【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
今年の3月もあっという間に最終日です。今年の春は早いのではないかとも言われていましたが、3月後半は寒い日が続きました。
結果的に桜の開花時期も例年並みとなり、久しぶりに桜咲く4月上旬となりそうです。春爛漫の陽気が楽しみです。
今回はイギリスの小島ランディ島で発行された特殊なコインとその物語についてご紹介します。
ランディ島はイギリスのデボン州、トーリッジの沖合いに位置する小さな島です。イングランドとウェールズを隔てるブリストル海峡(またはブリストル湾)では最大の島でもあります。
面積は4.45平方kmであり、南北に5km、東西に1.2kmの細長い形状をしています。
島の人口は2007年時点で30人ほどであり、その多くが本土から訪れる観光客の対応に従事しています。
海岸線のほとんどは崖になっており、様々な海鳥の繁殖地になっています。島全体が海洋保護区に指定され、希少な海鳥を観察するツアーは人気の観光資源になっています。
本土とは船で結ばれており、日帰りでも訪問することができます。短時間で一周できるほどのコンパクトさから、トレッキングや週末の休暇で訪れる人も多いようです。イギリスのメジャーな観光地とは趣を異にする、素朴な自然を楽しめる島として知られています。
ランディ島南部の桟橋と灯台
この島は歴史上、貴族の所領として受け継がれましたが、度々所有者が変わっていきました。人口と資源に乏しいことから開発や投資も進められず、政府にも重要視されていませんでした。ランディ島はイギリス領内でありながら個人の私有地という、一風変わった地位に置かれ続けました。
1925年にランディ島が売りに出された際、ロンドン在住の実業家マーティン・コールズ・ハーマンが購入しました。
彼はまだ会社員だった1903年、初めてこの島を訪れてからすっかり気に入り、その帰り道に「いつの日かランディ島を買いたい」と口にしました。それ以降度々ランディ島を訪れており、その景観や静かさを気に入り、ますます所有欲を高めていきました。
その後実業家として成功したハーマンはついに念願だったランディ島を購入する機会に恵まれ、迷わず購入を決断。名実共にランディ島はハーマンのものとなりました。
マーティン・コールズ・ハーマン
(1885-1954)
ハーマンは代理人として友人のフェリックス・ゲイドを雇い、島の実際の管理を委託しました。ハーマン自身も休暇には家族と島を訪れ、穏やかなひと時を過ごしました。
フェリックス・ゲイドと妻ルネ
夫妻はランディ島に移住し、小さなホテルを運営しながら島を訪れる観光客を受け入れました。
当初は休暇を家族と過ごす保養地として購入しましたが、当時、島には40人ほどの住民がいました。ハーマンは住民のいる島の「統治」にも関わることになったのです。
1928年、島唯一の郵便局が閉鎖され、郵便物のやり取りに支障が出る恐れがありました。ハーマンは民間郵便として事業の継続を決め、1929年11月にはランディ島独自の切手を発行しました。
イギリスで発行されている切手と異なり、英国王の肖像の代わりにランディ島に生息する海鳥パフィン(ニシツノメドリ)が表現されています。
上部には「Lundy」、さらに額面は「PENNY」ではなく「PUFFIN」となっており、イギリス本国発行の郵便切手とは異なる、私的なラベルであることが強調されています。
このパフィンはイギリスの1ペニーと等価であることが示され、ハーマン氏が独自に導入した通貨単位でした。もともと島の住民たちが物々交換を行なう際、パフィンの羽を用いていたことに由来しています。
パフィン
和名はニシツノメドリ。ウミスズメ科の海鳥で体長は30cmほど。北大西洋の広い範囲に分布する渡り鳥です。その派手な見た目から「海のピエロ」などとも呼ばれています。
そして同年中には、パフィン単位の独自コインも発行しています。
表面にはハーマンの横顔肖像、裏面には岩の上に立つパフィンが表現されています。材質は青銅です。
シンプルなデザインですが、造型は力強く写実的であり、一国家が正式に発行したコインとしても遜色ない出来栄えです。
側面部にはランディ島の灯台からインスピレーションを得たと思われる銘文「LUNDY LIGHTS AND LEADS (=ランディの灯は導く)」が配されています。
このコインはバーミンガムの民間造幣企業ラルフ・ヒートン社によって製造され、デザインと金型作成も含めて100ポンド以上の費用がかかりました。
世界中のコイン製造を請け負う企業ということもあり、偽造防止対策も施された本格的な仕上がりです。
ハーマンは1パフィンと1/2パフィンをそれぞれ50,000枚製造し、それぞれ1ペニーと1/2ペニーに相当するコインとしてランディ島で有効としました。
しかし当時イギリスで流通していた1ペニーが9.45g/30.8mmに対し、1パフィンは10g/29.29mmとサイズに差がありました。あくまでランディ島でのみ有効な代用貨幣(トークン)として発行していたことが覗えます。
しかし人口40人にも満たない小さな島で、果たして50,000枚ものコインが必要なのでしょうか?
19世紀初頭には銅貨が慢性的に不足し、日常の決済に支障が生じたため、イギリス各地で多種多様なトークンが発行されました。しかし20世紀には充分な量の小額貨幣が供給され、国内の隅々まで流通していました。
郵便事業や切手は島の生活を維持するために必要な措置でしたが、その延長線上で発行されたコインはあくまでハーマンの自己満足、記念品のような位置づけで作らせたものと考えられます。それは100ポンドもの費用を投じて、専門の造幣企業に依頼したことからも分かります。もし、あくまで島内での決済上の便宜だけを考えて発行するなら、もっと安価かつ低品質な仕上がりでも良いはずです。
結局は島民の経済活動の為というよりも、島を訪れた観光客へのお土産としての役割があったと見受けられます。
ランディ島を結ぶ本土側の船の発着地ビディフォードの銀行では、パフィンコインをイギリスのペニーに交換することができ、銀行はパフィンコインをまとめてランディ島へ送り返していました。
とはいえ、ハーマンが「ランディ島では有効な貨幣」として発行したことは非常に大きな意味がありました。これは当時のイギリスの通貨法に抵触する恐れがあったからです。
ハーマンはパフィンコインが出来上がると、サンプルを英国王立造幣局に進呈しました。この時、造幣局はこのコインの発行が1870年通貨法第5条に抵触する恐れがあると警告しましたが、ハーマンはランディ島は王室領のマン島やジャージー島などと同じく、イングランドに属していないため問題ないと回答しました。
やがて本土から警察官が視察に訪れ、酒場でイギリスのペニーとハーマンのパフィンコインが混合して使用されている実態を確認します。
アメリカのタイム誌(1930年1月20日付)のランディ島に関する記事は、島民の間でこのパフィンコインが流通し始めている様子を伝えています。
検察は1870年通貨法が個人による私的な代用貨幣(トークン)の発行を禁じているとして、1930年3月5日にハーマンを起訴。ハーマンは罰金とパフィンコインの流通停止を命じられました。
これに対しハーマンは控訴し、1931年1月13日にロンドンの高等法院で控訴審が開かれました。
ここでハーマンは、ランディ島は歴史的に自由港として開かれており、また住民はイングランド王に税を納めたこともない。さらにイギリス本土との往来には税関を通過しなければならない。よってランディ島は高度な自治権を持つ特別な地域であり、イギリスの法は及ばない。この「ポケットサイズの自治領」において、領主である自分は貨幣を発行する権利を有していると主張しました。
しかし控訴審ではランディ島の特別な地位については論点とされず、あくまでイギリスの通貨法に抵触していることが取り上げられました。結局ここでもハーマンは敗訴し、15ギニーの裁判費用、および5ポンドの罰金支払いが確定しました。
その後「パフィンコイン」も一連の騒動を経て通用停止となり、ランディ島の小さな流通市場から回収されていきました。流通していたのはわずか1年ほどと、非常に短命なコインでした。
1954年にハーマンが没するとランディ島は息子に相続されましたが、道路などインフラ設備の維持が徐々に難しくなり、1969年に再び売りに出されます。新たな購入者である富豪ジャック・ヘイワードは15万ポンドで島の所有権を得ると、そのままナショナル・トラストに寄付しました。以降、現在に至るまでランディ島は歴史・自然保護区として公益法人の管理下にあります。
「自分オリジナルのコインを作ってみたい」というのは、コイン収集家なら一度は想像してみる夢ではないでしょうか。ハーマン氏は自らの肖像を刻んだコインを発行し、自分の小さな王国の中で実際に流通させました。
残念ながら法に触れるものでしたが、発行されたコインは興味深い顛末と共に後世に残され、コレクターの間で価値を有し続けています。
ランディ島はハーマン家の所有ではなくなりましたが、この小さな島の歴史を伝える貴重な史料になったのです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 15:40 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりですがまだまだ寒いですね。今年の2月は一日多く、少し得をした気分になりますね。その分、春の訪れも先延ばしになったように感じられます。一日も早く暖かい、過ごしやすい陽気になることを願うばかりです。
本日は古代ローマ帝国の皇妃ルキラとそのコインについてご紹介します。
ルキラ/コンコルディア女神
(AD166-AD169, デナリウス銀貨)
アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキラ(*Lucilla, ルッシラとも呼ばれる)はローマ帝国の黄金時代とされる2世紀半ばに生まれました。父親は哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウス・アントニヌス、母親のファウスティナは五賢帝の一人アントニヌス・ピウスの娘でした。
マルクス・アウレリウスとファウスティナの間には14人の子が生まれましたが、その多くは成人前に病没しました。ルキラの双子の兄ゲメルス・ルシラエも幼くして没しています。
アントニヌス・ピウス帝治世下に発行されたアウレウス金貨 (AD149, ローマ)
裏面には交差する二本のコルヌ・コピア(=豊穣の角)が表現され、上部には幼児の頭部が確認できます。これはルキラとゲメルス・ルキラエを表現したものとされ、皇帝の孫の誕生を記念する意匠となっています。
祖父アントニヌス・ピウス帝が崩御し、父のマルクス・アウレリウスが帝位を継承した161年、弟コンモドゥスが誕生します。アントニヌス朝の皇子として大切に育てられたコンモドゥスは、将来の皇帝として生まれた時から期待されていました。
一方でルキラもアントニヌス朝を盤石にするための役割を与えられました。
父マルクス・アウレリウスは即位にあたり、義理の弟であるルキウス・ウェルスを共同統治帝に指名し、兄弟共に即位しました。ルキウス・ウェルスはかつてハドリアヌス帝の後継者とされたルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの息子であり、マルクス・アウレリウスと共にアントニヌス・ピウス帝の養子となっていました。
マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウス帝は義弟ルキウス・ウェルスに自らの娘であるルキラを嫁がせることにより、二人の皇帝による共同統治体制を盤石なものにしようとしました。164年に結婚が成立。この時ルキウスは34歳、ルキラは15歳でした。
この結婚によりルキラは母親であるファウスティナと同じアウグスタ(=皇妃)の称号を得、彼女の姿を表現したコインが発行されるようになりました。
ルキラのデナリウス銀貨 (AD166-AD169, ローマ)
ルキラのコインはルキウス・ウェルス帝と結婚した直後の164年から、夫が亡くなる169年までのおよそ5年間発行されました。
すべてのコインには「AVGVSTA(=皇妃)」の称号が刻まれ、彼女が皇妃であった時期にのみ製造されたことが分かります。そのため確認されているコインの種類はファウスティナと比べて少なく、発行数も父や夫と比べると少なかったことが窺えます。
金貨・銀貨・銅貨もすべて同じ肖像のスタイルが採用されています。母親のファウスティナとよく似た髪形をしていますが、やや丸顔で幼さを残した印象です。
母ファウスティナのデナリウス銀貨 (AD161-AD164)
ルキラは夫のパルティア遠征にも付き従い、ローマを離れてシリアで過ごすようになります。この間に3人の子供を授かり、夫婦としての関係性は保たれていましたが、結婚から5年後の169年2月ルキウス・ウェルスは外征先で脳溢血に倒れ、そのまま崩御してしまいました。
ルキウス・ウェルスは神格化され丁重に葬られましたが、夫の死によってルキラは皇妃の称号を失うことになります。父マルクス・アウレリウスは後添えとしてティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス・クィンティアヌスというシリア出身の貴族と再婚させますが、これによって皇妃の身分を再び得ることはできず、格下げのような形になりました。
180年に父マルクス・アウレリウスが崩御すると、帝位は息子コンモドゥスに継承されました。哲人皇帝と称えられた父親と異なり、コンモドゥスは暴力的で自己顕示欲が強く、誇大妄想の傾向がみられました。この頃から姉ルキラと弟コンモドゥスの不和と対立が始まったと推測されています。
さらにコンモドゥスの妻であるクリスピナとも不仲であり、皇妃の称号を失ったルキラは宮廷から遠ざけられる状況に危機感を覚えていました。この頃からアウグスタの称号を添えたクリスピナのコインも発行され始めています。
コンモドゥスとクリスピナ
コンモドゥスは父マルクス・アウレリウスと似た風貌ですがやや目蓋が重い印象です。クリスピナはファウスティナやルキラと比べると細面で、首元が長く表現されています。
皇帝一族内の確執は単なる御家騒動に収まらず、やがてクーデターの陰謀として多くの人々を巻き込んでいきました。ルキラと夫クィンティアヌスを軸とし、元近衛長官パテルヌス、ルキラの娘プラウティア、夫クィンティアヌスの甥などが関与し、コンモドゥス帝暗殺計画が練られました。皇帝暗殺後はクィンティアヌスが皇帝に即位し、ルキラが再び皇妃の称号を得て復権する予定でした。
182年、皇妃クリスピナが妊娠したことを契機とし、コンモドゥス帝暗殺計画が実行に移されました。クィンティアヌスの甥が物陰に隠れ、近づいてきたコンモドゥス帝を短剣で刺し殺そうとしたものの、その際に「これが元老院からの贈り物だ!」と叫んだことですぐさま近衛兵に捕らえられ、計画は失敗に終わりました。
コンモドゥス帝は傷ひとつ負いませんでしたが、ただちに計画に関与した姉ルキラと夫クィンティアヌス、その子供たちを逮捕し、カプリ島に追放した後に当地で処刑しました。
こうしてルキラの復権の野望はあえなく潰えましたが、実姉に命を狙われたことや暗殺者の掛け声(=これが元老院からの贈り物だ!)はコンモドゥス帝の人間不信感情をより悪化させ、ますます政治から遠のき暴君・暗君の道を辿ることになったのです。
暗殺未遂事件から10年後の192年、コンモドゥス帝は近習の近衛隊長と愛人の策略によって暗殺され、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続いたアントニヌス朝は終焉しました。
権力闘争によって最期を遂げたルキラですが、暴君となった弟に処刑された悲劇性からか、後世の映画ではヒロインとして描かれることも多くあります。
『ローマ帝国の滅亡』(1964)
『グラディエーター』(2000)
『ローマ帝国の滅亡』ではソフィア・ローレン、『グラディエーター』ではコニー・ニールセンがルキラを演じました。どちらの作品でも弟コンモドゥスによって虐げられ、その暴政を止めようと尽力し、主人公によって救われるヒロイン像として表現されています。
伝わっている史実とはイメージが大きく異なりますが、映画作品としては見応えがありますので、気になる方はぜひご覧ください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
年が明けて早4週間が経ちました。歳末から新年が明けてお正月気分もあっという間に過ぎてしまいます。
1月1日に発生した能登半島の震災で被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。寒さが強まる時期の避難生活は過酷で厳しいものと察せられます。一刻も早く復興復旧が進み、再び日常生活を取り戻せるよう願っております。
新しい年を迎えてまだ一か月と経っていませんが、国内外では様々なことが起きていますね。今年が平穏で、少しでも過ごしやすい年になることを願ってやみません。
今年最初は辰年に因み「竜」をテーマにしたコインをご紹介します。
十二支の中で唯一神話上の生き物である竜は、古代中国では皇帝の権威を象徴する神獣とされてきました。水と結び付けられることが多く、天空を舞って雷雨をもたらす霊獣ともされたことから、農耕社会において重要な位置づけを占めていました。端午の節句の鯉のぼりにみられるように、出世の象徴としてみられることもあります。
そのため中国では十二支の中で最も人気のある生き物であり、縁起の良さから様々なモティーフに取り入れられています。
中国 2024 20元札(ポリマー製) 辰年記念
見た目は鱗に覆われた大蛇のようでありながら手足があり、ひげと角を有しています。この姿から古代のクジラやワニ、恐竜の化石からインスピレーションを得て生み出されたとも考えられています。
一方ヨーロッパでは竜=ドラゴンは巨大な怪獣の一種と捉えられており、特に中世の騎士物語では正義の騎士によって退治される恐ろしい存在として描かれてきました。見た目は大蛇よりもトカゲに近く、背翼を有しています。また火や毒液を吐く設定も組み込まれ、東洋とは異なり邪悪で凶暴な怪物としてのイメージが定着しています。しかし見た目の特徴は東洋の竜と類似点が多く、西洋と東洋で何らかの文化的接点があったことが窺えます。
その強さから守護獣として紋章に取り入れられることもありましたが、イメージの悪さからか、コインの図像として単体で表現される事例は多くありません。
中国や日本において竜がコインに表現されるようになったのは19世紀以降であり、当初は皇帝や天皇を象徴する意匠として表現されました。また長い体のうねりや細かい鱗は図像を複雑化させ、偽造防止にも役立ちました。
日本 明治4年(1871) 20銭銀貨 (*ペンダントトップ)
清国 1890-1908 一銭四分四厘銀貨
構図は日本の竜図と似ていますが、竜の顔は正面を向いています。
清国 1900-1906 10文銅貨
銀貨と異なり顔は横を向いており、日本の竜と類似した表現になっています。
現代では中華圏を中心に竜の意匠が記念コインに多く表現されています。特に辰年に合わせて発行される記念コインは人気があり、他の干支コインより高値で取引される傾向にあります。
英領香港 1976 1000ドル金貨
北朝鮮 1999 10ウォン銀貨 青龍
青龍は古代中国において東西南北を守護する神獣のひとつ。朱雀、玄武、白虎と並んで吉兆と見做されていました。東方を守護し、春を齎す霊力を信じられていました。
一方、ヨーロッパでは竜=ドラゴンは不吉な存在とされたため、騎士に退治される姿で表現されました。特にドラゴン退治の伝説で知られる聖ゲオルギオスはイギリスやドイツ、ロシアなど各地で守護聖人として崇められたことから、当地で発行されるコインの意匠として多く登場しました。
神聖ローマ帝国 マンスフェルト=ボルンシュテット 1669 1/3ターレル
聖ゲオルギオスは3世紀末にパレスチナのキリスト教徒の家庭に生まれ、後にローマ帝国の軍人となりましたが、キリスト教徒に対する迫害によって殉教したと伝えられています。
中世には聖人に列せられ、聖人伝『黄金伝説』では人々を悩ませるドラゴンから王女を救い出す物語が広く知られるようになりました。そのため聖ゲオルギオス=ドラゴン退治のイメージが定着するようになりました。
生贄にされた姫を救い出す悪竜退治の英雄伝説は、古代ギリシャのペルセウスとアンドロメダ、日本のヤマタノオロチなど、世界中で類似例がみられます。
イギリス 1889 クラウン銀貨
聖ゲオルギオス(セントジョージ)はイングランドの守護聖人とされ、白地に赤十字のセントジョージクロスはイングランド国旗になっています。
イギリスでは19世紀初頭に名匠ベネデット・ピストルッチの手による図像がコインに採用され、200年以上を経た現代に至るまでイギリスコインを代表するデザインとして定着しています。
イギリス 1935 クラウン銀貨
ジョージ5世の治世25周年を記念して発行されたクラウン銀貨には、新たなセントジョージ像が表現されました。パーシー・メットカルフによって手がけられた新たなセントジョージ像は現代風にアレンジされており、当時の芸術風潮も反映されています。ドラゴンはよりトカゲに近い描写であり、まさに怪物といった風貌です。
カナダ 2014 5ドル銀貨
英領アセンション諸島 2022 2ポンド銀貨
現代のアーティストによって再構築されたセントジョージ像は、より躍動感に溢れた表現になっています。ドラゴンの描写は時代によって変化し、現代では恐竜のイメージに近い描写です。
マン島 1995 1エンジェル銀貨
『ヨハネの黙示録』には大天使ミカエルが悪の象徴であるドラゴンと戦い、これを討ち果たす場面が描写されています。聖ゲオルギオスと類似する描写であり、ドラゴンがキリスト教において悪を象徴するイメージだったことが分かります。
オーストリア 1959 25シリング銀貨
聖書では悪の象徴と捉えられていたドラゴンも、地域によっては守護獣と見做されることもありました。ドイツやオーストリアの伝承ではリントヴルムと呼ばれるドラゴンが登場し、川の主、流域都市の守護獣とされました。いくつかの自治体ではこのリントヴルムが紋章として採用されています。
アイスランド 1974 1000クローナ銀貨
アイスランドの伝承において国の四方を護るとされた牡牛、大鷲、ドラゴン、巨人が表現されています。ドラゴンはアイスランドの北東を守護するとされ、古代中国の四神に類似しています。これはキリスト教が定着する以前のアイスランドの信仰に基づいており、今なお古来からの伝承が重視されている証でもあります。
シンガポール 1968 10セント白銅貨
タツノオトシゴはその名の通り竜から名づけられた魚です。見た目が小さな竜を想起させるため名づけられました。ヨーロッパでは馬を連想させる姿から海馬(Seahorse, Hippocampus)とも呼ばれています。
雄が卵と稚魚を育児嚢で保護する生態から、安産と子育てのお守りとして干物を身につける風習もありました。
パラオ 1995 1ドル白銅貨
パラオ 2005 1ドル白銅貨
ブータン 1979 25チェルタム白銅貨(*ペンダントトップ)
双魚は密教における幸運の象徴であり、西洋の魚座にあたります。チベットや中国では鯉が滝を登って竜になる登竜門の故事から、昇進や仕事運などの立身出世、子孫繁栄を象徴する吉祥のひとつとされています。
鯉の口元にあるひげや鱗の様子、生命力のたくましさなどから、出世すると竜になることを連想させたと思われます。
そして現代の竜といえば「恐竜」です。竜はワニや恐竜など古代生物の化石から連想された生物でしたが、19世紀以降、科学的なアプローチからその正体を探る研究が進められてきました。空想上の生物ではなく、かつて地球に存在した実在の「竜」を解明する研究は今も進められ、日々新しい発見や仮説が登場しています。
古代の地球を想像させるロマンの象徴として、子供から大人まで夢中させる恐竜は、現代では記念コインにおける人気テーマのひとつとなりました。
英語のdinosaurは「恐ろしいトカゲ」を意味するギリシャ語が語源になっています。日本では明治時代に古生物学者の横山又次郎が著した化石に関する書籍で「恐龍」と訳したことが始まりです。あえて「恐蜥」とは訳さず、その巨大さや特徴から竜を想起させるためこの訳になったとされています。
マン島 1993 1クラウン白銅貨
イグアノドンは約1億2000万年前に生息していた大型の草食恐竜です。19世紀初頭にイギリスのギデオン・マンテルによって発見され、歯の特徴がイグアナに似ていることから「イグアノドン(=イグアナの歯)」と名づけられました。マンテルは発見した化石を巨大な爬虫類のものとし、絶滅した巨大生物の存在が知られるようになりました。この発見は恐竜研究史において重要な最初の一歩とされ、マンテルは恐竜を最初に発見した人物、イグアノドンは最初に発見・命名された恐竜とも云われます。
エリトリア 1993 1ドル白銅貨
「三つの角」を意味するトリケラトプスはサイのような見た目をしており、草食性で群れによる集団生活を営んでいたと考えられます。ティラノサウルスやブラキオサウルスと並ぶ恐竜の代表格として人気があります。
リベリア 1993 1ドル白銅貨
プロトケラトプスは体長2mほどと恐竜の中では小型であり、群れをなして生活した痕跡が見つかっていることから「白亜紀の羊」とも称されます。発見数が多くかなりの個体がまとまって生息していたとみられています。また最初に卵や巣の化石が発見された恐竜でもあります。
英領ジブラルタル 1993 1クラウン白銅貨
ステゴサウルスは背中に数多くのパネル状の突起があることから、大型の肉食恐竜から身を守るために進化した特徴とみられていました。しかし近年は血管が通っていた痕跡が見つかったため、体温調節の意味があったと提唱されています。この特徴は怪獣ゴジラのビジュアルの元になっています。
20世紀半ば以降は日本でも恐竜化石の発掘と研究が進み、世界的にも注目されるようになっています。徳に福井県では豊富な化石が発掘されていることから、地方自治法60年を記念したコインのデザインとして表現されました。日本の貨幣に恐竜が登場した稀有な例です。
日本 平成22年(2010) 千円銀貨&五百円貨
福井県内で化石が発見された肉食性のフクイラプトルと、草食性のフクイサウルス(*イグアノドンの一種で通称「福井竜」とも呼ばれる)が大きく表現されています。
明治の竜から始まり、21世紀には恐竜がコインに登場するようになりました。今後は空想の生物ではなく実在の生物として、竜が再びお目見えするかもしれません。
辰年は株式市場では「辰巳天井」とも呼ばれ、昇り竜のように相場も上昇していく年と云われています。景気も運気も右肩上がりで、力強く上向いていくと良いですね。
こんにちは。
11月も終わりすぐに師走。寒さも厳しくなり、一気に冬の様相を呈してまいりました。
今年も残すところあとわずか、暖かくして年越しの準備を進めたいですね。
今回は半鳥半獣の幻獣「グリフィン」のコインをご紹介します。
グリフィンは古代ギリシャ語のグリュプス(γρυπός=鉤)に由来し、その名の通り鋭い嘴の鷲の頭部と翼を持つ、胴体はライオンの合成獣です。
『鳥獣虫魚図譜』に描かれたグリフィン
(ヨハネス・ヨンストン, 1660)
古代ギリシャではヘロドトスやアイスキュロス、クテシアスの書物に記されましたが、そこでは中央アジアやコーカサス、インドといった遥か東方の地域に生息しているとされました。後世のローマではプリニウスが『博物誌』の中で言及し、エチオピアに生息する奇妙な生物として紹介しています。
これらの記述から、グリフィンは遠く離れた異国に生息している実在の生物と認識されていたようです。
ペルセポリスのグリフィン像
グリフィンはペルシアなどオリエントのレリーフに見られる半鳥半獣の図像に由来していると考えられています。これらの図像を目にしたギリシャ人が想像を膨らませ、さまざまな民間伝承を組み入れて実在の生物のように形作っていきました。そのため図像や記述は多く残されていますが、スフィンクスやキマイラのようにギリシャ神話の中にはほとんど登場しませんでした。
(*神々の車を牽く存在として言及される例はある)
神話世界の幻獣と認識されなかったため、キリスト教が浸透した中世以降もヨーロッパではグリフィンが伝承されていきました。鳥類の王と百獣の王が合体した姿から、王侯の紋章に取り入れられたり、キリストや教会の象徴とされる例も多くみられました。グリフィンは獰猛ながらも気高く神々しい生物とされ、西洋文化において好意的な意味合いの図像として定着し、採り入れられてきました。そのため今なお多くのファンタジー作品に登場しています。
ギリシャ神話に登場しないに関わらず、王者の風格を体現するグリフィンは印章のモティーフとして人気がありました。いくつかの都市ではコインの図像として表現され、古代コインの中でも特徴的な雰囲気を醸し出しています。
エーゲ海に臨するテオスはイオニア地方における主要な植民都市のひとつでした。現在のトルコ、イズミル県シアジク近郊に位置し、円形劇場やディオニソス神殿などの遺跡が発見されています。
テオスのディオニソス神殿跡
紀元前544年頃、イオニアへ侵攻したアケメネス朝ペルシアがテオスを占領すると、多くの市民がエーゲ海を渡って国外に脱出。亡命先はトラキア地方のアブデラ(*現在のギリシャ,アヴディラ)であり、多くのテオス人がこの都市に移り住みました。しかし後年、再びテオスに帰還した人々も多くおり、故郷の復興に尽力しました。テオスはアケメネス朝の宗主下に置かれたものの、イオニア地方における主要都市として復活し、長らくその地位を守り続けました。
遠く離れたテオスとアブデラの深い関係性を示す証拠として、当時発行されたコインがあります。二つ都市のコインには共にグリフィン像が表現されています。
テオス BC470-BC450 スターテル銀貨
アブデラ BC530-BC500 スターテル銀貨
両都市で発行されたコインには、当時のギリシャ人が想像したグリフィンの姿が立体的に、まるで実在する生き物のように表現されています。特に、背翼の表現には共通性が見て取れます。
テオスとアブデラでは長期にわたってコインにグリフィンの姿を刻み続けました。グリフィンが両都市の象徴として用いられたことは明らかです。
グリフィンが表現されたコインはテオス・アブデラの銀貨が名品として知られていますが、他の都市でもグリフィンのコインが発行されました。
アブデラ BC365-BC345 テトラドラクマ銀貨
パンティカパイオン BC310-BC303 銅貨
ローマ BC79 デナリウス銀貨
コイン上のグリフィンはさまざまな姿で表現されていますが、鷲の頭に長い耳、ライオンのようにしなやかな身体は不可欠の構成要素です。オリエントに由来する幻獣でありながら、都市や発行者を示す図像として美しく表現されました。ギリシャ・ローマにおいてグリフィンは単なる異国の怪物ではなく、自分たちの文化に取り入れられた存在として認識され、肯定的な意味を付与されました。
現在に至るまで、力強さや神秘性を象徴するグリフィンは創作の世界で生き続けてきました。古代から続くシンボリックな存在として、これから先の時代も受け継がれていくことでしょう。
西ドイツ 1979年 5マルク銀貨
ドイツ考古学協会創設150周年記念コイン
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:31 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
日々秋が深まる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。だんだんと日の入りが早くなり、気温もぐっと下がっているように感じます。風邪などひかないよう、体調に気をつけて秋を楽しみたいですね。
今回は秋の夜長に相応しい一冊をご紹介します。「読書の秋」にぴったりな歴史物語です。
著者:竹中愛語
出版社:パレード
発売日:2023年11月1日
※表紙をクリックするとAmazonの詳細ページにリンクします。
著者の竹中愛語様はお世話になっているお客様で、京都の大学で東洋史・古代ギリシャ史を研究されています。
以前 当ブログでご紹介した『彗星のごとく―アレクサンドロス大王遠征記―』(文芸社, 2019)、『テーバイの将軍エパミノンダスとペロピダスー古代ギリシア英雄伝』(幻冬舎, 2023)など、古代ギリシャ史を題材とした作品を多数執筆されています。
今回の主人公テッサロニケは、紀元前4世紀のマケドニア王国に生まれた実在の王女です。父親はフィリッポス2世、兄はアレクサンドロス大王という、アルゲアダイ王朝の輝かしい姫君として生まれながら、激動の歴史の渦に翻弄された女性でもありました。
本著ではテッサロニケの生涯を軸に、父フィリッポス2世と兄アレクサンドロス大王、養母オリュンピアスなどアルゲアダイ王家の人々と、夫となるカッサンドロスやその政敵であるアンティゴノス、デメトリオス、ポリュペルコンといった英傑たちの群像劇が描かれています。
宮廷内の愛憎と確執、大王亡き後の血塗られた勢力争いに巻き込まれるテッサロニケの苦悩が、巧みな人物表現と内面描写によって丁寧に描かれています。
この物語のもう一人の主人公ともいえるカッサンドロスは、歴史上では主君であるアルゲアダイ王家を悉く排除、断絶させた上、テッサロニケを無理やり娶ってマケドニア王位を得た簒奪者として記されています。
本著では権力のため冷徹に策謀をめぐらす軍人である一方、妻であるテッサロニケにも愛情を向け、それによって彼女の人生に明るい兆しをもたらす良き夫としても描かれています。
また、学友であるアレクサンドロス大王や父アンティパトロスに対して複雑な感情を抱き、生涯その影を意識して苦悩し続ける人間的な一面もリアルに描かれています。
カッサンドロスの治世下に発行された銅貨
カッサンドロスとテッサロニケが過ごしたペラ王宮での日々は、テッサロニケがようやく家庭生活を持つことができた反面、カッサンドロスにとっては自身の権力を確立させるために奮闘する日々でもありました。本著内でのカッサンドロスはアレクサンドロス大王の家族を抹殺しながら、大王の神格化を推進する相反する行動をみせ、自身もその矛盾に苦悩し翻弄される姿が印象的です。
『アレクサンドロス大王のモザイク』
(イタリア・ナポリ国立考古学博物館所蔵)
ポンペイから出土したこのモザイク画は、アレクサンドロス大王とアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世が会戦した「イッソスの戦い」を表現したものとされます。原画はカッサンドロスがペラの王宮に飾るため、画家フィロクセノスに描かせた作品とされます。本著ではその製作過程も描写され、物語内で重要な役割を果たしています。
本著のタイトルにもあるように、テッサロニケの名は現在ギリシャの都市名「テッサロニキ」として残されています。カッサンドロスはマケドニア南部のエーゲ海に臨む地に交通の要衝となる都市を築き、そこに妻の名前を捧げました。アレクサンドロス大王の妹の名声を政治利用する反面、夫として愛する妻の名を永遠に留めたかったのかもしれません。
現在のテッサロニキ市風景
(Wikipediaより)
テッサロニキ市紋章
アレクサンドロス大王のテトラドラクマ銀貨がそのまま採用されています。
しかし基となるコインはカッサンドロスではなく、トラキアの王リュシマコスが発行したタイプです。
テッサロニキは2300年の歳月が経た今もその名で呼ばれ続け、現在もギリシャ第二の都市として栄えています。古代ギリシャにおいて実在の女性の名が都市名になることは珍しく、またそのまま存続している稀有な例でもあります。
アレクサンドロス大王の妹に生まれた故に波乱の生涯を送ることになったテッサロニケ。運命に翻弄され続けた彼女の生涯と、それを取り巻くヘレニズム期の英雄たちが織り成す物語です。
アレクサンドロス大王亡き後の混乱を活写した作品は少なく、日本語で書かれた書籍としても大変貴重です。ヘレニズム諸王朝の成立初期を知る上でも非常に参考になります。
本著は11月1日よりAmazonから発売予定。読書の秋におススメの一冊です。
Amazonの書籍詳細ページにリンクします
↓↓↓↓↓↓↓↓
こんにちは。
最近はようやく涼しくなってきたように感じます。蒸し暑い日から少しでも過ごしやすい日々になることを願ってやみません。
季節の変わり目は気温の変化も激しいので、体調管理には気をつけていきたいものです。
現在、上野公園の東京都美術館では『永遠の都 ローマ展』が開催中です。
ローマのカピトリーノ美術館より、古代から近代に至るまでの美術品の数々が来日しています。
↓クリックすると公式サイトへ
カピトリーノ美術館はローマの七つの丘の一つ、カピトリーノの丘に建てられた歴史ある美術館であり、古代から近現代に至るローマの美術品が収蔵展示されています。
カピトリーノは古代ローマではカピトリヌスと呼ばれ、七つの丘の内で最も高い丘として最高神ユーピテルやユノー、ミネルヴァの神殿が建立されていました。共和政時代~帝政時代に至るまでローマの中心として神聖視され、ローマ帝国消滅後も都市の中心部であり続けました。
英語で首都を意味するキャピタル(Capital)の語源になった場所とされ、現在ではミケランジェロが設計した美しい広場を中心に、美術館やローマ市庁舎が建ち並んでいます。
今回来日している美術品の中には、古代ローマの象徴として知られる「牝狼とロムルス&レムス」もあります。ポスターとして使用されるほど有名なカピトリーノの牝狼像、今回は複製ではありますが、本物の大きさや毛並み、質感を忠実に再現したブロンズ像です。
カピトリーノの牝狼
(ローマ展公式サイトより)
なおオリジナルの像も狼は古代エトルリア製で、ロムルス&レムスはずっと後の15世紀後半 ルネサンス期に付け加えられたものであり、古代ローマ人の手はほとんど入っていない作品と考えられています。
今回の展覧会では門外不出といわれた「カピトリーノのヴィーナス」が展示されています。
カピトリーノのヴィーナス像
(wikipediaより)
紀元前4世紀にギリシャの彫刻家プラクシテレスが手がけた作品を基に、2世紀 五賢帝時代のローマで作成された大理石像。数多く作成された古代ギリシャ・ローマのヴィーナス像の中でも特に有名な作品の一つです。
傑作と名高いプラクシテレスの作品は後世にも人気を博し、ローマ帝国では富裕層の邸宅を飾るために複製(ローマンコピー)が作成されました。オリジナルは失われてしまいましたが、こうした複製のおかげでその芸術性が後世に残されることとなりました。
この作品はカピトリーノ美術館でも多角形の特別な部屋に展示されていますが、今回の展覧会ではその空間まで再現されています。展示品本体が持つ空気をも魅せる、こだわりの工夫が為されています。
さらに今回はローマ皇帝の肖像も多数展示されています。
ユリウス・カエサルや初代皇帝アウグストゥスをはじめ、トラヤヌスやハドリアヌス、カラカラといった有名な皇帝たちの胸像が多く見られます。
当時を生きた皇帝たちの姿を模った肖像は、それぞれに個性と人間性があり、対面すると存在感と質量が伝わってきます。当時、実際に対面していない人々にも皇帝の存在を実感させる効果があったと思われます。
アウグストゥス像
(ローマ展公式サイトより)
コンスタンティヌス帝像 (複製)
(毎日新聞 2023/9/16 記事より)
今回のメインのひとつでもあるコンスタンティヌス大帝の巨像は、頭部だけで高さ1.8mという巨大なもので、足や手のパーツ部分だけでも見るものを圧倒させる巨大さです。複製であるとはいえ、実際に相対すると威圧感があり、コンスタンティヌス大帝が掌握した権力の強大さが想像できます。
大仏のようなサイズ感ですが、顔つきは生きている人間のようにリアルであり、1700年前にこれだけの巨像を製作できるローマの技術力の高さには驚くばかりです。この像が完全な形で後世に残されなかったのが悔やまれます。
この他にもトラヤヌス記念柱のレリーフ展示や種々の大理石像、ルネサンス期以降の絵画など、長い歴史を持つローマだからこそ生み出せた貴重な作品が数多く展示されています。
イッポリート・カッフィ『フォロ・ロマーノ』(1841)
カヴァリエル・ダルビーノ『狩人としての女神ディアナ』(1600-1610)
ちなみにコインは「牝狼とロムルス&レムス」を表現した金貨・銀貨・銅貨が並んでいます。カピトリーノ美術館所蔵のコレクションだけあって、どれもすばらしい状態です。
『永遠の都ローマ展』は上野公園の東京都美術館で12月10日(日)まで開催中です。
※土日・祝日は日時指定予約制 (*当日の空きがあれば入場可能)
※2024年1月5日~3月10日は福岡市美術館に巡回予定
ローマ史に少しでも興味関心がある方はぜひ足をお運びください。日本ではなかなかお目にかかれない展示物の数々、行って損はないと思います。
近くの御徒町には当店 ワールドコインギャラリーもございます。展覧会見学の帰り道に、ぜひお立ち寄りくださいますと幸いです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
毎日暑い日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
最近は集中豪雨や台風も増え、水害の心配も増えてきています。暑さが少しでも緩和されると良いのですが、外出のスケジュールも立てにくい時期ですね。涼しく過ごしやすい、秋晴れの日々が待ち遠しいです。
今回は中米グアテマラを象徴する鳥ケツァールのコインをご紹介します。
ケツァールは中米地域(=グアテマラ、ニカラグア、エルサルバドル、コスタリカ、ホンジュラス、パナマ)の山林に生息する鳥です。
紅と白、エメラルドグリーンのコントラストが美しい鮮やかな羽が特徴的で、かつてこの地に栄えたマヤ・アステカ文明では王や神官を象徴する羽飾りとして重宝されました。ケツァールは大気を司る神の化身とされ、その神々しさから崇拝の対象にもなっていました。
(wikipediaより)
キヌバネドリ科のケツァールは体長35cmほどですが、オスは長い尾羽を有しています。ケツァールの名は現地の古い言語で「大きく輝く尾羽」を意味し、尾羽まで含めると120cmほどの長さになります。優雅な尾羽をヒラヒラと靡かせながら天を舞う姿は、まさに神の鳥にふさわしい容姿です。一方で顔つきは小鳥らしいかわいらしさがあり、人々から長年愛される要素となっているようです。
また人間による飼育が大変難しく、飼育展示している動物園は世界的にもほとんどありません。
そして「捕らえると死んでしまう」という伝承から、近代に入ると何ものにも束縛されない「自由」の象徴として意味づけられるようになりました。
グアテマラ共和国はケツァールを「国鳥」として定め、国章の一部に取り入れています。
グアテマラ共和国の国章
書面にはグアテマラがスペインの植民地支配から独立した「1821年9月15日 自由」を意味するスペイン語銘が記されています。
グアテマラの位置
西北はメキシコ、東はベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルと接しています。面積は北海道と四国を合わせたほどですが、火山や湖、湿地帯や熱帯林などの豊かな自然と、温暖な気候に恵まれています。かつてはマヤ文明が栄えた地として知られ、ティカルのピラミッドをはじめ、数多くの古代遺跡も残されています。
1894年 1ペソ銀貨
グアテマラでは独立以降、スペイン統治時代のレアルやフランスフランと連動したペソ(5フラン=1ペソ)が通貨として導入されました。コインにはグアテマラの国章が大きく表現され、上にはケツァールの姿もありました。
第一次世界大戦を経て世界の金銀本位制が揺らいだため、1925年にグアテマラでは従来のペソを廃止し、新たな通貨を発行しました。新通貨単位はグアテマラの国鳥である「ケツァール (Quetzal)」の名がそのまま採用されました。
1ケツァール=100センタヴォとされ、当初はアメリカドルとほぼ等価に設定されていました。これはアメリカ資本によって国内経済を支配されていた当時のグアテマラの事情も大きく関係しています。
新通貨発行に伴い、コインのデザインも一新されました。従来の国章は変わりませんが、共通デザインとして通貨単位そのものであるケツァールがメインとして表現されるようになったのです。これがグアテマラを代表するコインとして世界的に知られる金貨・銀貨です。
1926年 20ケツァール金貨
表面には長い尾羽を垂らしたケツァールが表現されています。反対面の国章にも表現されていることから、両面共にケツァールが表現されていることになります。
※国章のケツァールは以前のタイプよりやや修整され、首の向きは右から左へ、長い尾羽は銃剣の背後から前へ変更されています。
柱の上にとまる優雅なケツァール、周囲部には新通貨発行の法的根拠を示す「LEY DE 26 DE NOVIEMBRE DE 1924 (=1924年11月26日法令)」銘が配されています。
柱に刻まれた「30 DE JUNIO DE 1871 (=1871年6月30日)」銘は内戦において自由主義派が勝利し、政権を樹立した記念日であり、自由の象徴であるケツァールと組み合わせて表現されています。なお、ケツァールが配された国章も1871年に制定されました。
この金貨は当時のアメリカの20ドル金貨と同じ金性90%、33.437gで造られています。製造はアメリカのフィラデルフィア造幣局が請け負いました。
このケツァール金貨は20ケツァール金貨、10ケツァール金貨、5ケツァール金貨が発行され、さらに1ケツァール銀貨、1/2ケツァール銀貨、1/4ケツァール銀貨、10センタヴォ銀貨、5センタヴォ銀貨にも柱のケツァールが共通して表現されていました。
大型銀貨の1ケツァール銀貨はその大きさから見事な風格がありますが、10,000枚製造後に7,000枚が回収・溶解されたため現存数は少なく、現在では貴重なコインの一種として高値で取引されています。
1926年 1/4ケツァール銀貨
銀貨の場合、初年号である1925年銘はアメリカのフィラデルフィア造幣局が請け負いましたが、1926年以降はロンドンの英国王立造幣局でも製造されました。ケツァールの表現はアメリカで製造されたものより線が太くなり、やや木彫り細工のような印象を受けます。銀貨はアメリカの銀品位90%と異なり、72%で製造されています。
1946年 1/4ケツァール銀貨
1946年以降はグアテマラ国内の造幣局が製造するようになりました。デザインや重量などは同じですが、圧印やリムがやや異なります。
1932年 5センタヴォ銀貨
1.6667g、15.5mmの極小さな銀貨。僅かなスペースの中に美しい羽のケツァールが微細に表現されています。
1950年代に入ると柱のケツァールを表現したシリーズはデザインが変更されました。しかし国章のケツァールは変わらず残され、通貨単位の「ケツァール」も維持され現在に至っています。現在でもグアテマラで発行されている紙幣にはすべての額面にケツァールの姿がデザインされています。
しかし本来のケツァールについては、宅地・農地の開発によって生息地が減少し、乱獲の影響もあり生息数を減らしているようです。人間の手による繁殖が難しいため、中米各国は自然保護区の管理を厳重にすることで数を増やそうと試みています。
美しさのみならず、自然の中でしか目にできないことから「見ると幸せが訪れる鳥」として観光資源にもなっているようで、結果的に自然保護区の維持にも役立っています。
神聖性や自由、幸福、環境保護、さらには通貨単位にいたるまで、人間たちに多くの意味を付与されてきたケツァール。今後も豊かな自然に守られながら、優雅にのびのびと舞い続けてくれると良いですね。
コンゴ民主共和国 2004年 5フラン白銅貨
世界の自然保護をテーマするシリーズとして発行されたカラーコイン
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:11 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続いていますね。夏が暑いのは当たり前ですが、かつては日差しが強くても日陰に入れば少しは涼しかったように思います。ですが昨今は外にいるだけで空気が熱く、サウナにいるより息苦しさを感じます。
外出も危険な日々が続きますが、健康に乗り切っていただければ幸いです。
今回は古代ギリシャ世界に大きな影響を与えたアケメネス朝ペルシアのコインをご紹介します。
ペルシアのコインを古代ギリシャコインのカテゴリーに入れるか否かは疑問もありますが、当時のギリシャ世界に大きな影響を与えたという事実は無視できません。
アケメネス朝は現在のイラン南部を起源とする王朝であり、紀元前550年に大国メディアを滅ぼしてイラン高原を統一したキュロス2世を始祖とします。
勢いに乗るキュロス2世は周辺諸国の征服にも邁進し、小アジアやメソポタミア、パレスチナ、フェニキア、中央アジアまで勢力圏を広げました。オリエント世界を統一する大帝国を築く過程で、紀元前547年に小アジアのリディア王国を征服したことが、アケメネス朝のコイン発行のきっかけとなりました。
最盛期のアケメネス朝ペルシアの版図 (紀元前500年頃)
リディア王国 1/3スターテル (紀元前620年-紀元前547年頃)
初期のコインは金と銀の合金エレクトラムによって造られ、リディア王を象徴するライオンが刻印されています。裏面の陰刻印は、表面の図像を打ち出すための打刻跡です。
リディア王国は世界史上初めて本格的なコインを製造した国とされ、クロイソス王の時代には金貨・銀貨を大量に発行して経済的な繁栄を謳歌しました。
クロイソス王のリディアを滅ぼしたアケメネス朝は、ギリシャ世界への影響力を得るため「貨幣」という新しい経済システムを保持・継承しました。
(*首都サルデス陥落後にクロイソスは処刑されたと伝わる一方、助命されてキュロス2世の顧問になったとも伝承されています)
リディアのコインは小アジア西部のギリシャ植民都市で広く流通しており、ギリシャ人の傭兵を得る上で重要な武器でした。アケメネス朝は引き続きリディアのコインを製造し続け、現地の傭兵を雇うことで小アジア支配を確固たるものにしていきました。
アケメネス朝支配下のサルデスで製造されたシグロス銀貨
(紀元前545年-紀元前520年頃)
*リディアの1/2スターテル銀貨に相当。クロイソス王の時代に発行されたコインとほぼ同じデザインですが、極印がややシャープになっています。
紀元前521年に王位に登ったダレイオス1世はリディア以来続いた「ライオンと牡牛」のデザインを一新し、新しくペルシア独自のコインに刷新します。
こうして発行されたのがダリック金貨とシグロス銀貨です。
ダリック金貨 (紀元前510年-紀元前450年頃)
ダリックは古代ペルシア語で「金」を意味する「ダリ」に由来します。品位98%の金8.4gという基準は、良質な牡牛一頭に対する遊牧民の相場に基づいているという説があります。
シグロス銀貨は品位90%の銀5.6gによって造られ、20枚でダリック金貨1枚の価値に相当しました。
シグロス銀貨 (紀元前505年-紀元前480年頃)
金銀はリディアだけでなく、アケメネス朝が到達した東端のインダス川からも砂金を調達しました。そのため高品質の金貨を大量に製造することが可能になったのです。ダレイオス1世にとっては独自の貨幣を発行し、王朝の強大な富の力を諸民族に誇示する狙いもあったと思われます。
コインには槍と弓を持って走る王、または弓を構える王の姿が表現されています。冠を戴く姿からペルシア王と認識されていますが、理想された祖先の英雄像という見方もあります。この意匠はオリエントの君主の武威を象徴した「ライオン狩り」の様子を表現しているとする説もあります。
(*初期のタイプは弓を構える姿であり、その後は武器を持って走るor跪く構図に統一)
ペルセポリスのレリーフ (ライオンと兵士たち)
ライオン狩りはオリエント世界では帝王の象徴的行為とされ、百獣の王であるライオンを打ち倒す姿は君主の武威を分かりやすく誇示する役割がありました。狩猟用の広大な敷地を整備し、放たれたライオンを王と従者、兵士たちが追いつめて討ち取る一大行事は軍事教練であり、王の神聖性や強大な権力を示す政治的パフォーマンスでもありました。
もしリディアコインの象徴的意匠である「ライオン=リディア王」を意識していると仮定すれば、ペルシア王のライオン狩りが新たな意匠に選ばれたのも納得できます。ライオン狩り=リディアの完全征服を示し、リディアの経済的地位はアケメネス朝が継承したことを表しているのかもしれません。
この意匠は弓矢が槍やナイフに置き換わったり、ひげや顔つきに変化がみられるなど時代によって差異はありますが、ダレイオス1世以降一貫して同一の構図が守られていきました。
裏面はリディアのコインと同じく長方形の陰刻印が確認できます。
シグロス銀貨 (紀元前480年-紀元前420年頃)
シグロス銀貨 (紀元前420年-紀元前375年頃)
シグロス銀貨 (紀元前375年-紀元前336年頃)
貨幣経済が発達したギリシャと密接な小アジアやフェニキアとは異なり、エジプトやメソポタミア、ペルシア本国では貨幣経済が未発達のままでした。納税は金貨や銀貨でも行われましたが、市中では現物取引が一般的であり、物産品による献納が定着していました。アケメネス朝の支配領域は東西に広く、地域ごとの文化や経済の差異が大きい点も特徴でした。
アケメネス朝の君主は「シャーハンシャー(=諸王の王)」と称され、多種多様な民族と地域の上に君臨することを示しています。そのため貢納と兵力の提供、宗主権を認めれば現地の慣習を保持することを容認していました。ギリシャ人社会の貨幣制度を採り入れ、ペルシア風でありながらも保持し続けたのもその一環です。また小アジアにはアケメネス朝に服属したギリシャ系植民都市もあり、それらの都市では独自のコイン発行が認められていました。
しかしペルシア人による支配は徐々にギリシャ人の反発を蓄積し、紀元前500年には小アジアのイオニア地方で大規模な反乱が勃発。その背後にはアテネなどギリシャ本土の援助があるとして、ダレイオス1世は大軍勢を送り込んでギリシャ征服を目指します。
こうして始まったペルシア戦争(紀元前492年-紀元前449年)はギリシャ史における重要な時代となり、その後のギリシャ諸都市の勢力関係にも大きな影響を与えます。
この戦争において、アケメネス朝はペルシア人だけでなく多くのギリシャ人傭兵も動員しています。ギリシャ人の相手をさせるにはギリシャ人が最適ということで、各地から傭兵をかき集めて戦力として投入しました。傭兵を集める上でも、ダリック金貨やシグロス銀貨が使用されました。また、ギリシャ本土の都市国家間の結束を揺さぶるため、親ペルシア的な有力者にも金貨銀貨が贈り関係性を維持しました。
ダリック金貨 (紀元前375年-紀元前336年頃)
紀元前4世紀以降は図像が細密化し、より写実性の高いものに変化しました。
半世紀に亘った戦いの末、結果的にペルシアのギリシャ征服は失敗に終わりますが、その後も硬軟織り交ぜた形でギリシャへの影響力を保持し続けました。後にギリシャを二分したペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)やコリントス戦争、神聖戦争ではペルシアのダリック金貨が飛び交い、各国を買収して戦争を長期化させることに成功しました。
また小アジアは依然としてアケメネス朝の勢力圏にあり、ギリシャに対する大きな脅威であり続けました。
小アジア南部のキリキア地方の都市マロスで造られたオボル銀貨
(紀元前390年-紀元前385年)
重量はギリシャの基準で造られていますが、デザインはペルシア様式が色濃く反映されています。
しかしマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)による東方遠征が始まると、小アジアのペルシア軍は次々に駆逐され、ダレイオス3世自らが出征したイッソスの戦いでは大敗を喫しました。ダレイオス3世が戦場から敗走したことでアケメネス朝に対する求心力は急速に失われ、その後はフェニキア、エジプト、メソポタミアを失い、ついにはペルシア本土も失うことになりました。
イッソスの戦い (紀元前333年)
(ポンペイのモザイク画)
200年以上オリエント世界を統治したアケメネス朝はアレキサンダー大王によって滅ぼされ、その後はギリシャのアッティカ基準による統一通貨が広く流通することになりました。遠征軍はアケメネス朝が貯め込んでいた莫大な量の金銀を獲得し、それらを自分たちのコインを発行する原材料としました。
ペルシア王の姿を刻んだダリック金貨やシグロス銀貨も戦利品として溶解され、新たな支配者となったアレキサンダー大王(ヘラクレス像)の姿を刻んだコインに変えられたのです。
アレキサンダー大王も中央アジア~インダス川まで支配権を広げ、各地にギリシャ人の植民都市を建設しました。これらの都市では後にギリシャ系の王朝が興り、ギリシャ式の独自コインが数多く発行されることとなります。
ギリシャ文化圏と接していた西方とは異なり、東方では物品経済が一般的だった(*献納や納税も現物によって行われた)ため、アケメネス朝の貨幣はあまり流通しなかったとみられています。しかし現地ではパンチマーク(小打刻印)が打たれたコインが出土することから、領域を超えた地域でも地金の価値として取引されていたとみられます。
加刻印が打たれたシグロス銀貨
銀の品質を確認した際に打たれたとみられ、刻印があることでアケメネス朝の領域外でも金属的価値が認められたと考えられます。それぞれのモティーフは月や太陽、幾何学文様など多種多様ですが、こうした加刻印はバクトリアやインドなど東方地域にみられます。
西方のリディアで製造されたコインがアケメネス朝の交易ルートを通じ、遠く離れた東方にまで到達していたことを示しています。アケメネス朝の支配領域の広大さと多様さを物語る史料といえます。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:11 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
6月に入り梅雨らしい雨模様が続いております。湿気の多い毎日は過ごしにくいですが、梅雨が明けると後は猛暑がやってきます。エルニーニョ現象やラニーニャ現象など、異常気象をもたらす自然現象は毎年のことですが、今年の夏は過ごしやすいと良いですね。
今回はエルニーニョ現象でも知られる南米のペルーで発行された金貨をご紹介します。
ペルーは太平洋に面した南アメリカ大陸の国であり、国土面積は日本の3.4倍。南北に伸びた国土にはアンデス山脈からアマゾンの熱帯雨林、乾燥した砂漠地帯まで多種多様な気候風土に恵まれています。かつてインカ帝国が栄えた歴史から、マチュピチュ遺跡やナスカの地上絵など世界的に知られる名所も数多く存在します。
1821年にスペインから独立して以降、諸勢力間での内紛が絶えず、周辺諸国との度重なる戦争も重なり政情はなかなか安定しませんでした。
スペイン統治時代から鉱山の開発が行われたため、豊富な金銀に恵まれたペルーは良質な金貨や銀貨を発行し続けました。しかしチリとの戦争(太平洋戦争, 1879-1884)に敗れたペルーは領土の一部を喪失し、硝石の採掘と輸出が困難になったことから、経済的な不振に見舞われました。
そこでペルー政府は通貨改革を実施して物価を安定化させると共に、19世紀末に進展した金融の国際化にも対応しようとしました。
ペルー 1898年 1リブラ金貨
1898年、当時の世界各国の通貨政策基準となっていた金本位制に基づく新通貨「リブラ」が発行されました。
ペルー経済に強い影響力を及ぼしていたイギリスの「スターリングポンド」にリンクさせた通貨であり、1リブラは1ポンドと等価に設定されました。そのため1リブラ金貨はイギリスのソヴリン金貨と同じ金性(Gold917)・重量(7.9881g)・サイズ(22mm)で製造されました。外国との決済でも用いることのできる国際通貨として定着させる狙いがあったものとみられます。
通貨単位の「リブラ(libra)」はもともとラテン語で「天秤」を意味し、古代ローマでは重さの基準単位として使用されました(*1リブラ=約327.4g)。
イタリア語やスペイン語では現在もそのまま重量の単位として使われています。(*但し重量は国や時代によって変化している)
イギリスではリブラが「ポンド(*ラテン語で「重さ」を意味するpondusから)」と称され、時代の変化と共に重量単位⇒通貨単位にまで発展しました。
そのためポンドの通貨記号はリブラの頭文字であるL=£であり、ペルーがイギリスのポンドにリンクした金貨を導入する際、「リブラ」を通貨単位に選んだ理由が分かります。
しかしそのデザインはペルーの独自性を表現したものであり、優れた技巧の彫刻作品として世界にも通用する完成度です。南米版のソヴリン金貨として、国際通貨としての役割を期待されていたことがうかがえます。
表面にはペルーの先住民である「インディオ」の男性像が表現されています。大きな耳輪と羽飾りを付けた姿であり、アマゾン地域で生活する先住民を理想化したモデル像とみられています。
下部には1リブラを意味するスペイン語「UNA LIBRA」銘、上部にはペルーの「VERDAD I JUSTICIA (=真実と正義)」銘が配されています。
先住民を表現したコインとしてはアメリカ合衆国のインディアン金貨(5ドル&2.5ドル)が広く知られていますが、ペルーではそれよりも先に発行されていました。
裏面にはペルー共和国の国章が表現されています。上部には光り輝く太陽、周囲部には「REPUBLICA PERUANA (=ペルー共和国)」銘と造幣都市リマを示す「LIMA」銘、造幣局の試金官を示す「R・OZ・F」銘が配されています。
金貨の製造はペルーの首都リマの造幣局で行われました。リマ造幣局はスペイン統治時代の1565年に設立された長い歴史を持ち、鉱山開発によってもたらされた大量の金銀を精錬、加工していました。ただしリブラ金貨の製造はリマ造幣局だけは目標に追いつかず、アメリカのフィラデルフィア造幣局がプランシェット(*型押しする前の円形平金素材)を供給したこともありました。
また1902年からは1/2リブラ金貨も発行され、1/2ソヴリン金貨との互換性を高めようとしてことが窺えます。また1906年には独自の1/5リブラ金貨も発行が開始されました。
ペルー 1908年 1/2リブラ金貨
サイズは縮小されていますが、両面のデザインは同じです。こちらもイギリスの1/2ソヴリン金貨と同規格で製造されています。
リブラ金貨は金本位制の導入によって国際通用性を高めるために発行されましたが、国内で流通していたソル銀貨(*Solはスペイン語で太陽を意味する)にも対応するため「1リブラ=10ソル」の交換価値が設定されていました。
ペルー 1887年 1ソル銀貨
1863年に新通貨ソルが導入された際にも、通貨価値を安定させるために当時世界中で採用されていたフランス・フランの基準を取り入れて「1ソル=5フラン」と定めました。そのため1ソル銀貨はフランスの5フラン銀貨と同じ基準で製造されました。
しかし1914年-1918年の第一次世界大戦、1929年の世界大恐慌を経て世界経済は大きな変化を迎えます。従来の金本位制の維持は難しくなり、主要な国々で事実上停止されていったのです。イギリスも例外ではなく、19世紀以降続いてきたソヴリン金貨の発行と流通は難しくなりました。スターリングポンドと連動していたペルーもその影響を受け、1930年には金本位制を停止しました。
ペルー 1931年 50ソル金貨
1930年から発行されたインディオ金貨はコレクター向けの大型金貨として製造され、海外の収集家や資産家に買い求められました。裏面に金性(Gold900)と総重量(33.436g)が明記されるのは、南米のコインにみられる特徴の一つです。
1950年以降「リブラ」はペルーの正式な通貨単位としては廃止されますが、リブラ金貨そのものは地金型金貨として1969年まで製造され続けました。既に貿易決済通貨として使用されることはありませんでしたが、ペルーを代表する金貨として外貨獲得の手段になりました。ペルー版ソヴリン金貨は期待された本来の役割を終えた後も、ペルー経済安定のために役立ったのです。
地金型金貨として製造されたリブラ金貨(1966年銘)
デザインや規格は発行開始当初と同じですが、刻印彫刻はよりシャープになっています。
投稿情報: 16:24 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
最近のコメント