
このオークションの手数料は落札額に対して20%ですので、落札者が支払う金額は総額324万ポンドとなり、日本円で4億3740万円になる計算です。
一枚で4億円超えのコイン、自宅に置いておくのも不安になる宝物です。
今回落札されたブルートゥスの金貨はこちら↓
紀元前44年3月15日にユリウス・カエサル暗殺を実行した一人として知られるマルクス・ユニウス・ブルートゥス、彼が最後の戦いに挑む直前の時期に発行したアウレウス金貨。紀元前42年の夏~秋頃に製造された一枚です。
8g、19mmの小さな金貨ですが、NGCの鑑定ではMint State(完全未使用)、ファインスタイルの高評価を受けた素晴らしい保存状態です。
表面にはブルートゥス自身の横顔肖像、裏面は自由と解放を示すフリギア帽と二本の短剣、3月15日を示す「EID•MAR (=Eidibus Martiis)」銘が表現されています。
まさしくブルートゥスによるカエサル暗殺を誇示するための意匠であり、古代ローマ史の重要な場面を象徴するかのようなコインです。この金貨はブルートゥスがローマを離れて小アジア~マケドニアへ移った後、軍団を率いていた時期に製造されたものとされ、全く同じデザインのデナリウス銀貨も発行されています。
オークションカタログによるとこの金貨は現在、世界で3枚しか現存が確認されておらず、一枚は大英博物館、もう一枚はドイツ連邦銀行のコレクションに帰属するそうです。特に今回落札されたこの金貨は未使用状態、打ち出しも美しく良好ということもあり、歴史的価値、希少性、状態の良さによって最高額が出たものと思われます。
来歴も詳しく判明しており、かつてオーストリア皇帝フェルディナント1世(在位:1835-1848)の侍従だったスイス人考古学者グスタフ・フォン・ボンシュテッテン男爵(1816-1892)のコレクションにも加えられていた、由緒ある金貨です。
アメリカの貨幣学者ウェイン・G・セイルズ氏の『Ancient Coin Collecting III』(1997)によるとこの金貨はもちろん、デナリウス銀貨ですら大変な希少性があり、現存が確認されているものは60枚に満たないと記されています。
この当時、軍団を率いていた司令官は兵士への給与や物資調達費用を賄う為、自陣営内で独自のコイン(*ほぼデナリウス銀貨)を製造・発行することが慣例となっていました。そのためカエサルやアントニウス、ポンペイウスなどの名が刻まれたコインが多く発行され、地中海の各地で使用されました。
ブルートゥスも例外ではなく、ローマから東方に移った後に独自コインを発行しています。
この時期のブルートゥスの行動や葛藤については、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』で詳しく描写されています。映画化もされているのでそちらもぜひ。
しかしこの「EID•MAR」コインは金貨で3枚、銀貨で60枚未満しか確認されておらず、現存数の少なさが際立っています。通常、兵士への給与や物資調達を目的に製造したならば、短期間の間とはいえ大量に発行、使用されたはずであり、現存数もある程度多いと考えられますが、このタイプに関しては極端に少ないのです。
そもそも、ブルートゥスが自らの肖像をコインに刻ませること自体が極めて異例であり(*カエサル以前は存命中の人物をコインに表現することはタブーとされ、ブルートゥス自身も元老院で反対を表明しました)、あまりにも狙ったような意匠から、本質的に使用や流通を目的としたコインではなく、あくまで「記念品」としての性格が強いコインである可能性があります。ごく近い仲間や支持者たちに対して勲章のように進呈したものだとすれば、大量に発行せずごく少数を生産したのみに留めたと推察できます。
このコインが発行された同年、紀元前42年10月のフィリッピの戦いにおいてブルートゥスはマルクス・アントニウス、オクタヴィアヌスの連合軍に敗れて自決します。敗者となった軍勢が発行したコインを大切に保管した者は多くなかったと考えられることから、現存数が極端に少なくなったとみられます。
紀元前42年にブルートゥスが発行したデナリウス銀貨
上の金貨とほぼ同時期に造られ、一般兵士に配られたとみられるタイプ。
表面には月桂冠を戴くアポロ神、裏面には武具で作成した戦勝トロフィーと「IMP BRVTVS (最高司令官ブルートゥス)」銘が表現されています。
フィリッピでの戦いに際してブルートゥスは、配下の兵士たちに対して一人当たり1,000デナリウスを配って忠誠を得ようとしたと伝えられています。
対するマルクス・アントニウスは一人当たり5,000デナリウス、百人隊長には25,000デナリウスの破格の報酬を約束し、軍団の士気を盛り上げて勝利を得ました。
しかしこの記念的コインは数が少なくほとんど流通しなかったにも関わらず、当時のローマ人にも知られた存在になりました。2世紀 五賢帝時代の歴史家カッシウス・ディオはブルートゥスについて述べた一文で、「彼が発行したコインには彼自身の肖像とともに、帽子と二本の短剣が表現されていた」と記述しています。
皮肉にも戦いに敗れたブルートゥスは、コインを通して自らの主張を後世にまで宣伝することに成功したのです。
世界で三枚しか存在しないブルートゥスの金貨。ローマ史の、そして人類の歴史にとっても大変重要な宝物となりました。まさに博物館級の、世界遺産と称しても良い一枚です。この貴重な金貨を入手した幸運な落札者は誰なのか?とても気になりますね。
自身のプロパガンダのために発行したコインが2000年後にはこんなに高い評価を受けているとは、ブルートゥス自身が一番驚いていることでしょう。
投稿情報: 12:57 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
10月も終わりに近づき、段々と寒くなってきました。冬の到来はもうすぐですね。
季節の変わり目、そしてこのご時勢ですので、体調管理にはくれぐれも気をつけていただきたいと思います。
最近、国際ニュースではアゼルバイジャンとアルメニアの紛争が話題になっています。先日にはようやく停戦合意が発効しましたが、両国の対立は根深く、まだまだ予断を許さない緊張状態が続いている模様です。
(Yahoo!ニュース 10/18配信)
カフカース(コーカサス)に位置する両国は、かつては共に旧ソ連の構成国でしたが、独立後はナゴルノ・カラバフ地域の帰属を巡って対立し続けています。ロシアやトルコなど、周辺の大国の影響も複雑に絡み合い、地域的な民族紛争という枠には収まらないようです。
こうした国際情勢の構図は現代だけでなく、古代から存在し続けていました。
黒海とカスピ海の間にあり、北にロシア、南にイラン、西にトルコを控えるカフカース地方は、古来より文明文化の十字路として重要視されていました。
特にアルメニアは紀元前6世紀頃からギリシャのコインが流通するなど、経済的にも繁栄していました。紀元前2世紀にアルメニアは統一王国となり、シリアや小アジアにまで勢力を拡大させるほどの大国に成長します。
しかし紀元前1世紀半ば以降、小アジア~シリアに勢力を伸ばしたローマとの戦いに敗れ、征服地を放棄する代わりにローマの同盟国として存続を許されました。
紀元前69年頃のアルメニア王国
その後、アルメニアはローマとパルティアの緩衝国として存続していましたが、国内はローマ派、パルティア派に分かれ権力闘争が相次ぎ、その度にローマとパルティアの戦争に巻き込まれました。ネロ帝の時代にはパルティア派が推戴する王をローマ皇帝が戴冠する形式が生まれ、ローマ・パルティア両国の属国として平和を維持しました。
しかしトラヤヌス帝の時代になるとパルティアはアルメニアへの干渉を強めたため、ローマ軍はアルメニアを占領し属州化します。その後、トラヤヌス帝の死去に伴いローマ軍は撤退し、アルメニアの独立も回復されますが、マルクス・アウレリウス帝の治世初期、再びパルティアがアルメニアへの干渉を始めたため戦端が開かれることになったのです。
国内外に平穏な時代をもたらしたアントニヌス・ピウス帝が崩御した161年、パルティア王ヴォロガセス4世はアルメニアへ侵攻し、配下の将軍アウレリアス・パコルスを王位に就けました。
ローマにとって東方の国境を脅かす深刻な事態であり、即位したばかりの若きマルクス・アウレリウスは対応を迫られました。マルクスは義弟であり共同統治帝のルキウス・ウェルスを司令官として派遣し、アルメニアからパルティアの勢力を軍事力で駆逐する方針を採りました。
マルクス・アウレリウス帝&ルキウス・ウェルス帝
162年にルキウス率いるローマ軍はシリアに到着し、そのままアルメニアへ向けて進軍。163年には首都アルタクサタ(現:アルメニア,アルタシャト)を陥落させ、アウレリアス・パコルスを追放してローマ派のソハエムスを王に就けました。また、メソポタミア方面へ進軍したローマ軍はパルティアの首都クテシフォンを占領し、目覚しい成功を収めました。
ただこうした成功はルキウス帝によってではなく、配下に優秀な将軍たちが揃っていたためと解釈されました。元来享楽的なルキウス帝は司令官としての役割を半ば放棄し、前線から遠く離れたシリアに滞在し続けていたと云われています。楽観的な性格によって軍の指揮を鼓舞することもありましたが、安全な後方でお気に入りの役者や美女に囲まれているルキウス帝を批判的に見る向きも多かったようです。
それでもアルメニアの回復とパルティアに大打撃を加えるという当初の目的は達成されたため、ローマ軍としては大勝利でした。この功績に対し、ローマの元老院はルキウス・ウェルス帝に「アルメニクス(アルメニア征服将軍)」「パルティクス・マクシムス(パルティア征服大将軍)」の称号を授けます。
それに対し、ルキウスはローマで内政を執る義兄マルクス・アウレリウスにも同じ称号を授けるよう要請し、勝利を分かち合う謙虚な姿勢をみせました。
これは兄に対して遠慮したものか、または自らの功績として大々的に宣言するには後ろめたい気持ちがあったのか定かではありませんが、結果的に遠征には参加していないマルクス・アウレリウスにも「アルメニクス」「パルティクス・マクシムス」の称号が与えられました。
そしてアルメニアでの勝利と功績を讃え、ローマでは記念のコインが発行されました。
ルキウス・ウェルス帝 デナリウス銀貨 (163年)
マルクス・アウレリウス帝 デナリウス銀貨 (164年)
表面にはそれぞれ二人の皇帝、裏面にはアルメニアを象徴する捕虜が表現されています。共通して取り上げられた武器が置かれ、独特な形状の帽子を被っています。下部にはアルメニアを示す「ARMEN」銘が配されています。
裏面は共通のデザインであることから、ローマ市内の同じ場所で、ほぼ同じ工程を経て製造していたと推察されます。
このコインが発行された後の166年、ルキウス帝はローマへ帰国し、市民達から歓喜の声で迎えられました。10月にはトラヤヌス帝以来50年ぶりとなる盛大な凱旋式が挙行され、マルクス帝とルキウス帝はともに勝利の栄華を享受したのでした。
しかしこのアルメニア遠征は思いもよらない結果を引き起こします。東方から帰還した兵士たちによって多くの戦利品がもたらされましたが、それとともに恐ろしい疫病も運ばれて来たのです。この疫病は天然痘だったとみられており、167年以降、ローマを中心に大流行しました。
民衆を見舞うマルクス・アウレリウス帝 (1765年)
皮肉なことに、この疫病は皇帝の名から「アントニヌスの疫病」と呼ばれ、マルクス・アウレリウス帝の治世に暗い影を落とすことになります。ローマを中心に流行した疫病はたちまち帝国全土に広がり、数百万人の人命が犠牲になったと伝えられています。こうした甚大な人的被害は最盛期にあったローマの活力と軍事力を一気に低下させ、結果的にローマ帝国衰亡への序章になっていったのです。
投稿情報: 18:52 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
10月に入り、すっかり秋らしい日が増えてまいりました。
涼しい秋晴れの日には外出するのも心地良いですね。
スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋など、何をするにも最適な気候です。
何かと気を付けることも多いご時世ですが、楽しい季節にしていただけると幸いです。
さて、今回は古代ギリシャ・ローマ時代に珍重された幻の薬草「シルフィウム」が表現されたコインをご紹介します。
このコインが発行されたのはアフリカ大陸北部、現在のリビア東部に存在した古代都市キュレネです。
キュレネは紀元前7世紀頃にティラ島から移住したギリシャ人たちによって建設されたと云われています。最初の移住団はアポロ神の神託によってこの地を選んだことから、アポロ神と恋人キュレネが逃避行した先をこの土地と設定しました。都市名は恋人の名からそのまま「キュレネ」とし、のちにこの都市を中心とする一帯が「キュレナイカ」と呼ばれるようになりました。
キュレネの位置。近隣にはアポロニアと名付けられた植民都市も建設された。
キュレネの都市はアフダル山地から流れ出る水脈に恵まれた、緑豊かな高台に建設され、周囲にはアフリカ大陸の珍しい動植物がみられました。
やがてこの地に移住したギリシャ人たちは、周辺一帯に自生する不思議な植物を発見します。これが「シルフィウム」と呼ばれる花でした。
古代の記録によると高さ50cmほど、黒い樹皮に覆われた太い根と中が空洞になっている茎、黄色の葉を有すると記されています。キュレネを中心とする地中海沿岸部の狭い地域にしかみられず、採取できる場所は限られていました。
そしてこの草花から採れる樹脂を煎じると、調味料や香料、媚薬になることが発見されました。特に避妊薬、堕胎薬としての効果が広く宣伝され、たちまちキュレネの特産品として輸出されるようになったのです。
現在このシルフィウムが何の種であったかを特定するのは困難ですが、セリ科の多年草であるオオウイキョウの一種だったという説があり、コインの図像とも類似しています。
オオウイキョウとコインのシルフィウム
オオウイキョウも弱毒性があり、家畜が口にすると出血性の中毒症状が現われるとされています。
なお「シルフィウム」の名称は現在、キク科のシルフィウム属として残されています。「ツキヌキオグルマ」とも称される現在のシルフィウムは北米原産であり、形が古代のシルフィウムに似ていることから名づけられました。
現在のシルフィウム=ツキヌキオグルマ
キュレネにとって貴重な輸出品となったシルフィウムは、建設されたばかりの植民都市の経済に潤いをもたらしました。西にカルタゴ、東にエジプト、北にギリシャ本土を配したキュレネは地理的にも恵まれ、周辺の大国にも盛んに輸出されました。
効果的な避妊方法が確立されていなかった時代、飲むだけで避妊効果が得られるシルフィウムは需要が途切れることがなく、遠くギリシャ本土でも高値で取引されました。古代ギリシャの名医ヒポクラテスも、シルフィウムは解熱作用、鎮痛作用があり、咳の緩和や消化不良の改善にも役立つ薬草として推奨したと云われています。
シルフィウムによって富を得たキュレネは大規模な神殿や公共建築物が次々と造営され、北アフリカ有数のギリシャ植民都市として発展してゆきました。
経済的に発展したキュレネは独自のコインを発行しましたが、その裏面には都市に富をもたらしたシルフィウムを刻みました。現代となっては、失われたシルフィウムの姿を記録した貴重な史料になっています。
BC500-BC480 ヘミドラクマ銀貨
ハート形の意匠はシルフィウムの種とされています。
BC435-BC375 テトラドラクマ銀貨
BC322-BC313 1/4スターテル金貨
三本のシルフィウムが放射状に表現されています。
シルフィウムはキュレネの象徴となり、キュレネ=シルフィウムと認知されるほどの産品になりましたが、それはこの植物がキュレナイカ一帯でしか採取できなかったことを意味していました。栽培は試みられましたが、土壌や気候など、生育環境の不一致などから成功しなかったようです。
キュレネは王政や共和政を経験しながらも独立を保っていましたが、紀元前4世紀末からプトレマイオス朝エジプトの支配下に入り、紀元前1世紀半ばにはローマの庇護下に入りました。支配者が代わってもキュレネの自治は保たれ、シルフィウムの輸出によって経済的・文化的な繁栄を享受していました。
しかしその繁栄もやがて終わりを迎えます。建国以来長らく繁栄を支えていたシルフィウムが、ついに絶滅したためでした。
理由には乱獲や砂漠化による環境変化など、様々な理由が考えられていますが、少なくとも紀元前1世紀頃から徐々に減少し始め、紀元1世紀に入るとほとんど採取できなくなっていたようです。もともと自然に自生している植物であったため、経済的な理由から乱獲し続ければ枯渇するのは時間の問題でした。
大変な希少品となったシルフィウムはデナリウス銀貨と同じ重量で取引され、時には金と同じ重さで買われることもあったと伝えられています。
ローマの博物学者プリニウスはキュレナイカ産のシルフィウムの茎が、珍品として皇帝ネロに献上されたことを記録しており、これが古代の文書における最後の記録とされています。
シルフィウムを輸出できなくなったキュレネは交易の中継地として維持されましたが、262年と365年に大地震が襲い壊滅的打撃を受けます。これ以降、都市は完全に打ち捨てられ、巨大な廃墟群が往時の繁栄を物語るのみとなりました。キュレネの都市が遺跡として再発見されるのは18世紀になってのことでした。
キュレネの急速な発展はシルフィウムによってもたらされたため、当時のキュレネ市民たちはアポロ神からの贈り物だと考えていました。しかし皮肉にもキリスト教が伸張し始め、古代ギリシャ・ローマの信仰が終焉を迎えようとする節目にシルフィウムは姿を消し、それに支えられていたキュレネもまた衰退したのでした。
現在、キュレネ発行のコインは僅かな種類しか確認されておらず、発行していたのは限られた時期だったとみられています。それらには都市の繁栄を支えた、今はなきシルフィウムが表現されており、キュレネの繁栄とシルフィウムの姿を現代に伝えています。皮肉にもシルフィウムなき今、この花を表現したコインが、珍品として高値で取引されているのです。
こんにちは。
7月も末になり、通常ならば夏本番ですが、今年は梅雨が長く、一向に清清しい夏らしさを感じられません。
本来ならば先週から東京オリンピックが開催されているはずなのですが、昨今の情勢により延期になってしまいました。
学校の夏休みは短縮され、海開きや夏祭りも軒並み規模縮小、中止になり、毎年恒例の帰省ラッシュも寂しいものになりそうです。
そうした社会情勢と経済環境を反映してか、現物資産である貴金属の価格が軒並み上昇しております。消費税が10%になったことも関係していますが、7月末時点で金1gの小売価格が7,300円を超えています。それにつられてか、今まで値動きの少なかった銀の価格まで徐々に上昇しています。
今年に入って金価格が1g/6,000円を突破して驚いておりましたが、そうした驚きも遠い過去のものになりそうです・・・。金相場は予測が難しいと云われていますが、社会情勢が不安定化すると人々に求められ、価格が上昇するという理屈は正確だったようです。特に今年前半は今までに無い、予想を裏切るようなスピードで世の中が変化しているため納得です。
なにはともあれ、今年は例年とは大きく異なる夏になりそうです。
皆様も何卒、体調管理には十分にお気をつけ下さい。
さて、今回は金銀のテーマに合わせて「古代ローマの銀行」についてお話します。
およそ2000年前の銀行と言っても、現在の銀行とはその性格が大きく異なります。
その業務内容はおおむね「両替商」といってもよいでしょう。現在のように、外貨を両替する仕事、といっても差し支えありませんが、古代ローマではさらに複雑な通貨事情がありました。
ローマが貨幣を発行し始めたのは紀元前3世紀ころ、最初は銅貨や青銅貨ばかりであり、しかもカンパニア地方のギリシャ系都市に製造を委託していたと云われています。
それ以降、徐々にローマ市内でも造幣設備が整備され、時代を経て金貨や銀貨、銅貨等が各種製造されますが、それらには額面価値が明記されておらず、コインの種類が増えるとその交換価値がますます複雑になります。しかもイタリア半島のギリシャ系都市をはじめ、新たに獲得した属州で流通したコインも流入し始めると、銀の含有率を調べてローマの貨幣に換算する必要が生じました。
こうして現われたのがアルゲンタリウス(Argentarius, 銀貨両替)と呼ばれる人々でした。これがローマにおける銀行の始まりとされています。
彼らは市場が開かれる広場の一角に小さなスペースを設けて営業していました。ローマではフォルム・ロマヌム(フォロロマーノ)の東端、商業区域の中に立ち並んでいました。ローマをはじめ、他の都市や属州にもこうした銀行業者が存在し、地域経済に重要な役割を果たしていたことが碑文などに残されています。
一般市民は市中の買物では銀貨をはじめ、黄銅貨や青銅貨を多く利用していた為、両替は必要不可欠でした。また小売業者は釣銭も用意していたはずであり、こうした業者の需要も満たす必要がありました。都市の経済活動が発展する上で、アルゲンタリウスの業務はローマ人の社会生活・経済活動に無くてはならないものでした。
アルゲンタリウスの重要な業務のひとつはその名の通り、銀貨の品位を調べることでした。古代ローマではデナリウス銀貨が貨幣流通の要になっていたことで、銅素材に銀メッキを施した贋物も多く出回っていました。アルゲンタリウスは重量や音、金属品位などを調べ、本物と認めた銀貨は手数料を差し引いた上で、少額貨幣に両替していたとみられます。
この時に貨幣検分者は銀貨がメッキされているかを確かめ、検分したコインと未検分のコインを見分ける為に印を打ったとみられ、これが「バンカーズマーク(Bnaker's mark)」と云われています。こうした小さな刻印は多くのローマコインにみられ、当時実際に流通してアルゲンタリウスに持ち込まれた証でもあります。
こうした業務を経ることで、発見された贋物コインは流通市場から駆逐され、市中での貨幣の信用を維持することができました。当時の銀行業務は単なる両替ではなく、古代ローマ社会の貨幣経済を下支えする役割を果たしていました。
バンカーズマークの一例
オクタヴィアヌス肖像の左側に文字銘のような刻印が打たれている。
本物と認識されたコインは銀行業者が用意した専用の袋に入れられましたが、こうした業務が発展して預金業務を扱うようにもなりました。これは第三者に対する支払いを目的としており、あくまで担保としての無利子預金でした。受領者は印章つき指輪によって承認し、現在の日本の判子のような役割を果たしました。
アルゲンタリウスは徐々に単なる両替商から、金貸しなどの金融にも業務を拡大させました。ポンペイの遺跡から発見された銀行家ユクンドゥスの領収書版によると、驢馬の競売に関して買い手に購入金を前貸しし、仲介手数料として総額の1%を得たことが書き残されています。
市中経済の重要な役割を果たした銀行業務ですが、以外にも国家の規制はほとんどありませんでした。必ず帳簿をつけ、都市執政官などの役人の求めに応じてこれを提出する義務はありましたが、業務を始めるにあたって公的な許可は必要ありませんでした。そのため、金を貯めた解放奴隷が副業としてはじめる例も多かったとされています。
ただ前述のように預金や金貸しを利用する需要があった一方、主に求められた業務はやはりコインの両替でした。1世紀のローマ帝国における貨幣の交換比率は以下の通りです。
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1アウレウス金貨 = 25デナリウス(銀貨)
1デナリウス銀貨 = 16アス(銅貨)
1セステルティウス黄銅貨 = 4アス(銅貨)
1ドゥポンディウス黄銅貨 = 2アス(銅貨)
=========================================
しかし3世紀、カラカラ帝の時代になるとインフレーションが加速し、コインに使用される貴金属の割合は目に見えて低下しはじめます。「悪貨は良貨を駆逐する」の法則に基づき、市中には大量発行された低品位のコインが溢れました。そのため、この時期の銀行業者は古い貨幣と新しい貨幣の交換比率に日々頭を悩ませていたことでしょう。
コインをカウンターの上に広げ、一枚一枚確認ながら計算している。
3世紀末以降はディオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝の通貨改革によって貨幣制度が大きく変更され、コインの通用価値は日々変化し続けました。こうした中で、時代が経ても銀行業の役割はますます欠かせないものになったと思われます。
ちなみにローマでは現在のように誰もが銀行に預金していた訳ではなく、現金資産は自宅に保管していました。いわゆる「箪笥預金」です。小さいものでは貯金箱、富裕な資産家は鍵つきの大きな金庫を持ち、その中に財産としての金貨や銀貨、銅貨を保管していました。
古代ローマ時代の金庫
上部な青銅製(または鉄製)の金庫は一人で動かすことができず、しっかりとした鍵が取り付けられていました。富裕な家庭ではこうした金庫(Arca,アルカ)が必ず存在し、人目のつく広間に置かれ、門番が監視できるようになっていました。上流階級ではこうした箱に資産価値の高い、良質な金貨や銀貨を退蔵したため、結果的に貴金属を減少させ、市中には低品質な貨幣しか流通しなくなったとみられます。
ポンペイの富裕層の住宅跡からは、噴火よりはるか以前の共和政期のデナリウス銀貨が多く発見されていることから、当時から古い銀貨や金貨のほうが現行コインより良質であることが認知されていたようです。おそらく銀行業者はこうした古いコインの品位も熟知し、必要に応じてそれを実態レートで両替していたのだと思われます。
ある意味でローマの銀行業者は古代における古銭商であり、コインの専門家だったと言えるかもしれません。
こうした当時の富裕層の資産防衛による貯金や、銀行業者の営業活動によって、2000年を経た現在でも古代ローマのコインが形ある姿で残されました。彼らが大切に取り扱い、保管したコインは時を経て文化的な価値を認められ、現在では新しい形の「資産」として取引されています。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
投稿情報: 15:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
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