【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
一か月前にもコロナウィルスについて触れましたが、4月末の現時点では相変わらずといった状況です。緊急事態宣言は出されて3週間以上が経ちましたが、感染者数の推移や経済活動の停止、各所での混乱など、なかなか明るいニュースが入ってきません。
日常生活や街の様子も様変わりし、この非常時が続けばそのまま「日常」になってしまうような気もするようで、なんともスッキリしない感じがします。
ワールドコインギャラリーのある東京・御徒町の商業施設「2k540」では、予定通り5月6日(水)に緊急事態宣言が解除されてもすぐには営業を再開せず、一週間の期間を置いた5月15日(金)から再開となるようです。
国内外のコインオークションではネット入札だけになり、会場の使用は目下停止されています。入札状況は普段より多い位ですがやはり会場でのやり取り、人と人との会話が無いのは何とも言えないさみしさもあります。
海外の場合、落札しても配送状況に問題があり、普段よりも遅延が発生しています。現地の会社も出勤者が減り、出荷しても郵便や配送業者が、配送物の増加で逼迫している状況があります。日本への航空便自体も減っているため、物流が滞るのは仕方ありません。
それでも何とか動いているのは配送してくださる方がいるからで、本当にありがたいことです。医療や介護、保健や衛生、金融や行政などに関わる方々も、社会活動を維持するために日夜努めていただき、感謝の念に堪えません。
いつまでこの状況が続くかは分かりませんが、延々と続くことはなく、勿論どこかの時点で収束し始めると思います。
現状では感染せず健康であることを第一に、収束した後の希望を持って生活することが大切です。皆様もどうかご自愛いただきたく願います。
今回は古代ローマで発行されたコインにみる希望の女神 スペースをご紹介します。このような状況だからこそ、古代のコインを通じて希望を得ていきたいと思います。
スペース(Spes)は希望を象徴化した女神像であり、古代ギリシャにおけるエルピスに相当すると云われました。
ギリシャ神話に登場するエルピスはそのまま希望と翻訳され、パンドラが箱を開けて疫病や戦災、犯罪や欠乏など様々な災いを解き放ってしまった際に、最後にまで箱に残っていたのがエルピス=希望と云われています。
箱を開けるパンドラ
(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス, 1896年)
ローマにおいては第一次ポエニ戦争(BC264-BC241)の時期、カピトリウム丘の近くにスペース神殿が建立され、ユノー・ソスピタ(救済のジュノー)神殿、ピエタス(敬虔)神殿と並ぶ形で存在しました。エスクイリヌス丘の上にはスペース・ウェトゥス(古来の希望)神殿が存在し、8月1日にはローマ市民による祝祭が行われていました。
帝政時代になるとコインの裏面にその立像が表現されるようになり、ローマ帝国全土にそのイメージが広がることになりました。
クラウディウス帝治世下のセステルティウス貨
スペースは右手で小さな花を持ち、左手で長衣の裾をつまみ上げた乙女の姿で表現されています。大き過ぎる衣と小さな花は、将来の成長と開花を象徴し、未来への希望を示していると云われています。速足で歩きだしそうな構図が乙女の若さと、将来への前向きな期待を体現しています。
スペース女神像は帝政期を通して、多くのコインに表現されています。未来への希望が、国家と市民にとって重要な活力になることを皇帝たちも理解していたのかもしれません。
ティトゥス帝 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝 デナリウス銀貨
コンモドゥス帝 アウレウス金貨
ルキラ妃 アウレウス金貨
裏面に表現されているのは協調と和合の女神コンコルディアですが、傍らには子どもサイズの立像が配されています。長衣の裾を掴みあげる様子から、スペース女神像と分かります。協調からなる希望を示すためか、コンコルディア女神坐像の傍らに小さなスペース女神立像を配する表現は、他の皇帝のコインでも多く見られます。
サロニヌス アントニニアヌス貨
皇帝とスペース女神が対等に向き合う珍しい構図。上部には輝く星と共に「SPES PVBLICA (=国家の希望)」銘が配されています。
帝政ローマ時代の後、スペース女神は信仰上もコインの上からもひっそりと姿を消してしまいました。ルネサンス以降、希望の具現化としてメダルや芸術作品に表されたものが見られるのみです。こうした図像は、ローマ時代のコインの構図を参考にして作られたとみられます。
シャーロット・オーガスタ王女(1796年~1817年)の婚約を祝して造られた大型ブロンズメダル。裏面にはスペース女神と「SPES PVBLICA (=国家の希望)」銘が配されています。
女神は花を差し出し、左手で豊穣の角(コルヌ・コピア)を持っています。さらに運命を象徴する球と舵(=運命の流れを左右する)を携え、王女の運命に対する希望を示しています。
現代のコインにも希望の女神が表現されたものが存在します。1960年代まで南アフリカで発行されていたコインには、裏面に「希望の女神」と呼ばれる図像が採用されていました。
南アフリカ 1953年 1シリング銀貨
海岸に立ち、風に立ち向かうような姿で表現された女性の立像は、右手で船の錨を支え、遠くの輝く星を見据えています。
キリスト教圏では十字架が「信仰」、ハートが「愛」の象徴であるように、錨が「希望」の象徴とされています。リレー競争の最終走者をアンカー(Anchor=錨)と呼ぶのも、勝利への希望を託す意味が込められています。
南アフリカでは喜望峰(Cape of Good Hope)を象徴する女神像として、この図像が切手などにも用いられていました。希望である「Good Hope」と、大西洋とインド洋を結ぶ重要航路としての意味でも、錨がモティーフとして選ばれたと思われます。
1961年、アパルトヘイト政策を巡ってイギリスと対立した南アフリカは英連邦を脱退。国号を「南アフリカ共和国」に改め、通貨もポンド&シリング幣制からランド&セント幣制に変更されました。女神像はそのまま10セント銀貨に引き継がれましたが、なぜか輝く星が排除されています。
使徒パウロが信徒たちに宛てた手紙において「希望は魂の錨」として言及した通り、航海が盛んだった古代ギリシャ・ローマでは、錨は荒波の中で船が流されないように留め置く、非常に重要なものとして認識されていました。ギリシャ・ローマ時代のコインにも、錨がモティーフとして表現されている例が幾つか見られます。
現在は世の中全体が嵐の中にあります。しかし希望を保ち続けることで不安に押し流されないようにし、荒波を無事に切り抜けていければと思います。
晴れて安全なところに抜けられるよう、皆様もどうかご自愛ください。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
「World Coin Gallery」
こんにちは。
コロナウィルス騒動で世の中が落ち着かない昨今、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
日本をはじめ、世界各国でお互いの人の行き来を制限、または停止し、事実上の鎖国状態になっております。
国内でも東京をはじめ、都市圏では週末遊びに出ることも自粛しなければならない現状です。
こうした動きにコインの世界も無縁ではなく、世界各国で開催される予定だったイベントやオークションは中止または延期となっています。海外へコインを送る、受け取るにあたっても航空便が減便し、また欧米では会社自体が休業または少人数体制になっているため、通常よりも遅れが生じています。
ただ店舗への来店が減少する一方で、インターネットでの注文を受け付けている会社は通常よりも受注数を伸ばしている模様です。
インターネットや電話入札を受け付けているオークションでは、通常と変わらないか普段以上の価格で落札されている例もあり、巣篭り需要が分かりやすく反映されているようです。
待ちに待った東京オリンピックは延期され、株価や金価格、為替も日々激しく動き続けるこの御時世は、まさに非常時と言ってよいと思われます。もしかすると現在の時期は、ペストや天然痘やコレラ、スペイン風邪が流行した時代と同じように、後世まで長く語られるようになるかも知れません。
外出も憚られる昨今では、自宅で過ごす時間が多くなると思われます。
撮り貯めてあるDVDや積んである本を消化したり、インターネットやテレビで興味のある分野の情報を得たり、名前だけは知っている名作を鑑賞してみるなど、このような時だからこそできる、贅沢な時間の使い方をして戴きたいと思います。また、お手持ちのコインを見返して整理・調査してみたり、それが造られ、実際に流通した時代にも思いを馳せてみて下さい。
何よりもご自身の大切な体を守るためにも、この局面を乗り切って頂ければ幸いです。
さて、今回はそれと関連して古代ローマの健康・衛生の守護女神サルースをご紹介します。
今この時にもイタリアはコロナウィルスで大変な状況に置かれていますが、現在より医療技術・制度が未発達だった古代ローマでは頻繁に疫病が流行し、その度に甚大な被害をもたらしてきました。上下水道が発達し、公衆大浴場が多数存在したローマ市内といえど、決して衛生的な環境とは言えませんでした。都市の人口過密と帝国の版図拡大による交通網の広がりによって、伝染病が拡散しやすい状況にあったのです。
そのような状況下で人々は神の力によって少しでも難を逃れようとし、健康を守護してくれる神を盛んに奉りました。
中でもラテン語で「健康」を意味するサルース(Salus)は分かりやすく、人々に受け入れられやすい女神像でした。
紀元前91年 デナリウス銀貨 サルース女神
サルースはもともと農耕や豊穣を司る女神とされていましたが、やがて健康と衛生、病気の予防を具現化した女神像として認識されるようになりました。
ギリシャ神話における医術の神アスクレピオスが信仰されるようになると、その娘であるヒュギエイアと同一視されるようになり、紀元前302年頃にはローマのクィナリウス丘に神殿が建立されました。8月5日がサルースの祝祭日とされ、神殿では祭事が行われていたと考えられています。
サルースにまつわるとされた泉の水は重宝され、それを飲んで病を治癒した人々は御礼品を献納したとも云われています。
紀元前49年 デナリウス銀貨 サルース女神
このコインでは両面にサルース女神が表現されています。表面には若き娘の姿をしたサルース、裏面には蛇を手にしたサルースが表現されています。
医神アスクレピオスの杖には薬師蛇(クスシヘビ)が巻きついており、娘ヒュギエイアはその世話を任されているとされていました。そのため、コインで表現されるサルースは蛇に餌を与える容姿で示されています。この蛇は脱皮する姿から「生まれ変わり=蘇生」の象徴とされ、ギリシャではアスクレピオスの神殿で実際に飼育されていました。
医神アスクレピオスが表現されたブロンズメダル (フランス,1805年)
蛇が巻きついた杖を携えているのが確認できます。傍らにいるフードを被った少年は息子テレスフォルス。
やがてローマでもアスクレピオス信仰が広まると、ギリシャの神殿で飼われていた蛇が分けられ、各地の神殿でも大切に飼育されるようになります。本来の生息地であるヨーロッパから遠く離れたカフカスにもクスシヘビがみられるのは、一説にはローマ人がこの地に進出した際にアスクレピオス神殿を建設し、蛇が持ち込まれた証と云われています。
WHO(世界保健機関)のシンボルマーク「アスクレピオスの杖」
杯に巻きついているタイプはヒュギエイアの杯と呼ばれ、薬学の象徴とされています。
帝政時代になると、市民達の健康を守る女神=国家安寧の女神として重要視されるようになりました。歴代のローマ皇帝たちも公衆衛生は共通の関心事であったようで、多くのコイン裏面にサルース女神像が登場しています。
ネルヴァ帝 デナリウス銀貨 (AD96年)
玉座に腰掛ける女神と「SALVS PVBLICA (公共の衛生)」銘。蛇はおらず、代わりに薬草を携えた姿。
ハドリアヌス帝 デナリウス銀貨 (AD134-AD138)
籠から立ち上がった蛇に餌を与える姿。
カラカラ帝 デナリウス銀貨 (AD199-AD200)
蛇が巻きついた杖を持つ女神像。父神の象徴を携えた珍しい姿。左下にはローマ市民(または皇帝)が跪き、女神の手を取っています。
マクシミヌス帝 セステルティウス貨 (AD235-AD236)
玉座上のサルース女神が蛇に給餌する姿。他の時代も含め、歴代皇帝・皇妃たちのコインで最も多い表現パターン。
ちなみにローマの一大観光地として知られる「トレヴィの泉」にもサルース女神の像が見られます。トレヴィの泉はもともと初代皇帝アウグストゥスが、ローマ市民の公衆衛生のため、清潔な水を供給する目的で造らせた人工泉でした。18世紀にローマ教皇クレメンス12世が宝くじの販売などで得た収益金をもとに、現在のような豪華な形に生まれ変わらせたのです。
三体の内の右側、蛇が巻きついた支えを有しているのがサルース女神
コインを投げ込むと再びローマを訪れる機会が巡ってくると云われているトレヴィの泉。
再びローマへ、そして世界の様々な場所へ、心置きなく訪れられる日が来ることを願ってやみません。
皆様もどうか健康にはお気をつけいただき、御自愛いただければ幸いです。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
こんにちは。
11月も末になり、寒さも厳しくなって参りました。
「令和元年」の今年も残りあと一ヶ月。健康第一で新しい年を迎えたいものです。
さて、今回はローマコイン・・・に含まれるのか曖昧な古代コイン、「ガリア帝国」で発行されたコインをご紹介します。
この時代、地域のコインはマイナーなため扱いも難しく、ローマコインを収集している方でも対象外にしている場合が多いようです。
しかしDavid Sear氏のローマコインカタログ『ROMAN SILVER COINS』『ROMAN COINS AND THEIR VALUES』、さらに『THE ROMAN IMPERIAL COINAGE』でも掲載されていることから、ローマコインの一種として見做されているようです。
3世紀の軍人皇帝時代、ローマ帝国各地では皇帝を称する軍人達が名乗りを上げ、まさに混乱状態にありました。多くの自称皇帝たちはすぐに鎮圧されるか、内部の裏切り・反乱によって短い治世を終えましたが、ガリア~ゲルマニアを拠点としたポストゥムスはその地位を一応確固たるものにし、彼の築いた「ガリア帝国」は15年にわたって独立国家であり続けました。
「ガリア帝国」とはその名の通り、ガリア地方(現在のフランス)を中心とした国家であり、その領域はガリアをはじめヒスパニア、ブリタニア、ゲルマニアの一部にまで及びました。現在の地図に当てはめるとポルトガル、スペイン、フランス、イングランド、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、ドイツの一部を含んだ、西ヨーロッパ諸国を包括する広大な領域です。
263年頃のガリア帝国版図 (赤色の部分)
首都は当初コロニア(コロニア・アグリッピナ、現在のドイツ西部 ケルン市)と定められ、ローマと同じく宮廷と元老院、毎年選出される執政官職が設けられました。皇帝の称号もローマ皇帝とほぼ同じでしたが、ローマ本国へ攻め上ることはせず、並立する政権の一つとされていました。
ガリア帝国内ではローマ時代の造幣所が多数存在したことから、それらを活用して独自のコインも多く発行していました。後世にはライン川流域をはじめ、ドイツやフランスで多く出土しています。
今回はガリア帝国で発行されたコインを通し、エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』やクリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』などを基にしながら、その歴史を辿ります。
・初代皇帝ポストゥムス (在位:AD260年~AD269年)
アントニニアヌス銀貨
ガリエヌス帝治世下の260年秋、下ゲルマニア総督だったポストゥムスはローマ中央に対して反乱を起こし、ライン方面の軍の支持によって皇帝を宣言。これをもって「ガリア帝国」が成立したと見做されています。彼自身ローマ人ではなくガリア人とされ、これが事実ならばカエサルとヴェルチンジェトリクスの戦い以降、ようやくガリア人がローマに対して一矢報いたことになります。
反乱に際してガリエヌス帝の息子サロニヌスが逮捕・処刑されたにも関わらず、ローマ軍はすぐには反乱鎮圧に動きませんでした。その間、ポストゥムスはライン川を越えてくるゲルマニアの蛮族対策に注力し、国境防衛の確立、自らの基盤固めを推進することができました。AD265年になってようやくガリエヌス帝が失地奪回に動き出しましたが、戦いの最中に皇帝自身が負傷した為、すぐに中止されました。
ポストゥムスは軍人としても統治者としても才覚があったらしく、この不安定な地域を纏め上げて国家として確立させ、その地位を10年近くにわたって保持しました。
特に彼の治世では貨幣の発行にも力が入れられていたことが、残されたコインから分かります。ローマ本国のコインはインフレーションの進行から年々質を低下させ、刻印自体も繊細さを欠くようになっていました。ポストゥムスが発行したコインはローマが発行したコインより明らかに質が高いことから、造幣所の改良が行われていたとみられます。
アウレウス金貨 (大英博物館収蔵)
ポストゥムスのコインは治世の長さ、最盛期だったこともあり種類が豊富です。その多くは従来のローマコインと同じく、表面に皇帝の肖像、裏面にローマの神々が表現されたものです。
しかし金貨に関してはそれまでのローマの皇帝たちとは異なる、正面像のコインが造られました。古代ギリシャでは正面像のコインがみられますが、ローマのコインではほとんど例がありません。特に金貨は材質の柔かさから磨耗しやすく、皇帝の肖像が摩滅する恐れがある為、まず採用されてきませんでした。
ポストゥムスはメダルのようなアウレウス金貨を発行し、技術力と芸術性の高さを見せつけました。かつてのハドリアヌス帝の彫像を思わせるような、写実的で立体感にあふれる表現です。
2セステルティウス貨
ポストゥムスが発行したコインで注目すべきは「2セステルティウス」と呼ばれる大型銅貨を発行したことです。ローマ本土ではトラヤヌス・デキウス帝(在位:AD249年~AD251年)の治世に発行された以来であり、大変珍しい存在です。肖像は月桂冠の代わりに「光の冠」を戴き、通常のセステルティウスより若干重いことが特徴です。また、元老院権限による発行を示す「S C」銘が省略されているものもみられます。
なお、ガレー船の意匠はポストゥムスのコインに盛んに見られ、これはポストゥムスがブリタニアへ遠征したことを示すと云われています。
それ以外のコインはアントニニアヌス銀貨が多く発行され、多様なバラエティがみられます。実際、埋蔵量の多さ、出土品などから、兵士への給与や都市での流通ではアントニニアヌスが主要な地位を占めていたと考えられます。
幸いなことに、そのためポストゥムスのアントニニアヌスは現在でも比較的入手しやすく、バラエティごとに収集しやすい古代コインの一種です。わずか15年だけ存在した古代の国でも、コインはしっかりと残されている点が面白いところです。
ポストゥムスの治世は、彼自身の厳格さが仇となって終わることになります。
AD269年、ポストゥムスに反旗を翻したラエリアヌスの軍を鎮圧した際、反乱軍の拠点だった都市モグンティアクム(現在のドイツ、マインツ市)で略奪を働くことを自軍兵士に認めませんでした。命がけの勝利後の略奪を楽しみにしていた兵士たちは憤り、それが原因となってポストゥムスは暗殺されたと云われています。
卓越した指導者の死によって、彼によって支えられていたガリア帝国は急速に瓦解していくことになります。
・反乱皇帝ラエリアヌス
アントニニアヌス貨
自称皇帝ポストゥムスに対して皇帝位を自称して対抗したラエリアヌスは、モグンティアクムを拠点として軍団を保持していました。しかしそれ以外の地域ではポストゥムスに対する支持があつく、結果的にポストゥムスに敗れてしまいます。皮肉にもこの自称皇帝同士の戦いは、共に命を奪われる悲劇的な結末を迎えました。
ラエリアヌスも皇帝としてコインを発行し、自軍の兵士達に配ったようですが、その品質はライバルであるポストゥムスのものと比べて劣ります。しかし現在となっては、長い治世で比較的安定して発行されたポストゥムスのコインよりも希少価値があり、高値で取引されています。
・第二代皇帝マリウス (在位:AD269年)
アントニニアヌス貨
勝者亡き戦いの後、ポストゥムスの後継者となったマリウスは軍人出身であり、もとは鍛冶屋だったとも云われています。その治世は短く、極端なものでは2日間、長いもので3ヶ月と記述にばらつきがあります。その最期は個人的な口論の末、部下に絞め殺されたとも、鍛冶屋だったマリウス自身が作った刃物で刺し殺されたとも伝えられています。
しかしマリウスのコイン自体は現存していることから、治世はそこまで短くなかったとみられます。
・第三代皇帝ウィクトリヌス (在位:AD269年~AD271年)
アウレウス金貨
ポストゥムスの腹心だった軍人ウィクトリヌスの治世は、まさにガリア帝国崩壊の期間でした。ウィクトリヌスの即位を認めないヒスパニアはローマへ帰順し、反攻に転じローマ軍も失地を奪還しつつありました。また国内でも部族による反乱が相次ぎ、ウィクトリヌスはその対応を迫られていました。まさにローマのガリエヌス帝のミニ再現のような状況でした。
史書の伝えるところによれば、ウィクトリヌスは優秀な軍人である反面、好色淫乱を好み、部下の妻達に関係を強いたとさえ云われています。そして高官アッティティアヌスの妻と関係した後、怒りに燃える夫と側近達によって斬殺されたと伝わります。
後継者無きあと、崩壊に向かうガリア帝国でこれを押し留めたのはウィクトリヌスの母親ウィクトリアでした。彼女は息子亡き後も権力の座を保持するため、軍団に金をばら撒いて支持をとりつけ、崩壊を何とか遅らせることに成功します。ウィクトリアは「アウグスタ」「軍団の母」などの称号で飾られ、ポストゥムス亡き後のガリア帝国の影の実力者でした。
エドワード・ギボン著書『ローマ帝国衰亡史』の記述に寄れば、「彼女の名を刻した銅貨、銀貨、金貨が鋳造され・・・」とありますが、ローマコインのカタログ・資料には記載がありません。
ウィクトリアは軍の支持を得られ、自らの思い通りに動く傀儡皇帝としてテトリクスを指名します。この決断が、ガリア帝国の崩壊・消滅につながります。
・第四代皇帝テトリクス (在位:AD271年~AD274年)
アウレウス金貨
テトリクスはガリアの名家出身とされ、ガリア帝国成立後はアクイタニア総督の地位に在りました。皇帝に指名された後は同名の息子(テトリクス2世)をカエサル(副帝)にし、後に共同統治帝にしました。首都をコロニアからアウグスタ・トレウェロルム(現在のドイツ,トリーア)に遷都するなど、国内の建て直しに尽力しました。
テトリクス2世のアントニニアヌス貨
しかしウィクトリアの傀儡であることに変わりなく、またいつ軍が反旗を翻すか分からない状況では、テトリクスも不安を増していったと思われます。この時期、ローマでは武帝アウレリアヌスによって帝国の再統一が推し進められており、何とか分離独立状態を保っていたガリア帝国への侵攻も時間の問題となっていました。
この頃に発行された金貨は高品質を維持していましたが、大量に造られるアントニニアヌスはポストゥムス時代と比べて劣化し、ほぼ銅貨といってよい状態でした。これほどまでガリア帝国は外部・内部から追いつめられていたのです。
末期のガリア帝国版図 (緑色)
武帝アウレリアヌスによるガリア侵攻が目前に迫る中、テトリクスはアウレリアヌスに密使を送ります。その内容は自身と息子の安全を保障する代わりとして、「ガリア帝国」を引き渡すというものでした。
また言説によると、ローマ軍によるガリア侵攻を持ちかけたのはテトリクス自身であり、自軍のプレッシャーに脅かされている現在の境遇から救ってもらうよう、アウレリアヌス帝に懇願したとまで云われています。これが漏れ伝わればそれこそテトリクスは血祭りに上げられそうです。
そのような密約が本当にあったのか、AD274年、シャロン・スュル・マルヌでのガリア軍とローマ軍の決戦が始まるや否や、ガリア軍最高司令官テトリクスはあっさりと敵陣中に向かって逃走。ガリア軍は混乱しながらも奮戦しますが、テトリクスの指示によって不利な陣形が取られていた為、ローマ軍を相手に壊滅的敗北を喫します。
こうしてポストゥムスからはじまり、15年にわたって存続したガリア帝国は儚く消滅し、全土は再びローマ帝国に統合されたのでした。
現在の西ヨーロッパ諸国を統合していた「ガリア帝国」ですが、もし首尾よくこのまま独立状態を保ち続けていたらどうなっていたのでしょうか。現在のヨーロッパ、そして世界の地図は大きく変わっていたかもしれません。
アウレリアヌス帝のアントニニアヌス貨
最後のガリア皇帝 テトリクスの物語には後日談があります。
アウレリアヌスは分裂状態にあったローマ帝国の再統一を果たし、「世界の復興者」という尊称を得、その集大成というべき盛大な凱旋式をローマで執り行いました。
数々の戦利品、捕虜、戦車、軍団のパレードの列に混じり、捕虜となったテトリクス親子も参加させられていました。ガリア人のズボンを履き、サフラン色の短上着、そして皇帝の象徴である紫の衣を纏った姿でローマ市内を行進させられたのです。
誇示心を満足させたアウレリアヌス帝は約束どおり、テトリクス親子の身の安全を保障するだけでなく、地位と財産を回復させることまで許しました。名誉回復後、テトリクスはカエリウスの丘に建てた新居にアウレリアヌス帝を招き、晩餐を共にしながら親しく談笑したそうです。
テトリクスはルカニア地方の行政官に、息子は元老院議員となり、数奇な生涯の余生を平和に過ごしたと云われています。
投稿情報: 17:45 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
10月は秋らしい日が続いておりますが、台風や大雨による天候不順・災害も多い月でした。
被害に遭われた方々へは、心よりお見舞いを申し上げます。
今回は古代ローマの皇帝 マルクス・アウレリウスのコイン肖像を取り上げたいと思います。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:AD161-DA180)はローマ五賢帝の一人として知られ、高校世界史などでは『自省録』を著した哲人皇帝として有名です。
彼は2世紀後半のローマ帝国を20年近く統治しましたが、その治世は疫病や戦争も多く、哲人皇帝にとっては必ずしも平穏な時代とはいえませんでした。
統治期間中、それまでの皇帝たちと同じように多様なコインが発行されていましたが、マルクス・アウレリウスの場合、義父である皇帝アントニヌス・ピウスの時代 (在位:AD138-AD161)に後継者となったため、既にコインにその姿が表現されていました。
マルクス・アウレリウスのコインは周囲の称号と肖像の推定年齢が大まかに一致するため、コインが新たに製造される際には肖像が年齢相応のものに更新されていたとみられます。
初代皇帝アウグストゥスや二代皇帝ティベリウスは70代までその地位にありましたが、コインの肖像は常に30代の若い姿で固定されていました。対して非常に若々しい青年時代~晩年・死後の発行貨まであるマルクス・アウレリウスのコインは、当時のローマ人の年齢変化、人生観を鑑みる上で大変貴重な史料です。
尚、共同統治帝として共に即位した義弟ルキウス・ウェルス(在位:AD161-AD169)は即位前のコインは無く、在位期間も短かったため、コインの肖像はほとんど変化をみせませんでした。
また、マルクス・アウレリウスの妻ファウスティナは、父帝アントニヌス・ピウスの時代からコインが発行されていますが、髪形に多様な変化が見られる一方で顔つきは大きく変化しておらず、少女のように若々しいままでした。
【青年期 (副帝時代)】
AD140-AD144 デナリウス銀貨
AD140-AD144 デュポンディウス貨
マルクス・アウレリウスが初めてコインに表現されたのはAD140年、義父アントニヌス・ピウス帝の治世下でした。その前年には義父によって副帝(CAESAR)の地位に就けられています。
表面に冠を戴くアントニヌス・ピウス帝、裏面に無冠の青年マルクス・アウレリウスが表現されています。発行年代から考えると18歳~20歳頃の肖像とみられます。哲人皇帝の象徴といえる髭はまだなく、青年というよりは少年のような幼さを残しています。しかし豊かな巻毛は年を経ても変化せず、現存する彫像の特徴とも一致しています。
同時期に製作されたマルクス・アウレリウスの彫像
AD140-AD144 デナリウス銀貨
マルクス・アウレリウス単体で表現されたコイン。若々しく利発そうな青年として表現されています。裏面には儀式で使用する神器群が表現され、神祇官としての権威を象徴しています。
微笑むような優しげな表情は、将来の皇帝の人徳に対する期待感の表れかもしれません。
AD144 デナリウス銀貨
AD143 デナリウス銀貨
20歳以降の青年像。顔つきは大人として変化し、頬と口の周りには若干の髭が生えているのが確認できます。マルクス・アウレリウスはストア派の哲学者を意識して顎鬚を伸ばしたとされていますが、既にこの頃から少しづつ髭を伸ばし始めていたことがわかります。
同時期の彫像にも、同様に若干の髭が見受けられます。
AD151-AD152 デナリウス銀貨
30歳頃の肖像。既に髭は生えそろい、良く知られるマルクス・アウレリウス像に近い顔つきになりました。
【壮年期 (治世初期)】
AD161 デナリウス銀貨
アントニヌス・ピウス帝が崩御し、マルクス・アウレリウスが皇帝に即位した直後の時期に発行されたコインの肖像。即位時の年齢から39歳~40歳頃を表現したものとみられます。聡明そうな目つきと立派な髭は、まさに哲人を思わせる風貌です。
皇帝となっても副帝時代と同様、無冠の姿で表現されています。これ以降、月桂冠を戴く姿で表現されるようになります。
AD166 デナリウス銀貨
AD166 アウレウス金貨
対パルティア戦争の戦勝記念コイン。マルクス・アウレリウス帝の治世はその初期から対外戦争の遂行に費やされました。東方のパルティアを攻めるため、マルクス・アウレリウスは義弟で共同統治帝のルキウス・ウェルスを派遣し、自らは首都ローマで帝国内の統治を行いました。
髭が増え瞼の表現が変化したせいか、肖像も即位当初より老けて見え、心なしか疲れたような印象を受けます。先帝アントニヌス・ピウス帝の治世とは異なり、コインにも軍事色が強い意匠が多く採用されるようになりました。
【中年期 (治世中期)】
AD172 セステルティウス貨
AD172 デナリウス銀貨
50歳頃の肖像になると、即位当初より明らかに老け、顔つきも快活なものから老練で落ち着きのある人物像に変化しています。
パルティア戦争後は疫病の流行やルキウス帝の死去、ゲルマニアでの反乱、信頼する忠臣の謀反、さらに妻ファウスティナの不貞や息子コンモドゥスの不品行によってマルクス・アウレリウスの心身は疲弊していきました。首都ローマを離れ、奥深い森が広がるゲルマニアを転戦する陣中で『自省録』が著され、現代に至るまでマルクス・アウレリウスの考えが伝えられています。
生来生真面目なマルクス・アウレリウスは厳しい陣中にあるときでさえ政務をこなし、辺境の地で戦いながら帝国を統治しようと努めていました。しかし身体の不調を抑えるために服用していた薬にはアヘンが含まれていたため、徐々に身体を蝕まれていたと云われています。
【晩年期 (治世後期)】
AD173-AD174 デナリウス銀貨
AD178-AD179 デナリウス銀貨
50歳代末、晩年に発行されたコインの肖像は、目の表現に差異が見られるものの、より年老いているように見えます。既にこの頃、皇帝がローマに常時滞在することはほぼなくなっていました。そのためローマ造幣所の彫刻師は、なるべく最新の彫像などを参考にしながら新コインを作成したと考えられています。
AD180年、マルクス・アウレリウスはドナウ川方面で戦っている軍を指揮するために赴いたウィンドボナ(現在のオーストリア,ウィーン)で体調を崩し、側近や息子に囲まれながら60年の生涯を閉じました。
【没後 (コンモドゥス帝治世下)】
AD180 デナリウス銀貨
息子コンモドゥスがローマに帰還した後、元老院はマルクス・アウレリウスを神格化しました。このコインは神格化されたマルクス・アウレリウスを顕彰する為、コンモドゥス帝によって発行されました。
60歳で亡くなったマルクス・アウレリウスの肖像。従来の肖像と比べると最も老齢になっていますが、顔つきは凛凛しさを取り戻しています。また、即位前の青年時代と同じように無冠の姿です。皇帝という重責を全うして解放され、神となった哲人皇帝の姿を見事に表わしています。
マルクス・アウレリウスは副帝時代を20年、皇帝時代を20年経験しているため、合計40年分のコインが存在します。肖像も10代後半~60歳までと幅広く変化が見られます。一連のコインを並べて比較すると成長と変化を追うことができるので、収集にも最適なテーマといえるでしょう。
肖像から千年以上前を生きた人間の人生を辿ることができるという点で、コインの史料的価値の高さが改めて実感できます。
こんにちは。
9月になり、秋らしい空気を感じるようになりました。
季節の変わり目は体調を崩しやすいので、皆様もどうかお気をつけて。
さて、今回はアレキサンダーコインについてお話したいと思います。
とはいってもマケドニア王国やその後のギリシャ諸都市が発行したものではなく、ローマ人によって発行されたアレキサンダーコインです。
画像のコインは紀元前95年~紀元前70年頃にかけて、マケドニアの都市テッサロニカで造られたテトラドラクマ銀貨です。いわゆる「アレキサンダーコイン」の中では比較的新しく、アレキサンダー大王の没後200年以上を経て発行されたタイプです。
表面にはかつてのマケドニア王アレクサンドロス3世(在位:BC336-BC323)の横顔肖像が打ち出されています。また、下部には分かりやすく発行地マケドニアを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ」銘が配され、左側には「Θ」銘が確認できます。
このアレキサンダー像は、大王配下の将軍リシマコスが発行したコインを基に作成されたとみられ、側頭部には大王の神聖性を示す巻角(=アモン神の象徴)が確認できます。
リシマコスによって発行されたテトラドラクマ(BC288-BC281)
しかしオリジナルのコインと比べると頭部は縮れ毛になっており、巻角もほぼ同化しています。凛凛しく逞しい顔つきは中性的になり、女性にも見える表現です。
これとよく似た表現は、同時代のローマで発行されたデナリウス銀貨にみられ、ローマとマケドニア、両地域の関係性がうかがえます。
ローマで発行されたデナリウス銀貨(BC55)。ローマ人の守護神ゲニウスとされる。
一方、裏面のデザインは従来のアレキサンダーコイン(=ゼウス神、アテナ神など)とは大きく異なり、独自性が溢れたデザインになっています。
左側には徴税などで使用された金庫、中央には棍棒、右側には椅子が表現され、上部にはギリシャ文字ではなくラテン文字で「AESILLAS」銘と「Q」銘が配されています。さらに周囲部はオリーヴのリースによって囲まれています。
これらのデザインには、コインが発行された背景が明確に反映されています。
このコインが発行された当時、マケドニアはローマの支配下にありました。第三次マケドニア戦争の結果、アンティゴノス朝マケドニア王国はローマ軍によって滅ぼされ、王国は四つの自治領に分割されました。ローマの属領になったマケドニアは、アンフィポリスやテッサロニカなどの都市を中心としながら分割統治されたのです。
分割時代のマケドニア、アンフィポリスで発行されたテトラドラクマ銀貨 (BC167-BC149)。棍棒と共に、四分割された第一管区であることを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ ΠΡΩΤΗΣ (マケドニアの第一)」銘が配されている。
しかしアンティゴノス朝滅亡から20年後、マケドニアの住民はローマに対して反乱を起こし、第四次マケドニア戦争が勃発します。軍事力によってこれを制圧したローマはマケドニアに残されていた自治権を剥奪し、紀元前146年に「マケドニア属州」に再編、完全な直轄支配下に置きました。
これによってローマの東方拡大が本格化し、後のローマ帝国への大きな一歩となりました。
最初にご紹介したアレキサンダーコインは、ローマによって属州化された時代に発行され、その発行にはローマ軍の戦略的な意図が込められていました。
マケドニア戦争を経てバルカン半島~ギリシャに本格的に進出したローマ軍は、イタリアとマケドニアを結ぶ街道を整備しました。この「エグナティア街道」はデュラッキウムからペラ、テッサロニカ、アンフィポリスを経てトラキア、ビザンティウムへ至る重要な街道であり、小アジア進出の足がかりとなる地理的重要性を有していました。
後にスッラやポンペイウス、ブルートゥス、カエサルやマルクス・アントニウスなどの英雄が行き来し、数々の決定的会戦の舞台となった、ローマ史にとっても欠かせない要衝となります。
エグナティア街道
テッサロニカはこの街道沿いにあり、マケドニア属州の州都となった。
紀元前88年、小アジア北部ポントス王国のミトリダテス6世はローマ軍と戦端を開き、三次にわたる「ミトリダテス戦争」が勃発します。小アジア北部への通路であるエグナティア街道はローマ軍の往来がより激しくなり、軍団にとって安全な進路を確保することが重要課題となりました。
当時、ビザンティオンにいたるトラキア南部は好戦的な部族が多くおり、しばしばローマ軍と戦いになることもありました。しかしミトリダテスとの戦いに戦力を温存しておきたいローマ軍は、戦いによってトラキア人を殲滅するのではなく、より経済的な方法で解決しようとしました。
ローマ軍はトラキア人に金銭を支払うことで彼らを懐柔し、むしろ有力な協力者とすることにしました。その際、用いられたのが「アレキサンダーコイン」でした。ローマ人にとってこの銀貨は単なる決済手段ではなく、矢にも匹敵する強力な武器でした。
ビザンティウムからヘレスポントス海峡(現:ダーダネルス海峡)を越えた先にはビテュニア王国があり、ローマは同盟国として支援していました。紀元前95年頃にポントス王国がビテュニアを攻撃した際、ローマはビテュニアを支援し、ポントスとの対立を明確なものにしていきました。
それ以降、このアレキサンダーコインは継続的に造られるようになり、さらにミトリダテスとの戦争が本格的に始まると、戦略上の理由から大量に製造されるようになったと考えられています。
アレキサンダー大王の肖像はトラキアで古くから流通していたリシマコス発行のものを踏襲し、トラキアの部族にとって馴染み深いものとしました。
裏面に自治領時代のアンフィポリスで発行されたコインに採用されていた「棍棒」を使用し、馴染み深さを増して価値の信用度を高めました。
重量はアテネで発行され、アレキサンダーコインにも採用されていたアッティカ基準を採用、裏面のオリーヴのリースはそれを象徴しています。
アテネ テトラドラクマ (BC136-BC135)
裏面に表現された金庫と椅子は、属州に派遣され軍団の物資調達、給与支払いに権限を持っていた「財務官」を象徴しており、椅子の上の「Q」銘はローマの財務官(=Quaestor)を示します。
つまり、上部に刻まれている「AESILLAS」銘は、コインを発行した当時の財務官アエシラスの名銘であることが分かります。
この新しいタイプのアレキサンダーコインは、当時のトラキア人に広く受け入れられたようで、マケドニア~トラキアのあらゆる地域で出土しています。トラキア人の信用度が非常に高く、広範囲で流通したことから、財務官アエシラスが任地を去ってからも「AESILLAS」銘でコインは製造され続けたとみられています。
ローマ軍の作戦は功を奏し、安全な進路を確保したことで軍団と物資はスムーズに輸送されました。紀元前63年にミトリダテス戦争はローマ軍の勝利によって終結し、小アジアの大半がローマの支配下に入りました。
その後もローマは東方への拡大を続け、アレキサンダー大王の後継者達が建てた国々(セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト)を次々と征服してゆきました。
マケドニアを征服したローマ人が、さらなる東方進出に用いた武器がアレキサンダーコインだったとは、まさに歴史の皮肉といえるでしょう。
アレキサンダー大王はカエサルやオクタヴィアヌス、トラヤヌスやカラカラも憧れた歴史上の英雄でした。ローマ人は壮大なアレキサンダーの征服事業を、そのままローマ帝国の拡大と繁栄に重ね合わせたのだと思われます。
こんにちは。
まもなく6月は終わりですが、梅雨空の今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
本日はコインに関する新著をご紹介させていただきます。
来月17日、古代ギリシャ・ローマコインに関する新書籍が発刊されることとなりました。
著者の方は普段からお世話になっているお客様で、古代のギリシャ~ローマ~オリエントで発行された豊富なコインを紹介しながら、当時の文化や歴史、神話を巡る内容です。
『アンティークコインマニアックス コインで辿る古代オリエント史』
著者:Shelk
出版社:エムディエヌコーポレーション
発売日:2019年7月17日(水)
価格:¥1,300 (+税)
※画像をクリックするとAmazonの詳細ページにリンクします。
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紀元前の小アジアからギリシャ、エジプト、ローマなどで発行された多種多様なコインの画像と共に、イラストを交えながら、その図像に込められた意味や背景が紹介されています。当時の地中海世界を旅しながらコインを紹介する形式となっており、実際にコインが使われていた古代ギリシャ・ローマ世界を俯瞰的に感じられます。
古代コインには神話の神々が表現されていますが、それらがなぜアポロ神やアテナ神などと断定されているのか、その象徴となるモティーフや、またコインに刻まれている銘文も解説されており、古代の神話や文字を学ぶ方にとっても一助になることでしょう。
コインを通して古代ギリシャ・ローマの歴史や文化、神話、伝説、文字も学べ、考古学的な視点も盛り込まれています。
著者の方は、小中高生をはじめとする若い人たちが、コインを通じて古代ギリシャ・ローマの文化や歴史に興味を持つきっかけになって欲しいという思いを込めて書かれたそうです。
そのため価格を低く抑えつつも、掲載画像や解説内容は充実しており、小中高生だけでなくコインを収集している方も満足できる一冊になっています。
作成に当ってはコインを原寸大で掲載し、古代コインの彫刻のような立体感や、オリジナルの色を極力再現できるようこだわったため、完成まで大変苦労されたそうです。本著の約200ページの中に、当店が納めさせていただいたコインも掲載されていますが、それらを上手く撮影するのも技術が必要だったようです。
コインの写真撮影は多くの方が苦労されているようで、撮影してみると肉眼で実際に見た雰囲気と微妙に異なることもあります。当店のホームページにもコインの画像を掲載しておりますが、接写撮影に慣れているカメラマンであっても難しい場合があります。
この本では色調やサイズなど、なるべく忠実に再現し、読む人が実物のコインをイメージしやすいような工夫がなされています。
欧米ではギリシャ・ローマコインに関する著作は数多くありますが、日本ではコインに関する著作そのものが少ないのが現状です。その中で、モティーフや銘文の解説が図像つきで分かりやすく、なおかつ詳しく網羅されている本著はとても貴重な一冊といえるでしょう。図像や解説も美しく明確にまとめられているので、オークションカタログのように各ページを眺めているだけで楽しい本です。
この本を通じて、若い世代の方々へコインの魅力を発信し、新しい世代へと裾野が広がっていけば幸いです。日本でより一層、古代ギリシャ・ローマ文化への関心が高まり、古代コインという文化遺産の価値が再認識されると嬉しく思います。
また、この本をきっかけに将来の研究者を志す方が一人でもいれば、とても意義のある一冊になると思います。
古代ギリシャ・ローマの歴史や文化、神話に興味がある方は当時の世界に思いを巡らせ、コインに興味がある方はデザインの豊富さや新しい知識を得ることができるでしょう。
小中高生から大人まで楽しめる一冊ですので、この初夏の読書にオススメの新著です。
・目次
・コインで学ぶ古代ローマ史
人物の相関図やそれぞれのエピソードも充実しており、コインを通して古代ギリシャ・ローマの歴史的流れが分かります。
3月も終わりに近づき、各地で桜が開花しています。
まだ肌寒さも感じられますが、着実に春の訪れを感じることができます。
いよいよ4月1日には「平成」の次の元号が発表されます。どのような元号になるのか非常に気になるところです。
30年を越えた平成も残すところあと1ヶ月、来る新しい時代が、穏やかで楽しい御世になって欲しいものです。
さて、今回はクレオパトラの娘「クレオパトラ・セレネ」のコインをご紹介します。
プトレマイオス朝エジプト最後の女王となったクレオパトラ7世は「絶世の美女」の代名詞として、今なお世界中でその名が知られています。
しかしその娘がクレオパトラの死後も生き残り、後に異国の女王となったことはあまり知られていません。
クレオパトラ・セレネと伝わる頭像
紀元前39年頃、クレオパトラ7世とローマの英雄マルクス・アントニウスとの間に双子が誕生します。それぞれ男子と女子だったことから、男子は「アレクサンドロス・ヘリオス」、女子は「クレオパトラ・セレネ」と名付けられました。ヘリオスはギリシャ神話の太陽神、セレネは月の女神とされ、神話上でも兄と妹の関係で語られます。
この時、二人の兄としてカエサルとクレオパトラの間に生まれた男子カエサリオンがおり、後に弟としてプトレマイオスが誕生します。四人の子供たちはプトレマイオス朝の宮廷が置かれたアレクサンドリアで育ち、唯一の女子だったセレネも王女として大切に育てられたとみられています。
しかし紀元前31年、マルクス・アントニウスとエジプト軍はローマのオクタヴィアヌスとの戦いに敗れ、エジプトはローマ軍によって占領されます。マルクス・アントニウスと女王クレオパトラ7世は自決し、エジプトはローマに併合されたことでプトレマイオス王朝は終焉を迎えます。
アントニウスとクレオパトラの最期
この顛末は映画や演劇の古典としてよく知られていますが、もっぱらクレオパトラとアントニウスの最期をクライマックスとしている為、その後二人の子供たちがどうなったのかはほとんど語られていません。
クレオパトラとアントニウス亡き後、遺児である四人の子供たちは、両親の政敵であるオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)に引き取られローマへ移送されました。
この際、長子カエサリオンはカエサルの息子であるため、カエサルの後継者として権力を手にしたオクタヴィアヌスによって殺害されたと云われています。残された三人はオクタヴィアヌスの姉であり、かつてマルクス・アントニウスの妻だったオクタヴィアのもとに預けられました。
オクタヴィアとオクタヴィアヌス(アウグストゥス帝)
オクタヴィアは最初の夫マルケッルス、二番目の夫アントニウスとの間にも子どもをもうけていたため、総勢十人近い子供たちの面倒を見ることになりました。傍目から見ればオクタヴィアの生涯は苦労の連続のように見えますが、こうした振る舞いからローマ女性の美徳の象徴して見做されるようになります。
セレネは兄ヘリオス、弟プトレマイオスと共にローマ市民として養育され、オクタヴィアヌスの庇護の下、教養高い貴人として成長します。しかし母クレオパトラや父アントニウスとは異なり、容姿や人柄に関する伝承の類はほとんど残されていません。
そのため、少女時代のセレネが過ごしたローマでの生活は不明な点が多く、また不思議なことに、双子の兄ヘリオスと弟プトレマイオスの消息はいつしか不明となり、いつ頃亡くなったのかも定かではありません。
この時代、領土を拡大したローマは各地の首長や王の子弟をローマで教育し、ローマ人の高等教育を身につけさせる方策が採られました。これは人質の意味合いも含まれていましたが、各地の土着勢力を完全排除するのではなく、その後継者にローマ的教育を施すことで親ローマの政権を配置させる狙いです。
ちょうど同じ頃、アフリカから連れてこられた一人の王子がローマで教育を受けていました。北アフリカ、ヌミディア王国のユバ2世です。
父親のユバ1世はポンペイウスの同盟者であり、内戦期にカエサル軍と対峙した後に敗北、第二次ポエニ戦争時のマシニッサ王以来続いたヌミディア王国は滅亡します。ユバ2世はやはりローマへ引き取られ、カエサル、続くオクタヴィアヌスの庇護の下で英才教育を受けていました。ユバ2世はギリシャ・ローマ文化への造詣を深め、自然科学の研究や詩作も行う教養深い文化人として成長します。
北アフリカの王家出身であり、親を殺し王朝を滅ぼした敵であるローマで養育されたユバ2世とセレネは、この時点で既に多くの共通点がみられます。
紀元前27年、オクタヴィアヌスが「アウグストゥス(尊厳者)」として帝政を確立した頃、北アフリカの統治者としてユバ2世を配置する計画が持ち上がります。かつてヌミディアと同じく北アフリカの同盟国だったマウレタニアは、現在のアルジェリア北部~モロッコ北部にまたがる領域を占める、原住民のムーア人(マウリ人)が建てた王国でした。ローマの属国となるも現地の王系が断絶したため、この統治をユバ2世に任せる計画でした。
黄色の範囲がマウレタニア王国の版図
ルーツを北アフリカに持ち、王家の血統も申し分ないユバ2世は、高貴なローマ市民として育てられた理想的人物でした。何より、彼はアウグストゥスの側近の一人として信頼されていることから、ローマ属国の王として、また北アフリカの原住民を統治する上で相応しい存在だったのです。
紀元前25年、マウレタニア王となったユバ2世はおよそ20年ぶりにローマから北アフリカへ戻ります。
ユバ2世はマウレタニアの首都イオルをカエサルに因み「カエサレア」と改称し、ギリシャ・ローマ風の都市への再編を推進しました。地中海に面したカエサレアにはローマ風の円形劇場や神殿が建設され、宮廷には彫刻をはじめとする芸術作品が集められました。王自身も創作や自然科学研究に携わり、カエサレアは短期間で風光明媚な文化都市となりました。
カエサレアは現在のアルジェリア、シェルシェルにあたり、同都市からはギリシャ・ローマ風の遺構やモザイク画が大量に出土しています。
期待通りローマの忠実な同盟者となったユバ2世の地位をさらに強化するため、アウグストゥスは王とよく似た背景を持つセレネをユバ2世と結婚させました。紀元前20年頃に結婚したセレネは、そのままローマを離れてマウレタニア王国の宮廷へ移住しました。
セレネがマウレタニアでどのような活動を行ったかは定かではありませんが、夫と共にギリシャ・ローマ文化の普及に尽力した可能性は充分に考えられます。地中海世界で最も教養高い女王と云われたクレオパトラの娘であり、ギリシャ系であるプトレマイオス王朝の血統を引いています。幼少期はエジプトの宮廷、少女期はローマの上流社会で育てられたセレネは、母親や夫にも劣らないほどの教養人だったのではないでしょうか。
ユバ2世の治世中に発行されたコインはローマと同じくデナリウス銀貨であり、ここでもローマとの近しい関係性が伺えます。表面にユバ2世の肖像、裏面に宗教的デザインを表現した、帝政ローマスタイルのコインです。
紀元前20年にセレネがマウレタニアに入ると、コインの裏面にはセレネの肖像と「BACIΛICCA KΛEOΠATPA(女王クレオパトラ)」の銘文が刻まれるようになります。このことから、セレネはマウレタニアの女王、共同統治者と見做されていた可能性もあります。
ユバ2世とクレオパトラ・セレネを表現したデナリウス銀貨。このコインには大きく分けて二つのタイプがあり、ひとつはギリシャ・ローマ風の写実的な表現の肖像、もうひとつはケルトコインやアラビアコインなどの模造コインにみられる抽象化された肖像です。また、肖像が右向き、左向きなどの違いもみられます。
①抽象化された表現のデナリウス銀貨
②より抽象化が進んだタイプ
③さらに抽象化されたデザイン
これらは全て彫刻師が異なると推定されていますが、おそらく最初に腕のよい職人がギリシャ・ローマ風のデザインを彫刻し、その後現地人の職人がそれを手本として型を彫刻したため、バラエティが見られると思われます。上記の4点は全て1907年にモロッコのエル・クサールから出土したものであり、同時期に多様な造型のデナリウス銀貨が流通していたことを示しています。
いずれにせよ、ギリシャ・ローマ文化に造詣が深かった夫婦のコインとして、最初のタイプの肖像が本人に最も似ていると推定されます。絶世の美女と謳われた女王の娘は、コインの肖像を一見する限りローマの貴婦人であり、際立った特徴は見られません。しかしこの肖像から、母親であるクレオパトラ女王の姿を想像することもできそうです。
裏面には象の毛皮を頭に被る女性像が表現されています。これはローマでよくみられた「アフリカを象徴化した女神像」と解釈されますが、一方でセレネの肖像がもとになっていると考えられます。
同時代にローマで作成された、クレオパトラ・セレネと伝わる銀製の胸像。アフリカの女王として表現され、上のコイン肖像と類似しています。
一方でセレネの肖像はなく名前だけ刻んだコインも確認されており、代わりに彼女の出自であるエジプトに関係するようなモティーフが配されています。
裏面には「BACIΛICCA KΛEOΠATPA (女王クレオパトラ)」の銘文と共に、エジプトの女神イシスの冠とシストラム(古代エジプトの楽器)が表現されています。
月と星が表現されたタイプ。セレネの名が月に由来することを示しています。
クロコダイルが表現されたタイプ。おそらくナイルワニと見られています。エジプト出身の女王をワニに例えるのは不敬に感じられますが、かつてオクタヴィアヌスがローマで発行したデナリウス銀貨にも同じデザインが用いられています。
ローマ BC28 デナリウス銀貨
ワニと共に「AEGVPTO CAPTA (エジプト捕囚)」銘が配されたコイン。オクタヴィアヌスによるエジプト征服を記念したデザインであり、ユバ2世のコインはこのデザインをそのまま取り入れているとみられます。これ以外にも、ユバ2世はオクタヴィアヌス(アウグストゥス帝)が発行したコインのデザインを数多く取り入れ、自らが発行したコイン上に忠実に再現しています。ユバ2世とアウグストゥス帝、マウレタニアとローマの深い関係性をそのまま反映しています。
裏面にセレネの名銘はありませんが、古代エジプトの聖牛アピスが表現されています。ユバ2世のコインの特徴は、ローマコインを完全に模倣したとみられるものと、古代エジプトの信仰が表現されたものが同時期に発行されている点です。当時のマウレタニア王国の宮廷はユバ2世の影響により、ギリシャ・ローマ文化によって彩られていたとされていますが、セレネは母国であるエジプトの文化を取り入れ、普及していた可能性もあります。また当時のマウレタニアの民衆の間でも、エジプトの信仰が浸透していたのかもしれません。
ちなみに表面のユバ2世はライオンの毛皮を被っており、自らをヘラクレスに模していたことが分かります。これはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)にもみられる表現であり、自身を神話上の神に重ねています。ローマのオクタヴィアヌスの場合はアポロ神に重ねていました。
セレネは結婚からおよそ25年後に亡くなったとされ、マウレタニアの地に葬られました。しかしセレネのコインは彼女が亡くなった後も造られたとみられており、亡くなった後に事実上神格化されたとも解釈できます。
マルクス・アントニウスとクレオパトラの娘に生まれ、マウレタニアの女王として激動の生涯を終えたセレネについての記録は非常に少なく、生活ぶりや人柄は計り知れません。しかし残されたコインの肖像を見ると、様々なことが想像できます。エジプト、ギリシャ、ローマという多様なルーツを持つセレネは、教養人である夫を支え、かつ新しい文化の薫りをもたらしたことでしょう。共通の境遇を背景に持つユバ2世とセレネは、共に様々なことを語り合える、仲の良い夫婦だったと思いたいものです。
ユバ2世とセレネのものとされる陵墓 (アルジェリア)
マウレタニア王家の墓と伝わる巨大な陵墓。ユバ2世とセレネも共に葬られたとされますが、19世紀にフランスの調査隊が入った時点では既に盗掘されていました。
セレネが亡くなった17年後、夫であるユバ2世も亡くなり、二人の子であるプトレマイオスが王国を引き継ぎました。クレオパトラ7世の孫として、プトレマイオスの名が再び王として登場したのです。しかしローマの属国であることに変わりはなく、プトレマイオス王は40年頃にカリグラ帝によって殺害されます。カリグラ帝の後継となったクラウディウス帝はマウレタニアを再編し、二つの属州に分割して統治することを決定します。こうしてマウレタニア王国はセレネの子を最後にして消滅しました。
ユバ2世とセレネが築いた王国の威光は、現在はモロッコとアルジェリアの各地に散らばる遺跡によって目にすることができます。コインもそうした遺物の一種ですが、現存するコインはどれも希少であり、特にセレネの横顔を刻んだものは母親クレオパトラ7世のコインに劣らないほど高値で取引されています。
なおマウレタニア(Mauretania)の名は地理的名称として時を経ても生き残り、現在アフリカ西部の国名「モーリタニア」に引き継がれています。
2月も終わりに近づき、少しずつ暖かくなってまいりました。
年明けの厳しい寒さは落ち着いてきましたが、季節の変わり目は体調にも影響が出やすいので、
どうかご自愛いただきたいと思います。
今回は年明けに更新した干支コインのご紹介「猪コイン」の続きです。
先月は古代ギリシャ編をご紹介しましたので、今回は「古代ローマ編」です。
イタリア半島でもイノシシが生息していたことから、古代ローマの人々にとってもイノシシは身近な動物の一種でした。特に狩猟の対象といえば鹿かイノシシとされ、有史以前から食用としても好まれてきました。野生のイノシシを家畜としたブタもローマでは飼育され、当時の人々のご馳走として饗宴にのぼりました。
こうしたイノシシの姿は度々コインのデザインとしても取り上げられています。古代ギリシャと比較するとメインとして表現されず、裏面のデザインとして採用されることが多かったようです。ローマの場合、イノシシの扱いは「狩猟の対象」と認識されているためか、狩りにおいて追い立てられるような姿で表現されています。
デナリウス銀貨 BC206-BC195
裏面の双子神ディオスクロイ騎馬像の下部、「ROMA」銘の上に小さなイノシシが配されています。この時代、コインに発行者の名銘を刻む慣習がまだ無かった為、発行者(または型の区別)を示すモティーフとして入れられたとみられています。
イノシシ以外にもイルカややフクロウ、ハエ、エビ、グリフィン、犬など様々なバラエティがみられます。
デナリウス銀貨 BC137
裏面中央のしゃがみ込む人物は、両手で子豚を抱きかかえています。表面が軍神マルスであることから、軍団への入隊儀式を表現したものとされ、子豚はマルス神に捧げる犠牲獣とみられます。古代ギリシャでも軍神アレス(マルスと同一視)の聖獣はイノシシとされていました。
デナリウス銀貨 BC106
納戸と世帯の守護神ペナテスが表現されたコイン。巨大なイノシシを仕留めた姿が表現されています。トロイから脱出したアエネアスがラウィニウムに上陸した際、巨大な白い豚の吉兆を見たという伝説の場面と解釈されることもあります。
デナリウス銀貨 BC79
裏面 グリフィンの下部にイノシシの頭部が配されています。この印は型を判別する為のものとみられ、イノシシ以外にもアヒルなど他の動物の頭部もみられます。
デナリウス銀貨 BC78
表面はヘラクレス、裏面には「エリュマントスの猪」が表現されています。エリュマントス山に生息した獰猛な大猪を生け捕りにしたという、ヘラクレスの功業伝説を示すモティーフです。全身の毛を逆立てながら威嚇するイノシシの姿は、巻いた尻尾の造型までリアルそのものです。
デナリウス銀貨 BC68
表面は狩猟の女神ダイアナ、裏面はイノシシが表現されています。イノシシの背中にはダイアナ女神が放った矢が刺さり、左下からは細長い猟犬に追い立てられています。表面と裏面で一つの場面を表現した、芸術性の高いデザインです。
デナリウス銀貨 BC19-BC18
帝政時代初期に発行されたコインにもイノシシが登場します。
アウグストゥス帝(在位:BC27年~AD14年)治世に発行されたこのコインには、槍で突き刺されたイノシシが表現されており、狩猟で仕留められた姿とみられます。前述のダイアナ女神のコインと非常によく似た構図です。毛並みは野性味に溢れ、巻いた尻尾も確認できます。
デナリウス銀貨 AD78
ウェスパシアヌス帝(在位:AD69年~AD79年)の治世末に発行されたコイン。表面には副帝ティトゥス、裏面にはブタの親子が表現されています。アエネアスの伝説にもブタの親子が登場しますが、ローマではブタが子沢山であることから子孫繁栄の象徴と見做されていました。ここでは大きな親ブタを「ウェスパシアヌス」、足元の小さな三匹の子ブタは息子「ティトゥス」「ドミティアヌス」と娘「ドミティラ」を示し、フラウィウス朝の繁栄を示していると解釈されています。
クァドランス銅貨 AD98-AD102
トラヤヌス帝(在位:AD98年~AD117年)の治世初期に発行されたクァドランス(=1/4アス)銅貨。表面にはヘラクレス、裏面にはイノシシが表現されています。
BC78年に発行されたデナリウス銀貨と同じ構図ですが、ヘラクレスは壮年になり、イノシシは単純化されたデザインになっています。
ペンタサリオン銅貨 AD202-AD203
モエシア(現在のブルガリア)の都市 ニコポリス・アド・イストルムで発行された銅貨。表面はカラカラ帝の皇妃プラウティラ。
裏面には武装したカラカラ帝の騎馬像が表現され、槍を持った皇帝がイノシシを追いかける様子が表現されています。狩猟の様子を表現することで、ローマ皇帝の武勇を表現しているとみられます。
銅貨 AD244-AD247
パフラゴニアの都市ラオディケイアで発行された銅貨。表面には副帝フィリッポス2世の肖像、裏面には犬と向かい合うイノシシが表現されています。狛犬のような左右対称性がユニークです。
アントニニアヌス銀貨 AD260-AD262
ガリエヌス帝(在位:AD253年~AD268年)の治世下、メディオラヌム(現:ミラノ)で発行されたコイン。裏面には度々登場する構図と同じイノシシ像が表現されています。
ガリエヌス帝の時代、メディオラヌムでは各軍団の象徴を示したコインが多く発行され、その多くは動物のモティーフでした。イノシシもその中の一つであり、ヒョウやライオン、鹿、牛、狼、グリフィン、ペガサス、カプリコーン、ケンタウロスなど様々なモティーフがみられます。
二回にわたって古代ギリシャ・ローマ時代の猪コインの一部をご紹介しましたが、西洋世界でもイノシシが身近な野生動物であったことがよく分かります。日本や中国でも干支になるほど親しまれた動物であり、東西の文化が異なる地域で愛された生き物であったことを物語っています。
イノシシと共に犬が度々表現されていますが、戌年の次が亥年であるように、何とも奇遇な組み合わせです。
今年は猪突猛進、元気良く走りぬく年になりますことを、心よりお祈り申し上げます。
11月に入りすっかり寒さが増してまいりました。
今年も残すところあとわずか、風邪など召されませんようご自愛ください。
今回は現代のコインに表現された「古代ギリシャ・ローマの神々」をご紹介します。
20世紀以降のヨーロッパでは様々なデザインの通常コインが発行され、造幣局・彫刻師たちは競うように独創的なデザインを表現しました。
国の産業(農業・工業・商業)を象徴する意味から、自国の歴史を顕彰する意味から、古代ギリシャ・ローマ時代の神々がデザインに登場しています。必然的に地中海の南ヨーロッパの国々にその傾向がみられます。
【アテナ (ラテン名:ミネルヴァ)】
アルバニア 1927年 1フランカ・アリ
古代ギリシャ神話のアテナは知恵・戦術・手工業・紡績・建築・造船技術などを司る処女神であり、ゼウス神の娘とされる。オリンポス十二神のひとつ。装飾羽がついた兜を被り、聖鳥フクロウを従える勇ましい姿で表現される。ギリシャの都市国家アテネの守護神であり、パルテノン神殿はこの女神を祀るために建立された。ローマでは「ミネルヴァ」の名で呼ばれ、国家守護神のひとつとして信奉された。
【ヘルメス (ラテン名:メルクリウス 英名:マーキュリー)】
フランス 1922年 2フラン
ヘルメス(フランス語ではエルメス)はオリンポス十二神に数えられる神。青年の姿をし、翼が据えられた帽子とサンダル、伝令使の杖(ケリュケイオン)を携帯した姿で表現される。神々の伝令使を務めることから、通信と旅の守護神とされる。また生まれてすぐにアポロ神の牛を盗み、巧みな交渉で言い逃れたという伝説から、商売人や交渉事、盗賊の守護神とされた。その他、数字や交易を人間にもたらし、サイコロを発明した神とされ、賭博の守護神とも云われた。
近代以降は通信や交易・交通・商業の面が注目され、企業の紋章や証券、紙幣やコインのデザインとして多く用いられた。
ベルギー 1924 2フラン
ヘルメス神の象徴 ケリュケイオン(カドゥケウスとも)は翼と二匹の蛇が巻きついた伝令使の杖。それ自体が商業上の縁起物として認識され、古代ローマ時代からコインに表現された。近現代ではベルギーとボリビアの通常貨にみられる。
【ポセイドン (ラテン名:ネプトゥヌス 英名:ネプチューン)】
ギリシャ 1930年 20ドラクマ
オリンポス十二神に数えられるポセイドンは、大神ゼウスと冥界神ハデスの兄弟にあたる。海を支配する荒ぶる神として畏れられ、地震や津波を引き起こすとされた。古代ギリシャではポセイドンの怒りを鎮めて海の安全を願うと共に、海戦での勝利や海運の成功を祈願した。
【ヘファイストス (ラテン名:ウルカヌス 英名:ヴァルカン)】
イタリア 1978年 50リレ
オリンポス十二神の中では珍しくものづくりに特化した鍛冶の神。鉄鋼をはじめ金属加工を司る職人の守護神とされる。神話上では神々の武器や神器を製作する役割を与えられ、「クリュトテクネス(名匠)」の異名で呼ばれることもある。また動く人形や首飾りなどの宝飾品、最初の人間の女性「パンドラ」を作り出したとされる。
【デメテル (ラテン名:ケレス 英名:セレス)】
ギリシャ 1930年 10ドラクマ
デメテル(セレス)は豊穣をもたらす農業の守護女神。オリンポス十二神の中では大地母神としての役割を果たす。その象徴として穀物が絶えず湧き出るコルヌ・コピア(豊穣の角)を持ち、麦穂で編んだリースを頭に巻いている。一年の内、娘であるペルセポネーが冥界神ハデスのもとに行ってしまう数ヶ月間は、悲しみのあまり働かないため「冬」になる、と云われる。農業と穀物の供給を司る女神として重要視され、古代ローマでは頻繁にコインのデザインに用いられた。19世紀には農業国フランスをはじめ、ヨーロッパ各国のコインやメダルに表現された。
【ヘラクレス】
アルバニア 1926年 1/2レク
ヘラクレスは半神半人の英雄であり、豪神として男性から人気があった。歴史上では、アレクサンドロス大王やコンモドゥス帝などが憧れ、ヘラクレスに模した自らの肖像をコインに刻ませた。1920年代にアルバニアで発行されたコインには、ヘラクレス十二功業のひとつ「ネメアのライオン退治」が表現されている。
【テティス】
ギリシャ 1911 2ドラクマ
テティスは海の女神であり、海馬ヒッポカンポスを従える姿で表現される。英雄アキレウスの母親であり、トロイア戦争は女神の結婚式が発端になったとされる。1911年のギリシャで発行されたディドラクマ(2ドラクマ)銀貨には、海馬ヒッポカンポスに乗り、息子アキレウスの円盾を見つめるテティスが表現されている。
【リベルタス (英名:リバティ)】
ポルトガル 1965年 50センタヴォ
リベルタス(リバティ)は古代ローマにおいて自由と解放を象徴する女神だった。その姿は解放奴隷が被っていたフリジア帽を持つ姿で表現された。古代ローマ時代にはコイン上に度々表現されたが、フランス革命以降、共和政国家を象徴する女神像として頻繁に用いられた。近現代のヨーロッパとアメリカ大陸では最もよく表現された女神像。
【ペンテシレイア】
マルタ 1977年 2セント
女戦士部族アマゾネスの女王ペンテシレイアは、トロイア戦争においてアキレウスと戦い敗れたとされる。黒海沿岸部を支配したというアマゾネスは古代ギリシャの様々な神話に登場し、小アジアの植民都市名の由来として伝承される場合も多い。
【エウロペー (ラテン名:エウロパ)】
キプロス 1991年 50セント
ギリシャ 2008年 2ユーロ
エウロペーはテュロス王の娘とされ「ヨーロッパ」の語源になった。海辺で戯れていたエウロペーを見初めたゼウス神が白い牛に変身し、気を許したエウロペーを乗せて走り去ったと伝承される。このとき、エウロペーを乗せた牛(ゼウス神)が西方の海へ走り去った為、その地域一帯が「ヨーロッパ」と呼ばれるようになったとされる。
【ペガソス (ラテン名:ペガスス 英名:ペガサス)】
ギリシャ 1973年 10ドラクマ
天空を飛ぶ有翼の馬として知られるペガサスは、ペルセウスやベレロポーンなど英雄達の愛馬として登場する。ペルセウスに討ち取られたメドゥーサの首から飛び出したとされ、その父親は海神ポセイドンとされる。天に昇ったペガサスは星座「ペガサス座」となり、「不死」「名誉」「教養」の象徴となった。
ここでは記念コインではなく、20世紀以降に発行された、一般流通用の通常貨に表現された神々をご紹介しました。ご紹介したコインの中には、古代ギリシャ・ローマ時代に造られたコインを模してデザインされたものもあります。2000年以上の時を経てもデザイン性に大きな隔たりが無いことは驚きです。
近年発行されたコインは比較的入手しやすいので、「古代ギリシャ・ローマ神話」をテーマにしてコレクションされると面白いかと思います。また自身に関係のあることを守護してくれる神様(学問や職業、星座など)のコインをペンダントやストラップ、財布の種銭にして、お守りにされるのも良いでしょう。
古代ギリシャ・ローマで発行された当時のコインを入手し、あらゆる点で現在のコインと見比べてみるのもまた楽しいはずです。古代の手打ちで一枚一枚作成されたコインと、機械で大量生産されたコイン、古代ギリシャ・ローマの末裔達が作り出したコインにもまた、物語や背景があります。
お手持ちのコインのデザインから古代の神話の世界に興味を持ち、本や映画で調べることもあると思います。また古代神話の物語からコインに魅力を感じ、思い入れのある一枚をコレクションされる方もいらっしゃるでしょう。それぞれの魅力や良さ、楽しさが、少しでも伝われば幸いです。
こんにちは。
すっかり秋らしくなってきましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。夕方以降は涼しくなり、また冷たい秋雨も多くなってまいりました。
そういう日は「読書の秋」ということで、家の中でゆっくり本を読まれる方も多いのではないでしょうか。
前回のブログ記事でもご紹介しましたが、中公新書より『貨幣が語る ローマ帝国史 権力と図像の千年』 (820円+税)が出版されました。手頃なサイズとページ数、価格でありながら、たいへん読み応えのある内容になっています。著者の比佐篤さんは古代ローマ史の研究者ですので、歴史的背景や観点、考察を加えた詳しい解説が見どころです。
早速拝読しましたが、ローマコインの基礎的カタログ『The Roman Imperial Coinage』掲載の画像を多数使用し、そのデザインと発行された時代背景についてとても詳しく、そして分かりやすく解説されていました。ローマ史に興味のある方、コインを収集されている方にはオススメの一冊です。
こうした「コイン」に関する本といえば、David R. Sear氏の『Greek Coins and their values』やFriedbergの『Gold Coins of the World』、Krauseの『Standard Catalog of World Coins』といったカタログが真っ先に思い浮かびますが、読み物としてのコインに関する本は、特に日本語で書かれたものは少ないのが現状です。
そのため海外の作品にわずか一行ほど登場する貨幣名が、かろうじてその存在を印象付けているといってもよいでしょう。普通の読者ならあっさりと読み飛ばしてしまう箇所も、コインを収集している人であれば注目すると思います。
『新約聖書』に登場するイエスの逸話「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに帰せ」で用いられたデナリ銀貨は、当時の皇帝ティベリウスの一般的なデナリウス銀貨と推定され、ユダがイエスを裏切った報酬である「銀貨三十枚」も、フェニキアのティールで造られていたシェケル銀貨(テトラドラクマ)であると考えられています。
また『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』に度々出てくる「金貨」や「銀貨」といった表現も、当時のアラビアで使用されていた「ディナール」「ディルハム」であることが分かります。様々な王にまつわる物語 (※ササン朝のホスロー2世やアッバース朝のハールーン・アッラシードなど)の中で用いられる貨幣は、彼らの時代に発行されたものであると想定することが可能です。
ただ書かれた時代やその土地での呼び名が、後世の古銭学上の呼称と少し異なっていたり、日本語訳の時点で上手く翻訳できていない場合もあります。例えば新約聖書のマルコ伝に「レプトン銅貨二枚の賽銭」という説話があります。金持ちによる多額の賽銭よりも、貧しい人の手持ちの賽銭のほうが価値があると説いたイエスの話です。
ここで記された「レプトン(レプタ)」とはギリシャで使用されていた単位であり、ユダヤには「プルタ」という小額単位のコインが存在しました。初期の聖書がギリシャ語で記されたことから、当時の編纂時点で誤認された、または意図的に修整された可能性もあります。
ユダヤのプルタ銅貨
しかしマルコ伝には「レプトン銅貨二枚すなわち一コドラント」とあり、当時のユダヤでは現地の2プルタがローマのクァドランス銅貨の価値に等しかったことが分かります。聖書を読み解くと支配者であるローマの貨幣と、ユダヤ現地民が使用する貨幣とが混在して流通し、交換比率や用途もある程度決まっていたことが分かります。(ローマの貨幣単位=税、ユダヤの貨幣単位=神殿への賽銭など)
ローマ皇帝の逸話の中でも様々な形でコインが登場しますが、中には裏付け不明な怪しい記述もみられます。内容の信用性や作者の存在、成立年代の不詳性から史料的価値が疑われる古典『ヒストリア・アウグスタ (ローマ皇帝群像)』では、ある皇帝がこのようなコインを発行させた、という記述が散見できますが、実際にはそのようなコインは確認されていないという例も多々みられました。また皇帝の逸話とその中で使用されている貨幣単位の時代にズレがあるといった例もあります。
(※例えばエラガバルス帝の浪費を説明するのに「~万アルゲンティウス、~万フォリス」という表現がみられるが、これらはエラガバルスの時代より半世紀以上経過して新たに登場した貨幣の単位である)
1951年に出版されたマルグリット・ユルスナール著の古典的歴史小説『ハドリアヌス帝の回想』では、ハドリアヌス帝の愛人だったアンティノウスの貨幣は彼の出身地ビテュニアで御守りとして人気があり、現地では「穴を開けて紐を通し、生まれたばかりの赤子の首から下げたり、人が亡くなると墓標に打ち付けたりした」との記述があります。しかし実際にそのような使用がなされていたかは確かめようがなく、何か裏付けとなる史料があるのか、あくまで作者の創作表現なのかは定かでありません。
アンティノウスのコイン (またはメダリオン、フリギアで発行)
ただリアルタイムで書かれた本(日誌や回想録)に登場する貨幣であれば、内容の信憑性はより高いといえます。
19世紀初頭に出版された『セント=ヘレナ覚書』は、大西洋の孤島セント・ヘレナへ流刑になったナポレオンについて記した日誌形式の作品です。作者のラス・カーズはナポレオンの回想録を記すためナポレオンに付き従い、船での護送から島での生活までを細かく記しました。日付け順にナポレオンがどのように振る舞い、何を語ったのかが詳細に記録されています。
この本では度々ナポレオン発行の20フラン金貨が登場します。ナポレオン本人やつき従った側近達は、この金貨をそのまま「ナポレオン」という単位で呼んでいたことも書かれています。また「ターラー」「クラウン」「エキュ」「リーヴル」といった単位の貨幣も登場します。
ナポレオンは自らの肖像が刻まれた20フラン金貨を気に入っていたらしく、島へ向かう船上でイギリス軍の水兵たちに配ろうとしてイギリス将校に止められたり、島を散策中に出会った農夫にあいさつ代わりに渡したこともあったそうです。作者のラス・カーズが帰国する際にも幾らか渡していたかもしれません。
両角 良彦著『セント・ヘレナ落日-ナポレオン遠島始末』 (朝日選書)によればナポレオンは生活費に窮し、屋敷で使用していた銀食器から自らの紋章を削り取った上で売却したと記述されています。
しかし一方で島へ寄港した船の船長がローマ王(ナポレオンの息子)の胸像を持っていることを知ったナポレオンは、1000フラン近い金貨を支払って入手して毎日眺めていたとも書かれており、ナポレオンの金銭事情には矛盾した記述も多くあるように感じられます。配るほど多額の金貨をどうやって持ち込んだのかも不思議な点です。(なお、後にこの胸像はまったくの別人であることが分かった)
ナポレオンは最期を迎えるとき、自らの遺体の周りにフランスとイタリアのナポレオン金貨を数枚並べるよう遺言し、それは実行されたと記されています。つまりフランスの20フラン金貨と、自らがイタリア王となったイタリア王国の20リレ金貨の二種類を持っていたことになります。
イタリア王国の20リレ金貨
金の純度や重さ、サイズはフランスの20フランと同じだが、肖像の雰囲気は異なる。
様々な古典作品を読んでいると、人々がコインを手にし、あれやこれやをやり取りする場面が多く見受けられます。今も昔も変わらず、お金が人の生活にとって欠かせない存在だったことの証でもあります。
それらの作品は書かれた時代、まだそうしたコインが「古銭」ではなく、実際に流通した「現行貨幣」だった時代の重要な史料でもあります。アンティークコインとなってしまった現在ではコインの状態や希少性で価値が決まりますが、それらが純粋に決済の手段だった時代に想いを馳せることができます。なにより現在まで形として残っているコインが、当時どれほどの価値で人々から認識されていたのか、またどのように使用され何を買うことができたのかを知る手立てになりうるのです。
ただ作者が小さなコインにまで注意を払わない場合は、不正確さや事実誤認がみられることもしばしばです。歴史を扱った作品は多々ありますが、多くの人々が目にするものは歴史学ではなく、あくまで「物語」として描かれた作品が多いため、仕方のないことではあると思います。
秋の夜長に本を読まれる際には、その中に登場するコインにもぜひ注目してみて下さい。そこから様々なことを想像し、本物のコインを手にすることで、物語の世界により入り込みやすくなるかもしれません。
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