【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
初期のローマ世界では、アフリカの遊牧民と同じように家畜が家の財産としてみなされていた。
物々交換が経済活動であった時代、家畜は特に有効な交換単位の一つだった。
その後、秤量貨幣(アエス・ルデ)と呼ばれる延べ棒のような貨幣が登場した。この貨幣には当初、物々交換時代の名残から牛などの家畜が刻印されていた。
秤量貨幣はその重さが規格化されていたとはいえ、最大重量が約1.6kgもある、絵柄付きの延べ棒であった。
その後、ギリシャを倣って円形のものも作られたが、あまりに重すぎるそうした貨幣は扱いやすい通貨とは言えず、広く流通することはなかった。後世のラテン語表現の中には、金銭の支払いに関して「gravis(重い)」という表現が存在する (例:重い罰金) が、それは実際に「重い貨幣」を使用していたことに由来している。
現在のコインに近い貨幣がローマに登場するのは、紀元前300年頃であると考えられている。この頃からローマは、カンパーニア(イタリア半島南部)に存在したギリシャの造幣所に青銅貨や銀貨等のコインの鋳造を委託している。
当初は自国での鋳造を行わず、当時のコイン先進地域であったギリシャにコイン鋳造を委ねていたのである。
その後、ローマで初めて貨幣の鋳造が行われたのは紀元前269年といわれている。
古代ローマの通貨体系の基本単位は、帝政期に至るまで約4gのデナリウス銀貨であった。デナリウスは紀元前200年頃から銅貨(アス)12枚に細分化された。
ユリウス・カエサル時代に鋳造されたデナリウス銀貨であり、表面には農耕神セレス、裏面には壺や杖等が刻印されている。
紀元前89年以降、デナリウス銀貨とアス銅貨の交換比は1:16であった。銀貨と銅貨の間にはセステルティウス貨が存在した。
紀元前216年には金貨の発行が開始された。しかし共和政時代、金貨の発行はさほど多くなく、全体量から考察すると少数だったとみられている。
重量は1.03gと超小型である。表面にはローマ神、裏面には双子神ディオスクリが刻印されている。
アウグストゥス帝の時代、アウレウス金貨の価値は25デナリウス銀貨に確定した。
以下はユリウス=クラウディウス朝時代(紀元前31年~紀元68年)のローマ帝国通貨とその相対的価値である。
尚、「アウレウス」とはラテン語で「金」を意味する。
尚、3世紀になると急激なインフレーションが発生し、デナリウス銀貨の銀含率は著しく低下した。以降、ローマ通貨の中心単位はアウレウス金貨になった。
直径19㎜で量目7.79gの帝政ローマ初期の金貨。写真の肖像はティベリウス帝(在位:14年~37年)。裏面にはリウィア坐像が刻印されている。
しかし、庶民の日常の中で銀貨や金貨が登場する機会は少なかった。多くの市民は日常生活において、最も身近なコインとしてはアス銅貨を使用していたからである。
写真の銅貨表面肖像はアグリッパ(カリギュラ帝の祖父)、裏面の立像は海神ネプチューンである。この銅貨はカリギュラ帝の治世下(37年~41年)で発行された。
富裕層は金貨や銀貨を自宅の金庫に貯め込んでいた。
当時、有産階級の富裕世帯には必ず青銅製、または鉄製の金庫が存在した。金貨、銀貨等の蓄財は人一人が入れる位の鉄製の鍵がついた金庫にしまい込まれ、必要な出費の毎にそこから支払われていた。金貨や品質の良い銀貨(特に1世紀~3世紀初頭のもの)は一般の流通市場には乗らず、資産保護のために大屋敷の金庫の中にしまい込まれていたのである。
しかし、このことによって多くのローマ金貨、銀貨が良い状態で保存され、後世のコインコレクター市場向けに多くのコインが残されたのである。
ローマ帝国時代には物流も交通網も発達し、貨幣は経済活動の根源となっていた。いかなる階層に属する者であっても、貨幣によって生計を営んでいたのである。労働者の報酬も、現金による賃金が基本化していた。
日々の買い物はもちろん、宿から娼家に至るまで、貨幣による支払いが唯一の決済手段だった。
ローマ帝国では貨幣経済が末端にまで浸透しており、大都市ローマから地方、属州に至るまで支払いには時の皇帝の肖像が刻まれたコインが日常的に使用された。
ローマ帝国内に暮らす者にとって、コインは生きていく上で欠かせないものうぇすぱしだったのである。
広大な帝国の各地にコインを供給する為、ローマをはじめ属州にも造幣所が設置された。後期には帝国各地20か所に造幣所が存在した他、ギリシャや小アジア(現在のトルコ)の自治都市では、当地のみでの流通に限られていたが、独自貨幣の鋳造も認められていた。
さらに、紀元前2世紀以降、記念コインの発行が頻繁に行われるようになった。記念コインは既にこの頃から存在していたのである。
紀元前46年~紀元前45年の発行。勝利のトロフィーを中心に据え、両脇に二人の捕虜を描いている。
広大な帝国全土にローマ皇帝の権威を誇示する為、貨幣という効果的な流通媒体に政治的スローガンやモットー (例:felicitas(幸福)、liberalitas(自由)、concordia(協調)、justitia(公正)等・・・) を刻むことが流行した。
皇帝の対外戦勝記念や文化事業記念も、コイン上に刻まれたことで威厳を高めた。
そして、後世(特にルネサンス期の西欧)にはそうした記念コインが、古代ローマ史研究の一助にもなったのである。
当時から納税も現金(コイン)で行われていた。相続税、人頭税、地税等、ローマ市民から属州民まで、幅広い帝国臣民が様々な課税の対象となっていた。
イエス・キリストはユダヤの律法学者に「ローマ皇帝に重い税を納めなければならないか?」と問われた際、デナリウス銀貨に描かれたローマ皇帝の肖像を指摘し、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」と答えたという逸話が聖書にも残っている。
このことは、当時から辺境の属州にまでローマの貨幣制度と、そこに描かれた皇帝の権威が及んでいたことの証でもある。通貨とそれを発行、流通させる国家権力とは密接な結びつきを帯びており、なおかつ末端の庶民にまで影響をおよぼしていたのである。
強欲でケチな皇帝として知られたウェスパシアヌス帝(在位:69年~79年)は、財政再建の為に増税を行ったが、その中でも印象が強いのは通称「尿税」である。当時、尿は毛織物の染色や皮なめし、洗濯に使用されていたことから、公衆便所の尿にまで税金をかけたのである。
この税によって、当時から後世に至るまで「ウェスパシアヌス帝=ケチ、強欲」という評価が下されることになった。
左は75年のデナリウス銀貨、右は80年のデナリウス銀貨
息子のティトゥス(次帝 在位:79年~81年)は父帝に対し、尿税はローマ皇帝の権威と尊厳を損なうものであるとして抗議した。
すると父であるウェスパシアヌス帝は、この税によって徴収した金貨を息子に嗅がせ、臭いかどうか尋ねたという。
本日は以上となります。
お付き合い下さり、ありがとうございます。
次回も宜しくお願い致します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
こんにちは。
いよいよ1月も最後となりました。
まだまだ寒い日々は続いていますが、2月に向けて頑張りましょう。
さて、本日のブログ記事は、先週に引き続き古代ローマ人の日常に関しての知識をお伝えします。
近頃は寒い日が続いて、家の中の掃除や冷たい水を使う家事が億劫になっていませんか?
と、いうことで今週のテーマは、古代ローマ人の「家事」についてです。
古代ローマ人の日常では、家庭内での家事はどのように捉えられていたのでしょうか?
また、古代ローマの「主婦」とはどのようなものだったのか?
今回は「家事」というキーワードを基にして、古代ローマ人の日常を御紹介したいと思います。
古代ローマにおける家庭内の仕事とはいかなるものであったのか?
現代の感覚から捉えれば、掃除、料理、洗濯、ベッドメイキング等がまず思い浮かぶ。
しかし、これらは現存する資料からはまず分からないし、そもそも中流階級以上の主婦はこのような仕事を行うことはなかっただろうと考えられている。
というのも、これらは典型的な奴隷の仕事であったからである。
大きな世帯では、一部は専門の使用人が、中流家庭では1人~3人の奴隷が家庭内の家事をこなしていたと考えれている。
このような家事を調整し監督するのは、もちろん一家の主婦の責任であった。
「家を守る」ことは、夫と妻の古典的分業の範囲内では、当然主婦に帰属すべき管理機能であった。つまり、古代ローマの社会では、家庭内の雑務の有無に関わらず、ほとんどすべての家政は主婦の担当であると考えられていたのである。
一方で、豪邸に住まう一族や地方で荘園を経営するような階級に属した多くの主婦は、その監督義務をも「ウィーリカ」と呼ばれる不自由身分(奴隷)の女管理人に委ねることが多くみられた。特に大きな屋敷ではそうした伝統が代々引き継がれ、農園を管理する不自由身分の管理人の妻が、その家庭の他の奴隷たちの家事を監督していた。
つまり、多くの使用人たちをまとめるチームマネージャーのような存在であり、ヴィクトリア朝時代の英国にみられた「メイド長」のようなものである。
ウィーリカは住居を清潔に保ち、家人から使用人たちの食事にまで気を配っていたのみならず、大きな農場を有している屋敷では、果実の収穫、穀物挽き、家禽の世話等、夫の役割も補佐していた。
そのことから、郊外の大荘園主の妻は家事をほとんど行わなかったのではないかと推察される。
荘園を持たない都市の上流階級の大屋敷でも、多くの奴隷が使用人として存在していた。料理、掃除等の日常的な家事は、そうした奴隷たちが担当していた。
都市部の家庭でも、家事を女監督人に委ねることが多かったが、一般的には世帯主の妻自らが監督責任を担った。食事の作り方や掃除の仕方、日々のやるべきことを使用人たちに教え込み、また日頃からその働きぶりをチェックしていたのである。
また、妻は家計簿の管理も行い、家庭の金の出入りを厳しくチェックしていた。
この辺りは、現在の社会にも通ずるものがあるように感じられる。
しかし、大多数の一般的な市民の家庭には、奴隷などを抱えることは出来なかった。奴隷を使えない以上、当然 家事は家族が自らこなさなくてはならなかった。
家事の大部分は、ローマの社会に深く根差した役割の規範に基づいて、妻が受け持ってきたといえるだろう。 上流階級の妻や母に期待された役割は、ローマの社会全体で理想化され、それが無差別に社会の全階層に転用されていたようである。
加えて羊毛の加工作業は、中流階級以上の女性にとって模範的家事の一つとして認識されていたようである。 現在のように機械の並ぶ工場がない時代には、細かな手仕事で、しかも家庭の中で行えるとあって、女性向の仕事と捉えられていたのかもしれない。
事実、羊毛加工の仕事は、貴婦人に相応しい家事の一つとして長年讃えられてきた。
亡くなった妻を讃えたいと思う夫は、墓石の上に「貞潔」「優しさ」「従順」等の愛と感謝の言葉と並んで、当たり前のこととして羊毛加工の仕事(ラーニフィキウム)を刻ませたほどである。
都市部では乳母、女優、芸人、踊り子、売春婦等が女性の代表的な仕事であり、加えて小売業や織物業でも女性の姿が多くみられた。その中で家事も担っていたことを想像すると、家庭内での女性の負担は大きかったと思えてしまう。
ただ、ローマ等、都市部の住居の質素な調度とその量の少なさが、負担を軽くしてはくれていた。また、洗濯業では多くの男性従業員が働いていたことからも推測できるように、男性の洗濯屋が一般家庭の洗濯仕事を受け持っていた可能性もある。
料理に関しても、下層階級が住む「インスラ」と呼ばれた集合住宅には、住居に台所もかまどもなかったので、そもそも家庭内で料理ができないことが多かった。家に台所が無い人々が温かい食事を口にするには、ローマ市内の至る所にあった軽食堂を利用していたと思われる。
日常的に屋台や軽食堂を利用することで、あまり料理をしないという食生活は、現在の東南アジアの都市部でもみられる生活スタイルである。
軽食堂は道路上に出店された、いわば屋台であり、サービスカンターに加えて簡単な椅子とテーブルが路上に並んでいた。その為、帝政期のローマでは街中の交通の流れを滞らせ、多くの苦情も寄せられていたが、ローマ市内に住む庶民にとって、そこが唯一温かい食事を口にできる場所であった。
したがって、ローマ市内に住む女性が家事に費やした時間とエネルギーは、全体として見ても今日の一般的な量にはるかに及ばなかったといえるだろう。
しかしそれ以上に、型にはまった家事を「天職」だの心からやりたいことだのと感じた人はほとんど誰もいなかったと思われる。
しかし、「家を守る」という役割を期待された女性に対し、夫は様々な形で愛情と感謝を表したと思われる。「幸福な家庭」像は、現在と同じく古代ローマでも存在しており、男性にとってその理想と幸福を護ってくれる「家庭の天使」たる妻は、大切な存在だったのだ。
様々な文献、石碑には妻を思い慕う夫の想いが残されている。愛妻が亡くなった際、残された夫はその愛と感謝の気持ちを、妻の墓石に刻ませたのである。
それらの史料は、夫婦の愛情が古今東西不変であることを、現代の我々に物語っているのである。
最後に、かつて、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(在位:前27年~14年)が、妻リウィアに対して贈ったプロポーズの言葉を以下に御紹介する。
ローマ帝国初代皇帝。アウグストゥスはラテン語で「尊厳者」の意。
オクタウィアヌスは紀元前27年に同称号を受け、帝政が開始された。
写真は紀元前18年~紀元前16年にかけて鋳造されたデナリウス銀貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=654281
カッシウス・ディオーン 『ローマ史』より
本日は以上となります。
皆様、御体にはくれぐれも気を付けて、新しい月を迎えましょう。
2月も宜しくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
最近は朝が特に冷え込み、布団からなかなか出られない日々が続いております。
インフルエンザやノロウィルスが流行中のようです。入念な手洗い等の予防策によって、十分お気を付け下さい。
さて、本日も古代ローマ人の生活・文化についてご紹介します。
今回のキーワードは「解放奴隷」です。
宜しくお願い致します。
古代ローマでは奴隷の存在が必要不可欠であった。
大富豪や貴族、荘園主等、広大な屋敷に居住する上流階層の生活にとって、奴隷は手となり足となる存在であった。また、属州の荘園開発・運営の面でも奴隷は重要な労働力であり、ローマの経済活動と生産構造にとって欠かせないものであったのである。
しかし、奴隷の「所有権」は、奴隷の所有者である個人にあり、その所有権を手離す、つまり解放することも自由であった。
奴隷の解放は法的枠組みよって定められており、主人の意思・好意に任された決定であるとされていた。
奴隷は解放されてすぐに「ローマ市民」になれる訳ではなく、国家は解放された奴隷にかつての主人と同じ地位を付与した。
すなわち、主人がローマ市民だった場合は、解放奴隷もローマの市民権を得ることができたが、主人が他の都市の市民権しか有していなかった場合は、解放奴隷もその市民権しか得られなかった。
尚、奴隷の解放は証人の前で解放すれば成されたが、解放された奴隷が市民としての地位を得るためには、主人の申し出により官吏が「解放の細杖(Vindicta)」でその奴隷に触れるか、遺言による命令が必要であった。
単なる解放奴隷では自由民としての地位しか与えられず、行使できる権利も限られていた。(例えば、一代目には官吏と元老院議員の被選挙権が無かった。)
それでも解放されることによって、比較的自由な移住権と職業選択、自由結婚等の権利を得ることができた。国家はかつての主人と等しい市民として、その身分を法的に保証したのである。
では、実際のところ奴隷はどのくらい解放されていたのか?
ローマ共和政末期になると、都市部の個人家庭の奴隷は頻繁に解放されていたとみる研究者もいる。
広大な大規模荘園では数多くの奴隷を抱え、奴隷一人一人の名前も把握できていなかったが、個人家庭では主人と奴隷の距離が密接であった。その為、主人の危篤や奴隷自身の危篤等の機会に、長年勤めた奴隷を温情的に解放するケースが多かったのではないかと推測されている。
事実、帝政初期、アウグストゥス帝の時代には、そうした多数の奴隷解放に歯止めをかける法律まで制定されていることから、当時は奴隷解放のケースが多かったと考えられる。
*紀元前2年 フフィウス・カニーニウス法
: 一人の家長が解放できる奴隷の数を、全体数に応じた割合に制限。
* 紀元4年 アエリウス・センティウス法
: 解放者と、解放される奴隷の年齢に制限を設けた。
ローマ帝国初代皇帝。アウグストゥスはラテン語で「尊厳者」の意。
写真は紀元前2年~紀元12年にかけて鋳造されたデナリウス銀貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=655530
解放された奴隷は様々な職業に就くことができた。奴隷時代の経験を活かして職人になる者もいれば、教師や著述家、哲学者等、頭脳労働者になる者もいた。また、商売によって成功し、莫大な富を得る解放奴隷もいたようである。
また、帝政期には長官や将軍にまで出世した解放奴隷も存在したといわれている。
しかし、このような成功を収めた解放奴隷はごく僅かであり、大方の者は身を寄せる所にも事欠く貧困層にならざるを得なかった。
上記のように、自らの才覚を活かして成功する解放奴隷は存在したが、土地等の財産を持たない解放奴隷は完全に自立できた訳ではなかった。商売で成功した解放奴隷たちは、主人の温情や、奴隷時代の副業で手にした「個人財産(Peculium)」を元手にしていたと考えられている。
大荘園で農業に従事していた奴隷は、解放後にそのまま住み込みの小作農として荘園に残る者も多かった。土地を持たないがゆえに、農業で成功した解放奴隷は極めて稀だったのである。
中央のソフォクレス(古代ギリシャの悲劇作家)のブロンズ像を配置する丸刈りの男性(縦縞服)は奴隷。
そもそも、解放奴隷は法的に主人と同じ市民権を得られたといっても、その実態は幾つかの制限が付けられており、完全に自主独立していた訳ではなかった。
例えば、解放者は奴隷を解放するのにあたり、一定の条件をつけることが認められていた。
それは法にある負担限度条項の範囲内であったことから、身請け金として毎年収入の一部を元・主人に納めることや、元・主人が病気で倒れた時は看護すること等であったのではないかと推測される。
また、職業選択の自由を一部制限することも場合によっては可能であった。
奴隷時代に教えた技術を、解放された後の奴隷が活かし、事業等を創めれば、競争相手になってしまう為である。つまり、医師であれば、かつて自らが医術を仕込んだ奴隷に、解放後の医院開業を禁ずることが可能だったのである。
それでも解放奴隷達は、奴隷身分にあった時代のように、自らの意に反する職務を強いられることはなくなった。この点は、身請けされた元・娼婦や元・剣闘士にも適用されたのである。
解放奴隷は自由な市民として、その権利が侵されることは無かった。
ネロ帝時代の元老院では、解放奴隷を再び奴隷身分に戻す案が審議されたが、それが実行に移されることはなかったのである。
ローマ帝国第5代皇帝。悪政だったとして後世の評価は低い。
写真は65年~68年にかけて鋳造されたアウレウス金貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=601490
解放された奴隷たちは、ローマ社会の中で自力で生きていく他なく、幾つかの制限もつけられてはいた。また、かつての身分的出自から、社会的差別や排除も存在したと考えられる。
しかし、少なくとも何者にも縛られることのない「自由」を、永久に手にすることはできたのである。
法の下、奴隷解放に関するガイドラインを設け、社会の安定と解放奴隷の自由な身分を保証したローマの社会は、現代社会にも通じる法根源の一つにもなっていることがうかがえる。
ところで、ローマ時代の解放奴隷は「ピッレウス(Pilleus)」と呼ばれるフェルト頭巾を被っていた。
このことから、古代ローマ時代より、ピッレウス、フェルト頭巾は「自由」「抑圧からの解放」の象徴的アイテムとなっていた。
解放奴隷たち自身が日常的に被っていなくとも、秋の大祭、サートゥルヌス祭では多くの市民がフェルト頭巾を被って街頭に繰り出していたという。陽気な祝祭においてフェルト頭巾という自由の象徴を身に着けることで、社会の自由や平等、開放感を表現していたのである。
この「フェルト頭巾=圧制からの解放、自由」という連想は、後世の欧州社会にも引き継がれた。特に、フランス革命以降、欧州全体が自由主義に席巻された際は、この象徴が頻繁に用いられた。
現代でもフランス共和国の象徴的擬人、「マリアンヌ」は必ずこのフェルト頭巾を被った姿で描かれている。
サンキュロット(フランス革命の志士)、自由の女神ともに、フェルト頭巾(この時代にはフリジア帽と呼ばれる)を被っている。
また、近代コインでもこのフェルト頭巾は多く登場する。フランスやラテンアメリカ諸国などの共和国のコインには、不特定の美女が肖像として用いられているが、彼女たちがこのフェルト頭巾を被っていることで「自由の女神」として認識されるのである。
王冠では無く、素朴なフェルト帽を被っている横顔は、圧制からの自由と民衆のたくましさを力強く表現している。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=656247
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=646453
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=645548
ローマ時代の「自由」「法治」を尊重する思想・文化は、長い時を越えて近代に復活し、その精神も現代社会を支える礎の一つになっているのである。
左 フランス 25サンチームニッケル貨(1914年)
右 フランス 10サンチーム金貨(1979年)
左には自由と解放の象徴であるフェルト帽、右にはフランス共和国の擬人化、「マリアンヌ」のフェルト帽を被った横顔が描かれている。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=645579
今週は以上となります。
御読み下さり、ありがとうございました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
冷え込む日々が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
年が明け、1月も半ばになりました。寒い日々ですが、気分を前向きにして、頑張っていきましょう。
さて、今回から新しいシリーズを始めたいと思います。
新年最初の記事でもお伝えしましたが、古代ローマ時代の文化・風俗・文物等々に関する豆知識を、キーワードごとにご紹介していきます。
そのキーワードから拡がる、古代ローマ人達の豊かな日常生活について、少しでも感じ取っていただければと思います。
シリーズ第1回目である今回のテーマは「オイル」についてです。
よろしくお願いします。
古代ローマ世界において、既にオイルはパン、塩、ワイン等と並ぶ基本食品の一つであった。
特にオリーヴオイルは最も一般的で、イタリア半島各地の荘園で働く奴隷にも支給されていた程であった。
現在では日本でも一般的になったオリーヴオイルであるが、既に古代ローマ時代には、イタリア半島や北アフリカをはじめ、地中海世界では定番の食用油であった。 オイルの品質自体には著しい差が見られたが、当時からサラダのドレッシングとして用いられたり、料理の仕上げの味付けに使われていたのである。
尚、オイルを絞られた後のオリーヴの実は、酢漬けやオイル漬けにされてオードブルとして用いられており、大変重宝されていた。
また、オリーヴオイルは単なる食用油としての用途以外に、民間の薬としても用いられていた。
オリーヴオイルは頭痛、口の潰瘍(口内炎)、止血、皮膚炎等、様々な症状を緩和させる効果があると信じられ、当時の医者も最良の手入れ用薬剤として多用していた。
また、古代ローマ人の生活にとって重要な入浴の際にも、オイルは必需品であった。
ローマ人は健康促進の為、公共浴場に入る前に体操を行うことがあった。この体操の後に、オイル(香油等)を体中に塗りたくることがあった。
体操によって流された汗と、外で付いた埃をオイルマッサージによって落とすためである。これは、現在のスパやエステと同じ感覚であるといえる。
また、この「垢落とし」の作業を入浴前に行っていたことから、ローマ人の公共に対する意識の高さが伺える。
このオイルを塗る作業は、一般的に女性風呂の場合は公衆浴場専属の奴隷が行っていた。一般市民階級の男性は、高価な石鹸の代用品としてオイルを自ら塗っていたようである。
浴場によっては、オイルを塗るためだけに設けられた専用の部屋が併設されている場合もあった。
現在のサウナと同じ役割を持っており、この場で専用の奴隷にオイルを塗らせた。
公共浴場ではオイルマッサージが一般的な日常風景の一つであった。
ローマ帝国最盛期の五賢帝の一人、ハドリアヌス帝(76年~138年)は、マンガ『テルマエ・ロマエ』に描かれていたように大の風呂好きとして知られ、皇帝でありながら頻繁にローマの公衆浴場に通っては、一般の市民と共に汗を流していた。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=655066
ある時、ハドリアヌス帝が入浴している最中、一人の退役軍人が背中を大理石版にこすり付けてマッサージしているのが目に入った。退役軍人という身分を慮ったハドリアヌス帝は、この老人に助成金とマッサージをするための奴隷一人を授けた。
翌日、この噂を聞きつけた老人たちが皇帝からの恩恵に与ろうと、公衆浴場で一斉に大理石の壁で体をこすり始めた。
すると、この様子を見たハドリアヌス帝は、この老人たちを一列に並ばせ、互いの身体をマッサージしあうよう命じたという。
このような逸話が残るほど、入浴時のマッサージは大変重要なものだったのである。
一方、入浴後でスッキリした後に、肌に再び脂分を補給する為にオイルが塗り込まれることもあった。
伝導率の低さから日焼け止めや防寒剤としても人気であり、公衆浴場に出かける際にはオイル瓶が必需品であったとまで伝えられている。
このように、ローマ人にとってオイルは食用、健康促進の為には無くてはならないものであった。
無論、夜の照明として用いられたランプの燃料としても不可欠であり、ローマ市民の経済・生活の深くにまで根付いていた。
多様な用途で用いられたオイルは、地中海世界各地で取引されていたが、属州におけるオリーヴ畑の拡大はオイルの大量供給を可能にし、イタリア半島と属州間の集中的取引によって価格は比較的低く抑えられていた。その分、貴族や大商人から、市民や奴隷に至るまで、ローマの全階層の手が届いたのである。
また、市民に根付いていたオイルは政治的にも利用された。カルタゴの将軍 ハンニバルとポエニ戦争を戦った大スキピオ(紀元前236年~紀元前183年)は、紀元前213年にローマ市民向けにオイルの無償配給を行い、平民の人気を獲得している。
帝政期になると、市民への配給は現物から金銭へと変わっていったが、オイルは安価、もしくは無償で市民に与えられ続けた。
オイルは露店でも販売されており、ローマ市内には2300以上ものオイル露店が存在していたという記録もある。
オイルはローマ市民にとって手に届きやすいものの一つであり、それ故に市民生活に欠かせないものでもあった。
しかし、一言にオイルといっても品質には差が見られた。市民が多用した低品質のオイルと異なり、純度の高い高品質の油、特に香油は非常に高価であり、一般の市民にとっては手の届かない高嶺の花であった。
例えば、当時ローマの属州であった現パレスチナで布教活動をしていたイエス・キリストに、マグダラのマリアが注いだ香油は1リトラ(326g)で300デナリの価値があったとされる。
当時の一般労働者の日給が1デナリであることを考えると、とんでもなく高価なものであることが分かるだろう。
後に弟子のユダは銀貨30枚でイエスを裏切ったとされるが、このときの銀貨が、当時ローマ帝国内で広く流通していたデナリウス銀貨だとすると30デナリである。
肖像はティベリウス帝。裏面はリビア坐像。直径18㎜で3,8g。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=631251
つまり、単純に計算すればマグダラのマリアが用いた香油は当時の平均的収入の10か月分、さらに言えばイエス・キリストの身柄10人分に相当するということになる。
尚、マグラダのマリアが高価な香油をイエスに注いだ際、教団の会計掛でもあったユダは「なぜこの香油を金に換え、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを責め立てたという。この時イエスは、このマリアの行為に対して「前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ」と言ってなだめたという逸話もある。
このことから、当時の香油は身だしなみやマッサージの用途だけでなく、広大なローマ帝国の辺境では宗教的儀礼でも用いられていたと推察できる。
オイルは地中海世界を中心に発展した文化であり、ギリシャやアナトリア、北アフリカでも多分に用いられた。
古代ローマを代表する博物学者、大プリニウス(22年~79年)はオイルについて以下のように賛辞している。
二つの液体は人体に最も快い。
内からはワイン、外からはオイル。
両者は共に樹木の比類ない産物である。
だが、オイルという液体こそ必須なのである。
磔刑にされたイエスの遺体に香油を塗ろうと墓を訪れたマリアは、復活したイエスの姿を目撃する。
復活したイエスを発見した最初の人物とされ、持っていた香油から「携香女」と呼ばれた。
本日は以上となります。
1月が過ぎるのはあっという間です。
体調管理には出来るだけ気を遣って、寒い冬を乗り切っていきましょう!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ, Ⅶ えとせとら, テルマエ・ロマエ | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
こんにちは。
年が明けて日が経ち、御正月気分も落ち着いてきましたね。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。
昨今は寒波が到来し、インフルエンザも流行しています。御身体には気をつけて、寒さ対策、風邪対策は万全にして下さい。
さて、今回の話題は「ミントセット」についてです。
ミントセットとは、一般的に造幣局が鋳造したコイン一揃えをパッケージ化したものをいいます。
元々は、鋳造コインの「見本」として銀行や政府高官、外国造幣関係者や収集家の為に特別に造られたものでした。しかし、後に一般収集家向けにも販売されるようになり、現在では世界中の造幣局がミントセットをほぼ毎年製作、販売しています。
特別なケースに入れて、世界中のコイン収集家に向けて販売される。
通常、ミントセットは造幣局で封をされ、銀行等を介さない為、真の意味での未使用貨といえます。
しかし、民間でパッケージされ、ミントセットとして一揃えにされたものもある為、注意が必要です。
ここからは、いくつかのミントセットのタイプを御紹介します。
一般的なタイプのセットで、造幣局で鋳造後、全く未使用の状態のまま包装される。
内容は、一般流通コインの完全未使用一セットである。
選りすぐられた鋳造コインとして、最高品質の見本が提供される為、通常厳格な検査を経て一揃いのセットが組まれる。
歴史的に有名なミントセットとしては、英国の「マウンディセット(Maundy Sets)」がある。
マウンディセットとは、毎年、キリスト教の儀礼である「洗足儀礼」に際し国王から貧民に配られた、1ペニー・2ペンス・3ペンス・4ペンスの小型銀貨のセットである。
このセットを構成する4種類のコインは、通常のコインとは異なり、青銅ではなく銀で特別に鋳造されたものである。
その為、1ペニー銀貨に至っては直径11.2mm、量目0.47gと超小型になっている。銀の含率は925/1000である。
このセットは小さな白い袋に入れられ、毎年復活祭のある聖金曜日の前日、洗足木曜日(Maundy Thursday)に、ウェストミンスター寺院で儀式を執り行う国王と同年代の特定貧民に配られた。チャールズ2世時代の1670年から毎年発行されており、現在でも多くのセットがコイン収集家達の間で取引されている。
今日のプルーフセットの先駆けとなったセット。高くて鋭角なワイヤーリムに沿って2回以上打たれ、肖像や紋章、銘字の「つや消し仕上げ」を施したコインがセットになっている。しかし、その仕上げは肉眼でははっきりしないものである。
このセットの本来の目的は、世界各国の君主や要人、造幣局の技術者に特別な鋳造技術を用いた高品質なコインの見本を提供することであった。
古銭学の分野では、比較的最近になって現れたものである。
1950年代中期、ロイヤル・カナディアン・ミント(Royal Canadian Mint)がプルーフコインに類似した品質を持つコインを選別し、一つのセットとして収集家に販売したことからはじまる、いわば「擬似プルーフセット」である。
しかし、このプルーフライクのコインには徐々にヒビが入り、エッジも丸くなることがあった。そもそも、これらのコインはプルーフではない為、2度打ちがなされていない。
ただし、プルーフコインと同様の品質を持つセットとして、造幣局が公認した例はいくつかみられる。
1970年代末にオーストリアンミントが収集家向けに鋳造した、南アフリカ連邦のクラウン貨や100シリング貨等もその例であり、これらは「スペシャルセレクト(Special select)」と呼ばれた。
プルーフセットのコインは、特別に磨かれた金属板の上に2度打ちされ、さらに最高品質の打ち型(Dies)を使用して鋳造される。現在では完全な鏡面状仕上げの下地と、つや消しの紋章、肖像、銘字から成るタイプのものが主流である。
プルーフコインのセットは、造幣局が入念に、芸術的美しさと技術力の高みを追求して鋳造されたものであり、造幣局の誇りをかけて世に送り出される「芸術作品」といえる。英国のプルーフセットの付属説明書には、『プルーフコインは造幣芸術である』と述べられているほどである。
その為、流通用コインの未使用貨をセットにしたミントセットと比べ、数倍の価格で販売・取引される。
アメリカのプルーフコインはクラッドタイプが主流である。
また、プルーフセットは一般流通用のコインとは異なる目的(収集家向けの販売)で鋳造される為、流通用コインが発行されなかった年であっても、プルーフセットではその年銘のコインが存在するという場合があることも重要な点である。
以上が、ミントセットの種類です。
上記のプルーフライクセットと、本物のプルーフセットを識別するには、多くの実物を目の当たりにして経験を積む他なく、コイン収集家でも判別は非常に難しいといえます。
ところで、ミントセットは造幣局がコインを鋳造してすぐにセットとして包装すると述べました。
かつては、柔かいポリビニールのパッケージに入れられていたこともありましたが、ポリビニールが未使用コインを痛めてしまう危険性があると判明してからは、硬質で化学反応を起こさないプラスチック素材が使用されるようになりました。
通常、透明なプラスチックで密閉、保護されたミントセットを開封することはまずありませんが、包装を破ってコインを取り出し、セットをバラしてしまうと価値が減少してしまいます。
造幣局製のミントセットやプルーフセットは、最初に包装された状態、つまり「セット」としての存在そのものに価値があると捉えられているからです。
また、プルーフセットなどは封じ込まれている間にコイン表面が変色する場合がありますが、それはそのまま保存しておくことが望ましく、取り出して洗浄することは厳禁です。
しかし、英国のマウンディセットや戦前の金貨プルーフセット等は、鋳造された時代的にビニールやプラスチックの梱包がなされていない場合もあります。
金貨のミントセットなどは、皮張りやベルベット(ビロード)張り等、特別仕様の専用ケースに納められている場合がほとんどです。その場合は、その高級感溢れるケースも付属させて一つの「セット」とみなされ、特別な価値を有します。
本日はここまでとさせていただきます。
寒さが益々厳しくなってまいりました。
どうか、御風邪等召しませぬよう、暖かくしてお過ごし下さい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
ご無沙汰しておりました。
いよいよ、今年も残すところあと僅かですね。月日が経つのは本当に早いものです。
当店、「ワールドコインギャラリー」は、今年は12月30日(月)の17時まで営業しております。
年が明けて2014年は、1月4日(土)11時から営業を開始致します。
今年も一年間ご愛顧頂きまして、誠にありがとうございました。
来年も、何卒宜しくお願い申し上げます。
今年の年末年始は、全国的に降雪も多いようです。
寒さにはくれぐれも気を付けて、新しい年を迎えましょう。
ブログ記事も、今回が今年最後の記事となります。
一年間お読み下さり、ありがとうございました。
来年からも、何卒宜しくお願い致します。
さて、今年最後のブログ記事は、「プルーフコイン」に関する内容です。
前回はコインのコンディションとグレーディングに関する内容でした。今回は「プルーフ」という、通常のコインとは少し異なる、特殊なコインに関してご紹介します。
それでは、よろしくお願い致します。
プルーフコインとは、近代・現代コインの鋳造工程で表面・裏面に特殊な加工を施し、鏡のように美しく光らせたコインです。特別な目的・鋳造工程を有することから、流通用の通常コインとは明確に区別されます。
刻印は流通用の通常コインと同じで、その額面価値も同じですが、鋳造工程が異なるためかかるコストが格段に異なります。
主にコイン収集家向けに鋳造・販売されています。
プルーフコインの鋳造工程は、おおまかに以下のようになります。
以上のように、プルーフコインの鋳造は流通用に大量鋳造されるコインと異なり、大変な手間がかかるのです。
そのため、鋳造枚数はごく限られたものとなり、流通用コインと比較して何倍もの価格がつくものもあります。
現在、プルーフコインは日本をはじめ、世界各国の造幣局でほぼ毎年鋳造されています。一連の額面のコインを一セットとして、コイン収集家に販売するためですが、その際の販売価格はプレミア価格のため、コイン額面より高い値段がつけられています。
中には高級感あふれる特製の箱入りセットや、コインの解説書が付属されたミントセットも売り出されています。
プルーフコインの始まりは1662年、チャールズ2世治世下の英国といわれています。この年、試鋳貨の一種として5枚~10枚のクラウン銀貨が鋳造されたようです。
その後、英国やその植民地、米国の造幣局では、造幣局を訪問した政府高官や外国視察団、または造幣局関係者への記念品としてプルーフコインを鋳造する伝統が受け継がれました。
しかし、当初はあくまで関係者向けの特別な「記念品」としてごく少数鋳造されたものであり、市販用に造られたものではありませんでした。
米国では1858年からプルーフコインの市販が開始されたようです。
その後、米国では幾度かの隔年を経て現在までプルーフコインを毎年鋳造・販売しています。
英国ではそれよりも早くプルーフコインのセットが市販されるようになり、古くからコイン収集家達の目を楽しませてきたのです。
現在では民営化された造幣局の収益拡大や、途上国の外貨獲得の目的から、記念コインと同様に世界各国でプルーフコインが鋳造・販売されています。
「プルーフコイン」と一言に口にしても、実際はいくつかの種類に分類されます。
ここでは主なものをご紹介します。
表面・裏面は全面的に鏡状仕上げになっている。特に米国のプルーフコインにみられるタイプ。米国では19世紀以降、このブリリアントプルーフコインを鋳造し続けている。
鏡面状仕上げになっているプルーフ貨。
表面・裏面は全面的につや消しされ、すりガラスのような面を有する。鏡面状仕上げ(ブリリアント)プルーフコインの真逆タイプである。
光沢は無いが、デザインは明確で、非常にはっきりとした細かいデザインまで確認できる。
ほとんどの場合、必要一定数のつや消しプルーフコインが鋳造されると、打ち型はそのまま一般流通用コインの鋳造に流用された。
米国では1909年~1917年のリンカーン1セント銅貨、1913年~1917年のバッファロー5セント白銅貨等、幾つかのプルーフコインに用いられた。
つや消し加工が施されたプルーフ貨。
コインの肖像・紋章・銘文等、盛り上がっている部分にはつや消し(マット)を用い、それ以外の平面部分は鏡面状仕上げ(ブリリアント)を施したプルーフコイン。近年、世界的に一般化したプルーフコインのタイプである。
以上がおおまかなプルーフコインのタイプとなります。
ちなみに、コインにミントマークのようなマークを打刻し、「プルーフコイン」としている例もあります。そのような刻印を「プルーフマーク」といい、通常の未使用貨と区別する役割を果たしています。
プルーフコインは通常の流通貨と異なりますが、鋳造直後のコインや未使用貨には、鏡面状仕上げのようにプルーフコインと同じような特徴、「プルーフライク(Proof like)」がみられます。
一見するとその違いは見分けがつきにくいものですが、流通用コインは高速で大量にプレスされるため、微妙な違いがあります。
一方で、鏡面状仕上げのプルーフコイン表面は、通常の未使用貨の表面以上にダメージを受けやすくなっています。
例えば、19世紀に鋳造されたプルーフコインの中には「糸くず跡 (lintmarks)」がついているものが見られます。これは、プルーフ用の打ち型が油っぽいボロ布で拭われた際、布の糸や髪の毛等が付着してできたものと考えられています。
このように、多くの注意を払われて鋳造されるプルーフコインの中にも、出来・不出来があるのです。また、長い年月を経て、所有者が手を加えて状態が変化してしまう場合もあります。
以下はその評価・分類です。
---------------------------------------------------------------------------------------------
"Perfect Proof"とも評される。糸くず跡や毛髪状細線(hairlines)、取扱い傷等の欠点が全く無い、完璧なプルーフコインである。
コインは光り輝き、光沢によって自然な色調を帯びている。
Proof-70によりは見劣りするが、Proof-65より際立って上等のものである。
"Choice Proof"とも評される。いくつかの非常に細かい毛髪状細線(通常摩擦による種類の研磨、摩擦による乾燥、浸し洗浄の後の磨きから発生する)のあるプルーフ。
肉眼では確認できないが、4倍の拡大鏡ではいくつかの細かい線が確認できる。
Proof-65とProof-60の中間のグレード。
肉眼でも確認可能な、いくつかの散乱した取扱い傷や毛髪状細線のあるプルーフ。
-------------------------------------------------------------------------------
以上がプルーフコインのグレーディングです。
尚、過度に磨かれた際に付いた多くの傷や引っ掻き傷、窪み等、広範囲に及ぶ摩耗がみられるプルーフコインは「損傷プルーフ(impaired proof)」と評され、Proof-55やProof-45等が等級付けられます。
こうしたプルーフを「AU (Almost Uncirculated)」と表現するのは適切ではありません。
AU等の評価表現は、一般の流通コインのグレーディングで用いられる表現であり、流通を目的とせずに鋳造されたプルーフコインの評価にはそぐわないからです。
「未使用貨」は、使用・流通を前提として鋳造されたコインに付けられる評価表現である以上、プルーフコインの評価に用いることはできません。
そうした場合の評価表現として、上記のProof-○○や、「Perfect Proof」「損傷プルーフ」といった表現が用いられるのです。
今回は以上となります。
来年も、より多くのコインに関する記事をお届けしたいと思います。
どうか、来年もよろしくお願い致します。
一年間、御付き合い下さりありがとうございました。
それでは、何卒良いお年を御迎え下さい。
来たる年が、より良い年でありますように。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
12月に入り、すっかり師走らしくなってきましたね。今年も残すところあと僅かですが、体調には気を付けて頑張っていきましょう。
さて、今回はいつものシリーズとは少し趣向を変えた、コインの基礎知識に関する話題をお届けします。
今回ご紹介するのは、コイン収集に関しては欠かせない基礎知識、「コンディション(Condition : 状態、条件)」と「グレーディング(Grading : 等級付け)」に関する内容です。
外国コイン、特に日本も含めた「近代銭」の売買に関して、グレーディング(等級付け)というものは非常に重要な要素となります。
コインを鑑定・評価する上では、コインの種類による希少性に加え、個別のコインそのものが有するコンディション(条件)と、それに基づくグレーディング(等級付け)が、価格決定の決め手となります。
グレーディングの差一つで、コインの評価・価格は大きく変わります。
鋳造したばかりの、完全未使用の状態に近いコインほど高価になり、場合によっては並品(普通品)との差が数十倍になることもあります。
ちなみに、このグレーディングに際しては、コインの年代・希少性・型模様等は考慮されず、あくまでコイン本体のコンディションに基づく判断が必要になります。
一般的に、世界的なコインカタログである「近代世界コインのカタログ (R.S.ヨーマン)」や「Chester L.Krause&Clifford Mishler:Standard Catalog of World (KMカタログ)」等には、個々のコインに関するグレーディングと、それに伴う「目安」としての評価額が記載されています。
しかし、実はこれら世界的なカタログに記載されている基準であっても、世界的に統一された基準ではなく、国によって異なる基準と略語表記が使用されているのです。
特にドイツやフランス等は、自国の言語に基づく略語表記を用いてグレーディングがなされる為、注意が必要となります。
また、同じ英語圏であっても英国と米国とでは、グレーディングに関して同じ略語表現を使用していたとしても、コンディションの評価の厳しさに関して、内包されるニュアンスに微妙なズレがある場合もあり、判断をより複雑なものにしています。
日本の場合は、「完全未使用」 「未使用」 「極美品」 「美品」 「普通」 「やや劣」 「劣」といった表現でグレーディングがなされていますが、最近では外国コインに関して英米系の状態表示を用いることが多くなりました。
以下は外国コインのグレーディングに用いられる英米系の略語表記・基準と、それに相当する日本語の表記です。
この基準は、コイン収集が盛んなアメリカのA.N.A(アメリカ貨幣協会)が公式に定めた「A.N.A公式等級付け基準」(Official A.N.A Graging Standards for United States Coins)に基づいて説明されています。
それらは一般的に「MS」や「Mint State」貨幣等級方式の名でも呼ばれています。(MSとは、未使用コインの表示に用いられることもあります。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鋳造直後の状態を保持し、30倍の顕微鏡でも肉眼で確認できる摩耗、または流通した形跡がない。この場合、鋳造直後についた多少の袋ずれ(バッグマーク:Bagmark)による微かな傷は問題とならない。
傷や摩耗等、外傷が全く無い場合は、「完全未使用」と表される場合もある。
フランス、イタリア、オランダ、ブラジル等の基準では「FDC」(Fleur de Coin : フランス語で「コインの華」)と表記され、日本においても用いられることがある。
特別な鋳造工程を経て造られる「プルーフコイン」とは異なる為、その点にも注意が必要である。
尚、コイン上の傷を見る場合、「アジャストマーク」に注意しなければならない。
アジャストマークとは、コイン(主に大型銀貨)の鋳造過程で量目超過が発生した場合、それを微調整する為に表面を意図的に削った痕のことである。アジャストマークはフランスのエキュ銀貨をはじめ、南米諸国等、様々な時代・国・地域のコインにみられる。
一見やすり痕のようにも見えるが、市場流通過程で付いた傷とは区別される為、注意が必要である。
コイン上の全ての細部が肉眼で確認できる状態。
コイン上の最も盛り上がっている部分のみが一部摩耗しており、肖像の毛髪部分の摩耗はごくわずかである。
鋳造直後の光沢がおおまかに見られる場合がある。しかし、わずかに流通した形跡が見て取れる状態である。
流通の痕跡はあるが、状態としてはほぼ未使用に近いもの。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約95%が肉眼で確認可能な状態。
或いは、コイン上に細かいデザインがない場合は、コイン全体に僅かな摩耗がある状態を指す。
流通痕は明らかだが、コインの図柄の細部は十分に残っている状態である。
しかし、コインによっては、デザイン上のある特定の細部分の摩耗状態によって、コインそのもののグレーディングが決まる場合もある為、注意が必要である。
流通の痕跡は見られるが、摩耗度合いは少なく、コイン本来のデザイン・銘字が美しいもの。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約75%が肉眼で確認可能な状態。
或いは、コイン上に細かいデザインがない場合は、コイン全体に「並み」の流通による摩耗がある状態を指す。
デザイン、銘字は明瞭だが、肖像の毛髪部分等、細部は摩耗している状態である。
尚、コインデザイン上のある特定の細部分を評価の基準とする場合は、本来の細部分デザインの約66%が残っている場合を指す。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約50%が肉眼で確認可能な状態。
或いは、コイン上に細かいデザインがない場合は、コイン全体にわたって「重度」の摩耗がある状態を指す。
デザインと銘字は明瞭に読み取ることが可能だが、肖像の毛髪部分等、細部はほとんど摩耗している状態である。流通による傷や、汚れも目立つ。
コインデザイン上のある特定の細部分を評価の基準とする場合は、本来の細部分デザインの残っている割合が50%以下である場合を指す。
コインのデザインにおいて、本来の細部箇所の約25%が肉眼で確認可能な状態。
コイン全体にわたってかなり重度の摩耗がみられる。肖像の皺や耳の部分等、細部はほぼ摩耗し、銘字も摩耗している。
コインのデザインに関しては、はっきりとした輪郭が確認できるが、肖像細部はほぼ摩耗し、コイン全体も大幅な摩耗がある状態。
大まかな細部の一部は、肉眼で確認できるが、完全につぶれて読み取れなくなっている銘字もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
尚、鋳造時のプレスの強弱、部分的なプレスの度合い、損傷や腐食、色合いの状態、液体洗浄または研磨等のコイン個別の情報は、上記のグレードと共に明示する必要があります。
また、表面は「EF」で裏面は「VF」である場合等、コインの表裏で状態評価が異なる場合があります。
その際には、「EF/VF」という表示方法を用いることもあります。
このように国によって違えど、グレーディングに関する一応の尺度は存在します。
しかし、このように基準があったとしても、それを用いて判断するのは、あくまで「鑑定者個人」であり、そこにはもちろん鑑定者個人の「主観」が作用します。
特に、グレーディングの基準となりうる中間のグレーディング(FやVF)の判断は難しく、最終的には鑑定者それぞれの主観に依る処が大きいのです。
前述したA.N.Aは、その問題に対処する為、1977年により厳密に細分化した評価基準を定めました。
日本でも、各評価をより細分化して表示する方法として、「VF+」や「VF-」といった、プラスとマイナスを用いて評価を細分化・厳密化する傾向があります。
このように、近代の外国コインを扱う上で外せないグレーディングは、ある程度の評価基準が設けられていても、個々人の価値観・コイン観を考慮に入れて鑑みることが必要となります。
コイン収集歴が長く、様々なコインを実際に目にすることが出来れば、自ずと各々の「コイン観」が出来上がり、それに基づく価値判断も可能になると思われます。
その際には、今回ご紹介したグレーディングに関する知識も、一つの参考になると思います。
本日は以上となります。
次回も宜しくお願い致します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
いよいよ12月になりましたね。
本年も、残すところあと少しになりました。
おかげ様で、当店も創業24周年を迎えることができました。
皆様の日頃の御愛顧に、厚く御礼申し上げます。
つきましては、ワールドコインギャラリーでは12月29日(日)まで、歳末・大感謝セールを開催中です。
期間中は、全商品が10%OFFになるだけでなく、古代ギリシャ・ローマコインをご購入頂いた方には『歴代ローマ皇帝の肖像入りマウスパッド』を、特典としてお付け致します。
また、期間中はラッピングサービスも行っておりますので、大切な方へのクリスマス・プレゼントにもいかがでしょうか。
この機会に是非、ご利用ください。お待ちしております。
http://www.tiara-int.co.jp/event1.html?eid=51
さて、10月より続けてお送りしてきた「コイン好人列伝」シリーズですが、今回は一応の最終回となります。
第5回目となる今回は、アメリカの金貨を中心に、生粋のコイン蒐集家 K氏のコレクションを、K氏のコメントと併せて御紹介いたします。
宜しくお願い致します。
※写真の金貨はイメージです。
1899年 : ロシア帝国
[10ルーブル金貨。23㎜で8.58g。金性900/1000]
コメント : これもK氏が大好物のジャンルなのだが、もうちょっと大きい(=15ルーブル金貨)ニコライⅡが欲しいところではあります・・・・。
1911年 : イギリス
[KM#819 1/2ソヴリン金貨 3.99gで19㎜。金性917/1000]
コメント : 小粒すぎましたが、大好物のジャンルなので買ってしまいました。
1932年 : アメリカ合衆国
[27㎜で16.71g。金性900/1000で、4,463,000枚の発行]
コメント : 頭の羽根飾りが見事。7万5000円は、お買い得でした。
1904年 : アメリカ合衆国
[34.5㎜で33.43g。金性900/1000]
1880年 : アメリカ合衆国
※画像は1895年銘。
[KM#102 27mmで16.7g。金性900/1000。]
コメント : 大型金貨だから買っちゃえぐらいの気持ちで買ったのだが・・・。
10$とダブルでケースに収めてみると、なぜかビシッときまるのです。
2004年 : ギリシャ
[KM#204 25mmで10g。金性999/1000。
アテネ・オリンピック記念。裏面はアクロポリス]
コメント : 授業で生徒に見せました。お値打ちの4万5000円でした。
1879年 : スペイン王国
※画像は1878年銘。
[KM#677 10ペセタ金貨。3.22gで19㎜。金性900/1000。]
コメント : 超小粒ながら、さらに小粒の「アルフォンソ12世銀貨」とともに、シングルケースに収まっている様子は、手のひらに乗せ鑑賞するのにピッタリで、とてもかわいい。
1998年(平成10年) : 日本国
[1万円金貨。26㎜で15.6g。長野五輪記念第3シリーズ「スピードスキー」]
コメント : 死んだおやじの形見です。
今回は以上となります。
今回で、「コイン好人列伝」シリーズは一応、最終回ですが、次回以降も記事は更新していきます。
お付き合い頂き、ありがとうございました。
12月も何卒宜しくお願い致します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
ますます冬らしくなってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回は、久々に「近代コインに描かれた人々」シリーズです。
前回の「コイン好人列伝」の記事で、フランスの金貨をご紹介させていただきましたが、今回はそこにも多く登場した「ナポレオン3世」を、彼の描かれたコインと共にご紹介したいと思います。
それでは、宜しくお願い致します。
[在位:1852年~1870年]
ルイ=ナポレオン・ボナパルト、後のナポレオン3世は1808年4月にパリで生まれました。
父親はフランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の実弟でオランダ王のルイ・ボナパルトであり、ルイ=ナポレオンにとってナポレオン1世は「伯父」にあたります。
1814年のナポレオン失脚後、一族は次々とフランスを脱出し、少年時代のルイ=ナポレオンも母親と共にスイスへ亡命します。
その後、軍人としての教育を受け、英国を拠点に政治活動を始めたルイ=ナポレオンは、1830年の七月革命によって成立したルイ・フィリップ1世のフランス王国政府に対して二度の反乱を企てますが、いずれも失敗に終わります。
写真は1841年銘[KM749.13 サイズ:37.5mm 重量:24.56g 金性:SV900]
二回目の反乱によってハム要塞に投獄された際は、牢獄に出入りしていた修理工に変装し、自分のベッドにマネキン人形を置いて脱獄に成功しています。
彼は、他のナポレオン一族やナポレオン支持者(ボナパルティスト)と同じく、フランスにおいて再び「ナポレオン帝政」を復活させることを望んでいました。
しかし、それには偉大な伯父、ナポレオン同様、大衆の強い支持が必要であると、ルイ=ナポレオン自身強く感じるところでもあったのです。
1848年2月、パリで反王政の革命が勃発し、国王ルイ・フィリップ1世は英国に亡命。
「七月王政」が打倒され、共和政が宣言されると、ルイ=ナポレオンはすぐさま亡命先の英国から舞い戻り、新共和国の大統領選挙に出馬したのです。
既に二度の反乱騒ぎを引き起こしたルイ=ナポレオンの名は全国に知れ渡っており、「ナポレオン神話」を信じる農民や労働者、市民の強い支持を得、1848年12月、ルイ=ナポレオンはフランス共和国初代大統領に当選します。
1851年12月、ルイ=ナポレオンは自らに非協力的な議会を強制解散し、独裁的権限を握りました。
このクーデターは、国民の広い支持を得、勢いを得たルイ=ナポレオンは伯父の例に倣い、自らの「皇帝」即位の是非を問う国民投票を1852年11月に実施。
国民の96%の信任を得たルイ=ナポレオンは、1852年12月、「フランス皇帝 ナポレオン3世」に即位し、ここに念願だったナポレオン帝政が復活します。
(因みにナポレオン2世は、ナポレオン1世とマリー・ルイーズの間に生まれた一人息子で、ローマ王の称号を得ていたが、オーストリア軍将校ライヒシュタット公として若くして亡くなっていた。)
伯父ナポレオンに倣い、「軍人皇帝」としてのイメージを強調した。
後に「第二帝政」と呼ばれるナポレオン3世の治世下のフランスは、大規模公共事業や鉄道敷設、それに伴う投資ブームにより、バブル景気が到来した時代でもありました。
パリの大改造は、ナポレオン3世時代の目玉政策の一つで、スラムがひしめき、下水道も整備されていなかった不衛生な過密都市パリを、整然とした近代都市に生まれ変わらせました。
現在、パリのエトワール凱旋門を中心に放射状に伸びる街路は、第二帝政期に建設されたものです。
衛生的近代都市の区画整備は、ナポレオン3世時代の知事オスマンによって推進された。
また、消費の拡大は商業を盛んにし、市民生活もより華美なものになってゆきました。
第二帝政期の文化は、「華美」「耽美」「退廃的」といった言葉で評されることもありますが、ナポレオン3世自身、高級娼婦や舞台女優、庶民の娘から閣僚の妻に至るまで、多くの女性と浮名を流したのです。
(1855年 ヴィンターハルター 画)
左上、右手に花を持っている女性がナポレオン3世妃ウージェニー。
妻のウージェニー皇后は、もともとスペイン貴族の娘であり、その美しさに惚れ込んだナポレオン3世によって猛烈に求婚され、1853年に結婚しました。
上流階級の「恋愛結婚」がまだ珍しかった時代、周囲はこの「身分違い」の結婚に強く反対しましたが、ナポレオン3世自身の強い意向によって二人は結婚しました。
しかし、結婚後も多くの女性と浮気するナポレオン3世に対し、厳格なカトリック教徒のウージェニー皇后はその都度怒りを顕わにして、母国のスペイン語で夫を罵倒することもあったとか。
私生活は奔放なナポレオン3世でしたが、フランス皇帝として、帝国の国益を邁進させる政策を数多く行いました。
1855年と1867年にはパリで万国博覧会を開催し、英国のヴィクトリア女王一家を招待する等、フランス帝国の国威を内外に示すとともに、王室外交を通じた英仏関係の深化に努めました。
このとき、パリを訪れた英国皇太子エドワード(後のエドワード7世)はナポレオン3世に対し、「フランスは素晴らしい国ですね!私が、あなたの息子ならよかったのに」とまで言わせるほどにフランスを気に入り、その後毎年フランスでバカンスを過ごすようになったようです。
ナポレオン3世と同じく、女性関係が派手だったエドワード7世の気質は、第二帝政期フランスとぴったりだったのかもしれません。
洒脱者で女性関係も派手だったエドワードは、皇太子時代に第二帝政期のフランスを訪れ、ナポレオン3世の歓待を受けた。
フランスをたいそう気に入った皇太子エドワードは、愛人とバカンスを過ごす為、王室ヨットで頻繁にフランスへ赴いた。
ナポレオン3世は、偉大な伯父ナポレオン1世が軍事的成果によって国民の支持を得ていた例に倣い、積極的な海外進出を行いました。
クリミア戦争(1854年~1856年)、アロー戦争(1856年~1860年)では英国と歩調を合わせ、フランスの対外的地位を向上させただけでなく、イタリア統一戦争への介入では領土を拡大しています。
また、西アフリカやインドシナ半島、ニューカレドニア等、アフリカ・アジア・大洋州における植民地獲得も実現させました。
フランスの財政的・技術的支援によって、エジプトにスエズ運河が開通したのも、ナポレオン3世時代の海外進出政策によるものです。(スエズ運河は後に英国に買収されてしまいしたが・・・。)
日本との関係でいえば、幕末の日本において、倒幕派の薩長を支援する英国に対し、ナポレオン3世は江戸幕府を支援しています。
最後の将軍、徳川慶喜にフランス式の軍服を贈呈し、幕府軍にフランス軍式の軍事教練を行う等、積極的に援助を行いました。
ちなみに、1867年のパリ万国博覧会には、幕末期の日本(江戸幕府だけでなく、薩摩藩や長州藩も独自のブースを出展した)が初出展しています。
しかし、1861年~1867年のメキシコ出兵は大失敗に終わりました。
特に、長期間に及んだ軍事介入の末、メキシコ皇帝に即位させたマクシミリアン(オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟)の処刑という悲劇的結末は、国内外におけるナポレオン3世の権威失墜につながりました。
欧州外交社会での孤立と、国内での国民の支持喪失は、ナポレオン3世自身を焦らせることになります。
1870年、プロイセン王国宰相、ビスマルクの挑発に乗る形でプロイセンに宣戦を布告。(普仏戦争)
兵士の士気を鼓舞するため、皇帝自ら前線に出陣しましたが、セダン要塞でプロイセン軍に包囲され、敵軍の捕虜になってしまいます。
手を差し伸べているのは、プロイセン王ヴィルヘルム1世。その左は宰相ビスマルクと皇太子フリードリヒ。
皇帝が敵軍の捕虜になったというニュースに対し、皇帝に失望し憤慨したパリ市民はナポレオン3世の退位と共和政を要求。
立法議会が帝政の廃止と共和制政府の樹立を宣言したことで、ナポレオン3世の第二帝政は終わりを告げたのです。
その後、ナポレオン3世一家は英国に亡命し、1873年1月9日、64歳で死去しました。
ナポレオン3世の第二帝政は18年で終焉しましたが、パリの美しい街並みや欧州列強に並び立つ基礎となった資本力、パリで花開いた華美な芸術文化等、その治世下の遺産は今も尚、フランスという国を彩っています。
ナポレオン3世時代のパリ大改造の一環で建設された。第二帝政期を代表する建築物の一つだが、完成したのは皇帝亡き後の1875年であった。
舞台「オペラ座の怪人」は、このオペラ座が舞台となっている。
さて、ナポレオン3世が描かれたコインは大きく分けて「大統領時代」、帝政前期の「無冠タイプ」、帝政後期の「月桂冠(有冠タイプ)」の3種類があります。
ちなみに、100フラン金貨と50フラン金貨といった高額金貨が登場したのは、消費と資本主義が拡大し、バブル景気に沸いたナポレオン3世治世下の第二帝政期においてです。
クーデターによって絶大な権力を得た1852年にのみ発行されたタイプ。
表面には「ルイ=ナポレオン・ボナパルト」の銘と肖像、裏面は額面と「フランス共和国」の銘がある。
[サイズ:36mm 重量:25g 金性:SV900]
商品No.637505
御購入の方はこちらから⇒http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=637505
1852年発行の10サンティーム青銅貨から登場。
表面は「皇帝ナポレオン3世」の銘と肖像、裏面にはナポレオン帝室を示す鷲と「フランス帝国」の銘がある。肖像は大統領時代のものとほぼ同じ。
金貨に関しては、100フラン金貨と50フラン金貨の裏面がナポレオン帝室紋章であるのに対し、20フラン以下の金貨に関しては額面表示のみとなっている。
写真は1858年銘。[KM786.1 サイズ:35mm 重量:32.19g 金性:K900]
写真は1859年銘[サイズ:28mm 重量:16.12g 金性:K900]
写真は1858年銘[サイズ:21mm 重量:6.45g 金性:K900]
写真は1854年銘[サイズ:14.4mm 重量:1.6g 金性:K900]
写真は1859年銘[サイズ:16.7mm 重量:1.61g 金性:K900]
ナポレオン3世 有冠タイプは帝政後期の1861年に登場。冠はナポレオン1世のコインの肖像と同じく月桂冠。
口髭は無冠タイプと比べて上を向き、威厳のある顔つきになっている。
また、金貨は100フラン金貨と50フラン金貨に加え、20フラン金貨の裏面もナポレオン帝室紋章となった。
写真は1869年銘[KM802.2 サイズ:35mm 重量:32.17g 金性:K900]
商品No.652959
御購入の方はこちらから⇒http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=652959
写真は1865年銘[KM804.1 サイズ:28mm 重量:16.12g 金性:K900]
写真は1864年銘[KM801.1 サイズ:21mm 重量:6.45g 金性:K900]
写真は1868年銘[サイズ:18.5mm 重量:3.22g 金性:K900]
写真は1870年銘[KM799.1 サイズ:37.3mm 重量:24.8g 金性:SV900]
本日はここまでとさせていただきます。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
こんにちは。
すっかり冬らしい季節になってきましたね。
朝晩は特に気温が低いので、暖かい恰好をなさって、体調には十分にお気を付けください。
さて、今回は記事に入る前に、当社、ワールドコインギャラリーのキャンペーンをさせて下さい。
今月、11月10日(日)から、ワールドコインギャラリーでは、皆様の日頃のご愛顧に感謝の気持ちを込めまして、「ヴィクトリアン・ジュエリー クリアランスセール」を開催中です。
当社が長年の年月を掛けて集めて来ました、19世紀 ヴィクトリア朝期英国のアンティーク商品の数々を、特別価格にてご提供させて頂きます。
ヴィクトリア朝時代 大英帝国をはじめとする欧米列強諸国で、当時実際に使用されていたコインや紋章メダルを用いたジュエリーを、11月中は全品30%引きとさせていただきます。
セール期間は、11月30日(土)までとなっております。
御自身へのご褒美に、また、大切な方への贈り物にいかがでしょうか。
この機会に是非ともご利用ください。詳しくは、ワールドコインギャラリーのホームページをご覧ください。
⇒http://www.tiara-int.co.jp/event1.html?eid=50
前置きが長くなってしまい、失礼いたしました。
さて、今回は「コイン好人列伝」シリーズ第4回目の記事です。
今回も、コイン蒐集家 K氏の金貨コレクションを、K氏のコメントと併せてご紹介させて頂きます。
本日は、フランスの金貨を中心にご紹介させていただきます。
それでは、よろしくお願い致します。
1975年 : バルバドス
[100ドル金貨。6,21gで26mm。金性500/1000。23,000枚の発行。]
コメント : 帆船好きのK氏泣かせの金貨である。
安いから買ってしまったのだが、いずれペンダントにしてみたいのだが・・・・
1786年 : フランス王国
[2ルイドール金貨。15,3gで28mm。]
コメント : フランス革命勃発3年前。歴史を感じる。フランスの金貨はどれもおしゃれである。
さあ、ここからフランスシリーズの始まりです。
1906年 : フランス共和国(第三共和政)
[32,25gで35mm。金性900/1000。]
コメント : 図柄が秀逸。ペンダントにしようかどうしようか、一時期悩んだが、やはり「見る系」に落ち着いた。見ていて飽きない金貨ではある。
1869年 : フランス帝国(第二帝政)
[KM#802,2。 32,17gで35mm。金性900/1000。14,000枚の発行。]
コメント : ナポレオン1世より3世の方がずっと素敵なのはなぜだろう?
裏の紋章もVery グー。
1851年 : フランス共和国(第二共和政)
[3,22gで19mm。金性900/1000。]
1851年 : フランス共和国(第二共和政)
[6,45gで21mm。金性900/1000。12,704,000枚の発行。]
コメント : 2フラン・5フランの銀貨と、4種セットで1つのケースに収まっています。
表情が古代ギリシャのコインっぽくて好きです。
1865年 : フランス帝国(第二帝政)
[KM#804,1。 16,12gで28mm。金性900/1000。3,740枚の発行。]
コメント : 小ぶりながら、その存在感たるや・・・・
裏の紋章もお約束通りで、嬉しくなっちゃう金貨です。
1859年 : フランス帝国(第二帝政)
[16,12gで28mm。金性900/1000。32,000枚の発行。]
コメント : どうしたって無冠も揃えたくなってしまうじゃないですか・・・
1810年 : フランス帝国(第一帝政)
[12,9gで26mm。金性900/1000。]
コメント : 3世がきたら、やはり1世も来なくちゃね。
1811年 : イタリア王国(ナポレオン治世下)
[12,9gで26mm。金性900/1000。]
コメント : これは正直、ちょっと無理して買ったのですが、やっぱり「ナポレオン金貨」はいいねぇ。
フランス版と違って、裏が紋章っていうのがまたK氏泣かせなのだ。
本日はここまでとさせていただきます。
お付き合い下さり、誠にありがとうございました。
次回も宜しくお願い致します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
投稿情報: 17:00 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅴ ジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
最近のコメント