【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。久々の更新です。
3月に入ってもなお寒い日が続いています。暖かい春の陽気が待ち遠しい限りです・・・。
ところで、本日3月15日は、古代ローマの歴史上最も有名な英雄ユリウス・カエサルが暗殺された日です。
ガイウス・ユリウス・カエサル(BC100年~BC44年)は古代ローマ共和政時代の末期、ガリアでの武功や行政面での諸改革など、ローマの国家体制を左右するほどの影響力を持った人物でした。
尚、今年2月29日は「閏年」であり、この4年に一度の暦上の調整も、カエサルによって制定されたものです。
気前がよく、既存の考え方に囚われないカエサルの姿勢は民衆の心を巧みに掴み、当時から「英雄」として讃えられました。
しかし一方で、絶大な影響力を集中させたカエサルを「独裁者」と見る勢力も多く、ついにBC44年3月15日、カエサルはブルートゥスやカッシウスら過激な共和主義者たちによって刺殺されました。
その劇的な最期は永く語り継がれ、「紀元前44年3月15日」は世界史において特に有名な日付けの一つになったほどです。
その前日、カエサルの妻カルプルニアが悪夢を見たため、夫に元老院への出席を止めるように忠告したと云われています。また伝承によれば、以前に占い師によって「3月15日に気をつけよ」と忠告されていたともいわれます。
妻の忠告にも関わらず、カエサルは3月15日に元老院へ出席することになります。元老院議場へ赴く途中、その占い師に会ったカエサルが「3月15日になったぞ」とからかうと、占い師は「そうですカエサル、しかしまだ終わってはいません」と応えたとされます。
カエサルの最期
(作:ヴィンチェンツォ・カムッチーニ)
ブルートゥスをはじめ多数の共犯者たちによって計画されたカエサル暗殺は、議場で全身をメッタ刺しするという劇的な方法で成し遂げられました。このとき、襲い掛かる暗殺者達の中に、信頼していたブルートゥスがいることに気づいたカエサルは、「Et tu, Brute! (お前もか、ブルートゥス!)」と叫んだとされ、これがローマの大英雄の最期の言葉になったと云われています。
この顛末は劇作家ウィリアム・シェイクスピアの作品『ジュリアス・シーザー』に描かれ、世界的に有名になりました。特に「お前もか、ブルートゥス」のセリフは名台詞として、言われたブルートゥスの名と共に有名になったのです。
尚、古代ローマ時代の文献では、ギリシャ語で「Kai su teknon (お前もか息子よ)」と叫んだと書かれているため、実際にカエサルがなんと言ってその激動の人生を終えたのかは、今となっては知ることが出来ません。
血にまみれたカエサルの遺骸は暗殺者が去った後、三人の奴隷によって議場から運び出され、妻の待つ自宅へ帰還したということです。
カエサルの死
こうして、ローマの紀元前44年3月15日は過ぎていきました。その後、重要なキーパーソンを失ったローマでは、政治的な変動が生じてゆくことになります。ブルートゥスやカッシウス、マルクス・アントニウス、オクタヴィアヌス、エジプトのクレオパトラなどの間で権力闘争が起こり、やがて歴史上の重要な区分として、古代ローマの共和政時代が終わりを迎えることになるのです。
古代ローマでは死者を土葬するよりも、日本と同じように火葬するのが一般的でした。国家をあげてカエサルが火葬される際には多くのローマ市民が集まり、偉大な英雄の死を悼みました。その後、ローマ市内には雨が降ったため、カエサルの遺灰は雨水と共に流れ去ってしまったとされます。
自らの遺灰すら残せなかったカエサルですが、彼の業績や遺産は様々な形で後世に引き継がれ、現在に残されています。コインもまたその一つです。カエサルは暗殺される直前のBC44年1月から、自らの肖像を刻んだコインを発行し始めました。その姿は大神祇官としてヴェールを被ったものや、英雄らしく月桂冠を被ったものなど様々です。
BC44年の1月~2月にかけて造られたデナリウス銀貨
表面には月桂冠を戴くユリウス・カエサル、裏面にはヴィクトリー女神を手に乗せる美女神ヴィーナスの立像が表現されています。
カエサルの肖像左側には、三日月を間に挟んだ「P M」の銘が刻まれています。これは当時カエサルが有していた「大神祇官(Pontifex Maximus)」の尊称号を略したものであり、カエサルの権威を象徴しています。右側には「CAESAR IM (カエサル最高司令官)」の銘が刻まれています。
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しかし共和政時代のローマでは、王や専制政治を嫌う風潮から、生存中の人物をコインに刻むことをよしとしませんでした。とりわけカエサルの伸張に危機感を募らせていた人々は、「いよいよカエサルが独裁者として、ローマの王になろうとしている」と捉えたことでしょう。
カエサルが自身を刻ませたコインもまた、彼自身を滅ぼし、歴史を動かした媒体になったのかもしれません。
その後、カエサルの跡を引き継いだマルクス・アントニウスやオクタヴィアヌスは、カエサルに倣って自らの姿をコインに刻ませ、市民生活の中に溶け込ませました。自らの存在を市中の必需品に刻むことで、常に自らが国家と社会の中心であることを示したのです。
カエサルは大衆の支持こそ、権力の強力な基盤になりうることを理解していました。その為、自らの姿をコインに刻ませたのです。なぜなら、工場や大量生産の技術など存在しない古代ローマ時代にあって、コインのみが誰もが持っている「複製品」だったからです。
この慣習は後にローマ帝国の歴代皇帝たちにも継承され、広大で多様な帝国の各地に、同一人物の肖像を刻んだコインが流通することになりました。その様式はカエサルが始めたものと同じものであり、表面には自らの肖像+名前+称号を刻ませ、裏面には所縁深い神の全身像を刻ませました。
ちなみに「CAESAR」という名前はオクタヴィアヌス(アウグストゥス帝)以降、皇帝(=アウグストゥス)の後継者を表す称号とされ、副帝を示す称号として用いられました。コイン上に「C」「CAES」などの称号だけが刻まれている場合は副帝を、「CAES」「AVG」というように二つとも刻まれている場合は、正式な皇帝を表します。
3世紀の軍人皇帝時代、闘争によって取りあえず帝位に上った皇帝達がまず最初にやったことは、軍の支持を取り付けるためにボーナスを支給すること、そしてそのためにも、自らの肖像を刻んだコインを作らせることでした。
これは軍の支持を得るために一時金を支給するだけでなく、一般の民衆に「現在は自分が正式なローマ皇帝である」ことを知らしめる目的がありました。その為、在位期間が3週間にも満たない短命皇帝や、地方で帝位を宣言した自称皇帝などのコインも、少なからず残されているのです。
在位期間があまりにも短いと、コインを造るように命令して刻印彫刻、試作、生産の開始などの工程を経る間に、実際にコインが出来上がった頃には皇帝本人が殺されていた、なんてこともありそうです。
AD238年 プピエヌス帝のアントニニアヌス銀貨 (在位期間:約3ヶ月)
裏面の握手図は、皇帝と軍団との友好の証とされています。
尚、肖像の周囲部に名前と尊称を共に刻むという慣習は、イギリスやスウェーデン、デンマークをはじめとするヨーロッパの君主国に採用され、現在も世界中のコインに引き継がれています。
カエサルは現代のコインの世界にも、実に大きな影響を与えているのです。
2000年前に凶刃に倒れた英雄カエサルを偲び、彼の発行した古代ローマコインを眺めながら、3月15日を過ごしたいと思います・・・
こんにちは。
11月も2/3が過ぎましたが、今年は暖冬なのか、昨年の今頃と比べるとそこまで寒くないように感じます。
つい先日、インターネット上のニュースで「サクランボ果樹園から古代ローマ時代の硬貨4000枚」というニュースが出ていました。
詳しくは以下のリンク先をどうぞ。(もしかすると記事が消されているかも知れません・・・)
AFPBBNewsリンク先⇒http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_all&k=20151120033504a
記事によると、スイス北部にあるサクランボ果樹園の敷地からローマ帝政時代のコイン 4166枚(15kg)が発見されたそうです。コインの発行年代から、埋められたの3世紀末~4世紀初頭にかけての時期だそうで、それらは小さな皮袋に入った状態で埋められていたとのこと。
リンク先の画像を見る限り、コインはフォリス貨やアントニニアヌス貨などの青銅貨や低品位銀貨がほとんどです。
画像左上にある、皇帝が光の冠を被っているタイプのコインは「アントニニアヌス貨」と称され、デナリウス銀貨2枚の価値に相当するものとして発行が開始されましたが、この画像を見ても分かるとおり、実際にはほぼ青銅貨といってよいほどの低位品位銀貨でした。
これらのコインは軍人皇帝の一人アウレリアヌス帝(在位:AD270年~AD275年)の時代に造られたものから、ディオクレティアヌス帝の四帝分治(テトラルキア AD293年~)時代のものまで、幅広い時代のコインが入っていたとのことです。しかし金貨は入っておらず、純度の高い銀貨も約200枚ほど(全体の5%)しかなかったそうです。
そうなると、蓄財用として埋めたとは考えにくいかもしれません。通常、蓄財用として財産を隠す場合、当時は金貨や銀貨を壺や甕に入れて隠しました。今回は青銅貨や低品位銀貨など、日常的に使うコインばかりで、しかも当時の財布であった皮袋に入れて埋められていました。ということは、もしかすると山賊や兵士が人々から奪った小銭を、アルプスの奥地にまとめて埋めたものかもしれません。または当時の一般個人が長年少しづつ貯めたものか、または人夫たちに日当給金として支払うため、雇い主がまとめて一ヶ所に置いていたものか・・・。
1700年以上前のアルプスの山奥での出来事を、色々と想像してしまうニュースでした。
こうしたロマンあふれるニュースは、コインを集めている人のみならず多くの人々の興味をひく話題です。土の中や海の底から遠い昔の財宝が姿を現すというニュースは昔からありましたが、今も尚そうした財宝がまだ誰にも見つからず、どこかに眠っているのではないかと期待させます。
おそらく現在マーケットで売買されている古代コインもまた、かつてのギリシャやローマ帝国の版図で見つかった出土品なのでしょう。
ただ、残念ながら今回スイスで発見されたコインはすぐにマーケットに出てこないようです。大きなニュースになってしまったこともあるかも知れませんが、地元の博物館が全て引き取り、展示品として扱うようです。
記事によれば、スイスではこうした出土品は「公共物」とみなされ、発見者には褒賞が与えられて現物は国や自治体に取り上げられてしまうのだとか。尚、今回はサクランボ果樹園の所有者が偶然発見したものだったので、当人がコインに興味がなければもらっても嬉しくないかも知れませんが・・・。
国や自治体によって法律が異なるため扱いは違うのでしょうが、ヨーロッパでは近年とくに厳しくなっているようです。もともと欧米では「トレージャーハント」が趣味のひとつとして認識されていました。定年退職後に金属探知機を買って、一日山中や浜辺を捜索するおじさんから、レーダーや高性能の機器を集めて仲間と宝探しをする本格的なトレジャーハンターも存在します。
こうした地道な作業も退職後の趣味であれば楽しいもの。ほとんど金属片などのゴミばかりが見つかり、単なる浜辺の清掃活動になることもあります。しかしヨーロッパは歴史があるため、例えばジャージー島やガーンジー島といったヨーロッパの小さな島でもローマのコインが度々見つかるそうです。
ちなみにアメリカのフロリダ沖で大航海時代の沈没船から大量の金貨・銀貨(主にコブコイン)が引き揚げられたというニュースを度々耳にしますが、ほとんどは偶然発見されたものではなくプロのトレジャーハンターが調査して見つけたものです。
しかしリーマンショック以降、イタリアやギリシャが財政危機に直面すると、考古学的に重要な遺跡や未発掘の墳墓などの管理が行き届かなくなり、盗掘が大きな問題になりました。ウィーンやロンドン、ベルリンなど古代コインの主要な市場がある中心都市は、骨董品や盗掘品の「闇市場」としても知られています。
こうした闇市場では美術館から盗まれた美術品や、近年政情不安定になった国々(シリアやエジプトなど)の古代遺物が密かに売買されているようです。
過去の記事(2015/3/26 「昨今のローマコインに関して」)でも触れましたが、ヨーロッパの国々はそうした問題に対処するため、古代遺物の移動や所有を申告させるよう規制を強めています。
2008年にはブルガリアで「考古学的に重要な物品を所有する場合は、入手経路などを申告を義務付ける」とする法律が定められました。しかし、同年10月が登録期限とされたものの、おそらく実際には申告されていない骨董品が数多くあることと思われます。
そもそもこの法律自体「私有財産を認める憲法の規定に反する」として、憲法裁判所に異議申し立てがされる等の反発も強かったようです。
ブルガリアは「黄金文明」とも呼ばれた古代トラキア人の文明が栄えた地でもあります。2007年のEU加盟後は外国資本によってインフラやリゾートの開発が進み、その過程で数多くの遺跡が発見されました。しかし世界的な金融危機以降はブルガリア経済も悪化し、失業率の増加によって盗掘も増加したと云われています。
アメリカではフロリダ沖などの沈没船探索は民間に任せられていますが、必ずしも自由に探し回ってよい訳ではなく、ライセンスを取得しなければなりません。中には目星をつけた沈没船の探索独占権を取得し、自分達で捜索せず他のダイバーたちに「下請け」のような形で海中探索させる会社もあるようです。
探索は民間のトレジャーハンターたちに任せる一方で、行政はしっかりと貴重な遺物の動きを監視するシステムが出来上がっているようです。この点はスイスの今回の事例と似通っています。
フロリダでは連邦地方裁判所がこうした財宝を管轄し、毎年州による確認調査が入ります。フロリダ州は発見物を検分し、博物館へ保存したいものがあれば裁判所へ要請を出します。裁判所の承認が得られれば、発見した個人や会社は引き渡さなければなりません。なお、それ以外のものは発見者や会社の取り分となります。
つまり、貴重な財宝を見つけてもすぐに発見者のものにはならず、「行政」の管轄物となるのです。
貴重で美しい古代ギリシャ・ローマコインが大量に発見されたとしても、現在ではすぐに売り出されるわけではなく、出土地域や国によっては全て博物館行きになってしまうかもしれません。
よりよいコインは現在のマーケットで出回っている中から見つけ出すしかなさそうです。
こんにちは。お久しぶりです。
この頃記事を更新できていませんでしたが、本日は久々の更新です。
よく物事の喩えなどで「コインの裏表」という言い回しがありますよね。
実際にコインを投げてみて、「表か裏か」を賭けるというゲームも、昔から世界中で行われています。
それだけ古くから、世界中でコインが人々の生活に深く浸透していたという証でもあります。
では、コインの「表面」「裏面」というのはどのように決まっているのでしょうか?
例えば古代ギリシャのコインの場合、現在では「凸面」が表、「凹面」が裏とされています。これは当時の造幣方法が「打刻式」であり、ハンマーを打ち付ける面を表面にしていた、という見方からきています。
紀元前6世紀頃、打刻コインが作られ始めた頃は、塊を固定して「表面」だけを打ち出していました。
【走るペルシア王の反対側には、金塊を固定していた跡だけが刻まれている。】
そのため表面は盛り上がり、裏面は窪んでいるような状態の中に、デザインが表現されているものが多くあります。
【表面にはアテナ神、反対には四角い陰刻の中にフクロウが表現されている。】
また、アレキサンダー大王時代以降、王の肖像を大きくコインに表現するようになってからは、人物(君主)の肖像がある方を表、神々の坐像や立像などの全身像が表現されている方が裏とされています。
人物肖像があるコインの場合、王の名や称号銘は肖像と共には刻まれず、裏面に刻まれている例が多く見受けられます。
【ヘラクレスを模した大王の肖像の面は盛り上がっているのに対し、反対側のゼウス神坐像の面はすり鉢状に窪んでいる。ゼウス神の右には、ギリシャ文字による「アレクサンドロス」の銘。】
この様式は後にローマにも引き継がれました。共和政時代のローマコインの表裏には、共に神の姿が表現されました。しかしカエサル以降、存命中の人物の肖像が表現されるようになり、人物の肖像と共にその人の名と尊称号が刻まれるようになります。この様式はアウグストゥス帝以後のローマ皇帝に引き継がれ、ローマ帝国の全史を通じて継承されてゆくことになります。
【カエサル自らの肖像と共に、「CAESAR」の銘が刻まれている。反対側はヴィーナス女神の立像。】
【月桂冠を戴くハドリアヌス帝の肖像の周囲には、「HADRIANVS AVGVSTVS (ハドリアヌス帝)」の銘。反対側には、自由と解放の女神 リベルタスの立像。】
ただ、この見方はあくまで後世の我々から見た「コインの裏表」であり、当時のギリシャ人やローマ人たちがどちらを表面、裏面として認識していたのか、またはそもそもコインに「表裏」があるという意識が存在したのかは不明です。
しかし、コインに時の君主の肖像と尊称を刻むことは、現在に至るまでヨーロッパ諸国の伝統になりました。「君主の顔=国家の象徴」という見方も伴い、慣習的に「君主の肖像がある面が表」と認識されています。
ちなみに古代中国で造られた、穴銭などの鋳造コインの場合、漢字などの文字が大きく刻まれている面が表(※反対の面には簡単な記号や、何も表現されていないことが多かった)とされます。
またアラブやトルコ、イランなどのイスラーム諸国では伝統的に偶像を描くことを忌避することから、両面共にアラビア文字の文言のみが刻まれました。この場合、どちらが表でどちらが裏なのかを判断することは、非常に難しくなります。
ウマイヤ朝やアッバース朝など初期のイスラーム王朝では、聖典『クルアーン(コーラン)』の一節を刻みました。
神の言葉である以上、これが表となります。後にクルアーンの一節が刻まれなくなった後は、君主の名前がトゥグラ(イスラーム圏の花押)などによって表され、これを「表面」と見做すことが多いようです。
どちらが「表面」で「裏面」か判りますか?
しかしこうした捉え方はあくまで後世の見方でしかなく、未だにどちらを表面とするか、判断が難しいコインが数多くあるのも事実です。
日本の場合、明治時代から年号の入っている面(額面数字が大きく刻まれている側)を「裏」とし、その反対面(草花などがデザインされている側)を「表」としているようですが、これは造幣局が製造時に「便宜上」利用している定義に過ぎず、貨幣発行に関する法律には規定されていません。
そのため、どちらの面を表とするかは世界各国様々であると思われます。世界のコイン収集の基礎となるカタログ『Standard Catalog of WORLD COINS』(クラウス社)を見ると、君主がいない共和国の場合、「国章」が刻まれている面が「表面」として紹介されています。
しかし国章がどちらにも刻まれていない場合は、「国名」が刻まれているほうを尊重して「表面」としているようです。つまり人物がモティーフになっていたとしても、君主国でない場合は表とは限らないのです。
【クラウス社のコインカタログでは、スカーレットアイビスが打ち出されている方を「裏面」、トリニダード・トバゴ共和国国章の方を「表面」として掲載している。】
【クラウス社のコインカタログでは、リバティ女神が打ち出されている方を「裏面」、ペルー共和国国章の方を「表面」として掲載している。】
尚、紙幣の場合は、銀行による発行の場合は「銀行名」が表記されている方を表面とし、裏面に国章や国名が記されていても、そちらを尊重しているようです。
【同じくリクラウス社発刊の世界紙幣カタログでは、リバティ女神坐像が描かれた方を「表」、国章を描かれた方を「裏」としている。しかしこの紙幣では、明らかに19世紀から発行していたソル銀貨をモティーフにして、表裏のデザインを構成している。】
しかし近現代のコインの場合は、慣習的に「裏面」とされている面のデザインは、表面に比べて自由にデザインができることから、記念コインなどでは裏面に力を入れるケースが増えています。その場合、デザイナーや製作者にとっての表面は、従来の裏面が「表」となるはずです。おそらく記念コインを購入する収集家も、美しいデザインが刻まれた面を「裏」として意識することはないと思われます。名品と云われるコイン(都市景観や雲上の女神など)に当てはめて考えると、肝心な面は全て裏面になってしまいます。
戦後発行された世界の記念コインは多種多様ですが、主な発行地域の関係から、そのほとんどにエリザベス2世女王(在位:1952年~)の肖像が刻まれています。そのデザインは発行国、地域に関わらずほぼ共通であるため、一見しただけではどこで発行したコインか分かりません。その判別を明確にするのは、やはり「裏面」ということになります。女王の肖像と名前だけで、額面や発行年、発行国名すらその裏に刻まれている例もあるからです。
【表面にはエリザベス2世女王の肖像、裏面には中国の童子人形が表現されている。このコインはシリーズ記念銀貨であり、裏面のデザインは多種多様にある。しかし「表面」であるエリザベス2世の肖像や称号銘などは全て共通である。】
コインを収集する楽しみの一つとして、「集める」「観る」に加えて「分類する」というポイントがあります。しかしコインの表裏の定義は非常に曖昧です。そもそもコインというもの自体が、一概に定義するには難しいほどに地域的・歴史的範囲と多様性が広いためです。
どちらを「表」とし、どちらを「裏」とするか、収集と研究にあっては自分の中の「表裏」をハッキリ決めることが大切です。
このコインは「凹凸」の定義に当てはめた場合、左側の騎馬兵士が表となり、右側のイルカに乗ったタラス(都市タレントゥムの守護神。海神ポセイドンの息子とされた)が「裏面」になります。
筆者はどうも右側の「タラス」が、このコインにとっての「表面」に思えて仕方ないのですが、皆さんはどう解釈しますか?
こんにちは。
夏の暑さも少しは和らいで、涼しい日が多くなって参りました。
ここのところ何かと忙しく、すっかりブログの更新が滞ってしまいました。
本日はコインの「ミントマーク」に関する話題を少し。
皆さんは「ミントマーク」という言葉をご存知でしょうか? 恐らく日常ではなかなか耳にしない言葉だと思います。簡単に説明しますと、コインがどの都市で造られたかを示すマークのことです。
ミントマークが採用されている国は、主に欧米諸国であり、国内に複数の造幣局を有している国にみられます。
日本の場合、明治時代に建設された造幣局は大阪本局のほかに、東京と広島に支局があります。しかし日本では通常流通貨の大半を大阪造幣局が製造しているためか、コインに造幣所を示す何らかの記号を打つことはありませんでした。その為、日本で日常生活を送っている上では、まず認識されないと思います。
ヨーロッパではコインにミントマークを打つことが一般化しており、古くは古代ギリシャ・ローマ時代にまで遡ります。
上はAD361年~AD363年にかけて、ユリアヌス帝治世下のローマ帝国で発行されたコインです。
牡牛の下部にはそれぞれの造幣都市を示す文字が刻まれています。
左から「CONSP (コンスタンティノポリス)」 「CVZ (キジコス)」 「ANT (アンティオキア)」です。
その後、ヨーロッパ各国では発行都市を示すミントマークを刻んだコインが多く発行されるようになります。
特に18世紀~20世紀初頭にかけての帝国主義時代には、ヨーロッパ域外のアメリカ大陸をはじめ、アジア、大洋州などの植民地コインにもミントマークは刻まれました。
アメリカの場合は国土が広く、また経済の急速な発展からコインの需要が増大したことで、各地に造幣所が設立されました。ドイツは1871年に、多くの領邦を統合して「ドイツ帝国」を成立させた後も、領邦各国が有していた造幣所をそのまま存続させたことから、多くのミントマークが現在まで用いられています。
また、スペインは国内だけでなく、金銀が多く採れた新大陸の各地に造幣所を設立したため、18世紀には数多くのミントマークが存在しました。
しかしミントマークの付け方は国ごとに異なり、注意が必要となります。例えば、発行都市の頭文字をミントマークとして刻む場合もあれば、都市の名前とは関係なく刻むケース(例えば首都は『A』など)、都市の名前そのものを刻む場合や、抽象的なマークやモノグラムを刻むものもあります。
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多くの場合、ミントマークはコインのデザインそのものを損なわないようにするため、ルーペで見なければ判別できないほど小さく刻まれている場合が多くあります。
特にイギリスとその植民地で発行されたコインの場合、デザインの一部分として組み込まれていることが多いため、確認するのに苦労します。
逆にラテン・アメリカ諸国の場合、他の銘文と同じ大きさで、はっきりと表記される傾向にあるため、容易に確認することができます。
現在、複数の造幣局を稼動させてコインを製造している国(アメリカやドイツ、オーストラリアなど)ではミントマークを刻んでいますが、国内の造幣所を一ヶ所に統合している国も多く、そうしたところではミントマークを省略している場合もあります。
その要因としては、ヨーロッパ諸国の植民地が独立したことや国内の行財政改革、さらに根本的なところではコインの需要が減ってきていることが考えられます。
参考として、以下に主要各国のミントマークをいくつかご紹介します。主に19世紀から現在まで使用されているものがほとんどですが、中にはフランスのように既にミントマークの使用を取りやめた国もあります。
A : パリ
B : ルーアン
BB : ストラスブール
D : リヨン
K : ボルドー
L : バイヨンヌ
M : トゥールーズ
A : ベルリン
B : ウィーン
(※1938年~1944年 ナチスドイツによるオーストリア併合期のみ使用)
D : ミュンヘン
E : ミュルデンヒュッテン
F : シュトゥットガルト
G : カールスルーエ J : ハンブルク
C : シャーロット
CC : カーソンシティ
D : デンヴァー
O : ニューオーリンズ
P : フィラデルフィア
S : サンフランシスコ
W : ウェストポイント (ニューヨーク)
A : アデレード
B : ブリスベン
C : キャンベラ
P : パース
S : シドニー
M : メルボルン
B : ボンベイ (現在のムンバイ)
C : カルカッタ (現在のコルカタ)
L : ラホール
M : マドラス (現在のチェンナイ)
HEATON BIRMINGHAM : ヒートン社、バーミンガム (イギリス)
LIMA : リマ (ペルー)
Mo MEXICO : メキシコシティ (メキシコ)
PHILADELPHIA : フィラデルフィア (アメリカ合衆国)
このほかにも、デンマークでは「♥」がコペンハーゲン造幣局、キューバでは「鍵」マークがハバナ造幣局を示すマークとして用いられています。
もちろん、時代によってその用いられ方、表記のされ方は変化しますが、民間の造幣会社が造ったコインにもミントーマークが用いられ、今尚継承されています。(FM : フランクリンミント(米)、H : ヒートン(英)など)
皆さんも、お手持ちのコインをよ~く見て下さい。もしかしたら、片隅に小さな小さなミントマークが隠れているかも知れませんよ。
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コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
こんにちは。
およそ1ヵ月ぶりの更新です。 (いつも停滞してしまってすみません)
今日は久々の近況報告です。
昨日、いつも大変お世話になっているお客様が、ご自身の秘蔵コレクションを持ってご来店くださいました。
その方はローマコイン(主にデナリウス銀貨)を多く集めていらっしゃるのですが、その数は驚異の410点!! ここまで揃えるのは根気と労力、そして強い収集意欲と探究心がなければできないでしょう。
これほど膨大なコレクションを揃えるのには、15年かかったということです。
昨日はなんとその全てを持って来ていただき、貴重な品々を一度に拝見することができました。暑い中、ここまで持ってきていただいたことを考えると、ありがたいの一言に尽きます。
数もものすごいのですが、どれ一つとして同じ種類のコインはないという点も、収集家としてのこだわりの一つでしょう。同じ皇帝のコインであっても、ご自身が持っていない裏面デザインのコインを発見したら、すぐさまコレクションに加えることで内容を充実させていったそうです。
(※左からコンコルディア女神、ハドリアヌスと兵士、狼とロムルス、レムス兄弟)
コインに限ったことではなく、コレクションはどんどん増えていくと、自分自身がその膨大な内容を把握できないという自体が発生します。自分の持っているコインを把握していれば、偶然目についた出物があればすぐに手元に収めることができます。
そういう意味では、自らのコレクションを日頃から観賞しているからこそ、同じものがかぶらないようになっているのだと思います。
ローマ共和政時代~軍人皇帝時代までの主要なデナリウスが一同に会した光景は、本当に壮観でした。
日本人の個人コレクションとして、これほどローマコインを集めている方は限られると思われます。
様々な時代のローマコインを比較しながら眺めることができ、大変勉強にもなった至福の時間でした。
改めまして、篤く感謝致します。またコレクションを拝見できるのを、心から楽しみにしております。
こんにちは。
最近は更新がすっかり疎かになっておりました。
本日は古代コインから少しだけ離れて、現在使用されているコインに関してご紹介します。
皆さんは普段使っているコインの縁(ふち)を気にしたことはありますか? コインの世界では、ふちのことを「Edge(エッジ)」と呼びます。エッジはコインの流通状況や、これまでの持ち主の保管状況が垣間見えます。
記念コインなどではない小さなコインは、人の手から手へ渡すときになどに落としてしまうことがありますが、造幣局で造られてすぐに袋に入れられたとき、コイン同士があたって傷がつくこともあります。
もちろん、財布の中に他のコインがたくさん入っていたり、金融機関やコイン商、コレクターが同じ種類のコインを一箇所にまとめて置くなどすると、コイン同士が当ってしまいます。コインのエッジは、文字通りコインの端っこですから、そのような状況では傷がつきやすくなります。
また、紙で挟むタイプのコインホルダーに入れておくと、面の部分は傷がつかず美しく保たれますが、隙間から空気が入るのでエッジの部分だけ酸化して変色している・・・なんてことも見受けられます。円形である以上、変形させた箇所では金属に圧がかけられているため、変色が起こりやすいのです。
コインが円形であるのは、落としたときに破損しにくいから、とよく云われます。確かに、紀元前6世紀の古代ギリシャから2500年以上を経た現在に至るまで、お金の形は「円」がスタンダードです。もちろん四角形や五角形、六角形の流通用コインも多く発行されてきましたが、自動販売機が普及した現在では、むしろ円形であるほうが効率が良いとされます。
ただ、コインの素材に貴金属が使用されていた時代、コインのエッジ部分が削り取られてしまう事件も多かったようです。つまり、一枚のコインのふち部分を少しだけ削り取れば、わずかな金(または銀)を得られ、コインそのものは額面通りに使用してしまうわけです。一枚から取れる分量はほんの僅かでも、100枚、1000枚から採っていけば莫大な価値になります。
そうした変造を防止するために、コインの発行者はエッジに細工を施しました。いわゆる「ギザ十円玉」のように、エッジ部分がギザギザになっているのはその名残なのです。
紀元前2世紀~紀元前1世紀頃の古代ローマでは、コインのエッジにキザが入れられたものが発行されていました。しかし、このコインはイレギュラーなものであったようで、ある特定の年に発行されたものに限られていたようです。
偽造防止の観点からみれば大変有効に思えますが、結果的にローマでは共和政時代、帝政時代を通してギザ有りコインが定着することはありませんでした。
当時のローマでは貨幣発行担当者が毎年変わっており、その都度コインのデザインは担当官の意向に任されていたこと、また一つ一つ手作業でギザを入れるため、余計な手間が増えて大量生産には不向きであったこと等が原因として考えられます。
しかし近代に入り、大型銀貨の登場や機械によるコインの大量生産が普及すると、エッジにギザを入れることが一般化します。それは高額面ほど顕著であり、やがて装飾や文字を入れるなど凝ったものも登場しました。
ここからはタイプ別にエッジを紹介します。
全く何も施されていない、最もシンプルなエッジ。主に低額面のコイン(青銅貨など)にみられます。
Plain(プレーン)エッジ、またはSmoothエッジと呼ばれます。
現在、日本では1円玉、5円玉、10円玉にみられるタイプです。
いわゆる「ギザ」タイプ。近代から現代に至るまで、幅広いコインに見られるエッジタイプ。
Reeded(リーディッドエッジ)、またはMilled(ミルドエッジ)と呼ばれます。
シンプルにギザが並んでいますが、溝と溝の間が狭く細かいため、容易に変造は出来ません。
現在では50円玉と100円玉、旧10円玉にみられます。旧10円玉は、似たサイズの100円玉の登場により、周囲のギザを削られプレーンエッジになりました。
現在の500円玉にもギザが入っていますが、よく見ると斜めになっているのがわかります。これは「Slant-Reeded」と呼ばれ、偽造防止には大変有効です。
Reeded(ギザ)の入ったエッジの真中に一本の溝を入れ、その中にさらに細かい細工を施したタイプ。
主に第二次世界戦中~後、銀をコインに使用できなくなったイギリス植民地で多く見られました。写真のコインも第二次世界大戦中の英領インド銀貨ですが、銀含有率は50%です。含有率の下がった銀貨の価値と信用を少しでも維持するために施された偽造防止措置と考えられます。
文字や銘文が表現されたもの。主に20世紀初頭までの大型銀貨や、金貨に見られました。特にヨーロッパ諸国においては顕著であり、ターレル銀貨やクラウンサイズのコインには、モットーや額面、発行年、ミントマークといった銘が刻まれました。
陰刻から陽刻まで幅広い分類がありますが、近年の記念コインには主に陰刻で打たれることが多いようです。エッジに刻まれた銘は見落とされることが多いのですが、大変意味深な興味深い文が刻まれていることもあり、ひっそりと隠されていた様々な発見もあります。
また珍しいものとしては、18世紀~19世紀のポルトガル金貨のように、魚のうろこ状になっているものもあります。薄手の金貨であるが故に、このような細工がされたと考えられます。
現在、世界各国で発行されているコインの多くに「ギザ」や、その他の加工が施されています。今では貴金属を流通用コインに用いることは無くなったため、変造防止というよりも、ほとんど形式的なものに成っています。
しかし現在では視覚に障害のある人が、似たサイズでも異なる額面のコインを触って区別できるように、ギザギザが残され、役に立っています。
皆様もお手持ちの財布に入っているコイン、または御自身のコインコレクションのエッジを一度ゆっくりと眺めてみて下さい。見落としていた、面白い発見があるかもしれませんよ。
こんにちは。
だんだんと春らしくなってきました。まだ強風と乾燥は続いていますが、日差しが暖かく感じる日も多くなってきています。
さて、最近ブログのほうをすっかり疎かにしておりますが、忘れないうちに何かしら更新していきたいと思います。
今回は、昨今のローマコイン市場に関して。
前回もご紹介しましたが、最近は世界的なコイン投資の広まりによって、古代ギリシャ・ローマコインの品薄・値上がりが進んでいます。
特にアメリカのコイン市場が顕著なのですが、古代コインの供給地であるヨーロッパの情勢も変わりつつあるようです。
これにはユーロ危機以降、ギリシャやイタリアからの古代出土品の移動が、厳しく制限されはじめていることも背景に有るようです。
これまで、イタリアやギリシャの遺跡から出土したコインや芸術品は、アンダーグラウンドにドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどの大手市場に流されることがあり、一つの重要な供給源にもなっていたのです。
しかし、アメリカやEUでは歴史的遺物を保護する動きが政府レベルで進められ、その重要性が取り上げられるようになりました。特にEUでは、たとえ域内であっても入手ルートがはっきりと分かるものでなければ出土国へ返還するべきとして、取り締まりも厳しくなっています。ギリシャもイタリアも経済的に厳しい状態が続いている為、自国の歴史的遺産を水面下で動かされることに敏感になっているのかもしれません。
この両国は財政難から自分達で徹底的取締りを出来なくとも、EUに働きかけて加盟国各国に取り締まりを求めることはできます。
その為、古代コインをはじめとする古代芸術品の水面下での供給は一気に萎えてしまい、現在の品不足を招いたのでは、との見方もされています。
しかし、激しい内戦状態が続くシリアやイラクなどからは、トルコを経由して古代のコイン(パルティアやフェニキア、ローマ帝国属州時代のもの)や、その他の出土品が今後大量流出する可能性もあります。コインの市況は、激動する国際情勢に大きく左右されているといえるでしょう。
このところそうした品薄の情勢を象徴しているのが「ローマ神のデナリウス銀貨」です。
このローマ神は、都市国家ローマの守護女神とされ、ローマ市そのものを象徴する神でした。
翼付き兜を被った勇ましい姿で表現されるのが常でしたが、イヤリングやネックレスなどの装飾品も身に付けており、女性らしさも併せ持った美女神として表現されました。
共和政時代のローマでは、このローマ神を表現したデナリウス銀貨が100年以上の長きにわたって造られ続けました。尚、左下に刻まれた「X」の銘は、当時のデナリウス銀貨1枚がアス銅貨10枚に相当したことを示しています。もともと「デナリウス」の呼称は、「10」の形容詞からとられた貨幣単位でした。
紀元前2世紀後半にアス銅貨10枚⇒16枚へ改正されてもこの「デナリウス」の呼称は残り、ローマ帝国が滅ぶ直前まで、長らくローマの基軸通貨単位でした。(※X銘からXVIの銘に変更されたローマ神コインもみられます)
さて、長く発行され続けたローマ神のコインは、時の通貨発行責任者の意向で裏面が変更されたことでバリエーションに富みますが、特異で興味深いものを除けば、現存数が多い、手に入れやすいありふれた古代ローマコインとして人気がありました。
ところが、最近はこのローマコインを見かける機会が減り、海外オークションの出品数も以前と比べて減少しているように感じます。無論、入札参加者は増えても出品数が少ないのですから、出品されたローマ神のコインの値段はどんどん上がってしまいます。
こうした状況は、ユリウス・カエサルの軍団が発行した「象コイン」に似ています。このコインは短期間に発行されたものとはいえ、現存数が多く、よく見かけられたコインだったはずですが、近年は常に高値で取引されるコインになってしまいました。
しかしローマ神のコインは、初めて古代ローマのコインを買われる方が、最初に手にすることの多い代表的ローマコインです。毎回オークションでは入札しているのですが、その度に高値で落札されてしまい、なかなか入荷し難たくなっているのが現状です。
ローマコインは本来、大型の銀貨があまりなく、基軸とされたのは直径20mm前後、重さ3g前後の小さなデナリウス銀貨でした。
従来、デナリウス銀貨は発行の歴史が長く、バリエーションと現存数が豊富であることから、数を揃えて楽しむことが出来ました。(ガルバやオットー、ペルティナクスなど、在位3ヶ月程の短命皇帝は除きます。)
その為、長いローマ史を手にとって観賞できる、手軽な古代遺物として愛されたのです。
アウレウス金貨やソリダス金貨は、絶対数が限られていて、かつ人気があって昔から高価でした。
逆に、セステルティウス銅貨は発行数は格段に多い分、卑金属のため2000年近い経年変化に耐えられないこと、一般市民の生活の中で広く流通したことで退蔵されず、磨耗や消費が盛んに行われたため、美しく残っているものは特に高値で取引されました。
しかし、エジプト属州やシリア属州で発行された大型のテトラドラクマ銀貨(※ギリシャ系地域に合わせてドラクマ幣制を採用。Billonと呼ばれる低品位銀で造られた。)や、カラカラ帝以降、軍人皇帝時代に盛んに発行されたアントニニアヌス貨(※デナリウス2枚に相当するとされたが、実際には銅貨に銀メッキを施した粗悪なコインだった。デナリウスと異なり直径が大きく、皇帝は光の冠を戴いている。)は、比較的安価に取引され、現在でもその傾向はあまり変わっていないように思われます。
またデナリウス銀貨であっても、五賢帝時代以降、つまりセウェルス朝時代(2世紀末~3世紀前半)のコインは状態が良好で素晴らしいものが多いのですが、やはり絶対数が多いためなのか、オークションでも比較的安く手に入るように思います。
欲しいときにいつでも、好きなタイミングで入荷できるコインであった「ローマ神のデナリウス」は、今やある時に入荷しておかねばならないコインに出世してしまったようです。時勢の急激な変化を感じざるを得ません。
こうした古代ギリシャ・ローマコインへの過熱は何時まで続くのか、これからも情勢を見守っていきたいと思います。
歴史専門誌『歴史人』より、特別別冊号『世界史人』が発売されました。
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こんにちは。
本日は古代ローマ帝国のコインをご紹介します。
今回は五賢帝の一人として名高いアントニヌス・ピウス帝の時代に発行されたコインです。
アントニヌス・ピウス帝の「ピウス」とは、「敬虔者」「慈悲深き者」の意味であり、皇帝即位後に元老院から授けられた称号です。後世、カラカラ帝なども「ピウス」の尊称を授かりましたが、通常「ピウス」といえば、ローマ五賢帝の一人 アントニヌス・ピウス帝を指します。
彼はAD86年に政治家の息子として生まれました。祖父と父は執政官を務めた富豪であり、恵まれた環境で育ちました。元老院議員、財務官、法務官、執政官など、ローマ政治の中枢で要職を歴任し、属州の総督も経験しました。
AD138年、当時のハドリアヌス帝の養子となり、「副帝」として事実上の帝位継承者となります。
実際には、ハドリアヌス帝はマルクス・アウレリウスを後継者としたかったようですが、マルクスがまだ若すぎるということもあり、行政経験豊富で人格者として知られたアントニヌスを後継に指名したのです。尚、その後をマルクス・アウレリウスに継がせることもこの時から決まっていました。
「高潔」『謙虚」という言葉がぴったりのアントニヌスは、皇帝に即位してもその姿勢を曲げることはありませんでした。元老院や軍との関係にも気を配り、持てる莫大な富を市民に還元することを忘れませんでした。贅沢に溺れることはなく、素朴で静かな生活を好み、公私を混同させることは無く振る舞いました。彼は国庫の金を自らのために使うことはせず、極力自分の私財から支出しました。
謙虚で相手を敬う気持ちを持ち続けた皇帝はあらゆる人々から幅広い支持を受け、まさに「聖人君子」という言葉がよく似合う治世を実現します。トラヤヌス帝や先代のハドリアヌス帝が独断・強行型の強い指導者であったのとは対照的に、アントニヌス・ピウス帝は合意形成を重視する協調型の指導者でした。
アフリカ属州(現在のチュニジア)の中心都市カルタゴに建設された大型公衆浴場。巨大なサウナ室もあり、地中海に面した風光明媚な立地に建てられた。
アントニヌス・ピウス帝の治世下に建設され、通称「アントニヌス浴場」の名で呼ばれた。
トラヤヌス帝時代に領域を最大化し、ハドリアヌス帝によって防御強固なものとしたローマ帝国は、空前の平和と繁栄の時代を迎えました。いつしか当時のローマ人は「黄金世紀」、後世の人々からは「パクス・ロマーナ」と呼ばれる時代の到来です。ローマにとって幸運であったのは、この絶頂の時代にトップに君臨したのが暴君や暗君、浪費家ではなく、高潔で人徳にあふれ、人望を大いに集めることの出来た大人物であったということでしょう。
アントニヌス・ピウス帝時代は周辺諸国との紛争も少なく、皇帝は首都ローマから離れることなく広大な帝国の統治を行えました。行政機関が確立されていた、平和な時代のローマ帝国ならではといえるでしょう。また、周辺諸国との対立が起こりそうな場合も、アントニヌス・ピウス帝は相手国に直接書簡を出し、平和的に収めさせたといわれています。
アントニヌス・ピウス帝は即位時に52歳であり、当時のローマ人から見れば既に高齢でしたが、彼の治世は23年に及びました。平和な時代で皇帝自ら外征に赴くことも無く、また本人も規律正しい穏やかな生活を送っていたことから、長寿を実現できたのです。
彼は23年にもわたる在世中、大きな改革や変更を行わず、また大事件や戦役も起こりませんでした。皇帝自身の人柄や人間関係も良好であり、個人的なスキャンダルとも無縁でした。欲望や人間味溢れるドラマテックなローマ帝国史にあって、あまりにも完璧すぎ、特筆すべきことの無いアントニヌス・ピウス帝の治世は異例中の異例でした。後世の歴史家は、彼に「歴史無き皇帝」という評価を下したほどでしたが、それは決して批判的評価ではなく、むしろ戦争や虐殺で彩られたローマの歴史にあっては最大限の賛辞といっても差し支えないでしょう。
ローマの神々に祝福されながら天に召されるアントニヌス・ピウス帝と皇后ファウスティナ。アントニヌス・ピウス帝亡き後に作られました。
平和と秩序を愛し、繁栄した治世を実現させたアントニヌス・ピウス帝時代のコインは、皇帝の財政健全化政策もあって金性や価値が安定していました。治世中、数多くの尊称を元老院から贈られた皇帝は、コイン上の自らの肖像周囲部に細かくその称号を刻みました。
デザインとしては、他の皇帝と同じく表面に月桂冠を戴く皇帝の肖像が打たれています。アントニヌス・ピウス帝のコイン肖像の特徴は、面長で豊かな髭を蓄えた皇帝が、上目遣いで表現されている点です。また、その鼻は高く、教養溢れる落ち着いた紳士の風を醸し出しています。
美男としても知られた皇帝の謙虚な人柄を巧く表現した彫刻になっています。なお、コイン肖像では首が非常に長く表現されているのも特徴です。目元は他の皇帝のように力強いものではなく、目尻が下がったように表現されています。ここからは裏面も合わせて、代表的なコインをご紹介します。
表面にはアントニヌス・ピウス帝の肖像。
裏面には「握手」の図。これは皇帝とローマ軍団との信頼・友好関係を示しているとされます。
裏面は平和の女神 パックスの立像。平和を尊び、安定した治世をローマに実現させた、アントニヌス・ピウス帝の信条を明確に表しています。立像の下部には、「PAX」の刻銘。
裏面には希望の女神 スペースの立像。女神を挟むように打たれた「S/C」の刻銘は、「元老院決議に基づく」のラテン語略銘です。当時、銀貨と金貨の発行権限は皇帝に属していましたが、銅貨の発行に関しては元老院の管轄でした。
裏面は神祇官のトーガを身に纏ったアントニヌス・ピウス帝自身の立像。アントニヌス・ピウス帝は武人として表現されるより、文官、神官としてコインに表現される例が多く見られます。同様のデザインは、デナリウス銀貨にも打たれました。
表面 上目遣いのアントニヌス・ピウス帝の肖像周囲部には、「国父にして護民官権限を持つ皇帝アントニヌス・ピウス 執政官三回目」との銘文がある。
裏面には最高神 ユピテル(ジュピター)の立像。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回も宜しくお願いします。
こんにちは。
だいぶ涼しくなり、すっかり秋らしい日も多くなってまいりました。
さて、前回はギリシャコインに関する記事をご紹介したので、今回は古代ローマコインに関する話題をご紹介します。
古代ローマコインは大きく「共和政時代」と「帝政時代」に分けられます。
共和政時代のコイン様式はギリシャコインと似ており、神話に登場する神々の姿が表現されています。
ローマ共和政時代のデナリウス銀貨に表現された代表的な神は「ローマ神」です。
ローマ神は都市国家であったローマの守護女神であり、その姿は翼の付いた兜を被った横顔が表現されていました。細かく見ると、イヤリングなどの装飾も刻まれており、女神であることが分かります。
共和政時代を通して長く表現されたローマ神は、共和政ローマそのものを具現化した存在であったと考えられます。
(写真はBC111年頃のデナリウス銀貨)
一方、帝政時代のコインは、その時々のローマ皇帝の肖像が表現されているという特徴があります。共和政時代の末、ローマの実質的な独裁者となったユリウス・カエサルが自らの肖像をコインに表現させて以降、オクタヴィアヌスやマルクス・アントニウスなど、実在の人物がコイン上に表現されるようになりました。長年、共和政を国是としていたローマのシステムが行き詰まり、強力な指導者の登場を時代が求めた故の現象といえます。
BC27年、オクタヴィアヌスは元老院より「アウグストゥス(尊厳者)」の尊称を授けられ、これをもってローマの帝政時代の開始とされます。以後、初代皇帝アウグストゥスの時代から5世紀の西ローマ帝国滅亡まで、イタリア半島で発行されたコインには皇帝の肖像が打たれるようになったのです。
(写真は皇帝に即位する前のオクタヴィアヌスを表現したデナリウス銀貨[BC32年])
コインにはその時々の皇帝だけでなく、皇妃や副帝といった皇族の肖像も打たれ、その人物が当時、ローマ帝国の中央政界でいかに大きな影響力を持っていたのかが伺えます。
五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス帝の副帝時代に発行されたデナリウス銀貨。トレードマークの豊かな髭が無い若者の姿。(AD140年発行)
アントニヌス・ピウス帝の皇妃ファウスティナを表現したデナリウス銀貨。
AD140年に崩御したファウスティナ妃は、死後にローマ元老院によって「神」に列せられた。この銀貨はAD145年に発行されたもの。
15世紀末にイタリアを中心に興った古代文化・文芸復興運動「ルネサンス」の時期には、帝政時代のローマコインを体系的にまとめて研究し、そこからローマ時代の歴史、政治、文化を明らかにする取り組みが試みられました。コイン上に刻まれた皇帝の肖像と銘文を手掛かりに、その時代の政策や歴史的事件、信仰を解き明かそうとしたのです。
歴代のローマ皇帝の肖像を刻んだコインは、イタリアやドイツ、フランスの文化人や王侯貴族を魅了しました。貴族や王侯は出入りの骨董商にローマ時代のコインを見つけさせては、屋敷や宮殿の宝物庫に納めさせました。書斎や図書室の引き出しに収納できる、小さな古代ローマ帝国の遺物は、ルネサンス時代を生きた人々を古代のロマン溢れる世界へ誘ったのです。
当時の王や貴族、富裕な商人や文化人も、現代の我々と同じように夜な夜な一人書斎に篭ってコレクションを眺め、それらが実際に使用されていた古代の世界に想いを馳せていたことでしょう。
また、歴史的にヨーロッパの王侯貴族は、子弟の帝王学教育、歴史教育の教材としてもローマコインを用いました。ルネサンス時代に起こった古代コイン収集熱は、今のコインコレクション市場の基礎となったのです。
神聖ローマ帝国皇帝でありスペイン王であったカール5世(皇帝在位:1519年~1556年)も、熱心なコインコレクターの一人でした。宮廷に出入りするイタリア人商人に注文し、イタリアで発掘された古代遺跡から出土した珍しいコインをドイツまで送らせました。
このイタリア⇒ドイツへの古代ローマコイン供給によって、ドイツにはローマコインが多く流れ込み、コイン収集・研究の土台ができました。現代でもフランクフルトやミュンヘンでは、古代ローマコインが盛んに取引されています。
(神聖ローマ帝国皇帝在位:1519年~1556年、スペイン王としては「カルロス1世」 在位:1516年~1556年)
また、近現代では、イタリア王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(在位:1900年~1946年)も古代コインに魅了された王の一人であり、彼に至ってはコイン研究書まで著しています。
さらにコイン発行の最高権限者でもある自らの地位を最大限活用し、イタリア本国と植民地で多種多様なデザインのコインを発行したことでもしられます。その多くは、古代ギリシャ・ローマのコインからインスピレーションを受けたと思われるデザインが多くを占めています。
自らが理想とする芸術的なコインを実際に造り、それを公的に発行してしまうのは職権乱用のような感じもしますが、それらのコインは収集家の人気の的となり、現在でも市場で高値で取引されています。
国王は第一次世界大戦とファシストの台頭、第二次世界大戦の敗北に伴う王国の消滅を経験し、失意のうちに亡命先で亡くなりました。20世紀前半の世界情勢に翻弄された、苦労の多い君主でしたが、彼の作品とも言えるコイン達が今も尚、世界中のコインコレクターを魅了し、垂涎の的となりえていることを考えれば、コインコレクター冥利に尽きるといったところではないでしょうか。
1914年発行の2リラ銀貨。肖像はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世。
裏面には四頭立て馬戦車を操るミネルヴァ女神が美しく表現されています。彫刻法や製造法は近代的ですが、裏面の構図はローマ共和政時代のデナリウス銀貨裏面と類似しています。
三頭立て馬戦車(トリガ)を操るヴィクトリー女神が表現されています。この構図はローマ共和政時代のデナリウス貨裏面に多くみられました。馬戦車がビガ(二頭立て)であったり、または山羊であるなど、多様な種類が存在します。馬戦車を操る神も様々です。
さて、話題をローマコインそのものに戻しましょう。
ローマ時代のコインがローマ帝国史を知るうえで重要な史料となると考えられたのは、コイン上に表現された歴代のローマ皇帝達の肖像は、今は亡き本人の顔つきと性格を巧みに表現していると考えられるからです。
ネロ帝の二重あごから、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝の親子がみせる、よく似た頑固そうな顔つき、ネルヴァ帝の鷲鼻からユリアヌス帝の豊かな哲学者風山羊顎髭まで、歴代皇帝達の個性あふれる風貌を時に大げさに、時に写実的に表現しています。
ネルヴァ帝(AD97年) ユリアヌス帝(AD361年-AD363年)
日本では明治時代に入るまで、一般民衆は天皇や将軍の顔を知ることなく一生を終えていたことを考えると、大変興味深い文化の差だといえます。
しかし帝政後期に入ると、初期キリスト教主義の影響から写実性はあまり重視されなくなり、形骸的な無個性の肖像が多く用いられるようになります。時代が下るより、むしろ帝政時代の初期の方が、顔だけで皇帝を判別することが容易なのです。
現代の我々が見ても、コインの肖像を見ただけでどの時代のローマ皇帝かを判別することは容易です。コインに打たれた肖像は、現存する皇帝の胸像と極めてよく似ているからです。
ただ、皇帝によっては自らの肖像を修正させ、理想的な姿を打った例も見られます。最も顕著なのは初代アウグストゥス帝(在位:BC27年~AD14年)です。
アウグストゥスは威厳に満ちた自らの肖像を、ローマ帝国に住む多くの住民に知らしめることに腐心しました。
アウグストゥスの妻リウィアが所有していたプリマ・ポルタの別荘に置かれていたアウグストゥスの立像は、威厳に満ちた最高権力者であり、勝利者の彫像です。
発掘された際は既に白色だったが、当時は着色されていたことが判明している。
これら彫像は多くコピーされ、ローマ市内をはじめ帝国各地の公の場に立てられました。アウグストゥスの公的なイメージを広める意味でそれ以上に重要な役割を担ったのが、経済流通で人から人の手に、広い大帝国内を無限に渡り歩く媒体「コイン」でした。
BC2年~AD12年に発行されたアウグストゥス帝のデナリウス銀貨。
治世初期の肖像は共和政時代末と同じく無冠でしたが、政権が安定すると勝利者の証である「月桂冠」を戴いた端整な顔立ちの肖像を表現させました。
この様式はその後も継承され、コインに表現されるローマ皇帝の肖像は月桂冠を戴いたものが標準と成りました。
ローマ帝国時代のコインは支配者たる皇帝の顔を、帝国に住む末端の民に至るまで広く知らしめる役割が期待されていました。そのため、皇帝は自らの政治信条や戦場での勝利を、肖像の裏面に寓意的なモティーフとして打たせたのです。今では、その特徴的モティーフと当時の文献史料とをすり合わせることで、そのコインがいつごろ造られたのかを特定することができるのです。
本日はここまでとさせていただきます。
次回もお楽しみに。
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