【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
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こんにちは。
本日は古代ローマ帝国のコインをご紹介します。
今回は五賢帝の一人として名高いアントニヌス・ピウス帝の時代に発行されたコインです。
アントニヌス・ピウス帝の「ピウス」とは、「敬虔者」「慈悲深き者」の意味であり、皇帝即位後に元老院から授けられた称号です。後世、カラカラ帝なども「ピウス」の尊称を授かりましたが、通常「ピウス」といえば、ローマ五賢帝の一人 アントニヌス・ピウス帝を指します。
彼はAD86年に政治家の息子として生まれました。祖父と父は執政官を務めた富豪であり、恵まれた環境で育ちました。元老院議員、財務官、法務官、執政官など、ローマ政治の中枢で要職を歴任し、属州の総督も経験しました。
AD138年、当時のハドリアヌス帝の養子となり、「副帝」として事実上の帝位継承者となります。
実際には、ハドリアヌス帝はマルクス・アウレリウスを後継者としたかったようですが、マルクスがまだ若すぎるということもあり、行政経験豊富で人格者として知られたアントニヌスを後継に指名したのです。尚、その後をマルクス・アウレリウスに継がせることもこの時から決まっていました。
「高潔」『謙虚」という言葉がぴったりのアントニヌスは、皇帝に即位してもその姿勢を曲げることはありませんでした。元老院や軍との関係にも気を配り、持てる莫大な富を市民に還元することを忘れませんでした。贅沢に溺れることはなく、素朴で静かな生活を好み、公私を混同させることは無く振る舞いました。彼は国庫の金を自らのために使うことはせず、極力自分の私財から支出しました。
謙虚で相手を敬う気持ちを持ち続けた皇帝はあらゆる人々から幅広い支持を受け、まさに「聖人君子」という言葉がよく似合う治世を実現します。トラヤヌス帝や先代のハドリアヌス帝が独断・強行型の強い指導者であったのとは対照的に、アントニヌス・ピウス帝は合意形成を重視する協調型の指導者でした。
アフリカ属州(現在のチュニジア)の中心都市カルタゴに建設された大型公衆浴場。巨大なサウナ室もあり、地中海に面した風光明媚な立地に建てられた。
アントニヌス・ピウス帝の治世下に建設され、通称「アントニヌス浴場」の名で呼ばれた。
トラヤヌス帝時代に領域を最大化し、ハドリアヌス帝によって防御強固なものとしたローマ帝国は、空前の平和と繁栄の時代を迎えました。いつしか当時のローマ人は「黄金世紀」、後世の人々からは「パクス・ロマーナ」と呼ばれる時代の到来です。ローマにとって幸運であったのは、この絶頂の時代にトップに君臨したのが暴君や暗君、浪費家ではなく、高潔で人徳にあふれ、人望を大いに集めることの出来た大人物であったということでしょう。
アントニヌス・ピウス帝時代は周辺諸国との紛争も少なく、皇帝は首都ローマから離れることなく広大な帝国の統治を行えました。行政機関が確立されていた、平和な時代のローマ帝国ならではといえるでしょう。また、周辺諸国との対立が起こりそうな場合も、アントニヌス・ピウス帝は相手国に直接書簡を出し、平和的に収めさせたといわれています。
アントニヌス・ピウス帝は即位時に52歳であり、当時のローマ人から見れば既に高齢でしたが、彼の治世は23年に及びました。平和な時代で皇帝自ら外征に赴くことも無く、また本人も規律正しい穏やかな生活を送っていたことから、長寿を実現できたのです。
彼は23年にもわたる在世中、大きな改革や変更を行わず、また大事件や戦役も起こりませんでした。皇帝自身の人柄や人間関係も良好であり、個人的なスキャンダルとも無縁でした。欲望や人間味溢れるドラマテックなローマ帝国史にあって、あまりにも完璧すぎ、特筆すべきことの無いアントニヌス・ピウス帝の治世は異例中の異例でした。後世の歴史家は、彼に「歴史無き皇帝」という評価を下したほどでしたが、それは決して批判的評価ではなく、むしろ戦争や虐殺で彩られたローマの歴史にあっては最大限の賛辞といっても差し支えないでしょう。
ローマの神々に祝福されながら天に召されるアントニヌス・ピウス帝と皇后ファウスティナ。アントニヌス・ピウス帝亡き後に作られました。
平和と秩序を愛し、繁栄した治世を実現させたアントニヌス・ピウス帝時代のコインは、皇帝の財政健全化政策もあって金性や価値が安定していました。治世中、数多くの尊称を元老院から贈られた皇帝は、コイン上の自らの肖像周囲部に細かくその称号を刻みました。
デザインとしては、他の皇帝と同じく表面に月桂冠を戴く皇帝の肖像が打たれています。アントニヌス・ピウス帝のコイン肖像の特徴は、面長で豊かな髭を蓄えた皇帝が、上目遣いで表現されている点です。また、その鼻は高く、教養溢れる落ち着いた紳士の風を醸し出しています。
美男としても知られた皇帝の謙虚な人柄を巧く表現した彫刻になっています。なお、コイン肖像では首が非常に長く表現されているのも特徴です。目元は他の皇帝のように力強いものではなく、目尻が下がったように表現されています。ここからは裏面も合わせて、代表的なコインをご紹介します。
表面にはアントニヌス・ピウス帝の肖像。
裏面には「握手」の図。これは皇帝とローマ軍団との信頼・友好関係を示しているとされます。
裏面は平和の女神 パックスの立像。平和を尊び、安定した治世をローマに実現させた、アントニヌス・ピウス帝の信条を明確に表しています。立像の下部には、「PAX」の刻銘。
裏面には希望の女神 スペースの立像。女神を挟むように打たれた「S/C」の刻銘は、「元老院決議に基づく」のラテン語略銘です。当時、銀貨と金貨の発行権限は皇帝に属していましたが、銅貨の発行に関しては元老院の管轄でした。
裏面は神祇官のトーガを身に纏ったアントニヌス・ピウス帝自身の立像。アントニヌス・ピウス帝は武人として表現されるより、文官、神官としてコインに表現される例が多く見られます。同様のデザインは、デナリウス銀貨にも打たれました。
表面 上目遣いのアントニヌス・ピウス帝の肖像周囲部には、「国父にして護民官権限を持つ皇帝アントニヌス・ピウス 執政官三回目」との銘文がある。
裏面には最高神 ユピテル(ジュピター)の立像。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回も宜しくお願いします。
こんにちは。
だいぶ涼しくなり、すっかり秋らしい日も多くなってまいりました。
さて、前回はギリシャコインに関する記事をご紹介したので、今回は古代ローマコインに関する話題をご紹介します。
古代ローマコインは大きく「共和政時代」と「帝政時代」に分けられます。
共和政時代のコイン様式はギリシャコインと似ており、神話に登場する神々の姿が表現されています。
ローマ共和政時代のデナリウス銀貨に表現された代表的な神は「ローマ神」です。
ローマ神は都市国家であったローマの守護女神であり、その姿は翼の付いた兜を被った横顔が表現されていました。細かく見ると、イヤリングなどの装飾も刻まれており、女神であることが分かります。
共和政時代を通して長く表現されたローマ神は、共和政ローマそのものを具現化した存在であったと考えられます。
(写真はBC111年頃のデナリウス銀貨)
一方、帝政時代のコインは、その時々のローマ皇帝の肖像が表現されているという特徴があります。共和政時代の末、ローマの実質的な独裁者となったユリウス・カエサルが自らの肖像をコインに表現させて以降、オクタヴィアヌスやマルクス・アントニウスなど、実在の人物がコイン上に表現されるようになりました。長年、共和政を国是としていたローマのシステムが行き詰まり、強力な指導者の登場を時代が求めた故の現象といえます。
BC27年、オクタヴィアヌスは元老院より「アウグストゥス(尊厳者)」の尊称を授けられ、これをもってローマの帝政時代の開始とされます。以後、初代皇帝アウグストゥスの時代から5世紀の西ローマ帝国滅亡まで、イタリア半島で発行されたコインには皇帝の肖像が打たれるようになったのです。
(写真は皇帝に即位する前のオクタヴィアヌスを表現したデナリウス銀貨[BC32年])
コインにはその時々の皇帝だけでなく、皇妃や副帝といった皇族の肖像も打たれ、その人物が当時、ローマ帝国の中央政界でいかに大きな影響力を持っていたのかが伺えます。
五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス帝の副帝時代に発行されたデナリウス銀貨。トレードマークの豊かな髭が無い若者の姿。(AD140年発行)
アントニヌス・ピウス帝の皇妃ファウスティナを表現したデナリウス銀貨。
AD140年に崩御したファウスティナ妃は、死後にローマ元老院によって「神」に列せられた。この銀貨はAD145年に発行されたもの。
15世紀末にイタリアを中心に興った古代文化・文芸復興運動「ルネサンス」の時期には、帝政時代のローマコインを体系的にまとめて研究し、そこからローマ時代の歴史、政治、文化を明らかにする取り組みが試みられました。コイン上に刻まれた皇帝の肖像と銘文を手掛かりに、その時代の政策や歴史的事件、信仰を解き明かそうとしたのです。
歴代のローマ皇帝の肖像を刻んだコインは、イタリアやドイツ、フランスの文化人や王侯貴族を魅了しました。貴族や王侯は出入りの骨董商にローマ時代のコインを見つけさせては、屋敷や宮殿の宝物庫に納めさせました。書斎や図書室の引き出しに収納できる、小さな古代ローマ帝国の遺物は、ルネサンス時代を生きた人々を古代のロマン溢れる世界へ誘ったのです。
当時の王や貴族、富裕な商人や文化人も、現代の我々と同じように夜な夜な一人書斎に篭ってコレクションを眺め、それらが実際に使用されていた古代の世界に想いを馳せていたことでしょう。
また、歴史的にヨーロッパの王侯貴族は、子弟の帝王学教育、歴史教育の教材としてもローマコインを用いました。ルネサンス時代に起こった古代コイン収集熱は、今のコインコレクション市場の基礎となったのです。
神聖ローマ帝国皇帝でありスペイン王であったカール5世(皇帝在位:1519年~1556年)も、熱心なコインコレクターの一人でした。宮廷に出入りするイタリア人商人に注文し、イタリアで発掘された古代遺跡から出土した珍しいコインをドイツまで送らせました。
このイタリア⇒ドイツへの古代ローマコイン供給によって、ドイツにはローマコインが多く流れ込み、コイン収集・研究の土台ができました。現代でもフランクフルトやミュンヘンでは、古代ローマコインが盛んに取引されています。
(神聖ローマ帝国皇帝在位:1519年~1556年、スペイン王としては「カルロス1世」 在位:1516年~1556年)
また、近現代では、イタリア王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(在位:1900年~1946年)も古代コインに魅了された王の一人であり、彼に至ってはコイン研究書まで著しています。
さらにコイン発行の最高権限者でもある自らの地位を最大限活用し、イタリア本国と植民地で多種多様なデザインのコインを発行したことでもしられます。その多くは、古代ギリシャ・ローマのコインからインスピレーションを受けたと思われるデザインが多くを占めています。
自らが理想とする芸術的なコインを実際に造り、それを公的に発行してしまうのは職権乱用のような感じもしますが、それらのコインは収集家の人気の的となり、現在でも市場で高値で取引されています。
国王は第一次世界大戦とファシストの台頭、第二次世界大戦の敗北に伴う王国の消滅を経験し、失意のうちに亡命先で亡くなりました。20世紀前半の世界情勢に翻弄された、苦労の多い君主でしたが、彼の作品とも言えるコイン達が今も尚、世界中のコインコレクターを魅了し、垂涎の的となりえていることを考えれば、コインコレクター冥利に尽きるといったところではないでしょうか。
1914年発行の2リラ銀貨。肖像はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世。
裏面には四頭立て馬戦車を操るミネルヴァ女神が美しく表現されています。彫刻法や製造法は近代的ですが、裏面の構図はローマ共和政時代のデナリウス銀貨裏面と類似しています。
三頭立て馬戦車(トリガ)を操るヴィクトリー女神が表現されています。この構図はローマ共和政時代のデナリウス貨裏面に多くみられました。馬戦車がビガ(二頭立て)であったり、または山羊であるなど、多様な種類が存在します。馬戦車を操る神も様々です。
さて、話題をローマコインそのものに戻しましょう。
ローマ時代のコインがローマ帝国史を知るうえで重要な史料となると考えられたのは、コイン上に表現された歴代のローマ皇帝達の肖像は、今は亡き本人の顔つきと性格を巧みに表現していると考えられるからです。
ネロ帝の二重あごから、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝の親子がみせる、よく似た頑固そうな顔つき、ネルヴァ帝の鷲鼻からユリアヌス帝の豊かな哲学者風山羊顎髭まで、歴代皇帝達の個性あふれる風貌を時に大げさに、時に写実的に表現しています。
ネルヴァ帝(AD97年) ユリアヌス帝(AD361年-AD363年)
日本では明治時代に入るまで、一般民衆は天皇や将軍の顔を知ることなく一生を終えていたことを考えると、大変興味深い文化の差だといえます。
しかし帝政後期に入ると、初期キリスト教主義の影響から写実性はあまり重視されなくなり、形骸的な無個性の肖像が多く用いられるようになります。時代が下るより、むしろ帝政時代の初期の方が、顔だけで皇帝を判別することが容易なのです。
現代の我々が見ても、コインの肖像を見ただけでどの時代のローマ皇帝かを判別することは容易です。コインに打たれた肖像は、現存する皇帝の胸像と極めてよく似ているからです。
ただ、皇帝によっては自らの肖像を修正させ、理想的な姿を打った例も見られます。最も顕著なのは初代アウグストゥス帝(在位:BC27年~AD14年)です。
アウグストゥスは威厳に満ちた自らの肖像を、ローマ帝国に住む多くの住民に知らしめることに腐心しました。
アウグストゥスの妻リウィアが所有していたプリマ・ポルタの別荘に置かれていたアウグストゥスの立像は、威厳に満ちた最高権力者であり、勝利者の彫像です。
発掘された際は既に白色だったが、当時は着色されていたことが判明している。
これら彫像は多くコピーされ、ローマ市内をはじめ帝国各地の公の場に立てられました。アウグストゥスの公的なイメージを広める意味でそれ以上に重要な役割を担ったのが、経済流通で人から人の手に、広い大帝国内を無限に渡り歩く媒体「コイン」でした。
BC2年~AD12年に発行されたアウグストゥス帝のデナリウス銀貨。
治世初期の肖像は共和政時代末と同じく無冠でしたが、政権が安定すると勝利者の証である「月桂冠」を戴いた端整な顔立ちの肖像を表現させました。
この様式はその後も継承され、コインに表現されるローマ皇帝の肖像は月桂冠を戴いたものが標準と成りました。
ローマ帝国時代のコインは支配者たる皇帝の顔を、帝国に住む末端の民に至るまで広く知らしめる役割が期待されていました。そのため、皇帝は自らの政治信条や戦場での勝利を、肖像の裏面に寓意的なモティーフとして打たせたのです。今では、その特徴的モティーフと当時の文献史料とをすり合わせることで、そのコインがいつごろ造られたのかを特定することができるのです。
本日はここまでとさせていただきます。
次回もお楽しみに。
初期のローマ世界では、アフリカの遊牧民と同じように家畜が家の財産としてみなされていた。
物々交換が経済活動であった時代、家畜は特に有効な交換単位の一つだった。
その後、秤量貨幣(アエス・ルデ)と呼ばれる延べ棒のような貨幣が登場した。この貨幣には当初、物々交換時代の名残から牛などの家畜が刻印されていた。
秤量貨幣はその重さが規格化されていたとはいえ、最大重量が約1.6kgもある、絵柄付きの延べ棒であった。
その後、ギリシャを倣って円形のものも作られたが、あまりに重すぎるそうした貨幣は扱いやすい通貨とは言えず、広く流通することはなかった。後世のラテン語表現の中には、金銭の支払いに関して「gravis(重い)」という表現が存在する (例:重い罰金) が、それは実際に「重い貨幣」を使用していたことに由来している。
現在のコインに近い貨幣がローマに登場するのは、紀元前300年頃であると考えられている。この頃からローマは、カンパーニア(イタリア半島南部)に存在したギリシャの造幣所に青銅貨や銀貨等のコインの鋳造を委託している。
当初は自国での鋳造を行わず、当時のコイン先進地域であったギリシャにコイン鋳造を委ねていたのである。
その後、ローマで初めて貨幣の鋳造が行われたのは紀元前269年といわれている。
古代ローマの通貨体系の基本単位は、帝政期に至るまで約4gのデナリウス銀貨であった。デナリウスは紀元前200年頃から銅貨(アス)12枚に細分化された。
ユリウス・カエサル時代に鋳造されたデナリウス銀貨であり、表面には農耕神セレス、裏面には壺や杖等が刻印されている。
紀元前89年以降、デナリウス銀貨とアス銅貨の交換比は1:16であった。銀貨と銅貨の間にはセステルティウス貨が存在した。
紀元前216年には金貨の発行が開始された。しかし共和政時代、金貨の発行はさほど多くなく、全体量から考察すると少数だったとみられている。
重量は1.03gと超小型である。表面にはローマ神、裏面には双子神ディオスクリが刻印されている。
アウグストゥス帝の時代、アウレウス金貨の価値は25デナリウス銀貨に確定した。
以下はユリウス=クラウディウス朝時代(紀元前31年~紀元68年)のローマ帝国通貨とその相対的価値である。
尚、「アウレウス」とはラテン語で「金」を意味する。
尚、3世紀になると急激なインフレーションが発生し、デナリウス銀貨の銀含率は著しく低下した。以降、ローマ通貨の中心単位はアウレウス金貨になった。
直径19㎜で量目7.79gの帝政ローマ初期の金貨。写真の肖像はティベリウス帝(在位:14年~37年)。裏面にはリウィア坐像が刻印されている。
しかし、庶民の日常の中で銀貨や金貨が登場する機会は少なかった。多くの市民は日常生活において、最も身近なコインとしてはアス銅貨を使用していたからである。
写真の銅貨表面肖像はアグリッパ(カリギュラ帝の祖父)、裏面の立像は海神ネプチューンである。この銅貨はカリギュラ帝の治世下(37年~41年)で発行された。
富裕層は金貨や銀貨を自宅の金庫に貯め込んでいた。
当時、有産階級の富裕世帯には必ず青銅製、または鉄製の金庫が存在した。金貨、銀貨等の蓄財は人一人が入れる位の鉄製の鍵がついた金庫にしまい込まれ、必要な出費の毎にそこから支払われていた。金貨や品質の良い銀貨(特に1世紀~3世紀初頭のもの)は一般の流通市場には乗らず、資産保護のために大屋敷の金庫の中にしまい込まれていたのである。
しかし、このことによって多くのローマ金貨、銀貨が良い状態で保存され、後世のコインコレクター市場向けに多くのコインが残されたのである。
ローマ帝国時代には物流も交通網も発達し、貨幣は経済活動の根源となっていた。いかなる階層に属する者であっても、貨幣によって生計を営んでいたのである。労働者の報酬も、現金による賃金が基本化していた。
日々の買い物はもちろん、宿から娼家に至るまで、貨幣による支払いが唯一の決済手段だった。
ローマ帝国では貨幣経済が末端にまで浸透しており、大都市ローマから地方、属州に至るまで支払いには時の皇帝の肖像が刻まれたコインが日常的に使用された。
ローマ帝国内に暮らす者にとって、コインは生きていく上で欠かせないものうぇすぱしだったのである。
広大な帝国の各地にコインを供給する為、ローマをはじめ属州にも造幣所が設置された。後期には帝国各地20か所に造幣所が存在した他、ギリシャや小アジア(現在のトルコ)の自治都市では、当地のみでの流通に限られていたが、独自貨幣の鋳造も認められていた。
さらに、紀元前2世紀以降、記念コインの発行が頻繁に行われるようになった。記念コインは既にこの頃から存在していたのである。
紀元前46年~紀元前45年の発行。勝利のトロフィーを中心に据え、両脇に二人の捕虜を描いている。
広大な帝国全土にローマ皇帝の権威を誇示する為、貨幣という効果的な流通媒体に政治的スローガンやモットー (例:felicitas(幸福)、liberalitas(自由)、concordia(協調)、justitia(公正)等・・・) を刻むことが流行した。
皇帝の対外戦勝記念や文化事業記念も、コイン上に刻まれたことで威厳を高めた。
そして、後世(特にルネサンス期の西欧)にはそうした記念コインが、古代ローマ史研究の一助にもなったのである。
当時から納税も現金(コイン)で行われていた。相続税、人頭税、地税等、ローマ市民から属州民まで、幅広い帝国臣民が様々な課税の対象となっていた。
イエス・キリストはユダヤの律法学者に「ローマ皇帝に重い税を納めなければならないか?」と問われた際、デナリウス銀貨に描かれたローマ皇帝の肖像を指摘し、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」と答えたという逸話が聖書にも残っている。
このことは、当時から辺境の属州にまでローマの貨幣制度と、そこに描かれた皇帝の権威が及んでいたことの証でもある。通貨とそれを発行、流通させる国家権力とは密接な結びつきを帯びており、なおかつ末端の庶民にまで影響をおよぼしていたのである。
強欲でケチな皇帝として知られたウェスパシアヌス帝(在位:69年~79年)は、財政再建の為に増税を行ったが、その中でも印象が強いのは通称「尿税」である。当時、尿は毛織物の染色や皮なめし、洗濯に使用されていたことから、公衆便所の尿にまで税金をかけたのである。
この税によって、当時から後世に至るまで「ウェスパシアヌス帝=ケチ、強欲」という評価が下されることになった。
左は75年のデナリウス銀貨、右は80年のデナリウス銀貨
息子のティトゥス(次帝 在位:79年~81年)は父帝に対し、尿税はローマ皇帝の権威と尊厳を損なうものであるとして抗議した。
すると父であるウェスパシアヌス帝は、この税によって徴収した金貨を息子に嗅がせ、臭いかどうか尋ねたという。
本日は以上となります。
お付き合い下さり、ありがとうございます。
次回も宜しくお願い致します。
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こんにちは。
いよいよ1月も最後となりました。
まだまだ寒い日々は続いていますが、2月に向けて頑張りましょう。
さて、本日のブログ記事は、先週に引き続き古代ローマ人の日常に関しての知識をお伝えします。
近頃は寒い日が続いて、家の中の掃除や冷たい水を使う家事が億劫になっていませんか?
と、いうことで今週のテーマは、古代ローマ人の「家事」についてです。
古代ローマ人の日常では、家庭内での家事はどのように捉えられていたのでしょうか?
また、古代ローマの「主婦」とはどのようなものだったのか?
今回は「家事」というキーワードを基にして、古代ローマ人の日常を御紹介したいと思います。
古代ローマにおける家庭内の仕事とはいかなるものであったのか?
現代の感覚から捉えれば、掃除、料理、洗濯、ベッドメイキング等がまず思い浮かぶ。
しかし、これらは現存する資料からはまず分からないし、そもそも中流階級以上の主婦はこのような仕事を行うことはなかっただろうと考えられている。
というのも、これらは典型的な奴隷の仕事であったからである。
大きな世帯では、一部は専門の使用人が、中流家庭では1人~3人の奴隷が家庭内の家事をこなしていたと考えれている。
このような家事を調整し監督するのは、もちろん一家の主婦の責任であった。
「家を守る」ことは、夫と妻の古典的分業の範囲内では、当然主婦に帰属すべき管理機能であった。つまり、古代ローマの社会では、家庭内の雑務の有無に関わらず、ほとんどすべての家政は主婦の担当であると考えられていたのである。
一方で、豪邸に住まう一族や地方で荘園を経営するような階級に属した多くの主婦は、その監督義務をも「ウィーリカ」と呼ばれる不自由身分(奴隷)の女管理人に委ねることが多くみられた。特に大きな屋敷ではそうした伝統が代々引き継がれ、農園を管理する不自由身分の管理人の妻が、その家庭の他の奴隷たちの家事を監督していた。
つまり、多くの使用人たちをまとめるチームマネージャーのような存在であり、ヴィクトリア朝時代の英国にみられた「メイド長」のようなものである。
ウィーリカは住居を清潔に保ち、家人から使用人たちの食事にまで気を配っていたのみならず、大きな農場を有している屋敷では、果実の収穫、穀物挽き、家禽の世話等、夫の役割も補佐していた。
そのことから、郊外の大荘園主の妻は家事をほとんど行わなかったのではないかと推察される。
荘園を持たない都市の上流階級の大屋敷でも、多くの奴隷が使用人として存在していた。料理、掃除等の日常的な家事は、そうした奴隷たちが担当していた。
都市部の家庭でも、家事を女監督人に委ねることが多かったが、一般的には世帯主の妻自らが監督責任を担った。食事の作り方や掃除の仕方、日々のやるべきことを使用人たちに教え込み、また日頃からその働きぶりをチェックしていたのである。
また、妻は家計簿の管理も行い、家庭の金の出入りを厳しくチェックしていた。
この辺りは、現在の社会にも通ずるものがあるように感じられる。
しかし、大多数の一般的な市民の家庭には、奴隷などを抱えることは出来なかった。奴隷を使えない以上、当然 家事は家族が自らこなさなくてはならなかった。
家事の大部分は、ローマの社会に深く根差した役割の規範に基づいて、妻が受け持ってきたといえるだろう。 上流階級の妻や母に期待された役割は、ローマの社会全体で理想化され、それが無差別に社会の全階層に転用されていたようである。
加えて羊毛の加工作業は、中流階級以上の女性にとって模範的家事の一つとして認識されていたようである。 現在のように機械の並ぶ工場がない時代には、細かな手仕事で、しかも家庭の中で行えるとあって、女性向の仕事と捉えられていたのかもしれない。
事実、羊毛加工の仕事は、貴婦人に相応しい家事の一つとして長年讃えられてきた。
亡くなった妻を讃えたいと思う夫は、墓石の上に「貞潔」「優しさ」「従順」等の愛と感謝の言葉と並んで、当たり前のこととして羊毛加工の仕事(ラーニフィキウム)を刻ませたほどである。
都市部では乳母、女優、芸人、踊り子、売春婦等が女性の代表的な仕事であり、加えて小売業や織物業でも女性の姿が多くみられた。その中で家事も担っていたことを想像すると、家庭内での女性の負担は大きかったと思えてしまう。
ただ、ローマ等、都市部の住居の質素な調度とその量の少なさが、負担を軽くしてはくれていた。また、洗濯業では多くの男性従業員が働いていたことからも推測できるように、男性の洗濯屋が一般家庭の洗濯仕事を受け持っていた可能性もある。
料理に関しても、下層階級が住む「インスラ」と呼ばれた集合住宅には、住居に台所もかまどもなかったので、そもそも家庭内で料理ができないことが多かった。家に台所が無い人々が温かい食事を口にするには、ローマ市内の至る所にあった軽食堂を利用していたと思われる。
日常的に屋台や軽食堂を利用することで、あまり料理をしないという食生活は、現在の東南アジアの都市部でもみられる生活スタイルである。
軽食堂は道路上に出店された、いわば屋台であり、サービスカンターに加えて簡単な椅子とテーブルが路上に並んでいた。その為、帝政期のローマでは街中の交通の流れを滞らせ、多くの苦情も寄せられていたが、ローマ市内に住む庶民にとって、そこが唯一温かい食事を口にできる場所であった。
したがって、ローマ市内に住む女性が家事に費やした時間とエネルギーは、全体として見ても今日の一般的な量にはるかに及ばなかったといえるだろう。
しかしそれ以上に、型にはまった家事を「天職」だの心からやりたいことだのと感じた人はほとんど誰もいなかったと思われる。
しかし、「家を守る」という役割を期待された女性に対し、夫は様々な形で愛情と感謝を表したと思われる。「幸福な家庭」像は、現在と同じく古代ローマでも存在しており、男性にとってその理想と幸福を護ってくれる「家庭の天使」たる妻は、大切な存在だったのだ。
様々な文献、石碑には妻を思い慕う夫の想いが残されている。愛妻が亡くなった際、残された夫はその愛と感謝の気持ちを、妻の墓石に刻ませたのである。
それらの史料は、夫婦の愛情が古今東西不変であることを、現代の我々に物語っているのである。
最後に、かつて、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(在位:前27年~14年)が、妻リウィアに対して贈ったプロポーズの言葉を以下に御紹介する。
ローマ帝国初代皇帝。アウグストゥスはラテン語で「尊厳者」の意。
オクタウィアヌスは紀元前27年に同称号を受け、帝政が開始された。
写真は紀元前18年~紀元前16年にかけて鋳造されたデナリウス銀貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=654281
カッシウス・ディオーン 『ローマ史』より
本日は以上となります。
皆様、御体にはくれぐれも気を付けて、新しい月を迎えましょう。
2月も宜しくお願いします。
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こんにちは。
最近は朝が特に冷え込み、布団からなかなか出られない日々が続いております。
インフルエンザやノロウィルスが流行中のようです。入念な手洗い等の予防策によって、十分お気を付け下さい。
さて、本日も古代ローマ人の生活・文化についてご紹介します。
今回のキーワードは「解放奴隷」です。
宜しくお願い致します。
古代ローマでは奴隷の存在が必要不可欠であった。
大富豪や貴族、荘園主等、広大な屋敷に居住する上流階層の生活にとって、奴隷は手となり足となる存在であった。また、属州の荘園開発・運営の面でも奴隷は重要な労働力であり、ローマの経済活動と生産構造にとって欠かせないものであったのである。
しかし、奴隷の「所有権」は、奴隷の所有者である個人にあり、その所有権を手離す、つまり解放することも自由であった。
奴隷の解放は法的枠組みよって定められており、主人の意思・好意に任された決定であるとされていた。
奴隷は解放されてすぐに「ローマ市民」になれる訳ではなく、国家は解放された奴隷にかつての主人と同じ地位を付与した。
すなわち、主人がローマ市民だった場合は、解放奴隷もローマの市民権を得ることができたが、主人が他の都市の市民権しか有していなかった場合は、解放奴隷もその市民権しか得られなかった。
尚、奴隷の解放は証人の前で解放すれば成されたが、解放された奴隷が市民としての地位を得るためには、主人の申し出により官吏が「解放の細杖(Vindicta)」でその奴隷に触れるか、遺言による命令が必要であった。
単なる解放奴隷では自由民としての地位しか与えられず、行使できる権利も限られていた。(例えば、一代目には官吏と元老院議員の被選挙権が無かった。)
それでも解放されることによって、比較的自由な移住権と職業選択、自由結婚等の権利を得ることができた。国家はかつての主人と等しい市民として、その身分を法的に保証したのである。
では、実際のところ奴隷はどのくらい解放されていたのか?
ローマ共和政末期になると、都市部の個人家庭の奴隷は頻繁に解放されていたとみる研究者もいる。
広大な大規模荘園では数多くの奴隷を抱え、奴隷一人一人の名前も把握できていなかったが、個人家庭では主人と奴隷の距離が密接であった。その為、主人の危篤や奴隷自身の危篤等の機会に、長年勤めた奴隷を温情的に解放するケースが多かったのではないかと推測されている。
事実、帝政初期、アウグストゥス帝の時代には、そうした多数の奴隷解放に歯止めをかける法律まで制定されていることから、当時は奴隷解放のケースが多かったと考えられる。
*紀元前2年 フフィウス・カニーニウス法
: 一人の家長が解放できる奴隷の数を、全体数に応じた割合に制限。
* 紀元4年 アエリウス・センティウス法
: 解放者と、解放される奴隷の年齢に制限を設けた。
ローマ帝国初代皇帝。アウグストゥスはラテン語で「尊厳者」の意。
写真は紀元前2年~紀元12年にかけて鋳造されたデナリウス銀貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=655530
解放された奴隷は様々な職業に就くことができた。奴隷時代の経験を活かして職人になる者もいれば、教師や著述家、哲学者等、頭脳労働者になる者もいた。また、商売によって成功し、莫大な富を得る解放奴隷もいたようである。
また、帝政期には長官や将軍にまで出世した解放奴隷も存在したといわれている。
しかし、このような成功を収めた解放奴隷はごく僅かであり、大方の者は身を寄せる所にも事欠く貧困層にならざるを得なかった。
上記のように、自らの才覚を活かして成功する解放奴隷は存在したが、土地等の財産を持たない解放奴隷は完全に自立できた訳ではなかった。商売で成功した解放奴隷たちは、主人の温情や、奴隷時代の副業で手にした「個人財産(Peculium)」を元手にしていたと考えられている。
大荘園で農業に従事していた奴隷は、解放後にそのまま住み込みの小作農として荘園に残る者も多かった。土地を持たないがゆえに、農業で成功した解放奴隷は極めて稀だったのである。
中央のソフォクレス(古代ギリシャの悲劇作家)のブロンズ像を配置する丸刈りの男性(縦縞服)は奴隷。
そもそも、解放奴隷は法的に主人と同じ市民権を得られたといっても、その実態は幾つかの制限が付けられており、完全に自主独立していた訳ではなかった。
例えば、解放者は奴隷を解放するのにあたり、一定の条件をつけることが認められていた。
それは法にある負担限度条項の範囲内であったことから、身請け金として毎年収入の一部を元・主人に納めることや、元・主人が病気で倒れた時は看護すること等であったのではないかと推測される。
また、職業選択の自由を一部制限することも場合によっては可能であった。
奴隷時代に教えた技術を、解放された後の奴隷が活かし、事業等を創めれば、競争相手になってしまう為である。つまり、医師であれば、かつて自らが医術を仕込んだ奴隷に、解放後の医院開業を禁ずることが可能だったのである。
それでも解放奴隷達は、奴隷身分にあった時代のように、自らの意に反する職務を強いられることはなくなった。この点は、身請けされた元・娼婦や元・剣闘士にも適用されたのである。
解放奴隷は自由な市民として、その権利が侵されることは無かった。
ネロ帝時代の元老院では、解放奴隷を再び奴隷身分に戻す案が審議されたが、それが実行に移されることはなかったのである。
ローマ帝国第5代皇帝。悪政だったとして後世の評価は低い。
写真は65年~68年にかけて鋳造されたアウレウス金貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=601490
解放された奴隷たちは、ローマ社会の中で自力で生きていく他なく、幾つかの制限もつけられてはいた。また、かつての身分的出自から、社会的差別や排除も存在したと考えられる。
しかし、少なくとも何者にも縛られることのない「自由」を、永久に手にすることはできたのである。
法の下、奴隷解放に関するガイドラインを設け、社会の安定と解放奴隷の自由な身分を保証したローマの社会は、現代社会にも通じる法根源の一つにもなっていることがうかがえる。
ところで、ローマ時代の解放奴隷は「ピッレウス(Pilleus)」と呼ばれるフェルト頭巾を被っていた。
このことから、古代ローマ時代より、ピッレウス、フェルト頭巾は「自由」「抑圧からの解放」の象徴的アイテムとなっていた。
解放奴隷たち自身が日常的に被っていなくとも、秋の大祭、サートゥルヌス祭では多くの市民がフェルト頭巾を被って街頭に繰り出していたという。陽気な祝祭においてフェルト頭巾という自由の象徴を身に着けることで、社会の自由や平等、開放感を表現していたのである。
この「フェルト頭巾=圧制からの解放、自由」という連想は、後世の欧州社会にも引き継がれた。特に、フランス革命以降、欧州全体が自由主義に席巻された際は、この象徴が頻繁に用いられた。
現代でもフランス共和国の象徴的擬人、「マリアンヌ」は必ずこのフェルト頭巾を被った姿で描かれている。
サンキュロット(フランス革命の志士)、自由の女神ともに、フェルト頭巾(この時代にはフリジア帽と呼ばれる)を被っている。
また、近代コインでもこのフェルト頭巾は多く登場する。フランスやラテンアメリカ諸国などの共和国のコインには、不特定の美女が肖像として用いられているが、彼女たちがこのフェルト頭巾を被っていることで「自由の女神」として認識されるのである。
王冠では無く、素朴なフェルト帽を被っている横顔は、圧制からの自由と民衆のたくましさを力強く表現している。
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http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=645548
ローマ時代の「自由」「法治」を尊重する思想・文化は、長い時を越えて近代に復活し、その精神も現代社会を支える礎の一つになっているのである。
左 フランス 25サンチームニッケル貨(1914年)
右 フランス 10サンチーム金貨(1979年)
左には自由と解放の象徴であるフェルト帽、右にはフランス共和国の擬人化、「マリアンヌ」のフェルト帽を被った横顔が描かれている。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=645579
今週は以上となります。
御読み下さり、ありがとうございました。
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こんにちは。
冷え込む日々が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
年が明け、1月も半ばになりました。寒い日々ですが、気分を前向きにして、頑張っていきましょう。
さて、今回から新しいシリーズを始めたいと思います。
新年最初の記事でもお伝えしましたが、古代ローマ時代の文化・風俗・文物等々に関する豆知識を、キーワードごとにご紹介していきます。
そのキーワードから拡がる、古代ローマ人達の豊かな日常生活について、少しでも感じ取っていただければと思います。
シリーズ第1回目である今回のテーマは「オイル」についてです。
よろしくお願いします。
古代ローマ世界において、既にオイルはパン、塩、ワイン等と並ぶ基本食品の一つであった。
特にオリーヴオイルは最も一般的で、イタリア半島各地の荘園で働く奴隷にも支給されていた程であった。
現在では日本でも一般的になったオリーヴオイルであるが、既に古代ローマ時代には、イタリア半島や北アフリカをはじめ、地中海世界では定番の食用油であった。 オイルの品質自体には著しい差が見られたが、当時からサラダのドレッシングとして用いられたり、料理の仕上げの味付けに使われていたのである。
尚、オイルを絞られた後のオリーヴの実は、酢漬けやオイル漬けにされてオードブルとして用いられており、大変重宝されていた。
また、オリーヴオイルは単なる食用油としての用途以外に、民間の薬としても用いられていた。
オリーヴオイルは頭痛、口の潰瘍(口内炎)、止血、皮膚炎等、様々な症状を緩和させる効果があると信じられ、当時の医者も最良の手入れ用薬剤として多用していた。
また、古代ローマ人の生活にとって重要な入浴の際にも、オイルは必需品であった。
ローマ人は健康促進の為、公共浴場に入る前に体操を行うことがあった。この体操の後に、オイル(香油等)を体中に塗りたくることがあった。
体操によって流された汗と、外で付いた埃をオイルマッサージによって落とすためである。これは、現在のスパやエステと同じ感覚であるといえる。
また、この「垢落とし」の作業を入浴前に行っていたことから、ローマ人の公共に対する意識の高さが伺える。
このオイルを塗る作業は、一般的に女性風呂の場合は公衆浴場専属の奴隷が行っていた。一般市民階級の男性は、高価な石鹸の代用品としてオイルを自ら塗っていたようである。
浴場によっては、オイルを塗るためだけに設けられた専用の部屋が併設されている場合もあった。
現在のサウナと同じ役割を持っており、この場で専用の奴隷にオイルを塗らせた。
公共浴場ではオイルマッサージが一般的な日常風景の一つであった。
ローマ帝国最盛期の五賢帝の一人、ハドリアヌス帝(76年~138年)は、マンガ『テルマエ・ロマエ』に描かれていたように大の風呂好きとして知られ、皇帝でありながら頻繁にローマの公衆浴場に通っては、一般の市民と共に汗を流していた。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=655066
ある時、ハドリアヌス帝が入浴している最中、一人の退役軍人が背中を大理石版にこすり付けてマッサージしているのが目に入った。退役軍人という身分を慮ったハドリアヌス帝は、この老人に助成金とマッサージをするための奴隷一人を授けた。
翌日、この噂を聞きつけた老人たちが皇帝からの恩恵に与ろうと、公衆浴場で一斉に大理石の壁で体をこすり始めた。
すると、この様子を見たハドリアヌス帝は、この老人たちを一列に並ばせ、互いの身体をマッサージしあうよう命じたという。
このような逸話が残るほど、入浴時のマッサージは大変重要なものだったのである。
一方、入浴後でスッキリした後に、肌に再び脂分を補給する為にオイルが塗り込まれることもあった。
伝導率の低さから日焼け止めや防寒剤としても人気であり、公衆浴場に出かける際にはオイル瓶が必需品であったとまで伝えられている。
このように、ローマ人にとってオイルは食用、健康促進の為には無くてはならないものであった。
無論、夜の照明として用いられたランプの燃料としても不可欠であり、ローマ市民の経済・生活の深くにまで根付いていた。
多様な用途で用いられたオイルは、地中海世界各地で取引されていたが、属州におけるオリーヴ畑の拡大はオイルの大量供給を可能にし、イタリア半島と属州間の集中的取引によって価格は比較的低く抑えられていた。その分、貴族や大商人から、市民や奴隷に至るまで、ローマの全階層の手が届いたのである。
また、市民に根付いていたオイルは政治的にも利用された。カルタゴの将軍 ハンニバルとポエニ戦争を戦った大スキピオ(紀元前236年~紀元前183年)は、紀元前213年にローマ市民向けにオイルの無償配給を行い、平民の人気を獲得している。
帝政期になると、市民への配給は現物から金銭へと変わっていったが、オイルは安価、もしくは無償で市民に与えられ続けた。
オイルは露店でも販売されており、ローマ市内には2300以上ものオイル露店が存在していたという記録もある。
オイルはローマ市民にとって手に届きやすいものの一つであり、それ故に市民生活に欠かせないものでもあった。
しかし、一言にオイルといっても品質には差が見られた。市民が多用した低品質のオイルと異なり、純度の高い高品質の油、特に香油は非常に高価であり、一般の市民にとっては手の届かない高嶺の花であった。
例えば、当時ローマの属州であった現パレスチナで布教活動をしていたイエス・キリストに、マグダラのマリアが注いだ香油は1リトラ(326g)で300デナリの価値があったとされる。
当時の一般労働者の日給が1デナリであることを考えると、とんでもなく高価なものであることが分かるだろう。
後に弟子のユダは銀貨30枚でイエスを裏切ったとされるが、このときの銀貨が、当時ローマ帝国内で広く流通していたデナリウス銀貨だとすると30デナリである。
肖像はティベリウス帝。裏面はリビア坐像。直径18㎜で3,8g。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=631251
つまり、単純に計算すればマグダラのマリアが用いた香油は当時の平均的収入の10か月分、さらに言えばイエス・キリストの身柄10人分に相当するということになる。
尚、マグラダのマリアが高価な香油をイエスに注いだ際、教団の会計掛でもあったユダは「なぜこの香油を金に換え、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを責め立てたという。この時イエスは、このマリアの行為に対して「前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ」と言ってなだめたという逸話もある。
このことから、当時の香油は身だしなみやマッサージの用途だけでなく、広大なローマ帝国の辺境では宗教的儀礼でも用いられていたと推察できる。
オイルは地中海世界を中心に発展した文化であり、ギリシャやアナトリア、北アフリカでも多分に用いられた。
古代ローマを代表する博物学者、大プリニウス(22年~79年)はオイルについて以下のように賛辞している。
二つの液体は人体に最も快い。
内からはワイン、外からはオイル。
両者は共に樹木の比類ない産物である。
だが、オイルという液体こそ必須なのである。
磔刑にされたイエスの遺体に香油を塗ろうと墓を訪れたマリアは、復活したイエスの姿を目撃する。
復活したイエスを発見した最初の人物とされ、持っていた香油から「携香女」と呼ばれた。
本日は以上となります。
1月が過ぎるのはあっという間です。
体調管理には出来るだけ気を遣って、寒い冬を乗り切っていきましょう!
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2014年を迎え、皆様いかがお過ごしでしょうか。
本年が皆様にとって、歓びに溢れた素晴らしき年になりますように。
サー・ローレンス・アルマ=タデマ 『コロッセウム』 (1896年)
当店、ワールドコインギャラリーは、本日1月4日(土)から通常営業を開始させていただきます。
本日より『新春売り出しセール』としまして、1月19日(日)までの期間中、商品全品を10%OFFにさせていただきます(収納用品は除く)。
また、縁起物として本年の干支、馬の描かれたコインも多数取り揃えております。
古代ギリシャ・ローマから近現代に至るまでの多種多様な馬コインをご覧頂けます。
この機会に是非、御利用下さい。
お待ち申し上げております。
詳しくはこちらから ⇒ http://www.tiara-int.co.jp/event1.html?eid=56
本年も、何卒ご愛顧のほどを宜しくお願い申し上げます。
さて、新年最初の記事は、この時期に合わせまして、古代ローマ人の「新年」に関する話題です。
古代ローマ世界でも、現在と同じように「新年」という概念があり、今の我々のように新年を祝う習慣が存在しました。
その起源は紀元前153年、執政官(コンスル Consul)の就任が1月1日と定められたことに始まります。
これ以降、一般のローマ市民の間では、1月1日を1年の始まりとして祝うようになったと考えられています。
ローマの人々の間では、お互いに新年の幸を願い、互いに贈り物を贈り合う習慣が根付きました。
共和政期の一般的な贈り物といえば、ナツメヤシやイチジク、蜂蜜などの甘味、つまり「お菓子」でした。
古代メソポタミア・ギリシャの時代から、ナツメヤシやブドウ、イチジクはドライフルーツとして食されており、人々の貴重な甘味源でした。
オウィディウスの『祭事暦』には、以下のように表されています。
古代ローマの人々は、互いにお菓子を贈り合うことで甘味を味わい、幸せで心穏やかな、新たな年の幕開けを過ごしていました。
しかし、帝政期になると、従来の甘味のような消費物から、ランプや貯金箱、さらには現金(コイン)のような、高価な品物を贈る場合が増加しました。その場合、「新年おめでとうございます(annum novum faustum felicem tibi)」というお祝いの言葉を添える場合もありました。
写真のように、縁起物や豪華な装飾が施された高級贈呈品としてのランプが多く見られる。
写真のオイルランプのモチーフは「剣闘士の闘い」である。
つまり、帝政ローマ時代には、現在の日本にみられるお年玉のようなものが存在していたのです。
また、寛大なお返しを期待して、皇帝に新年の貢物をすることが一般化していたといわれ、「新年の祝い=金銭、高価な贈り物」という概念が一般化していたことが分かります。
この時代になると、新年には盛大な宴が催されるようになり、上等な御馳走やワインを楽しむようになりました。そうなると、既に当時から「正月太り」に悩む人々がいたのかもしれません。
当時の新年の宴は、従来最も盛大に祝われていた祝日である12月中旬の農耕祭「サートゥルヌス祭」を凌ぐようになっていました。
図は古代ローマの上流階級の宴会の様子
すでに前日、つまり大晦日から盛大な「前夜祭」を催す輩も多くいたようで、街路には酒を飲み、浮かれて騒ぐ人々が溢れかえっていました。
帝政ローマ時代には一般市民の間の新年も、その主役は甘味からワインやさいころ賭博へと変わっていったのです。
一方で、心身ともに鍛え上げた同時代の猛者達は、このような浮かれた新年の雰囲気に一線を画すように、ティベリス川や氷のように冷たいウィルゴー水道に飛び込んで新年を祝いました。
日本でも毎年行われている寒水荒行は、古代ローマ人の間でも行われていたのです。
2000年近く前の古代ローマも、そして現在でも、「新しい年」を楽しく、そして心地よく迎えたいという人々の思いは、何も変わっていません。一年の始まりを気持ちよく過ごすことで、その年を良き年にしたいと願う人々の心持は、古今東西同じなのでしょう。
本年も、古代ローマの人々が願ったと同じく、健康と良縁に恵まれた、晴れやかな年になることを祈ります。
尚、本年からは、今回の記事のように「古代ローマ人の生活風景」に関する豆知識を、少しずつ御紹介していく予定です。
本年も、昨年と変わらぬ皆々様のご愛顧を、何卒宜しくお願い申し上げます。
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長い間、ブログをご無沙汰しておりました。
年末年始と皆様は、いかがお過ごしでしたか?ごゆっくりできましたでしょうか?
小生は、2k540の店の方で忙しくしておりました…
さて、今回はエトルリアという古代ローマ時代の前にあった都市国家のお話をしたいと思います。
エトルリアは、ローマ以前に現在のイタリア中北部、トスカーナ地方に栄えた古代文化の名。その民族をエトルリア人(エトルスキ)と呼ぶ。その初期か確定しにくいがBC10世紀頃、小アジア(リディア?)よりイタリア西岸に上陸したものを思われる。
BC6世紀には、北はアルビスから南はカンパニア(ローマ)までを領有し海上はコルシカまで支配した。BC8世紀に高度な文明を発達させ、ギリシャ芸術の影響の下に青銅製品、テラコッタ(陶器)、壷などに独特な芸術作品が現れ始める。有名な〈カピトリウムの雌オオカミ〉、バチカンの〈マルス像〉はエトルリアの物である。
エトルリア人は西部地中海唯一の民族文化民族として、その支配下にあったローマ人に大きな影響を与えた。共和政初期のローマの制度、慣習、文化には強いエトルリアの影響が見られる。
高官の権威の印であるファスケス(数本の棒と斧を縛り合わせたもの、これからイタリアのファッショが生まれる)、『命名権』(インペリウム)の観念等はその例である。城砦・道路・水道・橋梁の建設は彼らによって初めてイタリアにもたらされ、カピトル丘最古のユピテル(ジュピター)神殿の建設も彼らによる。彼らが小アジアからもたらしたオリエント風の占い(鳥占い等)はローマ時代盛んに行われた。
彼らの言語はまだ解読されないが、ギリシャ語、ラテン語、ケルト語とも違い、その文字はほぼギリシャ文字と等しいギリシャのポリスを同じく、その都市は政治的統一国家を形成せず、主要12の城砦都市から構成される宗教的な同盟があったのみである。これらの都市国家は、各々の王を頭に頂いていたが、次第に幅富裕な貴族層が影響力が影響力を強めていった。
何世紀もの間、エトルリア人は北イタリアのポー川流域から南イタリアのギリシャ占有地までも支配していた。BC500年まで、エトルリアの王はローマを統治していたのである。
紀元前6世紀後半、ラチウム諸都市がエトルリア王をおって独立して以来衰え始め、次第にギリシャ人、ローマ人に侵食され、BC390年、ガリア人によって致命的打撃を受け、ローマに征服された。
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今回で、連載三回目を迎えます『ビザンチン帝国の歴史』。
ビザンチン帝国は1000年近く存続した国ですが、今回はその系譜について書いていきたいと思います。
先代の皇帝ゼノンが後継者を指名せずに死亡したため、ゼノンの皇后アリアドネが当時の枢密院警護長であったアナスタシウス1世と結婚し、皇帝となった。
彼は優れた経済政策を採用し、財政を再建させるなど、その治世に大きな功績を残した。彼の改革は、その後の東ローマ帝国が領土を回復させる原動力になったといわれている。
熱心なキリスト教徒であったことでも知られている。
518年~ ユスティヌス1世
ユスティヌス1世は、貧農の出身であったが、親衛隊に入隊し、その後将軍となって皇帝にまで上り詰めた人物である。
彼の時代には、大地震が起きたり、サザン朝ペルシアの攻撃にあったりと、治世には難を極めた。
彼は、読み書きなどができなかったため、養子であるユスティニアヌスの助力を得ていた。また実権を握っていたのもユスティニアヌスであったと考えられている。
565年~ ユスティヌス2世
578年~ ティベリウス2世
582年~ マウリキウス・ティベリウス
602年~ フォーカス
610年~ ヘラクレイオス
ヘラクレイオスの名は、ギリシャ神話の神ヘラクレスにちなんだものである。サザン朝ペルシアとの6年にもわたる戦いに勝利し奪われた領土を回復したが、その後のイスラムとの戦いで再び奪われてしまった。
彼の治世では、公用語がラテン語からギリシャ語へと移り変わり、軍事権と行政権が一体化したテマ制を始めるなど、「キリスト教化されたギリシャ人のローマ帝国」をつくり出した。
641年~ ヘラクレオナス・コンスタンティヌス
641年~ コンスタンス2世
668年~ コンスタンティヌス4世
685年~ ユスティニアヌス2世
695年~ レオンティウス
698年~ ティベリウス3世
705年~ ユスティニアヌス2世
706年~ ティベリウス4世
711年~ フィリツピクス
713年~ アナスタシウス2世
715年~ テオドシウス3世
717年~ レオ3世
741年~ コンスタンティヌス5世
775年~ レオ4世
780年~ コンスタンティヌス6世
797年~ イレーネ
802年~ ニケフォルス1世
811年~ スタウラキウス
811年~ ミカエル1世
813年~ レオ5世
820年~ ミカエル2世
829年~ テオフィルス
842年~ ミカエル3世
867年~ バシレイオス1世
バシレイオス1世に始まるマケドニア朝は、東ローマ帝国の最盛期をもたらした。
彼は、コンスタンティノープルなどで数多くの建築物を造営・修復したことでも知られている。
912年~ アレクサンデルス
913年~ コンスタンティヌス7世
920年~ ロマヌス1世
959年~ ロマヌス2世
963年~ ニケフォルス2世
969年~ ヨハンネス1世
976年~ バシレイオス2世
1025年~ コンスタンティヌス8世
1028年~ ゾエ(共治)
1028年~ ロマヌス3世
1034年~ ミカエル4世
1041年~ ミカエル5世
1042年・1055年~ テオドラ
1042年~1055年 コンスタンティヌス9世
1056年~ ミカエル6世
1057年~ イサキオス1世
1059年~ コンスタンティヌス10世
1067年~ ロマヌス4世
1071年~ ミカエル7世
1078年~ ニケフォルス3世
1081年~ アレクシウス1世
1118年~ ヨハンネス2世
1143年~ マヌエル1世
1180年~ アレクシウス2世
1183年~ アンドロニクス1世
アンゲロス朝
1185年~ イサキオス2世
1195年~ アレクシウス3世
1203年~ イサキオス2世、アレクシウス4世
1204年~ アレクシウス5世
1208年~ テオドロス1世
1222年~ ヨハンネス3世
1254年~ テオドロス2世
1258年~ ヨハンネス4世
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投稿情報: 09:00 カテゴリー: Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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